団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

大きくなってあまり孫が来ることもなくなると、懐かしい思い出ですね。

2019-06-30 04:01:45 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「孫のお世話 至福の苦労」というタイトルで70歳の男性が投稿されていました。



 息子の嫁が出産するため3歳の孫息子を預かった。

 最初の難問は風呂だった。
孫は自宅以外の風呂に入ることを嫌がっていたからだ。
おもちゃを湯船いっぱいに浮かべて何とかやりおおせた。
夜はなかなか寝ないと聞いていたため、3人で川の字になって横たわり
午後9時すぎにようやく眠りについた。

 妻は唐揚げやうどんなど孫が好物だという品をこしらえると「うまい、うまい」と食べてくれた。
昼間はよく公園に連れて行った。

4日目を過ぎると孫は「ママ、ママ」と言い始めた。
やはり寂しかったのか。
孫の本心を知った気がした。

 祖父母である私たちがどんなにかわいがっても親の代わりはできないものだ。
それでも嫁の出産前日から12日間、面倒を見た。

 孫は多少わがままを言って私たち夫婦はかなり疲れたものの、
振り返れば至福の時間だった。

 孫に弟ができた。
二人の孫の健やかな成長を願うばかりだ。


 以上です。



 投稿者さんご夫婦は、3歳のお孫さんを12日間も預かられて大変でしたね。
でもかわいいお孫さんと12日間も一緒に過ごせれたのは、至福の時間だったと思います。

 私は泊まりで孫を預かった経験はありません。
昼間は息子の嫁さんが働いていましたので、よく預かりました。
小さい時、孫の機嫌が悪い時は、電車のビデオや車の絵本を見せて過ごしました。
電車のビデオはすり減るぐらい見ましたね。(笑)

 小さい時の孫を預かった思い出はほとんど忘れましたが、
大きくなってあまり孫が来ることもなくなると、懐かしい思い出ですね。













春の風が吹いていたら 木之内みどり
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きっとお孫さんも、感激して涙されると思います。

2019-06-29 03:14:41 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に83歳の男性が「孫の披露宴へ歌を特訓」というタイトルで投稿されていました。




 24歳の孫娘から来年3月に結婚すると聞き、目頭が熱くなった。
保育園へ車で送迎していたあの頃がよみがえってきた。

 私の部屋には今も孫娘とその双子の弟の2歳ぐらいの写真が飾ってある。
もう結婚するような年齢になったのか。
自分も今や後期高齢者の一員ではないか。
いろんな思いが頭の中を駆け巡ってきた。

 どのように祝福しようか。
老人会の歌謡教室に通っているので孫娘の披露宴で夫婦の幸せを願うにふさわしい一曲をささげようと思った。


 知人からシンガー・ソングライター中島みゆきさんの「糸」を薦められた。
早速聴いてみた。

 歌謡教室で習う演歌と違って、とても自分には歌えないなと感じたが、
孫娘の披露宴まで残された時間は九ヶ月ある。
練習するための期間としては十分ではないか。
やるだけのことはやってみよう。
歌詞とにらめっこしながら「糸」のメロディーラインを覚え込むように日々猛練習している。

 あとは私にとっての最大の難関である涙もろいことをどう克服するか・・・。


 以上です。


>保育園へ車で送迎していたあの頃がよみがえってきた。


 私も孫たちが結婚するとなったら、毎日のように孫たちを保育園まで迎えに行き、
話をしながら息子の家まで歩いたことを思い出すでしょうね。

 それにしても知人の方、老人が歌うのにむつかしいと思われる「糸」を薦めるなんて。(苦笑)
そのむつかしいと思われる「糸」の歌に、チャレンジする投稿者さんの姿に感動します。

 来年の3月、お孫さんの披露宴で「糸」を上手く歌えると良いですね。
きっとお孫さんも、感激して涙されると思います。
投稿者さんが、涙で歌えなくならなければ良いですが。








糸 - 桜井和寿 ap bank fes
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私も父親の遺影の写真では苦労しました。

