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一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【129】

2012-08-08 10:40:08 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【129】
Kitazawa, Masakuni  

 ヤマユリは終わり、ウグイスの鳴き交わしも間遠になり、強い日差しに蝉時雨だけがかまびすしい。サルスベリや夾竹桃の淡い紅の花叢が、樹々の濃い緑を彩っている。テッポウユリのつぼみはまだ青い。

文明の転換点としてのフクシマ  

 マス・メディアの異様なロンドン・オリンピック狂想曲がつづいている。主要新聞はスポーツ紙と化し、NHKにいたっては一時期、定時のニュースを見ようとスイッチを入れても、オリンピック・ゲームの中継という異常さである。国際的・国内的な重要ニュースもかき消され、とても正気の沙汰とは思えない。  

 それでも首相官邸周囲でまったく自発的にはじまった市民たちの脱原発・反原発のデモは、数万人の規模に脹れあがり、さすがメディアでも取りあげざるをえなくなってきた。いまや県庁所在地などの地方都市でも、それに呼応する数百人から数千人規模のデモがみられるようになった。  

 一昨年の「アラブの春」から、《ウォール街を占拠せよ!》の「アメリカの秋」にいたるまで、世界の各地で民衆のデモがくりひろげられた。強権的あるいは独裁的政治体制の打破から、人口のわずか1%が合衆国の富の20%を占めるという新自由主義経済がもたらした巨大な格差の是正要求など、テーマはさまざまであったが、そこに共通するものは政治的であれ経済的であれ体制がもたらした抑圧からの解放であり、その意味での人権の主張であった。  

 脱原発のデモも、基本的には同じである。平和利用という名の核の脅威、つまり一旦大事故が起きれば、ヒロシマ原爆何百発の量に相当する放射能が広範囲にわたってまき散らされ、何十万あるいは風向きによっては何百万・何千万のひとびとが被曝し、即死者がいなかったとしても長期にわたって癌など身体の異常を経験しなくてはならなくなる脅威に対して、自己を護る人権の主張にほかならないからである。  

 8月6日のヒロシマ・デイで、ヒロシマ・ナガサキの被曝者たちとフクシマの被害者たちが連帯したのも当然というべきであろう。いまは正常であるとしても、フクシマの被害者たちにいつ被曝の兆候があらわれても不思議ではない。  

 低線量長期被曝といえば、すでにウラニウム鉱山の例がある。ヒロシマ・ナガサキ(ナガサキはプルトニウム爆弾であるが、これもウランから精製される)に落とした原爆製造のために、1940年代、アリゾナ・ニューメキシコ州のナバホ族保有地に多くのウラニウム鉱山が開発され、ナバホ族優先雇用という美名のもとに多数のナバホのひとびとが鉱山で働いた。彼らはウラニウム鉱から発生する放射能(ラドン・ガス)の低線量長期被曝で肺・皮膚・内臓などの癌に冒され、死亡率約80%という高さで次々に死亡し、多数の未亡人をつくりだし、家族を困窮させた。それだけではない。ボタ山として山積みされたウラン鉱の残滓に含まれる放射能は水や大地を汚染し、鉱夫ではない多くの人々も長期被曝し、亡くなっている。私はすでに1980年代にこの事実をいくつかの雑誌で報告したが、最近やっと毎日新聞が取りあげている(「怪物この地から──ウラン鉱山と生きる米先住民」12年8月5日)。  

 ナバホのひとびとだけではない。あるいはアメリカだけではない。原爆実験の直後に爆心地に突入させられた兵士たち、実験場周辺の民間人、あるいはウラン精錬・濃縮工場、核兵器製造工場などの労働者、原発の下請け労働者など、世界で無数のひとびとが高線量・長期低線量被曝で亡くなり、あるいは病に苦しんでいる。兵器であれ平和利用であれ、この事実は「人類は核とは共存できない」という深刻なリアリティを物語っているのだ。  

 脱原発のデモは、先行する多くのデモと異なり、人権概念そのものを問い直し、それによる文明転換への主張を内在させているといってよい。

 人権概念の問い直しとは、人間の生存や生活の権利だけではなく、またそれを脅かす体制だけではなく、それを支えている知や文明や文化にいたるまで、人権の基盤を変えなくてはならないという主張である。

 すでにたびたび述べてきたように、あらゆる領域で利便のための合理性を追求し、軍事合理性の頂点としての核兵器、経済合理性の頂点としての原発を開発してきた近代の文明そのものを変革することが人権の究極の擁護であることを、脱原発のデモは教えている。

 運動には必ず盛衰がある。60年安保や70年安保、あるいはベトナム反戦運動など様々な運動にかかわってきたものとして、脱原発運動は共感をもってみつめているが、いつかそれが衰退するとしても、それは必ずなんらかの形で受け継がれていくであろう。袋小路に陥った近代文明は、人類の滅亡へと進むか、決定的な転換を迎えるかのいずれかの道しかないからである。


北沢方邦の伊豆高原日記【128】

2012-07-29 10:19:33 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【128】
Kitazawa, Masakuni  

 本格的な夏の訪れである。樹間を吹きわたる風は涼しく、まだ一度も冷房は入れていないが、陽射しは強く、蝉がかまびすしい。今年はヤマユリが遅く、いま満開であり、ヴィラ・マーヤの庭を歩くと、馥郁とした香りが鼻腔をくすぐる。

ロンドン・オリンピック狂想曲  

 ロンドン・オリンピックが開幕し、例によってメディアの狂想曲が蝉以上にかまびすしい。

 たしかに個々の競技は見るに値するし、息を飲むものは多い。開幕前にはじまったサッカーの予選で、日本チームが優勝候補のスペインを破った競技など、見ごたえがあった。圧倒的な攻撃力を誇るスペインに十分な攻撃態勢をつくらせず、果敢にボールを奪っては逆襲する日本チームのスピード感には唸らされた。

 だがいまや国際的な制度としてのオリンピックには、大きな疑問がつく。まず旧来からの問題は、ナショナリズムの高揚と強化にそれはつねに貢献することである。1936年のベルリン・オリンピックがナチズムに利用され、「世界に冠たるドイツ国」または「ドイツ民族」意識の高揚に恐るべき力を果たしたことは知られている。それをみごとに映像化したレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』は、いまなお映像によるナショナリズム喚起の力を十分に示している。戦後もこのことへの反省はほとんどなく、戦後独立した多くの国々にとっても、オリンピックは国民のナショナリズム高揚の絶好の手段となった。

 いうまでもなくナショナリズムとは、母語や文化を通じて人間に本来そなわる種族アイデンティティや意識ではまったくなく、近代国家の統合と維持をはかる国家のイデオロギーであって、人工的な疑似アイデンティティにほかならない。人為的に植民地として分割された境界をそのまま国境として継承した新興諸国にとっても、ナショナリズム・イデオロギーは絶対的に必要であったのだ。だが多種族国家では、それをだれが担うかが大問題となる。アフリカで多発する政治的内部紛争、あるいは現にシリアで拡大している悲惨な内戦(この場合は宗派であるが)などは、多数種族と少数種族の国家の支配権とナショナリズムの正統派の争いだといっても過言ではない。

 第2の問題は、これだけ巨大化し、これだけ莫大な費用を要するオリンピックの開催は、もはや経済的に貧困な世界の大多数の国々にとっては永遠に不可能だということである。いわゆる先進諸国間のたらい回しか、せいぜい中国・インド・ブラジルなどといった一部の新興国の「国威発揚」に寄与するだけとなろう。オリンピックそのものの簡素化や数カ国連合での開催や数都市連携での開催など、さまざまな工夫でそれを避けることはできる。

 第3は、巨大化や経費高騰の原因となったサマランチ時代以来はじまったコマーシャリズムの導入やアマチュアリズムの廃止である。これがオリンピックの性格の根本的変化、しかも悪い変化をもたらしたのだ。メディアをはじめ巨額の収入がそれによってえられることになったとしても、この変化がオリンピック制度そのものの頽廃をもたらした。

 石原都知事がご執心の東京への再度のオリンピック招致に、都民が冷淡であるというのはいい兆候である。ナショナリズムに踊らされないだけひとびとの意識が成熟した証かもしれないし、それだけの巨額の費用は、貧困対策や雇用対策あるいは福祉対策などに回してほしい、という暗黙の合意かもしれないからだ。

 メディアのオリンピック狂想曲をみるたびに、これらのことを痛感する。

ヒッグス粒子狂想曲補遺  

 前回のヒッグス粒子狂想曲について疑問が寄せられたので、それに応えておきたい。つまり一般の報道ではヒッグス粒子は第17番目の素粒子であり、これで素粒子はすべて発見されたというが、なぜ18個であるか、である。  

 18番目は「重力子(グラヴィトン)」とよばれる仮定の素粒子である。これは重力を担う素粒子とされるが、まったく仮定であるだけではなく、それ自体が「標準理論」の根本的矛盾を表している。  

 つまり物理学的な力は、重力、電磁力、原子核の強い力、同弱い力の4つであるとされているが、標準理論では、その重力を除く3つの力しか記述できない。素粒子のレベルでは重力は検出できないからである。だが巨視的な世界ではたしかに重力は存在するから、「重力子」という架空の素粒子を措定せざるをえない。  

 4つの力すべてを記述できる理論(それがストリング理論である)ではなく、したがって宇宙すべてを統合的に説明できない標準理論が、重力子なるものを措定せざるをえないところに、標準理論の矛盾と破綻が現れている。


