まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

TPOがわからない?!

2006年06月16日 | プンプン
 先日、打ち合わせに行ったあと、近くのホテルのレストランで、簡単に昼食をすることになりました 気持ちよくお食事をした後、キャッシャーまで行くと・・・
 そこには、10人くらいの中年のオバサン(40代~50代前半)が、お財布を片手に列を作っています そこのレストランは、2つの別々のお店が、一つのキャッシャーで会計をするようになっていたので、別のお店でお食事をした私も、その列の最後に並ぶことになりました

 それにしても。
顰蹙をかい、反感をかうことを覚悟の上で書きますが・・・私は、やっぱり違うのではないかと思ったのです
 町の洋食屋さん、百歩譲って、主婦向け雑誌で急に取り上げられた町のレストランであればいざ知らず、ランチタイムとは言え、ビジネスでの利用客も多く、まがりなりにも格式あるホテルのレストランで、個別でのお勘定をしようという発想は、私にはどうしても許せません

 私は、よく子供達に「ここがどんなところかわかっているでしょう?」とか「今は、そういうことをして良い時間ではないわよね?」とかたずねます。なぜなら、子供達自身が「自らの感覚で身につける」ことを非常に重要視しているからなのです

 そういう意味では、あのオバサン達の感覚は、私のクラスの生徒さん達よりも鈍感である、ということになるでしょう
 並びながら、べちゃべちゃと大声でおしゃべり がっはっはと笑い、新たに入ってくるお客様の邪魔になっていることも意識せずに、ずっとぞろぞろと列を崩さずに立っているのです せめて、ご自分のお会計の順番が来るまでは、お財布はバッグの中にしまっておけないのかしら・・・

 ショッピングセンターのフードコートでも、町の洋食屋さんでも、ホテルのレストランでも、装い、立ち居振る舞い、感覚、すべてが常に同じだとすれば、それは悲しいことであり、格好の悪いことだと思えてなりません

 さまざまな感覚は、幼い頃から、肌で感じて育ちます TPOは教えるだけでなく、やっぱり感覚から養われるものであることを、子育て中のご家庭は、しっかり認識して欲しいな、と心から思った出来事でした
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伝えるポイントを押さえて話すこと

2006年06月14日 | にこにこ
 
 私の母は昭和6年生まれ。
小綺麗にはしていても、話し出せば典型的な大阪のおばちゃんですが、それでも一つだけ私が救いだと思っていたのは、ずっと仕事をしていたので、ぎょっとするようなトンチンカンなことは言ったりしない・・・ということでした
 しかし、最近とみに思うのです
残念ながらここ1年、母は「普通のどこにでもいるようなおばあちゃん」になってしまっていることに気づき始めました まあ、どんな人も、年齢には勝てないのでしょうねえ
 
 先日、母は行きつけのデパートで、父のスーツ用のベルトを購入しました。
父はまだ現役で、週に数回会社に出社していますが、今までにも何度も触れているとおり、父にはパーキンソン病という持病があり、すでに自分でパジャマからスーツに着替える、という行為は自力では出来ません。当然、母が着替えの手伝いをしますから、ベルトも「母が扱い易いもの」ということが、品物選びのポイントだったんですね
 しかし、母はあまり吟味せず、今まで使っていたものと同様に見えるものを安易に買いました。
 すると、実際にはとても使いにくく、金具からベルトを抜くためには、ぎゅーぎゅーと爪で押さえたり引っ張ったりしないと外すことが出来ず、爪の先が割れてしまった、と言うのです

 母はお掃除やお料理など、主婦業だけでいえば器用な人ですが、巧緻性や要領の面で言えば、かなり「トロい人」であることは否めません
 結局、デパートに持って行き、事情を話して、交換をしていただけるのであれば使い易いものに交換をしておらおう、ということになりました
 幸い、カード精算をしていたこともあり、タグははずしてしまっていたものの、レシート等は手元にありました。

 さあ、いざいざデパートへ
ということで、私も一緒について行きました。
 母は紳士用品のフロアを確かめ、男性の店員さんを見つけて、購入したベルトを箱から出して話し始めました

 「あのね、これなんですけどね、私、ここをぎゅっとしないと外れなくて・・・そしたらほら、爪がこんなでしょう?この間も主人は同じようなものをしてたので、これで大丈夫だわーと思って買って帰ったら、ちょっと違うみたいで・・・ほらあ、主人は自分で出来ませんでしょう?病気がありましてね、まあ、出来ることもあるんですの。いえいえ、それでね、とにかく私がしないといけないでしょう。そうなったら、ここんところがこう・・・固くて、うまく出来なくてね・・・ほら、ね、なかなか外れないでしょ・・・」