2019-06-28 02:56:48 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「遺影を準備する」というタイトルで82歳の男性が投稿されていました。



 16年前のことになります。
妻の葬儀を済まし、その後一周忌も終え、遺影を仏壇の上のかもいに収めたときのこと。
その写真探しに、つくづく苦労をしたことを思い出しました。

 写真は、はやりの簡易なカメラで写した数多いスナップの中から選び出しました。
「これ」と決めたのは、彼女が50代前半、しかも赤いセーターを着た1枚でした。

 しきたりに無知、物事に頓着しない性分ですが、さすがにこの写真でいいかなあと危惧はありました。
しかし、生きていれば81歳を数える写真の中の妻はいつまでも若く、
選択は大成功だったとひそかに安堵しています。

 ところで私のことです。
当時、ついでに自分の遺影も用意しておこうと、数点を選んでおきました。
その後、私は運よくも80代の人生を迎えていますが、
近頃、洗面所の鏡を見るたびに、戸惑いと諦めの境地です。

 さすがに20数年前のものでは、看板に偽りありです。
そこで、先月、スマートフォンで撮ってもらい、それをいささか修正して、
自分の遺影を準備しました。

 妻の遺影との年の差はおよそ30歳です。
あの日からずいぶん待たせている妻の隣に鎮座する日を、待つやら、待たぬやら。


 以上です。


 私も父親の遺影の写真では苦労しました。
父が亡くなって葬儀屋さんに来ていただいたのですが、お通夜に間に合わないので至急父親の写真が欲しいと言われ、
父親のアルバムから写真を探しましたが、適当な写真が見つかりません。
父親は74歳で亡くなりましたが、その年齢に近い写真が見つからず、やむなく40代の写真を葬儀屋さんに渡しました。

 葬儀が終わった後、父親の顔が若すぎて違和感がありました。
母は86歳で亡くなりましたが、父の遺影写真で失敗しましたので、
母親には事前に写真をピックアップしてもらっていました。
それでも60代の写真でした。

 二人遺影写真を見ますと、父親が若すぎるといつも思います。

 私も最近の写真は坊主頭なので、遺影写真は髪があるように加工してもらおうかなと思っています。(笑)












竹内まりや/Mariya Takeuchi~みんなひとり
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昭和の昔の若者ですが、思い切って「付き合ってください」と何人の女性に言ったことやら。(苦笑)

2019-06-27 02:25:08 | 日記
 中日新聞の「中日春秋」に下記のような事が書かれていました。




 「思っているだけで何もしないんじゃな、愛してないのと同じなんだよ。
愛してるんだったら態度で示せよ」ー。

 映画「男はつらいよ」の「寅次郎の青春」(1992年)にそんなセリフがあった。

 もしも寅さんがその内閣府の調査結果を読んだなら、少々イライラしながら、やはり、
同じセリフで若者に奮闘努力を促すか。

 20〜40代の結婚を望む未婚の男女を対象にした調査によると結婚していない理由のトップは
「適当な相手に巡り合わない」の46.8%だった。

 なるほど分かる。
慎重に探しているのだろうと思いきや、
そのうちの61.4%までが相手を探す行動を何もしていないそうである。

 数字だけ見れば、結婚したいと思ってはいても、
行動しない遠慮がちな青年像が浮かんでくる。

 巡り合いたいが探さない。
寅さんでなくとも「そりゃムシがよすぎるってもんよ」と口にしたくもなる。

 もちろん、未婚率の高さには若者を取り巻く厳しい経済状況や将来展望が描きにくいこともあろう。
結婚自体の価値や意味が揺らぐ時代でもあるが、こんなじれったい背景もあったのか。

 「思い切ってなんでも言ったらいいさ、惚れてますとか、好きですとか」(「寅次郎子守唄」)