北沢方邦の伊豆高原日記【127】

2012-07-06 07:13:26 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【127】
Kitazawa, Masakuni  

 わが家の遅咲きのアジサイが満開である。土壌が酸性かアルカリ性か、あるいは中性かで花の色が変わるが、隣りあっているのに、片方は赤紫、他方は青である。今年は雨が多かったせいか、庭一面の苔が、踏みしめると鮮やかな緑の分厚い絨毯のような感触で迎えてくれる。

ヒッグス粒子狂想曲  

 ヨーロッパ核研究センター(CERN)のLHC(大ハドロン衝突機)での実験で、「幻のヒッグス粒子」、発表によれば「ヒッグス粒子らしきもの」が検出されたと、世界中のメディアが大騒ぎである。  

 素粒子物理学の「標準理論」または「標準モデル」によれば、宇宙を構成する物質の究極の単位は「素粒子」であり、18個あるとされるが、そのなかのヒッグス粒子だけは未発見とされてきた。いまから約137億5千万年まえに起ったとされる宇宙のビッグ・バン時に、超高温・超高圧下で保たれていた宇宙の対称性は、10のマイナス12乗秒時で急激に冷却され、対称性を自発的に失ったとされる(南部陽一郎博士の理論)が、そのとき飛散した多くの素粒子が「ヒッグス場」つまりいわばヒッグス粒子の海で沐浴することで質量をえたとされる(光子など質量のない粒子も依然として存続したが)。つまりヒッグス粒子は宇宙の質量の生みの親とされる(ピーター・ヒッグス博士の理論)。  

 原子核を構成するプロトンなどの重い粒子をハドロンというが、これを衝突させて破壊することによってヒッグス粒子が検出できるのではないかという主目的でLHCは建設され、14テラ(兆)電子ヴォルトという目下世界最大の出力を誇る衝突機である(日本のメディアでは「加速器」とされているが、加速器[アクセレーター]は線形でターゲットに衝突させるが、衝突機[コライダー]は円形であり、中央で粒子相互を衝突させる)。  

 何百兆回繰り返した実験で、既定の粒子に同定できなかった素粒子約2千が検出され、統計的にヒッグス粒子に同定可能とされたものである。それが「標準理論」の枠組みを最終的に完成させる大発見であることはたしかであるだろう。  

 だが問題は「標準理論」そのものである。いまや20世紀後半、物理学を絶対的に支配してきた標準理論の王座は確実にゆらぎ、黄昏の色をおびている。この宇宙を構成する無数の銀河が表している目にみえる物質やエネルギー、つまり標準理論のあつかう対象は宇宙の全質量のわずか数パーセントにすぎず、まったく目にみえない暗黒物質や暗黒エネルギーとその巨大な重力が、この宇宙を支配している。だがそれがいったいなんであるのかいまのところまったくわかっていない。  

 さらに21世紀有力となってきたストリング理論は、標準理論をその一部として包括しながら、まったく新しい視点から世界像や宇宙像を創りなおしつつある。このヒッグス粒子とされるものも、われわれの3次元空間という「ブレーン」(3次元全体がブレーンつまりある種の目にみえない「膜」とされる)を突破して異次元に飛散するループ・ストリング──普通のストリングは3次元空間ブレーンを超えられない──であるという解釈もできなくはない。

 暗黒物質や暗黒エネルギーといった「隠されたリアリティ」、あるいはこの目にみえる宇宙に多くの宇宙が重ね合わせの状態で存在するとされる多重世界のリアリティなど、ストリング理論の最先端では、多くのすぐれた頭脳がこれらの問題に挑戦し、苦闘をつづけている。  

 近代的思考の延長上で微視的世界の探求をはかり、答えを見いだそうとした量子力学から標準理論にいたる道は、多くの近代科学同様、袋小路に逢着したといっていい。ストリング理論の開示する道、だがまだ多くの謎や霧に包まれた道は、しかしながら脱近代の知とはなにかという問いに確実に応えようとしている。  

 「フクシマ」によっていわゆる原子力ムラの閉鎖的構造が明らかとなったが、わが国では原子力ムラにかぎらず、また自然科学・人間科学を問わず学界はきわめて閉鎖的であり、メディアに送り込まれた人材も、多分にその体質を受け継いでいる。学界やメディアが袋小路に陥った近代科学を超えて未来を展望できないのも当然といえよう。  

 われわれはいまこそ「ヒッグス粒子狂想曲」を超えて、脱近代の知、さらには脱近代文明そのものを展望しなくてはならない。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【126】

2012-06-05 10:00:04 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【126】
Kitazawa, Masakuni  

 梅雨入りが近く、台風が近づいているというが、さわやかな晴天がつづいている。色とりどりのサツキが満開であり、蜜蜂たちを引き寄せている。野鳥たちも鳴き競っているが、一時姿を消していたホオジロの声が聞こえるようになった。数十年前には、他を圧するほど数が多かったのだが……

世界経済の行方  

 山ほど溜まっていたニューヨーク・タイムズ書評紙などをようやく読み終えたが、そこからえたさまざまな情報にもとづきながら、最近の世界の状況や知的動向などをランダムに考えてみよう。  

 まず前回の日記にひきつづき経済であるが、ユーロ崩壊の危機が迫っている今回は、リーマン・ショックよりはるかに深刻である。なぜならリーマン・ショック以後の世界経済の立て直し役を担った中国をはじめとする新興諸国に、大きな暗雲がひろがりはじめているからである。

 ハーヴァードとオクスフォードで学んだインドのジャーナリスト、アカシュ・カープルが、高度成長を走りつづけてきたインドの恐るべき内情を報告している(Akash Kapur. India Becoming; A Portrait of Life in Modern India)。その他のインド情報とあわせながら紹介しよう。  

 さまざまなひとびとから指摘されているが、国内の経済格差の拡大とその深刻さは恐るべきものである。高度成長のおかげで確かに中産階級は飛躍的に増大したが、それをはさむ資産階級と貧困階級との格差は途方もないものになっている。現政権の新自由主義的経済政策は、ネルー以来のかつての社会主義志向時代の福祉政策をくつがえし、格差拡大を放置した。かつてはムンバイが典型であったが、大都市のスラムにも住民自身による秩序や相互扶助、あるいは革なめしなどの職業保障があったが、それも崩壊し、無秩序と犯罪が氾濫している。スラム再建計画の実施速度より、地方から流入するいわば経済難民の増大によるスラムの拡大の方が早い。  

 たしかにかつて、ある種のギルド的職業保障でもあったカースト制度は、急激な近代化とともに身分差別制度となり、独立後憲法でも禁止されたが、昔のそれを支えてきたモラル──昔の日本にもあったがそれぞれの職業に対する相互敬意など──も崩壊し、しかも近代市民社会に要求されるモラルも確立していないという状態である。いたずらに権利の要求や欲望のみが肥大し、衝突し、葛藤や暴力を生みだしている。  

 とりわけ置き去りにされた農村は、成長にともなう恐るべき環境破壊や農地の収奪に脅かされている。かつて豊饒であった土壌の50%は流失し、灌漑用水の70%は化学物質に汚染されている。それによって、ゆたかな農業国であったインドは、国の成立基盤さえゆるがされる事態に陥っている。  

 インドはもはや持続不可能な社会となり、体制となりつつあるとカープルはいう。それを転換する方策は? 彼もまたここで、たんなるノスタルジーではなく、マハートマ・ガーンディを思い起こしている。インドの心ある知識人たちのように……  

 おそらく中国も、また違ったかたち──政治体制と経済体制の深刻な軋轢と、知識人や中産階級に増大する民主化の要求──で持続不可能な社会となりつつある。これらの軋轢が経済の停滞や不況によって爆発する危険は刻々と迫っている。インドも中国も、国内の矛盾が極限に達しつつあり、リーマン・ショック時のように、もはや世界経済の行方にかかわりをもつ余裕はまったくないのだ。

モダニスト・フェミニズムの没落  

 バダンテールの『葛藤』の英訳が出版されたりして、しばらくフェミニズム論争が復活したようにみえるが、フェミニズム関係の本の女性評者たちは、バダンテールをはじめとする青木やよひのいう近代主義的フェミニズム(モダニスト・フェミニズム)にはきわめてきびしいようだ。  

 その論点は要するに、ひとつは妊娠・出産のアウトソーシング(人工授精や代理母出産など)の増大や産業化にみられる、女性の性や性役割の合理化が、結局女性の自己(セルフ)のアウトソース化、マルクスの古典的用語にいいかえれば「自己疎外」をもたらし、むしろ女性の真の自立を奪うこととなったというものである(Arlie R. Hochschild. The Outsourced Self; Intimate Life in Market Times)。  

 もうひとつは、男女の所得格差の是正などから出発し、女性の法的・経済的平等を訴えてきたモダニスト・フェミニズムは、結局新自由主義的経済体制のなかで、女性の知的労働力をもっと取り込み、活用することで企業は生き残り、勝ち残ることができるという企業文化に完全に取り込まれ、その役割を終えたとするものである。  

 これらの主張は、その名や概念こそ取りあげていないが、女性自身の身体性を基礎とし、それを自覚することによって自然や社会そのものとの絆を回復し、真の平等を手にすることができるとする「エコロジカル・フェミニズム」への回帰を示しているようにみえる。  

