このところオリンピック選手の 「服装の乱れ」 が連日報道されています。
哲学的・倫理学的に言うと、今のマスコミの論調はまったく的外れなのですが、
最近のご多分に漏れず、マスコミはこの問題に関しどんどんヒートアップしているようです。
まさおさまとしてはひとことコメントしておく必要があるでしょう。
カントは 『判断力批判』 の中で次のように言っています。
「美とは主観的な普遍妥当性要求である」
これは、美についての非常に鋭い定義だと思います。
わかりやすく説明すると、
美について客観的な基準があるわけではないので、
どんな時代だろうと、どんな国や地方だろうと関係なく、
これを満たしていればゼッタイに 「美しい」 と言えるような条件などがあるわけではありません、
その意味で 「美しい」 という判断は主観的な判断でしかありえないのですが、
しかし人は何かを 「美しい」 と言うとき、
私だけではなく他の人もそれを 「美しい」 と思うはずだ、
いや、思わなければならない、と考えており、
「○○は美しい」 という判断がみんなに当てはまる (=普遍的に妥当する)
ということを要求しながら、「美しい」 と判断しているのである、
とカントは言うのです。
ちょっと小難しい話ですが、私は自分の経験に照らして、
カントのこの話にとても納得することができました。
今の若い皆さんにはまったく想像もつかないかもしれませんが、
今から30年以上前、私が高校生の頃には、
学ランに白い靴下を履くというのが流行りました。
この流行り方は異常なほどで、
オシャレに敏感な子はほとんどみんな白靴下でした。
当時は校則で靴下は黒か紺と決められており、
先生たちは朝校門に立って、靴下チェックとかをしていましたが、
私たちは学校が近づくと履き替えたりなどして、
なんとかチェックをかいくぐりできるかぎり長い時間、白靴下を履こうと努力していました。
たぶんおわかりの通り、学ランに白靴下って普通に考えてヘンです。
合いません。
黒いズボン、黒い革靴のあいだに白い靴下が見えていると、
異様に目立ち、全体の調和を損ねます。
ということを、今の私は冷静に判断することができるのですが、
当時はそういうふうに考えることも感じることもできませんでした。
とにかく白靴下がカッコよく (=美しく) 思えたのです。
そして、黒靴下や紺靴下は果てしなくカッコ悪く (=醜く) 思えたのです。
だから、先生や世の大人たちが黒や紺の靴下を履いているのも許せなく思っていました。
まさしく 「主観的な普遍妥当性要求」 です。
私は20代のある時期に 「白靴下=美しい」 という呪縛から解放されました。
これも、なぜその呪縛が解けたのかはまったく謎です。
とにかくある日突然、白靴下はカッコ悪いと思う (感じる) ようになったのです。
しかし私と同世代の人たちで相変わらずその呪縛から抜け出ていない人が存在します。
その人たちは大人になってスーツを着るようになっても、
あいかわらず白靴下を履き続けています。
しかもこれ見よがしに履いています。
彼らにそれはおかしいといくら指摘してもムダです。
彼らはそれを 「カッコいい (美しい)」 と思っているからです。
ここが大事なポイントなのですが、
白靴下は別に、大人に対する反抗や既存の規範に対する抵抗を表現するものではありませんでした。
正しい服装のあり方を知った上で、それをわざと乱していたのではないのです。
もしもそうなら大人になってからもそれを続ける必要はありません。
あくまでもそれが 「カッコいい (美しい)」 からそうしていただけなのです。
したがって大人から見れば 「服装の乱れ」 に見えたかもしれませんが、
(彼らの美的センスに反していますので、彼らがそう判断するのはしかたありませんが)
高校生にとっては何も乱れてはいなかったし、
むしろ大人のほうが服装が乱れているように見えていたのです。
つまり、美意識のちがいにすぎないのであって、
どちらが正しい、どちらが間違っているというような問題ではないのです。
当時の女子たちがカカトまであるような長いスカートを履いていたのも、
たぶん同じ心理だったのだろうと思います。
その後いろいろな着こなしの流行が出現しましたが、それも同様でしょう。
今回問題になったうちのひとつ、シャツをズボンの外に出す、というのは、
私の学生時代からあったような気がしますが、
