気ままに

大船での気ままな生活日誌

小田野直武と秋田蘭画

2017-01-17 05:51:53 | Weblog

おはようございます。閉幕三日目前の1月6日に観てきた展覧会の報告をしたいと思います。

桜好きのぼくは、武家屋敷の枝垂れ桜で名高い角館には何度か訪れている。そのとき、小田野直武と姻戚関係にある青柳家では、彼の銅像を見ているし、たしか、秋田蘭画も展示されていたと思う。そして、小田野のお墓のある、枝垂れ桜とコブシの花咲く松庵寺にも訪ねている。平賀源内とも親交があり、あの解体新書の図を描いた画家ということで記憶に残っていた。でも、秋田蘭画については、せいぜい、江戸期のローカルな画風なのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。

それが、サントリー美術館で、解体新書がメインではなく、秋田蘭画を主体とした展覧会が開催されるというので、正直、驚いた。それほどの価値があるのだろうかと。でも、展覧会をみて、なるほど、そうだったのか、と”解体新書の小田野”だけではなく、”秋田蘭画の小田野”株がぼくの中で急上昇したのであった。

秋田蘭画とは、秋田藩士らが描いた、阿陀風の絵のこと。東洋と西洋の美が結びついた、新たな画風。その中心にいたのが、角館生まれの下級武士、小田野直武(1749~1780)なのである。

安政2年に平賀源内が鉱山調査で秋田藩を訪れたことがきっかけで、江戸に派遣される。万能の天才、源内に師事しながら、彼を通じて、当時、最先端の蘭学者に出会う。そして、杉田玄白の解体新書の挿絵を担当するようになる。一方、当時、流行していた南蘋派(なんぴんは)と呼ばれる中国由来の写実的な画風を学び、それらを混合した新たな画風を創出する。その画風は、第8代秋田藩主の佐竹曙山(1748~1785)や角館城代の佐竹義躬(よしみ・1749~1800)らへも波及する。しかし、長くは続かず、源内が刀傷事件で捕えられと、小田野は秋田に戻され、その翌年、31歳の若さで急逝してしまうのである。

こうして、秋田蘭画は途絶えてしまうが、西洋の陰影法を取り入れたその画風は、司馬江漢らに受け継がれ、後の洋画界に大きな影響を与えた。以下の章立てで、以上の歴史と作品が紹介される。

第1章 蘭画前夜
狩野派などを学んだ小田野の若き日の作品が紹介される。

第2章 解体新書の時代/未知との遭遇
解体新書や秋田蘭画に関係する蘭学資料、洋書、西洋絵画などが展示される。

解体新書

第3章 大陸からのニューウエーブ/江戸と秋田の南蘋派
江戸や秋田で活躍した南蘋派の作品が展示される。秋田蘭画のもうひとつの源流である東洋絵画の数々。

第4章 秋田蘭画の軌跡
本展の見所満載。小田野直武や佐竹曙山ら秋田蘭画の軌跡。

重要文化財 唐太宗・花鳥山水(小田野直武)

鷺図(小田野直武)

蓮図(小田野直武)と重要文化財・松に唐鳥図(佐竹曙山)


第5章 秋田蘭画の行方
司馬江漢の作品など江戸の洋風画が展示される。

三囲景(司馬江漢)

本展のちらしは、重要文化財・不忍池図(小田野直武)

サントリー美術館

。。。。。

角館の青柳家の庭園でみかけた銅像

小田野直武の墓がある松庵寺の枝垂れ桜とコブシ。

発見の多い、面白い展覧会だった。今年も角館に行く!

それでは、みなさん、今日も一日、風邪をひかないように、お元気で!ぼくは出光と東博へ。稀勢までには帰ってくる(笑)。

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