 青木やよひももって瞑すべし、であろう。


北沢方邦の伊豆高原日記【125】

2012-05-27 22:00:15 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【125】
Kitazawa, Masakuni  

 花の季節は終わり、そろそろ緑の濃さを増した樹々の白い花々が咲き、野生のジャスミンなどと香りを競う時期がやってきている。今年は遅くホトトギスが鳴きはじめ、数も少ない。

経営学の神髄 

 5月19・20日とヴィラ・マーヤでのセミナーが行われた。「世界経済の行方」という大仰なタイトルであったが、京都大学大学院経済学科の日置弘一郎教授のレクチャーは、きわめてわかりやすく、ユニークなものであり、参加者に感銘をあたえた。このブログにもメンバーの何人か感想を寄せる予定なので、その核心だけを述べておこう。  

 近代社会科学の王座を占めてきたのは経済学であるが、彼によれば、リーマン・ショック以後いまやほとんどの経済学者は自信喪失に陥っているという。なぜなら合理的な行動と自由な意思決定にもとづいて運営されてきたはずの市場が、混乱と危機に陥った、いいかえれば合理性が非合理性を生み、自由の追求が非自由を生みだしてしまったという、ありえない光景が現出したからである。  

 その根本原因は、経済学が記述できるもののみを記述して分析し、それ以外を「外部経済」として排除した、いいかえれば生身の人間が介在する経済、とりわけ市場の実体の大部分を排除して抽象的な観念の体系を築きあげてきたからである。  

 私の用語法によれば、すべての近代人間科学同様、経済学も人間の身体性を無視し、経済という現象の数値で把握できるいわば上澄みのみを分析してきたからといえる。しかも経済合理性の追求がもたらしたはずの市場の合理性は、逆に市場によって育てられ、指数的に肥大した人間の欲望によって覆されてしまったのだ。  

 日置さんは「市場(しじょう)」に「市庭(いちば)」という概念を対峙させる。市場には「いちば」と「しじょう」という二通りの読みがあるが、古語では「市庭」と表記されていたという。それは売り手と買い手というまさに生身の人間によって営まれる生きた経済なのである。実は近代の市場にもこの市庭的な実体があるにもかかわらず、それが無視されてきた点に経済学の落とし穴があったという。  

 彼は経済学ではなく、経営学の研究者であるが、経営学はむしろ近代の市場においてもこの市庭的な経済のプロセスを追求することで、経済のより深い側面を照射できるとする。それによって現在の危機を脱出し、新しい文明を設計する経済方策も生まれてくるかもしれないという。  

 彼はまた経営人類学という新しい学問分野を提唱しているが、そのフィールド・ワークともいうべき日本の各地の市場の調査体験を踏まえ、とりわけ食材の見分け方やら調理方法にいたるまで、微に入り細に穿ってうんちくを傾け、われわれをうならせた。  

 経済の深い問題を教えられるとともに、楽しい2日間であった。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【124】

2012-05-02 09:58:16 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【124】
Kitazawa, Masakuni  

 萌える新緑を背景に、緋色、紅、白、薄紫など色とりどりのツツジが満開であり、その香りが鼻腔をくすぐる。早く咲きはじめたものはすでに萎れかかり、いつもなら遅咲きのはずの野生の山ツツジの淡い緋色の花が、すでに満開に近い。緑の苔一面にクヌギの茶色の花が落ち、陽光に映えて絨毯のような模様を描きだしている。

近代理性を屑籠に!  

 伊豆高原日記【117】で紹介した心理学者カーネマンの本もそうであったが、「近代理性」に対する疑いや批判がアメリカのメディアを賑わわしている。ニューヨーク・タイムズ書評紙で大きくとりあげられたジョナサン・ヘイトの『無理からぬ[自己正当化する]思考』(The Righteous Mind; Why Good People Are Divided by Politics and Religion. Pantheon Books,2012)である(書評者はWilliam Saletan: March 25,’12)。例によって強い私見を交えながら紹介しよう。  

 ヘイト自身は自己をリベラルだと位置づけるが、多くのリベラルや左派が、たとえばアメリカの労働者層の多くが富者優遇の共和党に投票するのは、彼らの理性の欠如からだとする判断を退ける。むしろ彼は、政治問題にかぎらず、すべての問題に対する思考や判断においては「近代の理性信仰」を屑籠に投げ捨てよ、と説く。  

 なぜなら労働者層にかぎらず、政治や宗教でひとびとを分断しているのは、理性的判断と信じ込んでいる自己正当化の感情にすぎないからである。したがってそれらの問題で勝利をえようとするならば、大衆の「理性」に訴える身振りで彼らの感情に訴えればよい(ワイマール民主主義の手続きに則って大衆の票を獲得し、第1党となるやいなや、授権法によって一党独裁体制を築いたナチスの方法がこれであった。いつもいうようにナチスは理性の欠如によって成立したのではなく、ホルクハイマーのいうように、理性の過剰で成立し、理性の過剰で破滅に導いたのだ)。  

 またなぜなら、近代理性の信者たちが信じているように、人間は生物学的に、思考や判断において「理性」の声を聴くようにはデザインされていないからである。感情やいわゆる直観で判断したものを、「理性」は追認し、自己正当化するだけにすぎない。MRI(磁気共鳴映像装置)などによる最新の脳科学的研究は、そのことを教えている。  

 近代理性ではなく、信ずべきものは道徳的直観であると彼はいう(カントのいう実践理性である。だが近代思想の主流はこれを無視し、あるいは投げ捨ててきた)。われわれ人間の奥底に眠っている聖なるものや罪の意識、あるいは共感や友愛や共同体意識、われわれを養ってきた伝統など、総じて言えば「世界観」にかかわる直観がそれであるとする。さらにリベラルの根本的誤りは、これら道徳的直観や「世界観」をすべて近代理性に反するもの、あるいは非合理性として否認し、大衆の心の底に眠るこれらのものをすべて保守の側に手渡してしまったことにあるという。  

 彼は最終的にこれらを「叡知(ウィズダム)」と名づけ、リベラルや左派が「近代理性信仰」を屑籠に捨て、叡知を手にすることを願い、それを結論としているが、まったく同感できる。  

 私の用語法によれば、叡知とは、プラティークと名づけたわれわれの無意識のなかに遺伝的に構造化されている思考体系(それぞれの文化の根底をなす)にもとづきながら、プラクシスと名づけた意識的行動や判断を耐えず検証していく「弁証法的理性」にほかならない(サルトル思想の無残な廃墟であるそれと混同しないでほしい)。  

 1960年代からすでに近代批判ははじまっているが、グローバリズムの挫折にともなってふたたび勢いを増してきたのは、喜ぶべき現象ではあるだろう。

ニヒリズムとしての無神論  

 進化生物学者で新ダーウィン主義者のリチャード・ドーキンズが書いた『神という迷妄』が一時英語圏のベストセラーとなったが、その後塵を拝するアレックス・ローゼンバーグの『無神論者のリアリティ・ガイド』Alex Rosenberg. The Atheist’s Guide to Realityという本が、レオン・ウィーゼルティアの選ぶ昨年の「ワースト・ブック」となった。つまり上記のジョナサン・ヘイトと逆に、あくまで近代理性に執着し、神の問題を含め、すべてを科学が解決するという「科学主義」の権化のような本だからという。  

 ここに紹介する価値もないが、これら急進的な無神論は、ある種のキリスト教原理主義的有神論の盾の裏面にすぎず、両方とも近代のニヒリズムの典型的な現れにほかならない(詳細はこのたび書きあげた本の第1章「ニヒリズムへの道」に譲る)。  

 われわれ日本人の大多数は無神論であるなどといわれるが、われわれにかぎらず東洋人は(イスラーム教徒を例外として)、「神」概念をもったことはないのであるから有神論でも無神論でもありえない。むしろ伝統的に、上記にいう「聖なるもの」あるいは宇宙や大自然への畏敬の念をもち、人間にかぎらず生物すべてに共感の情をもつものとして、近代のニヒリズムに毒されていない貴重な人種というべきであろう。先の東日本大震災でもこのことが実証されたが、これからの脱近代の世界を築いていくうえで、この貴重さを大事にしたい。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【123】

2012-04-17 08:57:14 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【123】
Kitazawa, Masakuni  

 駆け足でやってきた春、まだ白い山桜が散らず、濃い淡紅色の八重桜も咲かないというのに、紅のツツジが花開きはじめ、樹々の新緑がまだ淡い色で風景を彩る。ウグイスがあちらこちらで精一杯鳴き競っている。夜、今年はじめてフクロウの神秘な鳴き声を聴く。

今井哲昭さんのホピ  

 ホピに15年も住みこんでいる今井哲昭さんが、伯母上の危篤で来日されたのを機会に、フォーラムで話していただくことになり、急遽4月14・15日にヴィラ・マーヤにメンバーや新しい参加者などが集まった。  

 今井さんにはこの日記にもしばしばご登場いただいたが、大学卒業後、土木エンジニアとしてアメリカの建設会社に勤めていたりしたが、ヒッピーとなり、映画「イジ―・ライダー」そのままにハレー・デヴィドスンを乗り回し、また日本で大野一夫の弟子となり舞踏家になったひとである。喜多郎のシンセサイザーに乗って伊勢内宮で踊ったこともある。たまたまホピのキコツモヴィ村でキクモングウィ(村の長)をしていたパルマー・ジェンキンズさん一家と親しくなり、晩年のジェンキンズさんの介護をして村人たちに信頼され、そのまま居着いてしまったという、多彩な経歴のひとである。異邦人は絶対に入れない秘密の儀礼にさえも参加を許されているという、もうほとんど日系ホピ人といっていい。容貌も、日焼けした顔に銀髪をホピの銀細工で束ねて背に垂らし、といった具合で、見るからにもうホピの長老であり、かつて日本にやってきた自称長老たちよりもはるかに品格がある。  

