先日、日本人の死体観についてお話ししましたが、
これはもう、それぞれの死生観やら宗教観やら科学観によってさまざまでしかありえないので、
議論をすることは必要だと思いますが、
いくら議論を尽くしたとしても、統一的見解に達することはないでしょう。
だとすると、臓器提供に関しても、
日本人は全員死んだら臓器を提供しなければならないとか、
逆に、誰もけっして臓器提供を行ってはならない、
などと統一的に決定することは不可能だろうと思います。
それゆえ臓器提供に関しては、それぞれの死体観にしたがって、
したい人はし、したくない人はしない、というふうに各自が決定するしかないと思います。
つまり臓器提供に関しては、個人の自由、自発性に任せるしかないのです。
今日はとりあえず死体からの臓器提供にのみ論じています。
生きているうちに臓器提供をしていいかどうかというのは別に論じなくてはなりません。
(これについてはそのうち書きます)
とりあえず、死後の臓器提供に関しては個人の自発性に任せるしかない、
というところまではおそらく日本人全員が合意できるのではないかと思っております。
しかしながら、そのような臓器提供の自発性という問題と、
脳死は人の死か否かという問題とは厳密に区別されるべき問題のはずです。
死んだら臓器を提供するかどうか、という話は1人1人が決めればいい問題ですが、
果たして死んだのかどうか、という問題は個人が自由に判断していい問題ではないはずです。
その昔、ライフスペースという団体が、
ホテルの一室にミイラ化した遺体 (と普通の人なら判断するような人の身体) を放置していて、
「まだ生きています。定説です。」
などと言っていたことがありました。
たぶん彼らの宗教体系の中では、生きていると判断されるのかもしれませんが、
ここまでの思想・信仰の自由を認めてしまうと、
人を殺したか殺していないか、というレベルの事実判断ができないことになり、
社会は大混乱に陥ってしまうでしょう。
したがって、それぞれの死生観は認めつつも、
生きているか死んでいるかに関しては、
やはりひとつの共同体として統一的に定めておく必要があります。
現行の臓器移植法は、この点を曖昧にしていたという点で、
世紀の大悪法であったと言えるでしょう。
つまり、臓器提供の意思があるかないかというヴォランタリーな問題と、
生きているか死んでいるかという医学的に客観的であるべき問題とをいっしょくたにしてしまい、
ドナーカードによって臓器提供の意思を表示している人に関してのみ脳死判定を行い、
その判定によって脳死と判定された場合にのみ、その人は死人であるとされていたのです。
昨年衆参両院で可決された、いわゆる臓器移植法改正A案は、
この問題を抜本的に解消し、
脳死は一律に人の死であると決めました。
はたしてその決定が、日本国民の総意を反映しているかどうか疑わしい気もしますが、
少なくとも現行法の大問題を解消したという点では評価できると思います。
しかしながら、脳死を人の死として決めたのはいいとして (そこに反対することも可能ですが)、
では脳死になった場合に、臓器を提供するか否かは、
最初に述べたように、やはり個人の自発的な意思に委ねられるしかないはずです。
臓器提供が不足しているからとか、
日本人の国外での脳死臓器移植に対して、
諸外国から批判が集まっているからということとは関係なく、
脳死になった人が臓器を提供するか否かは、その人本人が決めていい問題でしょう。
本人の決定権を奪い、家族 (=遺族) のみが決められるようにするというA案は、
先に述べた日本人の特殊な死体観とは、相容れないように私は思うのです。
特に臓器移植法が施行されて10年以上経つにもかかわらず、
脳死に関しても臓器移植に関しても、理解や議論がまったく深まっていない日本においては、
たまたま脳死者を出してしまった家族が、本人の意向も知らないまま、
ほんの短い時間で臓器提供するかしないかを決断できるほど、
国民がこの問題に関して習熟しているとはとても思えないのです。
日本人は特殊な死体観を抱いている人が多いということを前提にした上で、
制度設計する必要があるだろうと思います。
とはいえ、A案が施行され、その問題点が明らかになってまた改正されるまで、
相当な時間がかかるだろうと思いますので、
私たち国民としては、ふだんから家族のあいだで脳死臓器移植の問題について話し合い、
万一の時にお互いにどうしたいかを伝え合っておく必要があるでしょう。
家族の誰かが急に脳死になってしまったら、それだけで動転して、
臓器提供するかしないかなんてことまでその場で考えられるはずがありません。
本人の意向通りにしてあげられるかどうかは別として、
本人の意思がわかっているといないとでは、
家族の意思決定に際して満足のいく決定ができるかどうかは大いに変わってくるでしょう。
臓器提供はあくまでも、
本人ならびに家族の自発的な意思決定に基づいて行われなくてはなりませんので、
万一のときにそれができるように日頃からみんなで考えておく必要があるでしょう。
