元西鉄投手の池永正明さん死去 76歳 黒い霧事件で永久追放、解除
毎日新聞9/26(月)21:03
永久失格処分が解除され、会見で笑顔を見せる元西鉄ライオンズ投手の池永正明さん=金澤稔写す
プロ野球西鉄ライオンズ(現西武)のエース右腕として活躍しながら八百長問題「黒い霧事件」で35年にわたり永久失格処分(2005年に処分解除)を受けた池永正明(いけなが・まさあき)さんが25日、がんのため死去した。関係者が明らかにした。76歳。
山口県豊北町(現下関市)出身。下関商高では2年生エースとして1963年春の選抜大会で優勝、同年夏の全国選手権準優勝に貢献。
同高から65年に西鉄に入団して20勝を挙げ新人王を獲得すると、67年には23勝で最多勝に輝いた。
5年目の69年10月に「黒い霧事件」が発覚。野球賭博に絡んだ八百長疑惑が浮上し、70年5月、「八百長の誘いを拒否する明確な意思表示を認めがたい」として永久失格処分を受け、球界から永久追放された。
池永さんは一貫して「八百長は誓ってしていない」と訴えていた。
通算成績は238試合に出場し、103勝65敗、防御率2・36だった。
処分から35年後の05年、支援者らの嘆願書提出などもあって、野球協約にそれまでなかった処分解除規定が設けられ、復権が認められた。
池永さんは当時、「私には野球しかありません」と語っていた。
池永さんは球界追放後、福岡市の繁華街・中洲で07年までスナックを経営。
処分解除後は、プロ野球公式戦の始球式やテレビ中継の解説、社会人野球チームの監督などを務めた。
◇同級生ら、野球賭博「信じていない」
元西鉄ライオンズのエース、池永正明さん(76)の突然の訃報に、同級生やチームメートからは在りし日をしのぶ声が上がった。
池永さんは下関商高2年の1963年、エースとしてチームをセンバツ優勝に導いた。
同級生で三塁手だった岡田希代達(きよたつ)さん(76)はその夏の甲子園、右投げの池永さんが試合中に左肩を脱臼しながらも完投した姿が忘れられない。
毎年のように顔を合わせる仲だった。
プロ野球八百長疑惑の「黒い霧事件」で永久失格の処分を受ける前に山口県下関市内の焼き肉店で会った時、池永さんは「やってない」と悔しそうに話していたという。
岡田さんは「最期までその悔しさは消えることはなかったのでは」と思いやる。
岡田さんは大学生や社会人になっても野球を続け、会社を定年退職した後も地元の同県宇部市で野球教室を開いて後進を育てるなど野球人生を歩んだ。
「池永がいなければ自分の人生はなかった。『池永ありがとう』と何度でも大声で言いたい」と声を詰まらせた。
下関商高の野球部で1年先輩だった下関市の清田幸男さん(76)は「1年生の時からすごい選手。点をとられなければ負けないと皆が考えて、守備練習を徹底した」と振り返る。
新型コロナウイルスの感染が拡大する前に居酒屋で昔話や家族の話に花を咲かせたのが最後となった。
黒い霧事件については「池永は野球のセンスがあり、野球と向き合う姿勢はまじめ。今も信じていない」と話した。
西鉄ライオンズ時代のチームメート、安部和春さん(82)は、入団1年目の65年に20勝を挙げた池永さんを「足腰のバネがよくて、いい度胸で投げていた。スライダーが良かった記憶がある」と懐かしむ。
黒い霧事件を巡り、池永さんの名誉回復と球界復帰の署名活動をしたNPO法人西鉄ライオンズ研究会で理事を務める田北昌史さん(65)は「(プロ野球選手で)一番最初にファンになった大好きな選手だった」と話し、伝説のエースの死を悼んだ。【平川昌範、反田昌平、藤田健志】
池永投手が西鉄ではなく巨人の投手だったら、黒い霧事件で追放にならなかったのに。
巨人の藤田投手も八百長を疑われたが、巨人、読売新聞のお陰で無罪放免になったと言われていました。
甲子園での池永投手は、凄かった記憶があります。
高校二年の春の甲子園では優勝し、夏の甲子園では決勝で惜しくも負けました。
と云うのは、左肩を脱臼し、左肩を三角巾で釣って投げていました。
↑のような状態で、決勝戦を投げるなんて・・・・。
負けるのは当然ですが、その姿に涙しました。
そんな投手は、池永さん以外いないでしょうね。
甲子園では1回戦完封の後、アクシデントが待っていた。
松商学園(長野)戦。三塁へのヘッドスライディングの際、左肩を脱臼。大したことがないと思っていたが、1球投げて驚いた。
「痛みが襲ってきた。タイムを取って痛み止めの注射を打ったがまったく効かない」(池永)
左腕を固定したまま続投。なんとか勝利を飾ったが、3回戦の首里(沖縄)戦は投げていない。
それでも準々決勝の桐生(群馬)戦、準決勝の今治西(愛媛)戦には勝利し、決勝で明星に敗れている。
舟木一夫★涙の敗戦投手★