 私は、この様子を見ていて、卒倒しそうになりました
私のクラスの年少児でも、しっかりとした生徒さんであれば、もっともっと上手に話します
 もし、目の前で話しているのが母でなかったら
きっと私は、このおばあさん、半ボケさんかしら?いったい、何が言いたいの?何をしたいの?デパートの方に何をしてほしいの?わけわからなーいと思ったでしょう

 それでも・・・ ふん、ふん、とうなずき、母の相手をにこやかにしてくださっていた店員さんがあまりにお気の毒に思い、私はとうとう後ろから近づき、話しだしました

 「いえいえ、長い話で申し訳ございません じつは、母が先日、こちらでこのベルトをいただいて帰ったんですが、もし、交換をしていただけるようであれば、そうお願いしたいと思いまして。すでにタグはとってしまっているのですが、レシートは持っております。少し事情がございまして、父の衣服の脱ぎ着は母が手伝っておりますので、このベルトも、母自身が使い易いものでないといけないのですが、どうもこの金具の部分の扱い方がうまくいかずに困っております。もし、交換が無理なようでしたらこれはこれで頂戴して、新しい、母が扱い易いものを今日あらためていただこうと思っております・・・

 「そういうことでございますか。どうぞどうぞこちらに 奥様の扱い易いものを一緒にお探しいたします。交換もさせていただきますし、金額に差が出ましても、きちんと問題なく処理できますので」とお応えくださいました。

 母は、なぜか呆気にとられている様子 
店員さんがバックルームに行かれた間に母は私に言います。
「私、まだこの金具がどんなふうに使いにくいかは言ってないわよ?それに、こんなふうにしてたら、爪が、ほら、こうなっちゃいましたってことも説明してないし・・・私、まだ大事な話はしてないのに・・・ それなのに、どうしてこんなにあっさりと、話が終わってしまったのかしらねえ?そうだわ、もしかしたら、私がきちんと小綺麗な身なりをしているから、ちゃんと交換してくれる気になったのかしらねえ、ふふふ・・・

 呆気にとられるのは、今度は私のほうでした
おわかりいただけるでしょうか?
話し方って、大切ですね ましてや、それが「説明する」ことであると、たんに「話す」以上に、大変な作業です

 「話す、おしゃべりをする」は、あくまで自分が勝手に話すわけですから、万が一、相手が何も理解出来なかったとしても、誰にも迷惑はかかりません。
 よくありますよね。お年寄りが二人、にこやかに話しているから、さぞかし楽しい話題で盛り上がっているのだろうと思いきや、実際には自分の孫の自慢話で、それぞれがたんに自分の言いたいことを話しているだけ・・・「まあ」「それはそれは」などと相づちは打っていても、それはあくまで合いの手のようなもので、相手の言ったことに同意をしたわけでも、理解したわけでもない・・・敢えて言えば、はい、次は私が話す番ね!という意志表示のようなもの・・・

 しかし、「説明する」は全く意味が違います
話している相手が理解できなければ、その会話は意味がありません。
 要するに、私の母がデパートの店員さんを相手にしていたことは、「勝手な自分の話」であって、「いったい自分は何がして欲しいのか?何のためにここに来て話しているのか?」という意味を、厳密に言えば、きちんと理解できていない?

 私はここ数年、最近の子供達は、「言語の分野で遅れている」ということをよく指摘します。まさに、私の母状態、です。
 自分の勝手なことは話せても(たくさんの流行語を使って、です)、伝えようとすると、いっこうに先に進まない・・・あのね、そのー、とか、こんなふうに、とか、擬音や擬態語はたくさん登場しても、大切な要点は全く説明しきれない・・・

 「あのね、ここがね、ぎゅーってなってね、ちょっとほらあ、あの、あのね、ちょっとぼくのね、あの、ほら・・・」
みたいな言葉では、何も伝えられません。

 じつは、説明をするためには、「たくさんの語彙」が必要なのですが、その語彙が極端に少ないのも問題なのです
 
 たとえば、体調の不良を伝えるにも、実際にはたくさんの言葉が必要です。
痛い、痒い、だるい、重い、etc. そして、痛いには、ずきずき痛い、ぎゅーっと痛い、きりきり痛い、など、痛さを表すための多くの言葉も必要になってきます
 ここでは、この私の考えがいかに生活の上で大切なことなのかをご理解いただくために、敢えて「体調不良について」を例に出しましたが、実際には、子供達の世界でも、説明は重要な位置を占めているのですよ
 幼稚園や保育園生活でも、いかに自分の意志を伝えるかによって、相手に理解を得られるかどうかが決まってきます。それは自分のポジション、自分の居場所を決める行為でもありますから