これはもう、それぞれの死生観やら宗教観やら科学観によってさまざまでしかありえないので、
議論をすることは必要だと思いますが、
いくら議論を尽くしたとしても、統一的見解に達することはないでしょう。
だとすると、臓器提供に関しても、
日本人は全員死んだら臓器を提供しなければならないとか、
逆に、誰もけっして臓器提供を行ってはならない、
などと統一的に決定することは不可能だろうと思います。
それゆえ臓器提供に関しては、それぞれの死体観にしたがって、
したい人はし、したくない人はしない、というふうに各自が決定するしかないと思います。
つまり臓器提供に関しては、個人の自由、自発性に任せるしかないのです。
今日はとりあえず死体からの臓器提供にのみ論じています。
生きているうちに臓器提供をしていいかどうかというのは別に論じなくてはなりません。
(これについてはそのうち書きます)
とりあえず、死後の臓器提供に関しては個人の自発性に任せるしかない、
というところまではおそらく日本人全員が合意できるのではないかと思っております。
しかしながら、そのような臓器提供の自発性という問題と、
脳死は人の死か否かという問題とは厳密に区別されるべき問題のはずです。
死んだら臓器を提供するかどうか、という話は1人1人が決めればいい問題ですが、
果たして死んだのかどうか、という問題は個人が自由に判断していい問題ではないはずです。
その昔、ライフスペースという団体が、
ホテルの一室にミイラ化した遺体 (と普通の人なら判断するような人の身体) を放置していて、
「まだ生きています。定説です。」
などと言っていたことがありました。
たぶん彼らの宗教体系の中では、生きていると判断されるのかもしれませんが、
ここまでの思想・信仰の自由を認めてしまうと、
人を殺したか殺していないか、というレベルの事実判断ができないことになり、
社会は大混乱に陥ってしまうでしょう。
したがって、それぞれの死生観は認めつつも、
生きているか死んでいるかに関しては、
やはりひとつの共同体として統一的に定めておく必要があります。
現行の臓器移植法は、この点を曖昧にしていたという点で、
世紀の大悪法であったと言えるでしょう。
つまり、臓器提供の意思があるかないかというヴォランタリーな問題と、
生きているか死んでいるかという医学的に客観的であるべき問題とをいっしょくたにしてしまい、
ドナーカードによって臓器提供の意思を表示している人に関してのみ脳死判定を行い、
その判定によって脳死と判定された場合にのみ、その人は死人であるとされていたのです。
昨年衆参両院で可決された、いわゆる臓器移植法改正A案は、
この問題を抜本的に解消し、
脳死は一律に人の死であると決めました。
はたしてその決定が、日本国民の総意を反映しているかどうか疑わしい気もしますが、
少なくとも現行法の大問題を解消したという点では評価できると思います。
しかしながら、脳死を人の死として決めたのはいいとして (そこに反対することも可能ですが)、
では脳死になった場合に、臓器を提供するか否かは、
最初に述べたように、やはり個人の自発的な意思に委ねられるしかないはずです。
臓器提供が不足しているからとか、
日本人の国外での脳死臓器移植に対して、
諸外国から批判が集まっているからということとは関係なく、
脳死になった人が臓器を提供するか否かは、その人本人が決めていい問題でしょう。
本人の決定権を奪い、家族 (=遺族) のみが決められるようにするというA案は、
先に述べた日本人の特殊な死体観とは、相容れないように私は思うのです。
特に臓器移植法が施行されて10年以上経つにもかかわらず、
脳死に関しても臓器移植に関しても、理解や議論がまったく深まっていない日本においては、
たまたま脳死者を出してしまった家族が、本人の意向も知らないまま、
ほんの短い時間で臓器提供するかしないかを決断できるほど、
国民がこの問題に関して習熟しているとはとても思えないのです。
日本人は特殊な死体観を抱いている人が多いということを前提にした上で、
制度設計する必要があるだろうと思います。
とはいえ、A案が施行され、その問題点が明らかになってまた改正されるまで、
相当な時間がかかるだろうと思いますので、
私たち国民としては、ふだんから家族のあいだで脳死臓器移植の問題について話し合い、
万一の時にお互いにどうしたいかを伝え合っておく必要があるでしょう。
家族の誰かが急に脳死になってしまったら、それだけで動転して、
臓器提供するかしないかなんてことまでその場で考えられるはずがありません。
本人の意向通りにしてあげられるかどうかは別として、
本人の意思がわかっているといないとでは、
家族の意思決定に際して満足のいく決定ができるかどうかは大いに変わってくるでしょう。
臓器提供はあくまでも、
本人ならびに家族の自発的な意思決定に基づいて行われなくてはなりませんので、
万一のときにそれができるように日頃からみんなで考えておく必要があるでしょう。