私が福島大学に赴任した頃にはこの呪縛が相当強くなっていたように思います。
私はその日のファッションによって、シャツを出したり出さなかったりしていましたが、
ある日、シャツをズボンの中に入れてエレベーターに乗っていたところ、
知り合いの学生から、「シャツは外に出さなきゃダメですよ」 と注意されました。
「おお、まさに主観的な普遍妥当性要求だあ」 と思い、
ここまで来たら、そのうち大人になってスーツを着ても、
シャツを出さずにいられない人たちが出現するだろうなあと予想していたら、
案の定その通りになりました。
ネクタイを弛めるのなんてもはやおおかたの大人もやっていますし、
スーツのズボンをパンツが見えるくらいずり下げて歩く大人が出現するのも、
そう遠くないことだろうと思っています。
そういう人たちに向かって、本来スーツはこう着こなすべきだと教えてあげるのはかまわないし、
必要なことだと思いますが、それはたんなる助言や提案でしかありえず、
しかもそう言われたからといって、その人はそれを改めることはできないでしょう。
本人が、このカッコはヘンだということに目覚めない限り、
自分が 「カッコいい (=美しい)」 と信じている着こなしを続けるしかないのです。
したがって、それを 「服装の乱れ」 だと言って道徳的に非難するのはバカげたことです。
ましてや、そのことに関して本人に反省を求めるなど愚の骨頂でしょう。
本人はなぜ非難されているのか、何を反省したらいいのかわからないはずです。
どうしても非難したいのであれば、
オリンピック選手は移動の際は制服であるスーツを定められたとおりに着こなさねばならない、
といったルール (校則) をあらかじめ決めておき、
そのルールを承認した者のみを代表選手に選考し、
それでもなおそのルールに反した者がいた場合に、
ルールを守らなかったということに関してのみ非難するというふうにするしかないでしょう。
今回はそういうルールがあらかじめ定められていたわけではないので、
これをやるとしたら次回のオリンピックからしか適用できませんし、
私は倫理学者としてそのようなバカげたルールの制定には断固として反対していきたいと思います。
哲学的・倫理学的に言うと、今のマスコミの論調はまったく的外れなのですが、
最近のご多分に漏れず、マスコミはこの問題に関しどんどんヒートアップしているようです。
まさおさまとしてはひとことコメントしておく必要があるでしょう。
カントは 『判断力批判』 の中で次のように言っています。
「美とは主観的な普遍妥当性要求である」
これは、美についての非常に鋭い定義だと思います。
わかりやすく説明すると、
美について客観的な基準があるわけではないので、
どんな時代だろうと、どんな国や地方だろうと関係なく、
これを満たしていればゼッタイに 「美しい」 と言えるような条件などがあるわけではありません、
その意味で 「美しい」 という判断は主観的な判断でしかありえないのですが、
しかし人は何かを 「美しい」 と言うとき、
私だけではなく他の人もそれを 「美しい」 と思うはずだ、
いや、思わなければならない、と考えており、
「○○は美しい」 という判断がみんなに当てはまる (=普遍的に妥当する)
ということを要求しながら、「美しい」 と判断しているのである、
とカントは言うのです。
ちょっと小難しい話ですが、私は自分の経験に照らして、
カントのこの話にとても納得することができました。
今の若い皆さんにはまったく想像もつかないかもしれませんが、
今から30年以上前、私が高校生の頃には、
学ランに白い靴下を履くというのが流行りました。
この流行り方は異常なほどで、
オシャレに敏感な子はほとんどみんな白靴下でした。
当時は校則で靴下は黒か紺と決められており、
先生たちは朝校門に立って、靴下チェックとかをしていましたが、
私たちは学校が近づくと履き替えたりなどして、
なんとかチェックをかいくぐりできるかぎり長い時間、白靴下を履こうと努力していました。
たぶんおわかりの通り、学ランに白靴下って普通に考えてヘンです。
合いません。
黒いズボン、黒い革靴のあいだに白い靴下が見えていると、
異様に目立ち、全体の調和を損ねます。
ということを、今の私は冷静に判断することができるのですが、