 「○○ちゃんってね、ママ、何言ってるかわかんないんだよ!」
などと家で言ったりしませんか?こんなふうに言われている○○ちゃんは、きっと子供の世界の中でも「こまったちゃん」の扱いを受けているに違いないのです 
 子供の世界では、子供なりの力は必要なのであって、決して「子供なんだから・・・」ということはあり得ません。だって、まわりは全員子供なのですから

 さあ、しっかり、要領よく、相手に伝え、理解してもらう重要性をまずは意識させ、幼い頃から、自分の意志や物事を表現するために、一つでも多くの語彙を学ばせてあげましょうね
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すてきなお母さんに会ってみたい・・・

2006年06月12日 | にこにこ

 「僕は、母が大好きなんですよ

 先日、育児関連のサイトの方とお目にかかり、仕事の話のあとの雑談で、家族の話になった時、その方はスラリとそう話されました 大学を卒業してから数年というその方は、とても感じのよい、聡明な社会人という印象でした。
 話の中で自然に語られたこの「お母さんが好きですよ」の言葉は、二人の子供の母親でもある私にとっては、大変心があたたかくなる、うれしい言葉ではあったものの、聞いた瞬間はあまりにそのフレーズが直球すぎて、「(えっ??}・・・」と聞き返してしまいました

 彼のお母さんは日頃は忙しく仕事をなさっていて、彼を含めた兄弟3人に、幼い頃からべったりかかりきる、ということはなかったと言います
 けれど、そんなお母さんがいつも子供達相手に真剣に話しておられたことがあるそうです。それは・・・
 「覚えていなさい あなた達のことは、最後は必ずお母さんが守ってあげるから 私が必ず守るからね
 このお母さんの言葉は、幼い頃から、なぜかずっとずっと頭から離れなかったといいます 
 「最後は守る」とか「絶対に守る」とか、たぶん、こういう言葉の意味もわからず、それがどんなシチュエーションのことを言われているのかもわからなかったに違いありません
 それでも子供達は、この言葉の本当の深さや尊さはわからずとも、とてつもなく大きなお母さんの愛情を、不思議に五感で感じたのでしょうね 
 
 今の世の中、少子化の日本では、24時間体制、全身全霊で子供に関わり、自分のすべてを子供にかけている、というお母さんも少なくはありません
 しかし、案外、そういうお母さん達が「ここぞ!」という瞬間を逃し、「これだ!」というポイントをはずして、たんに自己満足をし、空回りをしていることも多いものです・・・

 子供の感性、それも自分に対する「真の愛情」を感じる感性には、鋭いものがあります その愛情が甘い言葉ではなく、厳しい愛のムチであったとしても・・・

 「僕は、母が大好きなんですよ
成人した息子に、今でも思わずそう言わせるお母さんの愛情 私はその素敵なお母さんに会ってみたいなあと、しみじみと思いました
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大人になってから親になる!

2006年06月10日 | う゛う゛ー
 2,3週間、テレビをつけると、どのチャンネルでもずっと、秋田の幼児殺害のニュースです
 もう見たくないと思えば、BSの海外ニュースのチャンネルしか観るものはないのではないか?と思われるほどの報道ぶりです

 一時、扶養家族になるよりも、自力で生きたい!という高学歴、高収入のキャリアウーマン達が「結婚はしたくないけれど、子供は欲しいわよ」と言っていることが話題になったことがありました。
 私はその時も、何となくそのセリフに違和感があったのです

「はたして・・・子供って、そういうものだろうか?」

 その違和感・・・「子供は、夫婦で協力しあって育てるものだから」というような育児観?そういう論点からの違和感ではなかった、ということだけはよく覚えています
 きっと、そのセリフの中に、貯金も出来た、素敵な住まいも手に入った、さあ、あとは私と楽しく一緒に暮らす血を分けた子供だけ・・・、などという、子供に対しての「ペット的発想」が感じられたから。 
 今回のあの事件が起こって、やっと私は、その当時の違和感の原因が見えた気がしたのでした

