「倫理学概説」 で自由についての講義をしたあとのワークシートでいろいろな質問を頂戴しました。
可能なかぎり順番にお答えしていきたいと思いますが、
まずは次のような質問からお答えしてみましょう。
「制限つきの自由=国家権力からの自由とされたが、イマイチよくわからなかった。
国家権力が制限を加えることで、その範囲内で自由を保持しているのであるから、
国家権力による自由ではないのか?」
これは学生さんによく見られる誤解ですし、
人権を考える場合にこの誤解を解いておくことは最も重要ですので、
この問題から考えていきましょう。
「制限つきの自由」 と言う場合に、自由を制限するのは法やルールであるという感じがします。
実際のところ最終的にはその通りになるのですが、
私は制限つきの自由を説明するときに次のように言い換えました。
「万人の自由と両立するかぎりでの自由」 とか 「他人の自由を侵害しないかぎりでの自由」 と。
つまり、ある人の自由を制限する根本にあるのは法やルールではなく、他の人の自由なのです。
では具体的にどういうふうに他人の自由によって制限されるのか、
どんなことをしてしまうと他人の自由を侵害したことになるのかといったことは、
個々の法律 (実定法) によって規定されることになるので、
最終的にはそうした法律の範囲内での自由ということになります。
しかし重要なのは、それらの法律はあくまでも
万人の自由を両立させるために立法されたものでなければならない、ということです。
というのも、法律は強制力をもっていますから (違反者に対しては暴力的に罰を科することができる)、
いったん法律が制定されてしまうと、人々の自由はその範囲内に制限されてしまいます。
もしもこの法律が国家権力によって恣意的に、
権力者にとってのみ都合のいいように制定されてしまったら、
万人の自由の共存どころか、一方的に国民の自由が損なわれることになってしまいます。
ですから、法律の範囲内でのみ自由が許されるということではなく、
むしろ逆に、万人の自由を共存させるような法律のみが立法されることを許され、
そのような法律のみが自由を制限することができる、という関係になるのです。
歴史的に見ても、国家権力こそが国民の自由を毀損し抑圧してきたということは明らかでしょう。
ですから、万人の自由はまず何よりも国家権力からの自由でなければならないのです。
そのために定められたのが憲法です。
憲法というのは国民の自由 (人権) を国家権力から守るためのものです。
国家権力が勝手に法律を定めて国民の自由 (人権) を奪ってしまわないように、
万人の自由 (人権) を守るための法律や政策だけが行われるよう、
国家権力を制限しているのが憲法なのです。
その憲法の枠内で立法された法律であるからこそ、法は人々の自由を制限することができるのです。
制限つきの自由が、国家権力によって守られる自由ではなく、
国家権力から守られるべき自由である、ということの意味がわかっていただけたでしょうか。
以前にダグラス・ラミスの 『憲法は、政府に対する命令である。』 という本を紹介しましたので、
ぜひそのブログと本も読んでみてください。
国家権力と国民の自由 (人権) と憲法という三者の関係は、
今後の日本政治において重要な争点になってきますので、ぜひ正しく理解しておいてください。
特に18歳から選挙権が与えられた今日、
大学生である皆さんはもちろんのこと、皆さんが教員となってから教える子どもたちにとっても、
何よりも重要で、ヘタしたら彼らの自由 (人権) が根こそぎ奪われることにもなりかねません。
政治のイロハ (例えば立法府と行政府の区別とか) も知らない政治家たちによって、
私たちの人権が、国家権力の定める法律の範囲内での自由に狭められるなんてことになったら、
未来永劫、日本に生まれてくる子々孫々に対して顔向けができなくなってしまうでしょう。
時勢に流されず責任もって正しい知識を伝えられるよう、研鑽を積んでおいてください。
可能なかぎり順番にお答えしていきたいと思いますが、
まずは次のような質問からお答えしてみましょう。
「制限つきの自由=国家権力からの自由とされたが、イマイチよくわからなかった。
国家権力が制限を加えることで、その範囲内で自由を保持しているのであるから、
国家権力による自由ではないのか?」
これは学生さんによく見られる誤解ですし、
人権を考える場合にこの誤解を解いておくことは最も重要ですので、
この問題から考えていきましょう。
「制限つきの自由」 と言う場合に、自由を制限するのは法やルールであるという感じがします。
実際のところ最終的にはその通りになるのですが、
私は制限つきの自由を説明するときに次のように言い換えました。
「万人の自由と両立するかぎりでの自由」 とか 「他人の自由を侵害しないかぎりでの自由」 と。
つまり、ある人の自由を制限する根本にあるのは法やルールではなく、他の人の自由なのです。
では具体的にどういうふうに他人の自由によって制限されるのか、
どんなことをしてしまうと他人の自由を侵害したことになるのかといったことは、
個々の法律 (実定法) によって規定されることになるので、
最終的にはそうした法律の範囲内での自由ということになります。
しかし重要なのは、それらの法律はあくまでも
万人の自由を両立させるために立法されたものでなければならない、ということです。
というのも、法律は強制力をもっていますから (違反者に対しては暴力的に罰を科することができる)、
いったん法律が制定されてしまうと、人々の自由はその範囲内に制限されてしまいます。
もしもこの法律が国家権力によって恣意的に、
権力者にとってのみ都合のいいように制定されてしまったら、
万人の自由の共存どころか、一方的に国民の自由が損なわれることになってしまいます。
ですから、法律の範囲内でのみ自由が許されるということではなく、
むしろ逆に、万人の自由を共存させるような法律のみが立法されることを許され、
そのような法律のみが自由を制限することができる、という関係になるのです。
歴史的に見ても、国家権力こそが国民の自由を毀損し抑圧してきたということは明らかでしょう。
ですから、万人の自由はまず何よりも国家権力からの自由でなければならないのです。
そのために定められたのが憲法です。
憲法というのは国民の自由 (人権) を国家権力から守るためのものです。
国家権力が勝手に法律を定めて国民の自由 (人権) を奪ってしまわないように、
万人の自由 (人権) を守るための法律や政策だけが行われるよう、
国家権力を制限しているのが憲法なのです。
その憲法の枠内で立法された法律であるからこそ、法は人々の自由を制限することができるのです。
制限つきの自由が、国家権力によって守られる自由ではなく、
国家権力から守られるべき自由である、ということの意味がわかっていただけたでしょうか。
以前にダグラス・ラミスの 『憲法は、政府に対する命令である。』 という本を紹介しましたので、
ぜひそのブログと本も読んでみてください。
国家権力と国民の自由 (人権) と憲法という三者の関係は、
今後の日本政治において重要な争点になってきますので、ぜひ正しく理解しておいてください。
特に18歳から選挙権が与えられた今日、
大学生である皆さんはもちろんのこと、皆さんが教員となってから教える子どもたちにとっても、
何よりも重要で、ヘタしたら彼らの自由 (人権) が根こそぎ奪われることにもなりかねません。
政治のイロハ (例えば立法府と行政府の区別とか) も知らない政治家たちによって、
私たちの人権が、国家権力の定める法律の範囲内での自由に狭められるなんてことになったら、
未来永劫、日本に生まれてくる子々孫々に対して顔向けができなくなってしまうでしょう。
時勢に流されず責任もって正しい知識を伝えられるよう、研鑽を積んでおいてください。
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