新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語に思う

2019-04-27 15:55:44 | コラム
カタカナ語もまた面白い:

4月27日。何の役に立つのか知らない10連休とやらの初日らしい。しかも朝から雨模様で低気圧と来た。こういう天気は未だに気象病を引き摺っている当方の老化が進んだ体には辛いのだ。念の為に掛かりつけのSクリニックに電話で再確認したところ、本日の午後から6日までカレンダー通りの休診だった。それで忌々しい連休のために10日間は耐え忍ばねばならない日が来ないように本日から十分に節制せねばならないと自覚した。昨日には何故か高田馬場駅前のATMに長蛇の列が出来ていた理由も、テレビのニュースで知り得た次第だった。

バックする:
そのテレビで「強盗が自動車をバックさせてシャッターを破壊して侵入」と言っていたのを聞いて「はて、バック即ち“back”とは副詞ではなかったか。それを恰も動詞のように使うのも面白いな」と思った。更に「待てよ。野球の中継では外野手が『バックバック』と言うが、これに対応する前進には何故カタカナ語がないのだろうか」などとしょうもないことを考えてした。また、「自動車を後退させる」は英語では何と言うか考えたこともないと気が付いた。

そこで“drive a car backwards”とでも言うのかなと思って、色々と調べてみた。正解と思しき表現は“to back a car up”だった。「あれ、backは動詞にも使えたのか」と意外だった。だが、良く考えてみれば自分で「言い直させて下さい」と言う時に、“Let me back up.”と断って別な表現を使うか、誤りを正していたのを思い出した。辞書を見ても動詞として使えると出ていた。だが、負け惜しみを言えば「自動車をバックさせて」だと「名詞」として使っているのである。

ところで、野球の中継放送の用語だが「センター、バックバック」と後退する(即ち、後方に下がる)ことを描写する場合に使われているが、「前進して」に当たるカタカナ語はないようだ。そこで、この際とばかりに調べてみた。「バック」に相当する英語の表現は“to move backward”であり、「前進する」は当然のように“move forward”なのだが、外野手が前進してくる場合には“come in“と言うと出てくるのだ。正直に言ってMLBなどの中継はかなりの回数聞いてきたが、ついぞ“come in”というのを聞いた記憶がないのは、もしかして注意していなかったのかも知れない。予期せぬ勉強をしたような気がした。

テーマパーク:
次に聞こえて気になったカタカナ語は「テーマパーク」だった。これは既に採り上げた言葉であり「テーマ」はドイツ語の“Thema”であって、その後に英語の“park”を付けたのがおかしいと批判してあった。だが、英語では何と言うかとは述べていなかった。そこで、矢張り「この際に」とばかりに調べてみた。これには色々と言い方があるようで、“amusement park”、“pleasure land”、“public garden”等が出てきた。私の個人的感想では「“amusement park”というのが良いかな」となった。

私がこの「テーマ」で面白いなと思った点は、この他に「テーマソング」や「テーマミュージック」がある事で、先人は躊躇うことなくドイツ語の単語と英語の言葉を組み合わせていたらしい事だった。先人たちは複数の言語に熟達していたのか、あるいは深い慮りなく独・英の組み合わせをしたのかとも考えている。だが、もしかすると、彼らは“Thema“がドイツ語だとは気が付かなかったのかも知れない。カタカナ語にもこういう面白い点もあるものだと考えるに至った。


4月26日 その2 ここで携帯電話の使用禁止

2019-04-26 14:21:41 | コラム
続「英語はこうやって学ぼう」:

私の持論は「英語には『答えは一つ』という考え方は通用しない。人によって(と時と場合によって)考え方が違うのだから」である。「ここで携帯電話の使用禁止」と言いたければ、先日採り上げたい表現以外にも未だ色々とあると思う。そこで、思いつくままに例を挙げてみよう。