 子育てをしているお母様達
毎日、いろいろと大変ですよね 1歳までは、おっぱいやミルク、離乳食・・・と、食べさせるだけでも神経を使い、2,3歳になれば、怪獣化した我が子を眺め、いったいなぜこんなことばかりするのだろうか?と時には悪魔を見る思いで見つめる・・・
 中途半端にものがわかるようになる4,5歳は、話し相手にはなるけれど、自分勝手な減らず口もたたき、6,7歳になると、もう勉強や成績のことも見ないふりは出来ない・・・

 十分にわかってはいたはずでも、いざ、ここに、目の前に我が子が生まれてみると、「愛おしい、かわいい」と思う時間の何倍、何十倍も、「大変だあ、うるさい、やめてー」という時間があるものです。

 七五三にお姫様みたいなドレスを着せて写真を撮る、自分のチャイナドレスを仕立て直し、娘に着せようと思う・・・

 リカちゃんやバービーちゃんには、ご飯も食べさせなくてもいいし、お風呂に入れなくてもいい。自分が遊びたい時だけ相手にしてやって、あとはおもちゃ箱に入れておけば文句も言わないし、幼稚園にも学校にも行かない・・・

 溢れる育児情報、育児雑誌、育児関連サイト
人気が高いものは、ママ達向けのエンターテイメント情報だと聞きました。
「子供がいても、いない頃と同じように楽しむ方法」や、「いかに子育てをしながら、自分が楽しく暮らすか」など、どこまでいっても「自分の楽しみ中心」の生活・・・

 かたや、「賢い子供に育てるためには何をすべきか?」とか「早期教育で、あなたの子供を天才に育てる」とか、子供の優秀さを求める生活・・・
 じつは、この二つは両極端に見えながら、実際にはまったく同質のものなのです
 なぜなら、この二つの思いには、「子供不在」という共通点があるのです
 えーーっ?後者は違うでしょう?だって、後者の話題の主役は子供じゃないですか!と言われるかもしれませんね。でも、後者の場合も、主眼としてあるのは、子供を賢い子供として育てて、豊かな教養を身につけさせて、彼らの人生を豊かにしてあげよう、ということではなく、むしろ、我が子を賢く育てて「賢い子供の親になる」という意味合いのほうが強い話題なのです。

 私は教室で、4歳から6歳くらいの子供達を相手に、よくこんなことを話します
 「あのね、先生はね、ずっと子供でいたいと願っているピーターパンは格好悪いなあ、って思うのよ だって、好きなことを、好きなときに、好きなだけするっていうのが子供だとしたら、きっとそんなことばっかりしているうちに、そういう生活は飽きちゃうと思うのよね 大きくなるっていうことはね、自分の好きなことばっかりが出来なくなる、ってことなのよね たとえば、パパ。毎日、毎日、満員の電車に乗ったり、混み混みの道で時間かかって会社に行ってるよね 一日だって、「パパは今日は遊びたいから、会社には行かないことにしたよ!」なんて言わないよね 
 ママも「急に今日はお友達と映画を見にいきたくなったから、お洗濯もお掃除もやーめた あなた達のご飯だって、面倒くさいから作りたくなーい」も言わないよね。
 そう、みんな、そうして、「したいことではなくて、しなくてはいけないこと」をきちんとしているのよ だからこそ、一生懸命にそうしてがんばった後、ご褒美みたいにある「したいことをしてもいい時間」がとっても楽しいし、うれしいものなんだと、先生は思ってるのよ
 大変 大変 大変 すてき 大変 大変 大変 すてき みたいな順番であるから、すてきな時間がうれしいんだと思うの 大変、すてき、大変、すてき、の順番でも、きっと違うと思うよ
 こんなふうに話すと、ほとんどの子供は、私の言っている意味を理解してくれます

 ときどき、「私達は、我が子に強要したり、強制したり、そういうことをさせたくないんです それは、親のエゴだと思うんですよね。とにかく、この子には自由に、のびのびと育って欲しいですから、好きなことを、目一杯させたいというのが私達の家庭教育の方針です」というご両親がいます この言葉だけを聞いていると、とても格好良く、素敵に聞こえませんか?
 けれど、この考え方には落とし穴があります
2歳児、3歳児を、彼らの好きなようにさせて暮らしたら?きっと、その子達は「おさるちゃん」になってしまうはずです いえいえ、お猿たちにはきっと、厳しい秩序があるでしょうから、お猿以下、ということでしょうか

 2,3歳の狭い世界、狭い選択肢の中で、彼らの好きなようにさせる、ということは、小さな世界に閉じこめて、何の新しい刺激にも、有意義なチャンスにもふれさせてあげない、ということでもあるのです

 もし、多くの子供達が、好きなことだけを、好きなようにして育ったら?