 それはさておき、私や青木やよひの本で多少の知識はあったとしても、ホピの思考体系や生活の仕方などについての今井さんの生々しくリアリティのある話は、皆さんをたいそう感動させたようだ。たとえば母系社会で女性がもっとも強い社会だといっても、観念では理解しても実感はわかない。だが妻が夫を離婚させたいときは、留守中に夫の荷物をまとめ、玄関先に放り出しておけば、帰ってきた夫は、それを担ってすごすごと「実家」に帰るしかない(私もホテヴィラ村のジェームズ・クーツホングシエの家に厄介になっていたとき、奥さんのヘレンさんが彼の格子縞のシャツを、夕立ちでまだぬかるんでいた玄関先に放り出し、帰ってきたジェームズが平身低頭でいいわけをしていたのを覚えている。こんなことをしていると離婚だよ、という手厳しいお叱りだったのだ)。あるいはセックスは厳しい近親相姦タブー(その範囲は広い)以外は自由で、婚姻とはまったく関係ない(婚姻は制度の問題であり、氏族間の重大な儀礼である)。子供ができても父親が誰であるかはまったく問題にならないなど、母系社会の現実を実感できたようだ。  

 楽しく有益な二日間であった。

ホピの祖先たちの文明  

 翌日午前は、今井さんからお土産にと戴いた、彼のホピの友人で考古学者のフィリップ・トゥワレツティワさんが参加し、かなりのメンバーがプエブロ諸族出身の学者たちで構成されるプロジェクト・チームが調査したDVD「チャコ・キャニオンの秘密」(The Mystery of Chaco Canyon)を鑑賞した。  

 チャコ・キャニオンとはニューメキシコ州北西部の山中にある紀元後900年から1100年頃に建設され使用された遺跡群で、中心となるプエブロ・ボニート遺跡が南西部最大の遺跡(石造4階建て、30数個の円形キヴァ、崩れているので推定約8百の部屋)として知られている。私も行きたかったのだが、4輪駆動車でしか行かれない百キロ以上の悪路であることと、国立モニュメントの保護遺跡で手続きと規制の厳しさで結局あきらめたサイトである。  

 このDVDは、プロジェクト・チームの調査によって、これらの遺跡が居住区ではなく宗教儀礼のための大規模遺跡であること、しかも現代の測定器具をもってしても正確な方位測定によって、太陽の運行と月の運行の正確な方位に合わせて建設されていることが明らかとなった。たとえば各遺跡は半円形に設計されているが、その直線部分は春分・秋分の太陽の昇降線に一致し、またその一部は月の一年の運行を観測可能にしている。石組で造られた太陽運行の観測装置もあるし、月のそれもある。壁に刻まれた岩絵は、光を受けて天体がどの位置に来たかを告知する。  

 見終わった印象は、アナサジと呼ばれるホピやプエブロ諸族の祖先たちが造ったこれらの遺跡の、建築術や天文学的知識のすごさであり、マヤやインカの文明に匹敵する「文明」がここに実在したのだという強烈なものであった。  

 この地域には紀元前8000年以降の石器などが発掘されているが、こうした石造の大遺跡はほぼこの時期のものである。だが12世紀にこの地方を襲った大旱魃で、ひとびとはこれらの遺跡を放棄し、水を求めて現在のプエブロ各地に散っていった。だがこうした文明の驚くべき遺跡を残したひとびとの子孫を「未開」と呼んだ近代人の愚かさを、われわれは厳しく反省しなくてはならない。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【122】

2012-04-13 10:05:15 | 伊豆高原日記

北沢方邦之伊豆高原日記【122】
Kitazawa, Masakuni  

 寒さのあとで急激に春がやってきた。ソメイヨシノはすっかり散って葉桜になりかかり、ヴィラ・マーヤの裏庭の山桜をはじめ、遅咲きの山桜が純白の花を青い新芽とともに満開にさせ、急速に芽吹きはじめたナラやクヌギやヤシャなど緑の多彩な色を背景に、陽に輝いている。ウグイスやアカハラ、ヤマガラやコガラなど野鳥の囀りも豪奢だ。

国民の不安を煽りたてるのはなぜか  

 昨年から書きはじめた本を書き終え、ほっとする間もなく、外界がにわかに騒がしくなった。北朝鮮が「人工衛星」を大型ミサイルで打ち上げるというのだ。たしかにそれは大陸間弾道弾や「それに類するミサイル」の試験的発射を禁じた国連安全保障理事会決議違反であり、国際社会が発射禁止を要求するのは当然である。だが自衛隊のイージス艦3隻や弾道弾迎撃ミサイルを広範囲に配置させる仰々しい態勢を、これも仰々しく発表する政府や、それに乗って国民の不安を煽るマス・メディアは、なにを考え、なにを意図しているのか。  

 大陸間弾道ミサイルに転用できるこの技術──といってもわずか100kgの「衛星」の打ち上げがもし成功しても、数トンにおよぶ核弾頭を搭載して発射する技術開発ははるか先である──に対して、アメリカ政府や国防総省あるいはCIAなどが深甚な関心をもち、あらゆる手段を使って情報を精密に収拾しようと努力するのは当然である。日本政府がそれに協力するのは、事実上の日米軍事同盟下では、ある意味で当然かもしれない(それを容認する意味ではまったくない)。だがアメリカはそれらの艦や航空機を配置させ、あるいは地上施設などを稼働させるたびに、いちいちアメリカ国民に仰々しく発表などしない。任務はたとえ軍事機密でなくても、それはひそかに日常的に行われる。  

 仰々しい発表のひとつの役割は、日米軍事同盟に忠誠を尽くしていますという日本政府のアリバイづくりにほかならないが、その副産物とそれに乗るメディアの扇動はきわめて危険といわなくてはならない。  

 すなわちそれは、必要以上に北朝鮮が危険な国家であるという敵対意識や自国のナショナリズムを煽り、国民に「国防」意識をかきたて、日米軍事同盟の強化がさらに必要であることを納得させようという意図であるといっていい。  

 たしかにまだ実験段階の北朝鮮の大型ミサイルが、打ち上げに失敗する確率はけっして低いとはいえない。そのための備えは必要である。だがアメリカ軍同様、ひそかに日常的に行うべきであり、また軍事的にいっても、首都圏などこれだけ広い範囲に展開させる必要もない。  

 北朝鮮を擁護するつもりは毛頭ないが、政府もメディアも「冷静」をよびかけるなら、まずみずからがほんとうの冷静な立場に立っていただきたい。そこに立つなら、こうした騒ぎ方が、いかに国民の不安を煽り、敵対意識やナショナリズムをかきたてているか、おのずからみえるはずである。  

 そのうえさらに広い視野に立てば、朝鮮半島の非核化の実現を願うのは当然として、北朝鮮やイランの核兵器開発(イランは平和利用だと主張している)には厳しいが、イスラエルやインドやパキスタンの核兵器所有には甘いといういわゆる西側諸国の二重基準(ダブル・スタンダード)が、世界平和にとっていかに偽善的であるかみえてくる。  

 ヒロシマ・ナガサキおよびフクシマの国としてわが国は、いわゆる国益にとらわれず、核問題に対して世界でもっとも公正な判断と発言を行う国として、世界を主導すべきである。北朝鮮の「衛星」発射問題はそのことを教えている。
 


伊豆高原日記【121】

2012-03-26 13:55:21 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【121】
Kitazawa, Masakuni  

 梅はすっかり散り、駅前のオオカンザクラも盛りを過ぎ、淡紅色の花弁を散らせはじめた。まだ冬枯れの光景のなかで、コブシの花が一斉に咲きはじめ、陽光を浴び、あくまで青い空をまばゆいばかりの純白で彩り、鳴き交わすウグイスの声をひきたてている。

フクシマの教訓  

 大震災一周忌に、メディアは多くの特集を組んだ。被災地の現況や被災者たちの声を伝える映像や記事には感動的なものも多くあったが、フクシマの意味を徹底的に検証し、報道するものはほとんどなかった。死者を鞭打つつもりはないが、死去した吉本隆明は、この大事故にもかかわらず、死ぬまで原発推進または依存を口にしていたという(ついでにいえば、さして深くもない思想を晦渋な表現で語るこの手の「思想家」をメディアは好むようだ)。  

 だれも指摘していないが、福島第一原子力発電所のレベル7というこの大事故が、この程度の被害で済んだのはほとんど奇蹟といっていい。古風な表現でいえば「天祐」つまり天の助けである。「ヴィラ・マーヤ便り」第4号でも発言したが、3月11日から水素爆発のあと数日まで、この季節にはめずらしい冬型気圧配置で、寒い北西の強風が吹きつづけていた。たしかに被災者の方々にとっては耐えがたい寒さであったが、そのおかげで恐るべき高濃度放射能の大半は太平洋に吹き散らされたのだ(推測にすぎないが約60パーセント以上と思われる)。その後風は一時南東に変わり、放射能は飯館村付近に達したが、また北西・西・北などに風向きは変わった。  

 原発事故にとって風向きは決定的であり、爆発直後のもっとも恐ろしい高濃度の放射能がどこにむかうか、それが被害の規模と地域を左右する。チェルノブイリでは地元のウクライナより北西のベラルーシの被害がひどかったし、かなりの高濃度放射能はバルト海を超えてスウェーデンにまで達した。その後風向きが変わり、東欧諸国やイタリア、さらにはトルコにまで放射能はばらまかれた。  

 同じレベル7でもフクシマの放射能放出量はチェルノブイリの3分の1程度といわれているが、それでも当時仮に北東からの強風が吹いていたとしたらどうなったか? いうまでもなく人口数千万人を抱える首都圏が直撃されたはずだ。200キロ離れているといっても、水素爆発によって高空に達した高濃度放射能は、風力によっては200キロ程度は優に飛ぶ。想像力を働かせなくてもこの恐るべき事態は理解できるはずだ。数千万人をどうやって避難させるのか。避難所は? 避難場所は? 水は? 食糧は?  

