中日新聞の「エンタ目」で、ミュージシャンの近田春夫さんが、「日本語カバーポップス、”憧れのアメリカ”そこに」というタイトルで音楽評論を書かれていました。
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母親の話では、私はどうやら三歳の頃、隣の家の木に登り春日八郎の「お富さん」をフルコーラス大声で歌っていたらしい。
きっと大変なお気に入りだったのだろう。
ただ、それは音楽に引かれたというのとは何となく違っていた気もするのだが・・・。
そういった意味で、最初に音楽に自発的に夢中になったのは、ケーシー・リンデンの「悲しき16才」や、ヘレン・シャピロの「悲しき片想い」といった英語圏のポップスだったと思う。
ただ、オリジナルではなく、テレビで毎週欠かさず見ていたザ・ピーナッツなどによる日本語のカバーである。
1959年の「ザ・ヒットパレード」、61年の「マイマイショー」といった具合に始まった民放の音楽バラエティー番組がとりあえず私の音楽嗜好の 基本をつくったといって過言ではない。
日本語カバーの歌詞の何が素晴らしかったかといって、たしかに歌謡曲と同じく日本語なのだけれど、そのコトバの紡ぎ出す景色はというと、決して日本の街並みではない。
まさしく”憧れのアメリカ”だったことだ。
当時の日本はまだまだ貧しく、アメリカは本当に夢の国だった。
それを見事体現して見せてくれたのが、一連の日本語カバーのポップスだったのだ。
なかでも際立って私の心をときめかせたのは、本場アメリカのシンガー、コニー・フランシスである。
彼女の歌う日本語版「ボーイ・ハント」がラジオから流れてきた時、そのゴージャスを絵に描いたようなカラフルな音響、甘く切ない歌声そして歌詞から広がるイメージに、恋することの何たるかもまだまったく知らぬ子供が、街から街へとさまよい歩く”あの人”のどこか孤独な宿命を背負った人生を思うと、その心情/光景がたまらず、以来それは一種抽象的な”原風景”として、私の心に焼きついてしまった(彼女の日本語発音のいかに上品な耳心地であったかもあらためて特筆しておきたい)。
同時代の歌謡曲に何か触発されたかというと、水原弘の「恋のカクテル」などゼロではないが、ほとんどなかった。
当時のポピュラーミュージックにあって歌謡曲に圧倒的に欠けていたのが、コード進行の魅力だったのは確かだ。
あの時分のアメリカの流行歌の何が一番たまらなかったのかといえば、結局その和声の醸し出すフィジカルで官能的な刺激だったのかもしれない。
そして、そこから全ては始まったのだと思う。
以上です。
昔 近田春夫さんの写真を見た時、学生時代バイト先で知り合った男に似ていて、チャラい男だと思いました。
その学生、軽い感じの男でしたが、かわいい女の子を彼女にしていました。
そういう男は、気軽に女の子に話しかけるので、モテるんだと思いました。
近田春夫さんには失礼ですが、そんな訳で悪印象を持ってしまいました。
それはともかく近田さんは70歳ということで、私とほぼ同じ世代です。
最初に耳にした英語圏のポップスも、テレビで見ていた音楽番組もほぼ同じでした。
たしかにコニーフランシス の歌う「ボーイ・ハント」からは、
「そのゴージャスを絵に描いたようなカラフルな音響、甘く切ない歌声そして歌詞から広がるイメージに、恋することの何たるかもまだまったく知らぬ子供が、街から街へとさまよい歩く”あの人”のどこか孤独な宿命を背負った人生を思うと、その心情/光景がたまらず、以来それは一種抽象的な”原風景”として、私の心に焼きついてしまった」の感想に同意しますね。
まだ中学生でしたが、ポップス好きの始まりでした。😊
コニー・フランシス ボーイ・ハント(日本語)1961 / Where the Boys Are