きっと、我が子をリカちゃんやバービーちゃんのような着せ替え人形的にしか扱えない、「大人にならずに親になる」人が増殖してしまうでしょうね

 縁日の金魚すくいで、たまたまもらった金魚一匹飼うのにも、たくさんの苦労はありますね。

 立派である必要はなくとも、きちんと正しい大人に成長し、そしてそれから「親になる」。
 つい2,30年前までは、口に出しているのも馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことだったこんなことが、今では一番社会の中で、欠落した部分なのではないでしょうか?

 「子供のままで親になってしまう」これは、決して、テレビの中の犯罪者だけではありません。
 じつは、犯罪者にはならなくとも、あっちにも、こっちにも、「子供親」はたくさんいる・・・それが現在、一つの家庭環境として、まかり通っているのです

 覚悟をして、親になる
それほどのことをしても、人間を育てるということは大変なことです けれど、それほどの覚悟を持って親となり、たくさんの我慢や苦労をするからこそ、それに見合うだけのいっぱいの感動が、子供達との生活の中に生まれるのだと思っています
 
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英語は大切だけれど・・・

2006年06月07日 | にこにこ
 ちょっと趣をかえて、今日は幼児期の英語教育の話をしたいと思います

 現在の私の仕事の立場としては、早期の英語教育には反対という意見です 
 なぜならば、常々お話をしているように、現在の子供達の「言語の遅れ、言語の乱れ」を真剣に考えると、まだ日本語が十分に話せない子供には、まずは母国語である日本語を、きちんと教え、話せるようになることが先決 そういう強い思いがあるからです

 誰もかれも子供英会話の教室に通わせ、「これからの時代、英語くらいしゃべれないと、困るだろう」のような発想で、我が子に英語を習わせるとするならば・・・
 たぶん、その考え方には間違いはないものの、実際には発想としては「絵に描いた餅」的発想であり、あまり親が期待するほど身にもつかないのでは?と思います
 
 言葉は、あくまでコミュニケーションの手段ですからね それが「目的」になるのはおかしいし、一番大切なことは、手段を学ぶよりも、「何を伝えるか?」の中身の充実にポイントを置くべきではないか?という発想こそが、本来は真っ当な気がしてなりません

 「ねえねえ○○ちゃん、あのね、あなたは毎日、ずっと日本語を話しているって知っている?ママやパパとも日本語で話して、おじいちゃんやおばあちゃんともそう そんなふうにね、外国の人達は、いろんな自分の国の言葉で話しているのよ ママ、お腹がすいたよー、とか、このお花はきれいだねえ、とか、ね 世界中には、たーくさんの国があって、たーくさんの言葉があるんだけれど、今世界中で、一番、よく使われている言葉は「英語」なの だから、もしあなたが英語が話せるようになったら、とってもたくさんの外国の人達と、いろんなお話が出来て楽しそうよねえ
 
 こういう親の気持ちは、きっと子供達にもすんなりと伝わるでしょうね でも・・・「とってもたくさんの外国の人達と
何を話そうか?」です・・・

 お花は flower、犬は dog、星は star・・・こうして多くの英単語を学ぶよりも、「ピンクのバラが咲いてるわね。春や秋にはバラがきれいね」「わー、あの犬は、おとなりのお家の犬よりも大きいねえ」「今夜はお天気がいいから、たくさん星が見えるわね 星ってね、すごーく遠いところにあるんだって」・・・
 
 こんなふうな会話を楽しみ、そして、2歳、3歳、4歳の子供が、親との会話から、しっかりとした日本語のボキャブラリーを身につけ、きちんと自分に思いを表現できることが何より大切ではないか?と思うのです
 
 けれど、それでもなお、「英語は必要でしょう だから、学ばせたい」と思われるのであれば、「耳から自然に入る音」として、幼い頃から、「英語の音」に触れ、耳に慣れさせるのは効果的だと思います

 幼い子供の耳に、心地よく「音」として英語が入っていけば、いつかしっかりと言葉、学問として英語を学ぶ時期が来た時、間違いなくすんなりと「音の羅列-言葉」として、頭に入っていくものですね

 でも、小さい頃に習うほうが発音は良いのでは???
確かに一理あります でも、元英会話講師としての立場から言えば、それは2,3,4歳でなくても、10歳までであれば、十分に間に合うのです

 英語が話せる、外国語が堪能 やはり島国の日本人にとると、それは大きな「価値」を見いだすことであり、実際に「便利で楽しい」ことですね
 日本語が上手になったら、是非、考えてください
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