“You are not allowed to use mobile phone, here.”でも良いだろうし、

“Use of cellphone is strictly prohibited here.”でも通じると思うし、

“We don’t permit anyone to use smartphone, here.”でも理解して貰えると思うし、

“Please don’t use your mobile phone in this room.”でも意味を為すだろう。


これら以外にも未だ幾らでも言い方があると思うので、考えて見た頂きたい。要するに「自分が何を言いたいのか」を瞬時に日本語ででも思いつかないとか、理解できていないようでは英語で言える訳がないし、またそういうことを日本語で考えているようでは、未だ未だだということでもあるのだと言いたい。この辺りを私は「頭の中のギアを如何にして速やかに日本語から英語に切り替えられるように日頃から訓練しておくべし」と言ってきた。そして、そのように個人指導した某商社の若手にもそのように強制して、結果としてチャンとものにした実績がある。

話は少し変わるかも知れないが、こういう風に国語で考えねばならないし、そういう国語の能力が求められる外国語の学習を、小学生から教えて成果が挙がる訳がないと指摘したいのだ。即ち、日本語での思考力が固まっていない時期に教えて、英語の思考体系が滑らか且つ速やかに児童の頭の中に入ってはいくか、受け入れられるかという問題だと思う。その時期に「一般的な日本人が英語の勉強にどういうことで苦しみ、悩んでいるかが解らないnative speakerなどに教えさせて如何なる効果が挙がるかを考えて見よ」ということ。

それでも解って貰えない方には「貴方が外国人に日本語を教える立場立たされたとして『動詞の五段活用』などを完全に理解させられますか」と問いかけてみたい。自慢じゃないが、この私は外国人に「日本語の文法の講釈」など一言でもできるかと思うほど自信がない。だが、逆にアメリカ人に「お前は学者だから、解っているだろう」と英文法の解説を頼まれたことがあった。
私以外にも英文法に精通された方は多いのではないか。


閃きが当たった無残な勝負の結末

2019-04-26 08:29:38 | コラム
勝ち運に見放されたDeNA:

昨25日夜は余りに気前よく負け続けるDeNAが、到底戦力が整っているとは評価できない阪神に何回負け続けるのかを見たいだけで観戦していた。試合とは関係ない話だが、東京オリンピックの野球の会場となる横浜スタジアムが、右翼側に3,500人収用の観客席を増築していたと初めて知った。私はそんなことよりも内野席と外野席を柵で仕切っているような心の狭い設計こそ改善されるべきだと思うのだ。言いたくはないが、アメリかではそんな小汚いスタジアムは滅多ないぜ。

所で野球の試合である。TBSのBSでの中継が始まって直ぐに「DeNAには勝ち目はないな」と閃いた。私の目にはあのテイーム全体の暗さがかなり顕著で、こんな感じを与えるようでは8連敗だなと閃いたのだった。後はその閃きが当たるかどうかだけの興味で観戦していた。確かにDeNAの今永も阪神の岩田も好投していた。だが、私は1回の表に今永が「こんな打者に打たれる方が悪い」と評価している打率だって2割5分程度の大山にホームランを打たれて2点も失ったところで「勝負は終わった」と思っていた。残された興味はDeNAがどれほど反撃できるかだけだった。

結果的にはホームランでしか点が入らなかった試合だったが、阪神が2ランと3ランだったのに対してDeNAは全て走者なしでしか打てなかった辺りにこのテイームの現在の低迷振りがイヤと言うほど現れていたと見た。負ける時というのはそんなもので、私はDeNAが1点のリードで逃げ切ろうとして9回表の守備に山崎康晃を出してくるのだろうが、それが上手く行けば良いのだがとすら思っていた。解説の大魔神こと佐々木主浩は阪神の打者が山崎が投じるトウシームなる釣り球をピクリともせずに見送る状態を見て言外に危機を訴えていると思った。

そこからが勝負の恐ろしさと勝ち運に見放されたテイームの弱みが一気に現れたのだった。バント処理の失敗があって阪神に絶好のチャンスが巡ってきてしまった。「なるほど、勝負とはこういうものだったか。山崎というかDeNAというべきか、ここを逃げ切れる力は残っていないのではないか」と思わせられた。しかも、TBSは続く「報道1930」の為に中継を間もなく打ち切ると宣告した。ところが、残酷にも勝ち運に見放されたテイームは中継が修了するまでに左打者の近本に左翼席にホームランを打ち込まれてしまったのだった。万事休すだった。