 全国54基の原発のすべてについて、このフクシマ規模の事故が起きたと想定して、放出される放射能の総量、その季節による平均的風向き・風力などの変数を入力してのシミュレーションはいくらでもできるはずである。それによってハザード・マップを造ってみるといい。日本列島にこれだけの数の原発を造ることがいかに無謀であるかわかるはずである。  

 そのうえ無害となるまで約十万年を要する高濃度核廃棄物の処理はまったく未解決であり(「再処理」などというのはたんに使用済み核燃料からプルトニウムを抽出するだけにすぎない)、それらは原子力発電所の構内に蓄積されつづけている(たとえ全原発が停止したとしても、これらの危険物から放射能が漏れないという保証はない)。地下深くに埋めるといってもこの断層だらけの地震列島のどこに埋めるのか。もちろんどこの自治体も拒否するだろう。  

 いま全国ほとんどの原発は停止しているが、幸いにしてまだ深刻な電力不足は起きていない。再生可能エネルギー開発の多様性を図り速度をあげることはもちろんだが、技術大国日本の底力を発揮すれば、省エネルギー技術ももっと飛躍できるはずである。また天然ガスも2酸化炭素排出も少なくて済み、有力なエネルギー源となっている(ただし現在の北米でのシェール[頁岩]ガス開発技術は、多量の有毒化学物質を使うため、深刻な環境汚染・破壊を引き起こしている。開発技術の転換が必要である)。  

 とにかく、いまこそ原発依存を脱することを声を大にして叫ばなくてはならないし、またそれが可能であることも明確にしなくてはならない。不偏不党をうたうメディアにしても、この明晰な事実は伝えてほしい。


北沢方邦の伊豆高原日記【120】

2012-03-11 18:01:58 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【120】
Kitazawa, Masakuni  

 三月も半ばとなれば、さすが陽射しは暖かである。久しぶりの晴れ間にウグイスたちが一斉に鳴きはじめた。初鳴きは一週間以上も前だが、梅の開花といい、ウグイスの初鳴きといい、例年になく遅かった。伊豆高原駅構内の数本の河津桜が、これも遅く淡紅色の花を満開にさせているが、奇妙なことにそれらの花枝に緑の新芽もではじめている。

東日本大震災一周忌  

 東日本大震災の一周忌である。国立劇場で、地震の発生時刻に合わせ、政府主催の追悼式典が行われた。野田首相の形式張った追悼式辞より、天皇のおことばのほうが、はるかに真情がこもり、感動的であった。  

 それはともかく、あの大震災とその余波の数カ月も、そしていまも、私はそれに対する言語をずっと失ったままだ。膨大な数の死者や行方不明者への追悼の心、被災し、また放射能に避難を余儀なくされたこれも膨大なひとびとへのおもいやりの心を失ったわけではけっしてないが、それを表現する言葉がない。  

 むしろ私自身が被災者であったなら、あるいは肉親や友人たちを失っていたら、表現の言葉は溢れ、追悼の詩さえ書けたかもしれない。  

 だがいま私の心に残るのは、巨大なむなしさだけである。  

 たしかに正確な記録のない古代はともかく、日本列島を襲ったM9というかつてない巨大地震や巨大津波は「想定外」かもしれない。それによって生じた福島第一原子力発電所の大事故も「想定外」であったかもしれない。だが前者の「想定外」はまだしも、後者の「想定外」はけっして許されることばではない。なぜなら私を含めて、世界の心あるひとびとや専門家たちが、1960年代から原発の危険性、とりわけ地震列島であるわが国に建設することの危険性を訴えつづけてきたにもかかわらず、政府もメディアも無視しつづけ、少なくともフクシマまでは、大多数の国民に安全神話を植え付けてしまったからである。  

 もうこの主張は繰り返したくない。なぜなら、大事故が起こらないかぎりだれも原発の危険性に耳を貸さなかったように、この文明が現実に破滅しないかぎり、近代文明が完全な袋小路にはいりこみ、出口のない状態にあること、そして文明の構造やシステムそのものを変革しないかぎり、いつか破滅にいたるであろうことに、だれも耳を貸さないからである。  

 いま私の耳の奥に、『バガヴァッド・ギーター』の恐ろしいクリシュナのことばが、雷鳴のようにひびく:  

 「われ、世界を滅亡に導く大いなる死(時間)なり。諸世界を打ち砕くためにここに来たれり!」(11-32)  

 それと不可分に、クリシュナのもうひとつの声が静かにひびく:  

 「汝らの思考のなかにわれ(クリシュナ)いまさば、わが恩寵により、汝らすべての苦難を乗り越えん。もしおのれに固執して耳を貸さねば、汝ら破滅せん」(18-58)  

 いま文明の皮相なゆたかさに酔い痴れている人たちには、ぜひ『バガヴァッド・ギーター』を紐解いてほしい。

訂正●日記【118】のグエン・ティエン・ダオさんの綴りはNguyen(yが入る)、
またグエン王朝の漢字は「玩」ではなく「阮」の誤りでした。訂正します。


北沢方邦の伊豆高原日記【119】

2012-03-07 10:12:48 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【119】
Kitazawa, Masakuni  

 例年なら1月の末か2月初めに満開の梅が、ようやく5分咲き程度になっている。わが家の遅咲きの紅梅もやっとほころびはじめた。昨日は冷たい雨だったが、今日は晴天に一転、強い南風とともに4月並みの暖かさだ。植物たちも驚いているだろう。強風に乗ってカラスたちが文字通りのウィンド・サーフィンをしている。風上に向けて羽ばたき、身を翻して風に乗って流され、繰り返し楽しんでいる。

物理学は近代科学の限界を超えられるか?  

 執筆中の本の第4章を書く必要から、リサ・ランドールの近著『天国の扉をノックする』(Randall,Lisa. Knocking on Heaven’s Door; How Physics and Scientific Thinking Illuminate the Universe and the Modern World. 2011,Harper Collins,New York.)を大急ぎで読了した。いうまでもなく題名はボブ・ディランの歌詞からの借用である。  

 彼女の立場に立って最新の物理学とその量子論や宇宙論が紹介されていて、その点では大いに読むに値したが、その結論や哲学はあまり満足させてくれるものではなかった。  

 彼女の基本的な物理学的立場は、ストリング理論にかなりの足場を置きながらも、いわゆる標準モデルまたは標準理論を拡大し、それを彼女の主張する4次元空間理論(時間を入れると5次元)で補い、完璧なモデルに仕上げようとするものと思われる。  

 つまりストリング理論によれば、標準モデルのいわゆる粒子は約10のマイナス12乗から18乗センチメートルの微小空間に存在するとされるが、それはプランクの長さとよばれるほとんど絶対的な微小空間(10のマイナス33乗センチメートル、それを超えると時空は崩壊する)に存在するストリング(弦)の多様な振動のあり方の現れにすぎないとする。さらにそれは数学的解析によって10次元または11次元の時空、つまり多次元超空間(ハイパースペース)に存在していることが明らかとなり、そのために必然的にわれわれの住む4次元の時空を超えた時空、つまりわれわれにとって隠された世界あるいはリアリティが存在しなくてはならないと考える。  

 さらにストリング理論は、われわれの世界を含めたそれぞれの世界がブレーンを形作っているとする。たとえばもしわれわれが2次元の空間、つまり平面に住んでいるとすると、われわれはその世界に閉じ込められ、3次元の空間がどのようなものであるか想像さえできないが、3次元空間の世界から見ると、2次元空間はまさにブレーン(膜[メンブレーン]からのテクニカルな造語)そのものなのだ。だがもしわれわれが4次元空間に住んでいるとすれば、いまわれわれの見ている3次元空間そのものが全体としてブレーンとなり、そこからいかなる物質やエネルギーも4次元空間に脱出することはできない。  

 ただ重力だけは別である。重力だけは2次元から3次元、あるいは3次元から4次元へとそれぞれの空間のブレーンを貫くことができるとされる。  

 ランドールはストリング理論のこの多次元とブレーン概念を借りて自説を構築する。つまり彼女によれば、宇宙はストリング理論の主流が主張するように10次元や11次元あるいは無限次元の多重世界ではなく、この目にみえる3次元空間にたわんで(Warped)接続している唯一の4次元があるのみだという。その議論の詳細は省略するが、それによって標準理論のかなりが修正されながらも成立し、さらにLHC(ジュネーヴにある大ハドロン衝突機[ハドロンとは標準理論で軽い粒子レプトンに対して原子核のプロトンなど重い粒子をいう、レプトンよりもハドロンの破壊には大きなエネルギーが必要であり、LHCは現在そこまで出てはいないが14テラ(兆)電子ヴォルトという目下世界最大の出力をもつ])によって4次元に流出する重力が測定可能だとする。それが検出されれば彼女の理論が正しいことになる。  

