まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.先生はなぜ脳死の話が好きなんですか?

2010-11-25 22:31:07 | 生老病死の倫理学
私は脳死の話が好きです。
福島大学でも看護学校でもよく話しています。
なぜ私は脳死の話が好きなんでしょうか?
脳死・臓器移植の問題って、倫理学者ほどよく語ります。
しかも、倫理学者ほど立場的に頑な (かたくな) です。
まあ、どっちでもいいじゃんとはなりません。
一般的に言って、倫理学者で脳死・臓器移植に強硬に反対している人って多いです。
加藤先生も強硬に反対していました。
私自身はこの問題に最初に触れたのが、立花隆の 『脳死』 という本からだったためか、
そこまで強硬反対派ではありません。
どちらかといえば、厳格に脳死判定をしてくれるならば、
臓器移植に関しては個人の自由を認めてもいいのではないかという賛成の立場です。
でも、強硬反対派の人たちの考え方もわからないではありません。
まあそういう意味で、脳死・臓器移植の問題って倫理学のいろいろな論点や立場を、
ざっくりと受け入れているところがあるので、私にとって面白いのかもしれません。

例えば、なにをもって死とするかって自明なようで全然自明ではありません。
心停止、呼吸停止、瞳孔散大という現在の一般的な医学的死 (心臓死) だって、
よく考えたら、なぜそれが死と言えるのかはっきりとはわかりません。
例えば私は、回復不可能性と内部意識の不可逆的消滅をもって死と考えていますが、
一般的にはそこまで厳密に死を捉えている人は少ないでしょう。
そもそも死の問題ってそれくらい曖昧な問題だったはずなのですが、
20世紀の後半になって、脳死という概念が登場してきて以来、
いろんな意味で生と死の連続性が強調されるようになってきました。
そういう、脳死の人は生きているのか死んでいるのかみたいな、
現代という時代に固有の問題は、とりあえず私たちが考えていけばいいのでしょう。
ただしこれはなかなか意見が一致しうるような問題ではありません。
そういう問題というのは哲学・倫理学の例題としてはとても優れているように思います。

しかも、脳死・臓器移植の問題というのはみんなからとても遠くのようでいて、
けっこう身近な問題でもあります。
みなさん自身やみなさんのご家族がそういう過渡期にさしかかっているというのも事実です。
こんなふうに、単純に答えが決まっているわけではない問題を考えてみるのは、
とても大事なことだと思うのです。
特に今年臓器移植法が改定されたというのは画期的だったと思います。
というわけで、とても現代的で、答えが決まっているわけでなく、
賛成、反対それぞれの立場からものすごーくたくさんの意見が出されうる問題というのは、
扱っていてとてもエキサイティングだと思うのです。
こんな問題をもしもクールにサクッと解決できたら、それはもう天にも上る幸せだろうと思います。
というふうに考えているので、私は脳死問題が好きなのかもしれません。
皆さんもぜひたくさんこの問題について考えてみてほしいと思います。
コメント (4)
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