将に私が常に引用する野村克也の名言「負けに不思議なし、勝ちに不思議あり」を絵に描いたような結果に終わったと思わせてくれた。、中継は試合終了まで行かなかったが、私には後刻結末をNHKのニュース等で確認する必要などないだろうとまで思わせてくれた無残な勝負の結末だった。DeNAの敗因はこの勝ち運に見放されただけではなく、私に目には肩が十分に回っておらず手打ちのようなスウイングをする筒香(佐々木主浩は「あれほど力まなくても左を狙えばホームランになるのに」と言っていた)の不振と、宮崎の崩れ方では連敗も仕方がないかと見えていた。

だが、張本勲を始めとして多くの解説者が「未だ30試合にも達していない時点で強いの弱いのと論じても意味がない。リーグ戦は先が長いのだ」と言うのを聞いても明らかなように、DeNAの大不振も言わば一過性であると言えると思っている。だが、昨夜のような負け方をするのでは、これも古くからある言い慣わし「運不運も腕のうち」であり、勝負には「ツキを腕で消ししまう」ようなことは常に起きるもの。ラミレス監督は「如何にして運とツキを取り戻すか」の工夫をするべきかも知れない。



4月25日 その2 原子力規制委員会こそ業務を停止させよう:

2019-04-25 13:43:02 | コラム
規制委は原子力発電所を止めさせたいようだ:

この度、原子力規制委員会が「テロ対策施設を期限通りに完成しないと、原発の運転を認めないと決めた」と報道された。私もこの規制委の無茶苦茶な決定にはには呆れて物も言えなかった。テロ対策を営利事業である電力会社がやれなどと言うのは暴論や愚論の域を遙かに超えていると思う。テロリストが空から飛行機で突入する対策を採れと言っているようだ。そこまで出来る組織がもしあれば、それは自衛隊か駐留するアメリカの軍隊だ。彼らにでも委託する業務だろう。こういう規制こそ将に「禁止的」で「原発を止めろ」と言っているのに等しいのだ。

私は徹底した菅直人嫌いなので、この主張は偏見かも知れないが、我が国の原子力発電に関する規制や膨大なコストばかりかかり消費者にも負担を強いる太陽光発電などは、全て菅直人内閣の悪政の置き土産だと認識してている。自民と公明の政権下で偏向した規制委如き組織の言い分に何時まで従っていなければならないのか。私は安倍政権が可及的速やかに全面的に改革して貰いたいと願っている。

そもそも大地震と大津波が同時に発生して襲ってくるという予測無しに、第2電源を同一平面に置くという愚かな設計がされた原発での事故の処理を誤ったのが民主党政権だった。あのような事態が二度と発生しないとは断言できないとは思うが、その対策が終わったかと思えばテロを想定した対策を期限内に終えないと停止させるとは、最早脅迫に近い。かかる無茶苦茶を言う規制委員会は、我が国の電力事情と法外なコストを負担させられている産業界に対して全く配慮していないのだから、国に損害を与えるだけの存在ではないのか。。

とは思うが、先頃のスリランカにおける爆破テロの凄惨で悲惨さを見せられ、未だに生息しているISが犯行声明の如きものを出したことを考えれば、確かにテロ対策は必要加戸は思わせてくれる。だが、どうやってその襲撃を未然に防げば良いのか。規制委には模範解答の如き案があるのか。また、テロリストどもが原発だけを対象にするのだろうか。原発があるのは我が国だけではないし、スリランカでもまたもやソフトターゲットが狙われたではないか。規制委はもっと現実を注視し経済性を重視すべきではないのか。



我が国の高齢者による自動車運転の事故に思う

2019-04-25 08:56:25 | コラム
東京という都市の道路事情は特殊ではないのか:

先ずはカリフォルニア州に40年近くも住んでいる高齢者の部類に入るSM氏の話を紹介してみよう。彼は現在ではLAX空港から90分ほどかかる住宅地帯に住んでいる。ご存じの方も多いと思うが、アメリかでは住宅地帯と商業施設というかショッピングモールのようなものとはかなり離れているのである。勿論、アメリカには我が国のような公共交通機関は一般的に普及していない。彼が言うには「買い物に行く為には自分で車を出して出掛けていくしかないのだが、それが歳と共にかなりの負担になってくる」のだそうだ。車がなければ暮らせない国のことだ。