 この主張自体はきわめて興味深いし、もしLHCがそれを証明したら科学上の一大ニュースとなるが、われわれとしてはその成功を見守るしかない。  

 ただこの400頁を越す本のかなりの部分が、LHCのきわめて技術的な説明に費やされていて彼女の主張への強い関心をそらしているし、また宗教と科学との関係を長々と論じているのも興を削ぐ。後者は明らかにダーウィンの進化論さえ拒絶する宗教保守派が一部君臨する現在のアメリカの知的風土を如実に示しているが、この問題を含めて、物理学の最先端を走っているこの秀才をもってしても、いまだに近代を超える視点をもてないでいることへの失望が読み終えたひとつの感想であった。  

 すなわち彼女は、もちろん信仰の自由は保証しながらも、合理性につらぬかれた科学的思考のみが、たんに技術的進歩によって社会を発展させるだけではなく、その安定や秩序をもたらすのであり、それが人間の根本的な原理を形成するという。  

 だがこの科学が「合理性」にもとづき「唯物論的」であるという考え(結論で述べられている)そのものが、明かに近代固有の先入観である。デカルト的二元論は感性や身体性に対して近代理性を優位に置き、そこからすべての領域での「合理性」の追求がはじまった。だが経済合理性ひとつをみても、その暴走が世界を破滅の淵に導いている。必要なのはこうした「合理性」ではなく、身体性をも統合する弁証法的理性なのだ。それはすでに古代アジアの諸思想が主張してきたことであり、西欧でもプラトンやスピノーザをはじめ多くの異端の思想家たちが主張してきたことである。またこの弁証法的理性によってのみ、隠されたリアリティまたは世界を含む宇宙の全体像が明らかとなるのだ。  

 そろそろわれわれは、中世末期以来西欧の知的世界を支配し、デカルト的二元論を生みだしたアリストテレス主義、つまりこの目にみえる世界のみをリアリティとする思考体系に決別を告げなくてはならない。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【118】

2012-02-18 11:33:59 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【118】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は寒い。例年なら1月下旬に咲きはじめる梅が、ようやくほころび、またいつもなら山茶花の花が終わる頃咲く椿もまだである。わが家の小梅もちらほらと枯れた風景に白い彩りを添えはじめた。

ヴェトナム・ブーム  

 いまヴェトナム・ブームだという。ハノイや古都フエやホー・チミン市(旧名サイゴン)には日本人の観光客が溢れ、TVにヴェトナムの光景が登場しない日はないほどだ。東南アジア諸国のなかでもっとも遅く「開国」した国、またそれだけ東南アジアの古き良き面影が残っている地域として愛されているのであろう。  

 われわれの世代には、あの苛烈なヴェトナム戦争と、日本国内でも高まったヴェトナム反戦運動の記憶が強烈に焼きつけられ、「ウィ・シャル・オーヴァーカム」やジョン・レノンの「ギヴ・ピース・ア・チャンス」の歌声が耳の底によみがえるのだが、30年以上も経ったいま、若い世代にはそれは遠い歴史でしかない。  

 わが国とヴェトナムの関係は、かつてはひじょうに深いものであった。徳川の鎖国までは、タイやインドネシアとならんでヴェトナムは、東南アジア貿易の重要な相手国であったし、古い港町には居留民のための日本人街があり、多くの日本の千石船が出入りしていた。さらにさかのぼれば古代、ヴェトナムは日本、韓国とならぶ中国文明圏の最大の受益国として多くの文化や思考体系を共有していた。他の東南アジアの国々は、中国の影響も受けたが、主たるものはインド文明であって、たとえば仏教でも東南アジアの多くはテラヴァーダ(南系の意、小乗[小さな乗り物]は蔑称である)であるのに、ヴェトナムだけは中国経由のマハーヤーナ(大乗)である(ただし中世のチャンパ王国時代には、チャンパ朝そのものが少数民族であったがためにインド文明の影響はかなり強かった。昔植民地時代ヴェトナムを含めこの地域全体がインドシナとよばれたのも故なしとしない)。  

 またローマ字を国字とする半世紀まえまでは、漢字が使われていた。そもそも国名ヴェトナム(Vietnam)は越南、またハノイは河内、ハイフォンは海防、ホー・チミンは胡志明、トンキン湾は東京湾である。またヴェトナム語の単語の多くは日本や韓国と同じく中国語からの借用であり、たとえば日本語の「注意」を「リューイ」(中国語の四声に対してヴェトナム語は六声であり発音はむずかしい)というが、それは「留意」という漢字に由来する。  

 日本雅楽──中国・韓国・ヴェトナムの雅楽は儒教の儀礼音楽であり、金石鐘磬之楽と称されたように石と金属の打楽器が主体であるが、日本雅楽は唐の舞楽であり、糸竹管弦之楽と称されたように笛類と弦楽器が主体である──には林邑楽(りんゆうがく)すなわちヴェトナム音楽というジャンルがあり、唐の宮廷を通じてではあるが、ヴェトナム音楽が流入していたのだ。その一つ、有名な『陵王』(移調されたとき、その調に応じて『蘭稜王』や『羅陵王』などと呼ばれる)では、龍の面にりょうとう装束の舞人が勇ましく舞う。それは優男のため敵に侮られていた陵王が、龍の仮面を着けたところ破竹の勢いで連戦連勝したというヴェトナムの故事を表現している。龍はヴェトナムでも水の神・河の神であり、この舞は同時に稲作の豊饒を願うものでもある。

グエン・ティエン・ダオ氏  

 中国文明の影響下にあったといっても、わが国や韓国同様、ヴェトナムもそれを巧みに固有の文化と結びつけ、あるいは変換してきわめて魅力的な独自の文化を創りだしている。

 いうまでもなく土着の文化や芸術は大切に継承され、たとえばわが国のTVでもよく登場する水上人形芝居やその音楽など、農村に行けばいまなおそれら生き生きとした諸芸能をみることができるが、これら民俗音楽や宮廷音楽の伝統を踏まえながら、それを世界的な現代音楽に変換させて表現し、アジアの代表的な作曲家として欧米で認められているひとがいる。それがグエン・ティエン・ダオ(Nguyen Thien Dao)氏である(ヴェトナム語ではグなどの音は日本語よりも強い鼻音となる。またグエン[阮]王朝時代、ある王がグエン姓を庶民にも名乗ることを許したためグエン姓がやたらに多く、個人を区別するため最後の名を呼ぶ習慣となっている。したがってグエン氏ではなくダオ氏である)。

 この秋、ダオ氏は知と文明のフォーラムの招きで来日し、9月29日(土曜日)代々木オリンピック・センター小ホールでコンサートを開催することとなった。いずれ詳細はこのフォーラムのブログに掲載されるが、東日本大震災を悼む世界初演の新曲を書くなど、ダオ氏もきわめて強い意欲で日本でのデビューを待ち望んでいる(彼の作品自体は上野信一さんの打楽器アンサンブルPHONIXなどですでに演奏されているが)。もうひとりのアジアの代表的作曲家である西村朗氏との対談もコンサートで予定されている。またロビーでは写真家高島史於氏のヴェトナム写真展も催される。

 この秋の「ヴェトナム週間」の催しなどとともに、ぜひわれわれの会場に足をお運びください。ヴェトナム文化や芸術の神髄を味わうことができると思います。


北沢方邦の伊豆高原日記【117】

2012-01-15 14:19:54 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【117】
Kitazawa, Masakuni  

 この冬は寒いが、ここ数日はおだやかな晴天で心なしか暖かい。昨夜(9日)は満月で、枯れて白くみえる芝生に樹々のかぐろい影がくっきりと映るほど明るく、海上遠くきらめく大島の町々の灯火もかすむほどであった。

理性の誤り 

 進行中の本の第2章も書き終え、神戸芸術工科大学大学院に依頼された博士論文の精読やコメントの作成も終わったので、久しぶりにのんびりと、溜まっていたニューヨーク・タイムズの書評紙を読みはじめた。なかでも心理学者のダニエル・カーネマンの『思考する、早く、遅く』の、ジム・ホルト(Jim Holt)による書評がきわめて興味深かったので紹介しておきたい(Kahneman,Daniel.Thinking,Fast and Slow. Farrar,Straus & Giroux, 2011:Nov.27)。 

 前回の「日記」(116)で、啓蒙的合理主義に反対するルソーの思想を紹介したが、それに関連する証拠(エヴィデンス)ともいえる。その観点から私見を交えて考えてみよう。 

 著者のカーネマンは、心理学者つまり非経済学者としてノーベル経済学賞をはじめて受賞した人である。なぜならアダム・スミス以来、経済学では、経済を担う人間つまりホモ・エコノミクスはつねに合理的に選択し、行動すると考え、それを前提に学説を展開してきた。ところが彼は、ホモ・エコノミクスの選択や行動はけっして合理的ではなく、むしろ非合理的であることを、種々の実験を通して実証してしまったからである。 

