まさおさまの 何でも倫理学

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ロールズ 「正義に基づくリベラリズム」

2014-07-18 08:57:31 | グローバル・エシックス
昨日、ロールズに関する質問に答えましたが、
以前に担当していた 『社会思想入門』 ではロールズに関しても講義をし、
レジュメと資料もまとめていたのでした。
今日のところはまずレジュメのほうをアップしておきましょう。


         ロールズ 「正義に基づく自由主義 (リベラリズム)」

Ⅰ.『正義論』 の射程

 ジョン・ロールズ (John Rawls 1921-2002) は20世紀のアメリカ合衆国に生を受けました。そのときすでにソビエト連邦が誕生しており、彼の人生の大半は米ソ冷戦下にあったと言ってよいでしょう。当時のアメリカは、〈自由主義〉 対 〈社会主義〉 というイデオロギー的対立図式の中で、一方の雄として世界の主導的役割を果たしていました。しかしそのアメリカは、内部において一枚岩的な結束を保っていたわけではありません。長い黒人差別の伝統は公民権法が成立した後においても、黒人たちへの抑圧の手をゆるめることはなく、それに対抗する形で黒人解放闘争が根強く続けられていましたし、ベトナム戦争に際しては、学生や市民たちの広汎な反戦運動が組織されました。長い間差別を受けてきたマイノリティに対してアファーマティヴ・アクション (積極的是正措置) による救済を唱える民主党と、経済効率を重視し強いアメリカを主張する共和党とが交互に政権に就き、そのつど異なるタイプの自由主義を打ち出していました。
 ロールズは前者の、福祉重視型自由主義を哲学的・倫理学的に基礎づけようとした思想家です。若きロールズには立ち向かうべき2つの思潮がありました。20世紀の前半から中盤にかけて、哲学や倫理学の世界では、言葉の意味を厳密に分析していくだけで、積極的には何も提言しようとしない分析哲学が流行していました。何が善で何が悪か、何が正で何が不正かを論じようとする規範倫理学は、結局のところイデオロギー的政治対立に巻き込まれ、学問的厳密性を保ちえないと考えられていたのです。そうした中で、自由主義の基礎づけには昔ながらの功利主義倫理学が援用されていました。功利主義とは 「最大多数の最大幸福」 という、多くの人の直観に合致する原理から出発して、個人の行動から社会政策まで様々な選択肢を、その功利効用を測って順位付けしていこうとする、倫理学の一つの立場です。幸福という曖昧な概念を、利害やら選好という概念へと厳密化していくことによって功利主義は命脈を保ち続け、哲学・倫理学というよりもむしろ経済学の中に深く根を下ろし、厚生経済学を根底から支える役割を果たしていました。
 ロールズからするならば、この功利主義の問題点は、上述の2つのタイプの自由主義のいずれをも正当化可能であるということでした。とりわけ最大の問題点は、功利主義が 「正義」 を基礎づけることができないということです。例えば、功利主義は奴隷制が正義にもとるということを説明することができません。ロールズはこの正義の問題を正面から取り上げ、功利主義に代わる新たな規範倫理学の構築をめざしていきます。そのような若い頃からの挑戦が一つの体系として実を結んだのが、1971年に刊行された 『正義論』 だったのです。この書物は、現実の正義問題に揺れるアメリカを始めとして全世界で熱狂的に受け入れられ、この書の刊行を機に、あるべき社会像に関する積極的な提言が各方面からなされるようになり、〈倫理学の復権〉 とか 〈政治哲学の復権〉 と呼ばれるような活況を呈するようになって、現在に至っています。

Ⅱ.原初状態の想定―無知のヴェール

 さて 『正義論』 において、功利主義に対抗するためにロールズが依拠したのは、ロック、ルソー、カントらの社会契約説の伝統でした。ロールズは、社会契約説の手法を取り入れて、万人が受け入れ可能な正義のルールを構想しようとしたのです。とはいっても近代社会契約説をそのまま借用したわけではなく、現代のゲーム理論や意志決定理論などを用いながら、より抽象度を高めた現代版の社会契約説を構築しようとしたのです。
 ロールズは、社会契約論者たちが 「自然状態」 を想定したのに倣って、「原初状態 the original position」 というものを想定します。これは社会が形成される以前の段階ですが、あくまでもそうした状態を想定・仮定してみるというだけのことであって、現実にそういう状態があったかどうか、ありうるか否かといったことは関係ありません。そしてロールズは、この原初状態にいる人々には 「無知のヴェール」 がかけられていると想定します。つまり、自分が何者であるのか、資産家の子どもなのか浮浪者なのか、スポーツの才能に恵まれているのか先天的な障害をもって産まれてきているのかなどの個人情報がまったくわからないものと仮定されます。このような条件下で人々はどのような社会が構成されることを望むだろうか、どのようなルールなら受け入れられるだろうかという思考実験を試みてみようというのです。
 のちにロールズに対しては、この無知のヴェールに覆われた原初状態という思考実験はあまりにも現実離れをしているので受け入れがたいという批判が数多く浴びせられました。そのような 「負荷なき自己」 は現実にはどこにも存在しないし、そのような状態では人間はいかなる社会がいいかを判断できない、と言うのです。おそらくこの無知のヴェールという想定を受け入れられるか否かが、ロールズ理論への踏み絵の役割を果たすと言ってもよいでしょう。そもそも正義感覚や正義の理念への感受性を持ち合わせていないと、そのような想定を受け入れることができず、そこから先の理論展開にもついていけなくなってしまうのです。