ましてや、国際線が発着するLAX空港まで運転していくのは身体的にも時間的にも大きな負担であるのだそうだ。そういう条件の下に在カリフォルニア州に永年暮らしてきた邦人というか日系人たちの間では、運転等の煩わしさに永住を諦めて日本に帰っていく人が出始めているそうだ。また、アメリカの高額の医療費に悩まされて治療費をも考慮する者もまた増えているという。私自身が車の運転をしないので確たることは言えないが、フリーウエイ網が縦横に張り巡らされたアメリカというかカリフォルニア州には恐ろしいほどの渋滞はあるが、我が国よりも運転は難しくないのではと思ったことが何度もあった。

特に在職中は主にシアトルから成田に戻って通常は箱崎のTCATからはタクシーで新宿の自宅に戻るようにしていた。その際に都内を走ると(アメリカの碁盤目の街中と比較して)余りの交通信号の多さに、そうとは先刻承知していても苛立たされたし、ウンザリさせられたものだった。特に江戸時代の名残で皇居を中心に主な道路が放射線状に出ているし、無数の狭い横道というか路地がある為にノロノロ運転となる上に、無数の路上駐車があるので一層腹立たしくなったものだった。そのような、そもそもこれほど車が増えることなど想定されていなかった大都市の道路にあれほどの数の車が走るのだから渋滞どころか大小の事故が発生するのも止むを得ないかと思ってきた。

東京の道路というか交通事情しか知らなかった私が、W社に移ってからは客先の地方にある工場を年中行事のように巡回するようになった。そして、お客様の担当者に案内されて地方では自ら運転することが仕事の面と生活の重要な部分を占めており、その為には大きな車は必要がないし、営業所には時には人数分の車が必要であり、一般家庭でも家族全員に1台も止むを得ないのだという勉強が出来た次第だった。ある工場などは明石駅から当時でも6,000円ほどのタクシー代をかける以外に急いで到着する手段がなかった。免許を取ったことがない私にはレンタカーは使えないのだ。

そういう交通と道路事情を抱えた我が国に、人口の25%程が高齢者という時代が予測されていたようにやって来たのだった。身体能力と判断能力と反射神経が衰えた人たちが増えることだって解っていたはずだ。事前にそれなりの対策は講じられていたようで、認知症等の有無を含めて色々の試験というか検査が実施されているようだが、それでも一定の年齢以上の者が起こす事故は「これでもか」と言わんばかりにマスコミは報道するが「ではこのような抜本的な対策があるが如何か」とは言わないし、言えるだけのものを持ち合わせてもいないようだ。

私は政府は「我が国の道路事情と人口問題と都会対地方の色々な意味での格差の拡大(≠過疎化?)」への配慮が不足していたのではないか」と思っている。しかも、自動車産業は我が国の産業界の根幹をなしているので、迂闊に規制策的なことを言い出しかねていたのではないかとすら疑っている。私は最早都内の交通事情しか解らないが、東京には明らかに車が多過ぎるし、明らかに危険な年齢の部類に入る高齢者も増えすぎたと危惧している。それだけに止まらず、何処の国の者かも解らない連中が白昼堂々と車で走り回っている。

私はかかる事態に処する対抗策や政策などを考える立場にもないし、交通論など解る訳もない。だが、もうこの辺りで余程しっかりとした性根が据わった対策を講じないことには、否応なく高齢化が進んでいき、若者が減少していく時代に適切に対処できなくなるのではないかと危惧している。別な見方をすれば、私の86際となってからの急速な「運動神経と言えば良いか」を中心とする老化現象の順調な進捗振りには驚くだけだ。その点からだけ考えても、先日の池袋での87歳の方が起こされた事故は「矢張り無理が祟った」と思うのだ。

安倍内閣にとっては急速で激しい世界情勢の変化への対応も重要な案件だろうが、高齢化が進む一方の国内で起きている自動車の運転問題にも十分なる対応して貰いたいものだと考えている。念の為に申し上げておくと、我が家では昭和12年(1937年)に歩行者だった父を貰い事故で失い、昭和39年(1964年)に同じく貰い事故で実弟が生死の境を彷徨わされ会社復帰に2年を要した。私は最も軽症だったとは言え、昭和60年(1985年)にシアトル近郊での貰い事故で、会社復帰に半年かかる大怪我をさせられた。3人とも免許を取ったことがなかった。