 脳の機能についてはこの書評はまったく触れていないが、いうまでもなく無意識的で身体的・感性的なものをつかさどる右脳と、意識的で言語的・知性的なものをつかさどる左脳が、この問題に深くかかわっている。 

 すなわちカーネマンによれば、ものを考えるときシステム1とシステム2が作動するという。システム1とは、自動的で直観的で早く、ひろく無意識的である。それに対してシステム2は、熟考的で分析的で遅く、意識的・理性的である。たとえば相手の表情を見て好意的か敵対的かを瞬時に判断するのはシステム1であり、税金の申告書を書いたり、なんらかの問題を考えたりするのはシステム2である。 

 常識から考えると、システム1よりシステム2の方が優位にあると思われるし、その理性的選択によって確信や信念がもたらされると思うのが当然である。反対にシステム1による判断は、軽率で誤りが多いと推定される。 

 ところが彼が行った諸種の心理学的実験によれば、この二つのシステムの作動によってもたらされる判断はまったく逆であることがわかる。つまりひとびとが理性的なものとして抱いている確信や信念が、いかに誤ったものであるかが実証されるのだ。

実験にみるシステム1とシステム2 

 たとえば彼が行った実験のひとつに「リンダ問題」がある。リンダという若い女性を想定する。前提があるが、それは、彼女はフェミニズムに深い関心があるという情報である。さてそこで、次の2題のうち彼女がどちらである「確率」が高いか、1題を選択してもらう:

 1)リンダは銀行出納係である。2)リンダは銀行出納係であり、フェミニズム運動にかかわっている。 

 学生の85パーセントは2)を選択した。純粋な確率問題であるから、1)の確率はひじょうに高く、たとえフェミニズムに関心があっても、堅い職業である銀行の出納係がフェミニズム運動にかかわる2)の確率はひじょうに低い。したがって正答は1)である。 

 アンケートへの返答は当然システム2の作動であるから、学生たちは理性的に熟考したはずである。だがなぜほとんどの学生が誤ってしまったのか? それは理性的判断には誤りはないという「自己確信」(セルフ・コンフィデンス)または「自信過剰」(オーヴァーコンフィデンス)からであるとカーネマンはいう。ある学生は「この問題についての意見を述べよといわれたと思ってしまった」といったが、自己確信は、結局このように思い込みとなってしまう。 

 このほかの多くの実験も同じ結果をもたらした。つまり理性的判断と考えられるもののほとんどは、判断基準の忘却、ありそうなことへの雪崩打ち、妥当性という幻影などなどによる「合理性」の破綻を示しているというのだ。 

 ノーベル経済学賞を受賞した経済行動における理性的判断、つまりシステム2の作動についての実験や分析もまったくおなじ結果であった。

近代理性の誤謬 

 カーネマンや書評者の意見とかなり異なるが、これらの実験をふまえて、私自身の見解を述べよう。 

 つまり近代理性は強固なデカルト的二元論に立脚している。それを打破して理性概念を拡大しようとしたカントなどの試みはいまなお正当に評価されているといい難いが、その問題は他日に譲るとして(現在進行中の本では取りあげた)、こうした近代理性の誤謬が日常的であるのは、この二元論に由来する。 

 すなわち、ルソーの説いたように、人間性の基礎は自然であり、内なる自然としての身体性や感性である。そこからカーネマンのいうシステム1が生じる。だが直観と呼ばれるその思考体系は、私の用語によれば意識的行為であるプラクシスに対する無意識的行動のレベルのプラティークである。だがこの無意識の領域の思考体系つまりシステム1こそ、たとえば意識的に文法を学ばなくても母語を自由に正確に繰れるように、構造的であり、超合理的なのだ。それを構造的理性、あるいはサルトルが挑戦して挫折した用語とはまったく異なる真の弁証法的理性と名づけることができるだろう。 

 なぜ弁証法的か? それは右脳の思考体系システム1と左脳の思考体系システム2との絶えざる対話(ディアレクティケー)によって構成されるからである。後頭部に位置して右脳と左脳とを結ぶ脳梁(コルプス・カロッスム)がその対話をつかさどるが、その容積が大きいほどこの弁証法が活発であることを示している。男性よりも女性が、同じ男性でも芸術家の方が脳梁の容積が大きいのは、きわめて示唆的である。 

 脱近代文明やそれを支える知を考えるとき、われわれは先駆者ルソーが提起した問題が、この「理性とはなにか」に深くかかわっていることに気づく。誤謬だらけの近代理性を克服し、人間の全体的理性であるこの構造的または弁証法的理性を回復なくてはならない。


伊豆高原日記【116】

2012-01-08 10:53:20 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【116】
Kitazawa, Masakuni  

 今日は寒風が吹いて枯葉が舞い、さすがほとんどの落葉樹の葉は落ち、海がよく見渡せる。正月三が日にはみかけなかった貨物船の航行も復活した。双眼鏡で見ると、夕日を浴びて九州航路の大型フェリーが、かなりの波浪のなかを進んでいる。白色デッキに空色の船体が、大きくピッチングしながら波涛を蹴散らし、白い波しぶきをあげている。

ルソー生誕300年祭 

 明けましておめでとうございます。今年2012年は、1712年生まれのジャン・ジャーク・ルソーの生誕300年祭である。わが国で人気のある芸術家や思想家などの生誕記念祭は、早くも前年から騒がれたりするが、このブログでヘンデルやベルリオーズあるいはリストについて指摘したように、人気はそれほどではないが真に偉大なひとたちについては、メディアではほとんどとりあげられない。ルソーも同じである。 

 気楽なブログなのでついでに書いておくが、ファースト・ネームのジャン・ジャークは、フランス語ではジャックではなく、長母音のジャークである。よく原稿や校正で編集者に訂正され、再訂正に追われたものである。昔アテネ・フランセでフランス語を習っていたとき、プレヴェールの詩の朗読を指名されたことがある。詩の題名のあとで「ジャック・プレヴェール」と発音したら間髪をいれず先生のマドモアゼル・ルフォークールに「ノン!」と訂正された。「フランス語は英語ではない! ジャックではなくジャーク、口を横に開くのではなく、縦に開いて柔らかく長母音で発音しなさい」と。とりわけの美人ではなかったが美しい金髪で、長身でかなり目立つルフォークールさんMlle. Lefauqueur(クールの発音も難しかった。いわば日本語のカールとクールとケールを混ぜ合わせたような音)は、人柄として私の好みのタイプで、自国語にすごい誇りをもち、かなりのパリ訛りではあったが発音にはうるさかった。 

 それはともかく、グローバリズム崩壊後の世界、あるいは脱近代文明を考えるうえで、ルソーはひじょうに大きな存在といわなくてはならない。 

 なぜならルソーは、世界で初めて編纂された百科事典の寄稿者でもあったため、百科全書派と呼ばれる啓蒙思想家たちと混同されるが、むしろ啓蒙的合理主義や、彼らが信奉する西欧理性または近代理性と真っ向から対立する思想家であったからである。 

 彼の代表的著作の一つである『社会契約論』は、彼の死後、フランス革命に多大の影響をあたえた。だが革命そのものは、ルソーが考えていた方向とは大きく異なり、戦略とイデオロギーを異にする集団相互の暴力的対立によって崩壊し、ナポレオンの権力掌握と皇帝戴冠により挫折してしまった。 

 この本でルソーがもっとも主張したかったのはイギリス流の《多数意志(ヴォロンテ・ドゥ・トゥース)の民主主義》ではなく、《一般意志(ヴォロンテ・ジェネラール)の民主主義》であった。だがこれほど誤解された概念も他にない。

多数意志と一般意志 

 つまり多数意志の民主主義はいまなおわれわれの政治制度にもなっている近代民主主義であるが、それは、太古の自然状態は「ヒトはヒトにとって狼である」という混乱と闘争の世界であるとするホッブズ流の思想をもとに、法と秩序によってのみ社会の正義と安定は保たれると考えるものである。したがって民主主義もかならず利害や主張が対立するがゆえに、投票によって選ばれた多数派が決するしかないとする。 

 だがルソーはそれを真っ向から否定し(有名なことば「イギリス人は投票日の一日だけ主権者であるが、残りの日すべては奴隷である」)、むしろ太古の自然状態は人間相互が助け合い、自由と平等と友愛を実現していた理想社会だとし、富の蓄積と偏在がそれを崩壊させ、道徳的にも人間を堕落させたのだとする。したがってそのような自然状態の社会にあった《一般意志》を民主主義の根幹に据えなくてはならない、と。 

 これも代表的な著作である前作の『人間不平等起源論』──レヴィ=ストロースはこれを指してルソーを人類学の始祖と呼んでいる──では、当時フランスの植民地開拓がはじまっていたアフリカや北米の先住民たちの文化や思想が具体的に取りあげられ、「自然状態」にある諸社会がいかに自由・平等・友愛の社会であるかを実証しているが、『社会契約論』はその議論を前提としているのだ。 

 ついでにいえば、「高貴な野蛮人」という言葉を生みだしたこの本の議論の根本は、個々の人間も諸種族も、それぞれ身体的特徴も文化的特徴も異なっているように生物学的に不平等であるが、それゆえに逆にそれらの特質を最大限に引き出す「社会的平等」が必要なのだというものである。 

