まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

告知しますかしませんか?

2009-11-28 18:32:18 | 生老病死の倫理学
父が食道ガンだとわかったとき、その診断を聞いたのはうちの母ひとりでした。
そのとき担当医に 「告知しますかしませんか?」 と聞かれ、
母は、父がその事実を受け止めきれないだろうと判断し、
その場で告知しないという決断を下したのでした。
私たち兄弟はそのことを決定事項として伝えられました。
それぞれ思うところはあったようですが、
一番長くいっしょにいる母の決断だからということでそれを受け入れました。

その後父は、食道の摘出手術をしたあと、抗ガン剤による治療を受け、
入退院を繰り返したあと、けっきょく肺に転移して、3年ほどの闘病生活ののち亡くなりました。
その間ずっと、父は自分がガンであることを知らされないままでした。
抗ガン剤治療も行っているわけですから、髪の毛も抜けていきますし、
自分でもガンではないかと疑っていて、
何度も私たちに 「オレはガンじゃないのか」 と聞いてきましたが、
その度に私たちはうまく言い逃れて最期までガンであることを隠し続けました。

その経験から私が学んだのは次のことです。
そもそも最初に医師から 「告知しますかしませんか」 と聞かれたわけですが、
「告知する」 の反対語は 「告知しない」 ではないのではないかということでした。
「告知しない」 というとなにか、何もしなくていいように聞こえますが、
けっしてそんなことはありません。
本人は何らかの症状があって病院に行ったのですから、
その症状に対して何かしら原因を告げてあげなくてはなりませんし、
手術その他の治療についても、
何のためのどういう治療なのかを説明してあげなければなりません。
ガンであることを告知しないということは、
それらひとつひとつに関してウソをつかなければならないのです。
したがって、「告知する」 の反対語はたんに 「告知しない」 ではなく、
実態は 「ウソをつく」 であるということになるでしょう。

いや、それだけではまだ十分ではありません。
「ウソをつく」 というと一度かぎりウソをつけばいいように聞こえます。
しかし、ガンの闘病生活は何年もかかります。
その間、病状はどんどん変化し、また別の手術をしたりさまざまな治療をしなくてはなりません。
その度にまた新たにウソをつかなければならないのです。
それに入院していると、たくさんの方々がお見舞いに来てくれます。
それほど近しい人でなければ問題ないですが、
けっこう親しい人には事実を告げた上で、ウソに協力してもらわなければなりません。
もちろん医療関係者もどんどん担当者が変わっていきますから、
そのつど全員を巻き込んでウソに加担してもらう必要があります。
そのなかで少しでもミスがあって本人にウソがバレてしまったら、
本人の落ち込みと、まわりの者に対する不信感は計り知れないものになるでしょう。
だからウソをつくのであれば、絶対にバレないようにウソをつき続けなければならないのです。
つまり、「告知する」 の反対語はたんに 「ウソをつく」 でもなく、
「関係者全員で最期まで絶対にバレないようにウソをつき続けること」 だと言うべきでしょう。

だからただちに、告知しないのは悪いことだと言いたいわけではありません。
ただ、家族に選択を迫るときに、「告知しますかしませんか」 ではなく、
「告知しない」 ということが実際にはどういうことであるかを、
きちんと家族に説明してほしいと思うのです。
告知したときにそのあとどんな大変なことが待っているかはだいたい想像つきます。
しかし、告知しないというのがどれほど大変なことかは、
実際に体験してみないことにはよくわからないものです。
「告知しない」 とは、
「関係者全員で最期まで絶対にバレないようにウソをつき続けること」 であるということを、
ちゃんとわかったうえで、覚悟の上でそれを選択するということはありえるでしょう。
逆に言うと、「告知しない」 というのは相当の覚悟がないとやりきれない、
難しく厳しい選択肢なのです。
そういうことをわかっておいたうえで、
万一の場合にどうするか、家族で判断する必要があると思います。
できればみんなが元気なうちに
こういうことをお互いに話し合っておくほうがいいでしょう。

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