Ⅲ.正義の二原理

 それでは、上述のような原初状態において、いったい人々はどのようなルールを選ぶとロールズは考えるのでしょうか。ゲーム理論を用いながら彼は、合理的な判断を下せる者ならば不確実な選択状況においては、危険回避を重視し、最悪な事態を最大限改善できるような原理を選択するはずだと言います。そこでまず、「平等な自由の原理」(第一原理) が選ばれます。各自は自分がどのような条件下で生まれてくるにせよ、基本的な自由を平等に認められ、他人の自由を侵害しないという義務を遵守する限り、自らの自由を行使する権利が保障されることを望むはずです。例えば、自分がどの人種に属するかわからないとしたら、特定の人種だけが自由を享受し、他の人種は自由を奪われているような社会を選択するのは危険な賭けとなってしまいます。それよりも自由が平等に認められている社会を選んでおく方が安全でしょう。
 しかし、そのような自由が認められていたとしても、たまたま不遇な境遇に生まれついてしまうということもあるでしょうし、あるいは自由を行使していった結果残念ながら予期せぬ不遇な状態に陥ってしまうということもあるでしょう。自分がどうなるかわからないとしたら、そのような事態を改善できる方途を残しておくのが理性的な判断というものです。そこで 「公正な機会均等原理」 と 「格差原理」(2つ合わせて第二原理) が選ばれます。自由な競争が行われた結果として、社会的・経済的な不平等が生じるとしても、その不平等は才能や資産や家柄などによって固定化されたものであってはならず、あくまでも公正で均等な機会を与えられており誰でもアクセス可能なものでなければならない。しかも公正で均等な機会によって有利な立場に立った者には、最も不利な立場にある者の状況を積極的に改善することが求められる。無知のヴェールの下では、危機回避のためにこのような救済策が選択されるはずだ、と言うのです。
 これらの原理の間には優先順位が存在します。平等な自由の原理→公正な機会均等原理→格差原理という順です。このように優先順位がはっきりしていることによって、それぞれの要求が齟齬を来したときに、判断停止に陥らずにすむのです。
 こうした二原理を自由で平等な人々が相互に承認しあうところに、公正としての正義が実現されます。ロールズによれば、正義の二原理は経済体制の区別 (資本主義か社会主義か) に関係なく成立しえます。この二原理に基づいて、いずれの社会体制をも構築することが可能だと言うのです。もともと20世紀の福祉重視型自由主義は、社会主義との対抗関係の中で、社会 (福祉) 主義的施策を積極的に取り入れることによって成立してきたものですので (例えば、戦後の日本は世界中で最も完成された社会主義国家だという評などもあった)、ロールズの言明はある程度説得力をもつと言えるでしょう。『正義論』 以後、福祉重視型リベラリズムに対抗する形で、福祉を切り捨てた古典的リベラリズム (最小国家、夜警国家) への回帰を唱えるリバータリアニズム (自由至上主義) が台頭してきます。つまりロールズの格差原理を拒絶して、完全な自由競争に委ねることが正義に適った処置なのであると主張されるわけで、この主張は肥大化した政府に苦しんでいたイギリス・サッチャー政権や、アメリカ・レーガン共和党政権に採択され、ほぼ20年遅れで日本の小泉政権にも移植されることになりました。サッチャー政権やレーガン政権が当時の時代状況の中である程度の成功を収めることができたのに比して、日本の構造改革はその弊害ばかりが目について何か前進があったのか一向に見えてきませんが、私たちはロールズの正義の二原理をたんなる思想家の御託宣として受け流すのではなく、私たちが暮らす社会をどのような社会として構築していきたいのか、いくべきなのかに関するきわめて実践的な問題提起として受け止めて、これから先、福祉をどうしていくべきか、社会の一員として真剣に討議に加わっていく必要があるでしょう。

Ⅳ.アメリカの良心

 『正義論』 は当時のアメリカの政策 (特に積極的格差是正措置などの民主党的政策) を倫理学的に基礎づけたものであったと言えるでしょう。『正義論』 の後半では市民的不服従の正当化も試みるなど、ロールズは、近年に見られる強引な共和党的 「正義」 とは異なる、別のアメリカ的正義の構築に一役買ってきたと言うことができるでしょう。では、そうした彼の理論はアメリカという社会を離れては通用せず、結局自国中心主義を免れていないようなものなのでしょうか。
 最近ロールズは、自らの正義論によって、たんに一社会におけるのではなく、国際社会における正義を基礎づけようとして、「諸民衆の法」 というものを提起しています。具体的には7つの正義原理を挙げていますが、その中には諸民衆の自由と平等を保障せよとの原理などと並んで、諸民衆は自衛の権利を有するとはいえ戦争への権利は一切もっていないこと、自衛のためやむなく始めた戦争であったとしても何をしてもよいというわけではなく、戦争遂行にあたっては一連の規則に従わなければならないことなどが定められています。この議論が歴史問題に適用されて、太平洋戦争中にアメリカが日本に原爆や焼夷弾を投下した問題が取り上げられ、あれは 「すさまじい悪行」 であって、政治家はそうした悪を避けるべきであったし、ほとんど犠牲を払わずとも回避可能だったはずであると断罪しています。
 ロールズの正義論に欧米中心主義を認めるのはたやすいことですが、しかしそこに狭隘な利己主義を脱却しうるようなヒューマニズムや普遍主義を読み取ることも可能でしょう。それぞれの国家や民族や民衆が、それぞれの立場や伝統や思想信条に拠って立ちつつも、いったんそれらをカッコに括って、互いに共存していくための共通の基盤・ルールに関して互いに歩み寄り何とか合意形成していくことはできないのか、現代はまさにそうした原理が切実に求められている時代のように感じられます。ロールズが提示したのは、それに向けた一つの (アメリカ的な) 提案にすぎませんが、しかしきわめて良心的な提案であったと言うことができるでしょう。


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