 すなわちルソーのいう一般意志は、こうした社会に実在していた自由・平等・友愛の政治的表現にほかならない。 

 たとえばのち19世紀にヘンリー・ルイス・モーガンが調査し、研究したように、アメリカ・インディアンのイロクォイ諸族では、氏族首長と戦闘首長及び宗教結社首長からなる評議会が民主主義を担っていて、さらにそこから選ばれたものが部族同盟全体の大評議会に参加して議題を決する。だが多数決ではなく、異議が出た場合もう一度各評議会に持ち帰り、議論し、さらにそれぞれの氏族や組織で討論する。いうまでもなくここは母系社会であるから、氏族の議論の主導権をもつのは女たちである。入り婿の男たちはその意見に従うほかはない。こうしてふたたび大評議会が開かれたとき、ほとんどの場合議題は満場一致で決定される。もし何度繰り返されても異議がある場合は、対立集団のレスリングなど儀礼闘争で決着し、闘争直後大宴会で和睦を図る。 

 これが一般意志であり、最終的にはそれは満場一致で表現される。 

 ところが革命のもっとも正統な継承者を任じた共産主義的社会主義諸国家では、「満場一致」のかたちだけを継承し、もっとも重要な一般意志の形成過程をまったく無視するにいたった。いうまでもなく彼らはイデオロギーが左翼というだけで、むしろ極端な近代理性の継承者だったからである(ナチスでさえ理性の欠如ではなく、理性の過剰が生みだしたものだというホルクハイマーの言葉を思いだそう)。 

 ルソーの一般意志は、いまもなおほとんど理解されていないといっても過言ではない。だがかつて60年代末の文化革命やステューデント・パワーに結集した若者たちや、いま「ウォール街を占拠せよ(Occupy the Wall Street)!」と立ち上がった反グローバリズムの若者たちは、この連帯と友愛(わが国では無能でピンボケの元首相のおかげでこのことばは空虚なものになってしまったが)に裏打ちされた一般意志の民主主義を求めているのだ。

ルソーの世界的影響 

 デカルト的二元論に立ち、理性のみを至上とする観念的な啓蒙思想に対して、自然と内なる自然である身体性、とりわけ感性を重んじるルソーの思想は、宇宙や自然に基づく一元論であって、カントやゲーテやベートーヴェンといった偉大な知識人や芸術家たちに強烈な影響をおよぼした。 

 『エミール』や『ヌヴェル・エロイーズ』で主張された自然への回帰や自然性の尊重、あるいは感情の解放などの主張は、一般のひとびとに『社会契約論』などよりはるかに大きな影響をおよぼした。彼自身が述べたことばではないが、「自然に帰れ!」のモットーは、合理的で幾何学的なフランス式庭園に代わって自然性と野性を強調するイギリス風庭園が流行したことに象徴されるように、貴族社会にいたるまで全ヨーロッパを席巻した。啓蒙的理性に対抗して感性を主張するロマン主義の興隆も、ルソーの影響にほかならない。 

 だが啓蒙的合理主義の支配する知的世界、あるいは忍び寄る自由・平等・友愛の革命の足音に敏感な政治世界は、ルソーを最も危険な敵とみなす。迫害と繰り返された亡命のなかで「孤独な夢想者」は死ぬ。 

 たしかに、楽譜浄書や写譜などでかろうじて生活していた貧困時代、テレーズ・ルヴァスールとのあいだに生まれた5人の赤子をすべて孤児院に捨てるなどの生活行状や、被害妄想癖など、人格的に多くの問題があったことは事実だし、また著書のなかでも女性差別など時代の刻印を記している文もある。だがそれを超えて彼の思想から湧きあがる根底的な近代批判は、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ後の現実、あるいは近代の袋小路的帰結であったグローバリズム崩壊後の世界を考えるうえで、大きな示唆に富む。 

 脱近代の知を構想するとき、ジャン・ジャーク・ルソーの名をはずすことはできない。


北沢方邦の伊豆高原日記【115】

2011-12-23 10:59:19 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【115】
Kitazawa, Masakuni  

 冬至である。3時を過ぎると陽が傾き、まだ落ちきっていない樹々の枯れた葉叢を赤く染める。海の彼方、大島の山肌も陽射しを浴びて仄かに赤く輝く。年の暮ともなると海上を行き交う貨物船の数も多い。ここ数日白い波頭をみせて荒れていた海も、今日は静かだ。

ユーロ危機 

 国家主権が存在し、金融や財政政策が各国によって決定されているのに、無理に通貨統合だけを図ったユーロの矛盾が、ここにきて一挙に表面化した。当時の日記でこの矛盾を指摘し、いずれユーロは破綻するだろうと書いた記憶がある。残念ながら探したがその日記はでてこなかった。 

 無理に急いで通貨統合を図ったのは、ドイツやフランスなど中心となる国々が、ドルに代わる強い基軸通貨、あるいは少なくともそれと対抗する世界通貨を創設しようとした野心からである。だが大いなる誤算は、世界の資本主義体制が、新保守主義=新自由主義の制覇によってまったく変わっていったことを認識できなかったことにある。 

 すなわち、諸産業が主導権をにぎり、金融はそれに奉仕する侍僕であるという牧歌的な資本主義の時代は終わりを告げ、巨大流動資金と情報革命を梃子に、それを利益の上がる地点または個別企業に瞬時に移動させ、あるいはリスクがあるとみれば同じく瞬時に引き上げるという、金融諸企業や機関による絶対的な市場支配が確立したことである。それがグロ-バリズムであることはいうまでもない。 

 たしかにそれはリーマン・ショックによって破綻し、新保守主義=新自由主義も没落したが、その市場支配のメカニズムそのものは、今も強固に存続しているのだ。ユーロ危機の根本原因は、国家主権にかかわる上記の矛盾と、世界の資本主義のこの根本的変化を読み取れなかったことに由来する。ユーロ圏の諸金融機関はギリシアやイタリアあるいはスペインなどの国債を抱え、巨大な損失におののいているが、こうした自己矛盾のもたらした時限爆弾はいつ爆発してもおかしくない。 

 円高が示すように、さいわいわが国はまだ破綻の圏外にあるが──財政規律が確立せず、国内での国債引き受けが限度に達すれば、わが国の時限爆弾も爆発するにちがいない──ユーロ圏の破綻は世界経済に深刻な影響を及ぼし、いずれわが国も巻き込まれざるをえないだろう。ユーロ危機は対岸の火事ではない。

TPPの矛盾 

 野田内閣が参加、あるいは少なくとも協議参加を表明したTPP(Trans-Pacific Partnership Agreement環太平洋[経済]協力協定)が問題となっている。 

 これも上記で指摘した矛盾や誤謬と密接にからんでいる。なぜなら資本主義の牧歌的な時代、そしてそれに乗って高度成長を遂げ、世界に冠たる「経済大国」となった日本という記憶が体質として根強く残っているわが国は、いまだにその夢の延長としての「輸出大国」を目指しているようにみえるからである。 

 だが段階的ではあるが究極的にすべてのものの関税撤廃を掲げているTPPは、古来立国の根本であった農業をはじめとする国内の第1次産業に破滅的打撃をあたえるだけではなく、「輸出立国」体制そのものをゆるがしかねない。なぜなら電子産業で韓国に遅れを取っているのをみてもわかるように、激烈な競争とそれを支配する金融のグローバル・メカニズムは、いったん技術革新に遅れを取ったとみるやいなや、日本から身をひるがえしかねないからである。そのうえここで主導権を握っているのはアメリカであり、国内の輸出産業育成やそれによる雇用創出のためには強引なまでもその主導権を発揮するだろう。 

 新自由主義を信奉した小泉内閣によってすでにかなりの貿易自由化を行ってきたわが国が、TPPによってえるものはそれほど大きくない。いまやむしろグローバリズム崩壊後の世界を見定めながら、国内の諸産業の再建や再編を行い、新しい国づくりと持続可能でエコロジカルな経済体制移行へのヴィジョンを探るべきときである。

疲弊大国をもたらしたもの 

 北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記が死去し、彼の三男金正恩(キム・ジョンウン)氏がその後継者となった。映像で見るピョンヤン市民の号泣する土下座姿は、敗戦時の宮城前広場の光景に重なってみえる。いずれも軍事独裁的国家の終末を暗示しているといってもいいすぎではない。今後の北朝鮮のふるまいはまったく予測できないが、個人的には開明派であり、改革開放に関心をもつとされる正恩氏が主導権を取れるようになるのははるか先であろう。 

 正日氏は「強盛大国」を目指したとされるが、彼の支配下で実現したのは「疲弊大国」であった。資金や資源は核兵器やミサイル開発に投入され、あいつづく天災にもみまわれ、「人民民主主義共和国」の人民は飢餓に苦しんでいる。 

 その意味で今日の事態を招いた正日氏に、「疲弊大国」をもたらした大きな責任があるが、その罪の根本は、共産主義を標榜した左翼近代主義にある。つまり自然や「内なる自然」である身体性をまったく無視し、いわゆる社会主義国家建設やその産業のために自然を収奪し、友愛の基礎でもある人間の感性やその上に成り立つ文化を殺戮し、朝鮮の種族的アイデンティティさえも剥奪したこの左翼近代主義が、「疲弊大国」をもたらしたのだ。飢饉は旱魃や洪水が原因だといわれているが、それも「社会主義強国建設」のための開発がもたらした森林伐採などの自然破壊に原因がある。つまり唯物論的社会主義による人災にほかならない。 

 いずれにせよ北朝鮮のひとびとが、この「疲弊大国」から解放されるのはいつの日であろうか。胸が痛む。