 昭和の昔なら、その一手かもしれぬが、無理にお尻を押しても効果はあるまい。
その気はあっても動かぬ若者の抱かえる事情もよく聞いてやらねば。


 以上です。



 寅さん映画は劇場やテレビで全て見ています。
でもここに書いてあるようなセリフは、憶えていないですね。

>「思い切ってなんでも言ったらいいさ、惚れてますとか、好きですとか」(「寅次郎子守唄」)
昭和の昔なら、その一手かもしれぬが、無理にお尻を押しても効果はあるまい。


 昭和の昔の若者ですが、思い切って「付き合ってください」と何人の女性に言ったことやら。(苦笑)
断られて、傷つく事が多かったです。

 顔も良くなく、背も高くなく、頭も良くなく、学歴もなく、お金もなく、就職先も3流で、スポーツもダメときたら、
自分が積極的に行動する以外ないと気づいてはいましたが、これがなかなかむづかしい。
自分に自信が持てないので、なかなか積極的になれませんでした。

 でも開き直って積極的に行動したおかげで、かみさんと出会う事ができました。
三高の男性なら待っていても良いでしょうが、私のような条件の悪い男性でしたら、
積極的に行動された方が結婚できる確率は高くなると思います。

 まずは独身の女性と出会える場所に出かけてください。
例えば、テニス・スクールに入るとか、スポーツ・ジムに行くとか。
ブロ友のかっつんが若い頃お茶を習われましたが、それも良いかも。(笑)
(ただし、かっつんはそのような為に、お茶を習われた訳ではないですが。)

 








さよならをするために ビリーバンバン
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やはり人間、先は何が起こるか分からないので、節目にこだわらず行ける時に行った方がいいように思います。

2019-06-26 02:52:02 | 日記
 中日新聞の読書投稿欄に「出会いと別れは世の常」というタイトルで81歳の男性が投稿されていました。




 6人きょうだいの次男に生まれた。
15歳で古里の新潟県を離れて名古屋市内の果物店へ住み込みのでっち奉公に出た。

 奉公先の主人らに恵まれ、商いの原点や生き方を教わった。

 22歳でのれんを分けてもらい、16.5平方メートルほどの小さな店を名古屋市に構え、
近くで六畳一間のアパート暮らしを始めた。

 トイレはアパート住人の共同で風呂はなかった。
入居と同時に結婚した。

 同い年の妻とは長年苦楽を共にしてきた。
「結婚五十年の節目に改めて新婚旅行に行こう!」。
そう話し合っていたところ四十九年十ヶ月間連れ添ってきた妻は突然の心筋梗塞で逝ってしまった。
それまでに両親や兄を亡くしてきたが、私にとって人生で一番つらい別れだった。

 わが人生には多くの出会いと別れがあり、それが世の常だと思っている。
親からいただいたこの命に感謝しながら少しでも社会に恩返ししたい。

 令和の新時代、自分らしく生きて行ければと考えている。


 以上です。



 この投稿者さん、大変苦労をされていますね。
当時としては珍しくもなかったかと思いますが、15歳で果物店へ住み込みのでっち奉公をされています。

 奉公先のご主人が良かったようで、22歳でのれんを分けていただき、小さな店を持たれたようです。

>トイレはアパート住人の共同で風呂はなかった。

 これは当時は当たり前でしたね。
私も学生時代 三畳一間で共同トイレ、風呂なしのアパートに住んでいました。
それが当たり前の時代だと思います。
もちろん電話も共同電話がついていただけです。
実家に電話するときは、10円玉を沢山用意しました。(笑)

 
>「結婚五十年の節目に改めて新婚旅行に行こう!」。
そう話し合っていたところ四十九年十ヶ月間連れ添ってきた妻は突然の心筋梗塞で逝ってしまった。
それまでに両親や兄を亡くしてきたが、私にとって人生で一番つらい別れだった。


 人生って、無情にもこのような事が起こりますね。
あと二ヶ月で結婚50年の金婚式だったのに。
やはり人間、先は何が起こるか分からないので、節目にこだわらず行ける時に行った方がいいように思います。

 残りの人生、自分らしく生きていただければと思います。








春の風が吹いていたら(よしだたくろう&南沙織)
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