まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.人はなぜ争い続けるのか?

2012-10-16 17:03:06 | グローバル・エシックス
これは郡山の看護学校でもらった質問です。
すぐに問いにお答えしてしまう前に、ちょっと問いを問い直してみましょう。
「人はなぜ争い続けるのか?」 という質問をしてくださった方は、
人間はずっと争い続けていると考えていて、
それはなぜかと理由を問うていらっしゃるわけです。
「問いを問い直す」 という観点からすると、
「争う」 とはどういうことか、「続ける」 とはどういうことかと先に考えてみることができます。
後者に関して言うならば、いつ頃からどれくらい続いていると 「争い続けている」 ことになるのか、
人類はその長い歴史のなかでそんなにずっと争い続けているのか、
それとも、人類が争い始めたのはわりと最近のことなのか等々と考えてみることができます。
そういった事実的なことを確かめるのは哲学・倫理学の仕事ではありませんので、
これ以上深追いするのはやめておきましょう。

前者の 「争う」 とはどういうことを指しているのでしょうか?
これについてもいろいろな観点から考えることができますが、
とりあえずここでは 「争う」 という言葉の2つの意味を確認しておくことにしましょう。
より広い意味で言うならば、2人以上の人間のあいだで対立が生じたり、
競い合ったりすることを 「争う」 と表現する用法があります。
財産をめぐって対立が生じ裁判で争ったり、スポーツで優勝を争ったりという場合です。
しかし、質問者の 「争い」 のイメージはもう少し暴力的なもの、
つまり、戦争のような争いを考えていらっしゃるのかもしれません。
例えば今、日本は中国と尖閣諸島をめぐって、韓国と竹島 (独島) をめぐって、
利害対立し、領土問題を争い合っています。
しかし、まだ直接的な暴力を用いて戦争を行っているわけではありません。
「人はなぜ争い続けるのか?」 と問う場合、
どちらの意味で 「争い続けている」 と言えるのか、
そしてそれぞれ、それはなぜかと考えてみなければならないでしょう。

まず、なぜ人は利害対立をし続けるのかについて考えてみましょう。
たしかにこの意味での争いはずっとあったし、これからもあり続けるような気がします。
それはなぜなのでしょうか?
とりあえず、「本能の壊れた動物」 の話を使ってこんなふうにお答えしておきたいと思います。

A-1.人間は本能が壊れてしまっているために、すべての欲望が自然目的の範囲に収まらず、
    互いの肥大化した欲望を満たし合えるような合意点を見つけにくくなっているからです。

たんに飢えをしのげればいいという程度の食欲を満たすだけならば、
70億人の人間がみな餓死せずに生きていくだけの食糧は世界にすでにあるはずで、
それを分け合って生きていけばいいでしょう。
しかし、人間の欲望はたんに食欲を満たして生きていければいいのではなく、
より豊かな暮らしをしたいと求めて貪欲になっていきます。
そうなると今あるものをお互いに分け合うことでは満足できず、
限られたものを奪い合うということをしなければならなくなります。
そうやって争いが生じてしまうのではないでしょうか。
人間は本能の壊れた動物ですから、動物たちのようなレベルに欲望を抑えておくことはできず、
したがって、有限な資源や財をめぐって争いが生じるのは不可避のような気がします。
この意味では人は互いに争い続ける動物だと言うことができるでしょう。

次に第2の意味で争い続ける理由を考えてみましょう。
つまり、上記のような争いごとが本格的な戦い、戦争になってしまう理由です。

A-2.利害対立という意味での争いごとをどうやって解決するか、
    そのための文化がまだすべての人間に根付いていないからです。

最初の意味での争いごとがなくならないからといって、ではその争いごとを解決するために、
すべての人間が必ず暴力を振るったり、戦争をしたりするわけではありません。
人間には暴力を振るう、戦争をするという本能があるわけではないのです。
幼い頃は殴り合いのケンカをしたことがあったとしても、
大人になっても相変わらず殴り合いばかりしているという人はそれほどいないでしょう。
それは多くの人が争いごとを平和的に解決するという文化を次第に学んでいったからです。
当人どうしの話し合いで決めるとか、裁判所に委ねてどちらが正しいかを判断してもらうなど、
暴力によらずに争いごとを解決する方法を人類はいろいろと発明してきました。
そう考えると、暴力や戦争も文化ですし、平和的解決手段も文化なわけです。
したがって、成長する過程でどちらの文化をより多くより強く学んできたかによって、
どちらをより好み、より多用するようになるかが変わってきます。
つまり、教育しだいということです。

私は利害対立そのものはなくならないものの、
その解決方法に関しては教育によって変化していくだろうと思っています。
例えば日本の場合、戦国時代の頃に比べればはるかに、
刃傷沙汰で問題解決しようとする人は減ってきているのではないでしょうか。
何か問題があったら切り捨てご免にしてもよい、するべきだと教えられていた時代と、
人権を尊重しなければいけませんと教えられている時代とでは、
争いごとの解決方法は画期的に変わっていくはずだと私は信じています。
今のところまだ暴力的な解決方法が残り続けているのは、
新しい文化がみんなのなかに十分に根付いていないからにすぎないと思っています。
そういう意味では、まだしばらくは過渡期が続くでしょうが、
これから先も永遠に人は争い続ける (戦い続ける) とは思いません。
もちろんこれはただの夢かもしれませんが、
この夢を見ているのは私ひとりだけではないでしょう。


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