まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.倫理学者は倫理的な人ばかりですか?

2008-10-08 21:14:55 | 哲学・倫理学ファック
この質問をもっと専門的な感じで、
「Q.倫理学者は、規範、原理、規則を重んじるのだろうか?」
と質問してくれた人もいました。
この人はたぶん倫理か倫理学を勉強したことあるんでしょうね。
なかなかいい質問ですが、答えるのはとても難しいです。
この質問には3段階くらいで答えなければなりません。

まず第1段階。
前回のブログで、
「倫理学とは、人間の生き方や人々のあいだのルールについて問い直す学問です」
とお答えしました。
つまり倫理について問いを発し疑問をぶつけるのが倫理学です。
だから、「倫理学者」は既存の倫理を疑ってかかるような人でなければなれません。
それに対して「倫理的な人」というのは一般的に言って、
既存の倫理を信じてそれを実行している人なわけです。
ということは倫理学者は倫理的ではありえないし、
倫理的な人は倫理学者にはならない、ということになるでしょう。
したがって、

A-1.倫理学者は倫理を疑ってかかる人なので倫理的ではありません。

というのが第1段階の答えです。
このことはたいがいの学者に当てはまります。
経済学者はみんな金持ちかというとそんなことはありませんし、
教育学者はみんな授業がうまくて教育熱心かというと決してそうとは限りません。
学問というのはそもそもそういう性質をもっているのです。
だから倫理学者がぜんぜん倫理的でなくたってまったく驚くには当たらないのです。

次に第2段階。
上記の第1段階では「既存の倫理を疑ってかかる」という言い方をしました。
どんな集団にも倫理は生じてきてしまうのだけれども、
集団によってそれぞれいろいろな倫理ができあがってしまうし、
その倫理も時代によってどんどん変わっていってしまう。
ある時代のある国に生まれたからといって、そこに生きている人はみんな、
その時代のその国で通用している「既存の倫理」を必ず守らなければならないのか、
むしろ広い目で見たらその倫理自体が間違っているということもあるのではないか。
「既存の倫理」への懐疑というのはそういったあたりから出発します。

そして、多くの倫理学者はそのような懐疑から出発して、
では国や時代という制限に縛られずに普遍的に考えて、
いつの時代にもどんな国でも必ず通用するような倫理というものが、
何かあるのではないだろうか、というふうに考えを進めていきます。
つまり、既存の倫理は疑うけれど、それで終わりにならずに、
本当の普遍的な倫理を追い求めていくわけです。
自然法思想とかカントの定言命法というのは、そういうタイプの倫理思想になります。
この場合は「既存の倫理」のレベルでいうならば、
それに素直に従うわけではないので「倫理的でない」ということになりますが、
「本物の倫理」のレベルから見るならば、
人類は皆それに従うべきであると主張し、自らも率先してそれに従うのですから、
「きわめて倫理的である」ということになるでしょう。
つまり、第2段階の答えはこうです。

A-2.倫理学者は本物の倫理に関しては真の意味で倫理的である。

カントはまさにそういう人でした。
彼が生きていた18世紀のプロイセン王国(今のドイツ)では、
国民は国家(国王)に黙って従い、国政に口出ししないことがよいこととされていました。
しかしカントは、国民が宗教のことや国政に対して自由に物を言い、
みんなで少しずつ誤りを正していくのが人間本来の正しいあり方であり、
人はいつの時代でもどんな国にあってもそのように振る舞うべきだと信じており、
そしてそのとおりに実践したのです。
厳しい検閲制度が布かれているプロイセン王国の中で、
当時の宗教を批判し、国家のあり方を批判しました。
それによってプロイセン国王から直接に叱責を受け言論の自由を奪われてしまいました。
しかしそれでもなおカントは批判し続けたのです。
つまりカントは、当時のプロイセン国家から見たら「倫理的でない人」だったわけですが、
人類的な観点からするなら「真の意味で倫理的な人」だったと言えるでしょう。

さて、これで終われるといいのですが、そうはいきません。
最後に第3段階。
誰かが、既存の倫理は間違っていて、これこそが本物の倫理である、と主張したとき、
みんながそれを信じられれば話は簡単なんですが、
そこでも再び倫理学の問いが浮かび上がってきます。
あの人はこれが本物の倫理だと言ったけれど、本当にそれが本物の倫理なんだろうか?
つまり「本物の倫理」と呼ばれたものに対しても再び、
それが本当に本物の倫理なのか、という疑問を投げつけることが可能なのです。
けっきょくそうしたものも時代の中で生まれてきたものにすぎないし、
もっと別の倫理のほうが本来あるべき倫理なのかもしれません。
さらに言えば、本来あるべき本物の倫理なんてものは
そもそも存在しないのかもしれません。
こう考えていくと、倫理への問いは永遠に続いていくことになるのです。
倫理学者の中で最近流行りの問いは、
「なぜ倫理的でなければならないのか?」
「(どんな倫理であれ)なぜ倫理に従わなければならないのか?」
という問いです。
これに対して多くの倫理学者は何かしら「なぜ?」に答えてくれますが、
中には、そもそも倫理に従わなければならない理由なんて何もない、と答える人もいます。
倫理学の問いというのはこれほどに過激なのです。
「倫理的な人」であるためにはどこかのレベルで問うのはやめて、
倫理に従わなければならないでしょうが、
倫理学の問いはどこまでいっても決して立ち止まることを許さないのです。
したがって第3段階の答えはこういうことになるでしょう。

A-3.倫理学者はいつまでたっても決して倫理的にはなりえない。

ちなみに私はカント派なので第2段階レベルの倫理学者をめざしていますが、
でもカントはけっこう怪しいこともいろいろ言っていて、
そうするとどうしても新たな問いが湧き上がってきてしまうので、
第2段階に留まるのはなかなか難しいですね。
たいへん厳しい質問をどうもありがとうございました。
今回は確信犯的に長ったらしい答えにしてみましたが、
みんな、最後までついてこられましたか?
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