当時はそういうふうに考えることも感じることもできませんでした。
とにかく白靴下がカッコよく (=美しく) 思えたのです。
そして、黒靴下や紺靴下は果てしなくカッコ悪く (=醜く) 思えたのです。
だから、先生や世の大人たちが黒や紺の靴下を履いているのも許せなく思っていました。
まさしく 「主観的な普遍妥当性要求」 です。
私は20代のある時期に 「白靴下=美しい」 という呪縛から解放されました。
これも、なぜその呪縛が解けたのかはまったく謎です。
とにかくある日突然、白靴下はカッコ悪いと思う (感じる) ようになったのです。
しかし私と同世代の人たちで相変わらずその呪縛から抜け出ていない人が存在します。
その人たちは大人になってスーツを着るようになっても、
あいかわらず白靴下を履き続けています。
しかもこれ見よがしに履いています。
彼らにそれはおかしいといくら指摘してもムダです。
彼らはそれを 「カッコいい (美しい)」 と思っているからです。
ここが大事なポイントなのですが、
白靴下は別に、大人に対する反抗や既存の規範に対する抵抗を表現するものではありませんでした。
正しい服装のあり方を知った上で、それをわざと乱していたのではないのです。
もしもそうなら大人になってからもそれを続ける必要はありません。
あくまでもそれが 「カッコいい (美しい)」 からそうしていただけなのです。
したがって大人から見れば 「服装の乱れ」 に見えたかもしれませんが、
(彼らの美的センスに反していますので、彼らがそう判断するのはしかたありませんが)
高校生にとっては何も乱れてはいなかったし、
むしろ大人のほうが服装が乱れているように見えていたのです。
つまり、美意識のちがいにすぎないのであって、
どちらが正しい、どちらが間違っているというような問題ではないのです。
当時の女子たちがカカトまであるような長いスカートを履いていたのも、
たぶん同じ心理だったのだろうと思います。
その後いろいろな着こなしの流行が出現しましたが、それも同様でしょう。
今回問題になったうちのひとつ、シャツをズボンの外に出す、というのは、
私の学生時代からあったような気がしますが、
私が福島大学に赴任した頃にはこの呪縛が相当強くなっていたように思います。
私はその日のファッションによって、シャツを出したり出さなかったりしていましたが、
ある日、シャツをズボンの中に入れてエレベーターに乗っていたところ、
知り合いの学生から、「シャツは外に出さなきゃダメですよ」 と注意されました。
「おお、まさに主観的な普遍妥当性要求だあ」 と思い、
ここまで来たら、そのうち大人になってスーツを着ても、
シャツを出さずにいられない人たちが出現するだろうなあと予想していたら、
案の定その通りになりました。
ネクタイを弛めるのなんてもはやおおかたの大人もやっていますし、
スーツのズボンをパンツが見えるくらいずり下げて歩く大人が出現するのも、
そう遠くないことだろうと思っています。
そういう人たちに向かって、本来スーツはこう着こなすべきだと教えてあげるのはかまわないし、
必要なことだと思いますが、それはたんなる助言や提案でしかありえず、
しかもそう言われたからといって、その人はそれを改めることはできないでしょう。
本人が、このカッコはヘンだということに目覚めない限り、
自分が 「カッコいい (=美しい)」 と信じている着こなしを続けるしかないのです。
したがって、それを 「服装の乱れ」 だと言って道徳的に非難するのはバカげたことです。
ましてや、そのことに関して本人に反省を求めるなど愚の骨頂でしょう。
本人はなぜ非難されているのか、何を反省したらいいのかわからないはずです。
どうしても非難したいのであれば、
オリンピック選手は移動の際は制服であるスーツを定められたとおりに着こなさねばならない、
といったルール (校則) をあらかじめ決めておき、
そのルールを承認した者のみを代表選手に選考し、
それでもなおそのルールに反した者がいた場合に、
ルールを守らなかったということに関してのみ非難するというふうにするしかないでしょう。
今回はそういうルールがあらかじめ定められていたわけではないので、
これをやるとしたら次回のオリンピックからしか適用できませんし、
私は倫理学者としてそのようなバカげたルールの制定には断固として反対していきたいと思います。