まさおさまの 何でも倫理学

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教育におけるパターナリズム

2009-08-08 12:11:04 | 教育のエチカ
教師という仕事につきものの危険性(その3)は、
過剰なパターナリズム、歪んだパターナリズムです。
しかしその話をする前にパターナリズムとは何かを説明しておかなければなりません。
パターナリズムとは、
「専門家が素人の利益を考慮して、素人が何をするべきかを決めてあげること」です。
「父権主義」とか「温情主義」と訳されたりしますが、
ラテン語の父親 pater という言葉が語源で、親が子どものためを思って
子どもの行動に口出しすることをイメージしてもらえればいいと思います。
したがって親子関係はまさにパターナリズムの関係になるわけですが、
それ以外でも、経験や知識の差があるところ(つまり専門家と素人との関係)では、
パターナリズムが生じやすくなります。
医療者と患者、政治家(国家)と国民など。
そして、教師と生徒の間でももちろんパターナリズムの関係ができあがります。

パターナリズムのすべてが悪いというわけではありません。
強いパターナリズムと弱いパターナリズムという分け方があるようで、
ウィキペディアから引用すると、
「強い(硬い hard )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、
 自己決定能力があっても介入・干渉がおこなわれる場合をいう。
 他方、弱い(柔らかい soft )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、
 自己決定能力がなくて介入・干渉がおこなわれる場合をいう。」
ということだそうです。
一般的に言って、大人への干渉を行う強いパターナリズムは問題視されることが多く、
逆に十分に成長していない子どもへの干渉を行う弱いパターナリズムは
必要不可欠なものとみなされることが多いようです。
とはいえ、強いパターナリズムも場合によっては必要とされることがあり、
シートベルト着用義務や麻薬・覚醒剤使用禁止義務などは強いパターナリズムですが、
一般に支持されています。
教師と生徒の間のパターナリズムは弱いパターナリズムですので、
そこで干渉や介入が行われることは当然のことと受け止められています。
というよりも教育というのがそもそもパターナリスティックな営みであると言えるでしょう。

しかし、ではだからといって教育におけるパターナリズムがすべて許されるのでしょうか。
子どもにだって自由や権利はあります。
朝から晩まですべての行動に規制をかけられ、自由を抑圧されたら、
健全に育っていくことができないでしょう。
教育の目的は、自分で判断し自己決定できるような大人へと育成していくことです。
ですから、自分で判断したり決定することを許さずにパターナリズムで押し通していたら、
教育目的はいつまでも果たされないわけです。
したがって、子どもの成長に合わせて、
少しずつパターナリズムの度合いを下げていく必要があります。
大学生になってもまだ学生の私生活を校則で縛ったり、
進路を教授が決めてあげたりしているようでは、
教育は失敗だったと言わざるをえないでしょう。

弱いパターナリズムはたしかに必要とされる場合もあるのですが、
しかしそれは基本的に自由の抑圧なわけですから、
パターナリズムを行使する場合には常に細心の注意を払い、
パターナリズムが過剰になってしまわないよう気をつけなくてはなりません。
ましてや、パターナリズムは歪んでしまう場合が往々にしてありますので、
教師の側はそのことを自覚した上で、自らを律していく必要があります。
その点に関しては「教職につきものの危険性(その3)」として論じることにしましょう。
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