まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

脇役は重要です!

2012年01月22日 | う゛う゛ー
 先日、叔父と一緒に映画を観てきました
年末、一人暮らしの叔父を招き、クリスマスを一緒に迎えた時、プレゼントとして「目録」を渡していたのです。『映画を観て、美味しい牡蠣の夕食をご一緒しましょう』という目録。
 映画は、叔父のリクエストで、年末から話題になっていた邦画を観ました。年末には、三年越しでNHKの「坂の上の雲」を観ていたので、私も「海軍モード」になっていたこともあって、叔父のリクエストを快諾
 まるで、近現代史を学ぶような感覚の2時間でしたが、とても良い映画でした 主役の俳優さんが、良い味を出していて・・・むかーし昔、確か1970年頃だったと思いますが、両親と一緒に観た「トラ・トラ・トラ」という映画を思い出しました。しかし、何よりもあの頃とは違い、飛躍的に進んだCGの技術のおかげで、戦闘シーンも連合艦隊が航行するシーンも、非常にリアルで、タイムスリップした気分になりました

 しかし・・・この映画。製作費に多少の不安があったのでしょうか・・・それとも、もともと意図的にそのようにしたのでしょうか・・・主役級の俳優さん以外は、あまり普段は映画でもテレビでも観ることの少ない俳優さん達が「重要な脇役」を固めていて・・・見ごたえ、という点から言えば、やはり、主役級の俳優さん達との間にあきらかな「差」が浮き彫りになってしまい、とても残念だったなあ、という気がしてしまいました
 平たく言えば、素人の私が初めて「やはり、演技力の差って、こんなにもあるんだあ」ということを実感した一作でした。

 こういうことをあちこちの場面で感じながら、どこか映画の中にのめりこめない思いで鑑賞していた私は、ふっと、全く映画とは関係ないことを考えていたのでした

 世の中(それが大人の世界であっても、子どもの世界であっても)にはリーダーになるような人材と、リーダーのもとで動く人材がある。乱暴な表現をすれば、リーダー以外の人材は、それぞれが相応の力を持つ「駒」となって、構図としてはリーダーの元で動いているように見える。
 一般的には、リーダーには大きな実力が求められ、「駒」は、集まって初めて大きな力としての意味を持つ・・・
 
 でも
私がこの映画を観ていて随所で痛感していたことは・・・駒1、駒2、駒3は、脇役的な存在に思えるけれど、たとえ配役としては「脇役」であったとしても、決して各人はリーダーのための構成員でも、リーダーの引き立て役でもない セリフが一つ、二つだったとしても、そこで語られるセリフには大きな意味がある 「リーダー」映画で言えば主演級の俳優だけが重要なのではなく、脇役である「駒1」「駒2」「駒3」・・・が、どんなに大きな意味を持っていることか
 この作品では、それぞれの「駒」である脇役が力不足であるために、こんなにも作品そのものが見ごたえのないものになっている(あくまで、私個人の主観ではあっても)。
 やはり、脇役には重要な実力が求められ、それぞれがかけがえのな意味深い登場人物として、物語を作っていっているのだ

 とかく親というものは、主役級のリーダーのポジションに我が子を起きたがります。
グループリーダー、クラス委員、キャプテン、部長、生徒会長・・・スポットライトのあたるところに我が子の姿があるとそれは嬉しいですね ビデオだって回しがいがあるし、有給休暇をとっても、行くだけの価値がある
 
でも、私はやっぱり、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんそのものが存在する意味、その子の素顔を大事にして、Aちゃんの役割、Bちゃんの力、Cちゃんだからこその味・・・そういうものを、誰よりも親が気づき、親が評価してやれなければならない!と強く感じています

 「主役のオーディションに落ちた」「クラス委員の選挙に敗れた」「副リーダーにしかなれなかった」etc.etc. そんな我が子の嘆きを聞いた時、「良かったじゃないの。トップは大変よー。失敗したら大恥かくし、責任重いし 主役でなくって良かった良かった」などと、訳の分からないネガティブな慰めを言って、自分自身をも慰めるのではなく、我が子の良さと味に気づき、その力を十二分に発揮できるように、親こそがその子の力を評価し、エールを送ってやらなければならないと思っています。

 ああ、それにしても・・・
脇役にも名脇役と言われ、評価されているような俳優さんを揃えてもらった上で、あの映画が観たいなあ なんて、不可能なことを思いながら、叔父との牡蠣三昧ディナーを楽しんだ私でした

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新年、発想を変えてみる

2012年01月06日 | にこにこ
 あけましておめでとうございます
激動の2011年でした。何とか、今年2012年は、穏やかで、あたたかいニュースでいっぱいの年であって欲しい!と心から願っています

 さてさて。
年末は・・・日頃さぼっていることを、たーくさん片付けないといけない・・・というのが私の常、です あれもしなくちゃ!これもしないといけない!考えているだけで、胸が苦しくなります

 もともと、私は自分で自分にたくさんのことを課して、そしてそれを達成した自分を自画自賛するタイプでした そんなふうに、ずっとずっとやってきました。
 他人に評価されることも嬉しいですし たとえ他人からは十分に評価はされなくても、そんなふうに「がんばっている自分、がんばった自分」が好きなんですねえ・・・究極のナルシストだったかもしれません

 けれど、人生観が変わって以来、もうあまりそんなふうには思わなくなりました。
自分に無理難題を課して、自分で自分の首を絞め、時には忙しさのあまりに人に当たりちらし、青息吐息で達成し、そして自分を誉める・・・今はそんな馬鹿なことは止め、その「一瞬、一瞬」を大事にするようになりました
 目標は立てても、大きすぎる目標によって自分を追い込んでしまい、苦しくなるようなことはせず、今は、小さな目標をたくさん作るようにしました
 いきなり10歩先のことを目標にするのではなく、3歩先程度のことを目標にして、1,2,3・・・と、一歩ずつ進み、その過程を愛おしみ、楽しむようにしたのです。

 そんなことで・・・
昨年末、私には大きな変化がありました 自分でも驚いたのですが・・・
以前は、リストアップした「〇〇をする」「△△をする」が1つ終わると、それを線で消しました。そして私は必ず思ったものです。「ああ・・・まだこんなにもある・・・これだけ残ってる・・・いったい、いつまでかかるだろう・・・」そんなふうに思ったとたんにうんざりし、顔からは笑顔が消えました。イライラし、雑事や仕事を溜め込んだ自分を罵倒したり、腹を立てたりしていました
 当然、リストアップしたことをやっている時は気が急き、頭の中には「これからしないといけないことのリスト」がちらつき、気分はブルーでした。

 でも
昨年末は、発想を変えました。1つのことを済ませたら、「ああ、一つ終わったぞ 一つ、確実に終わらせることができた ああ、良かった」そう考えるようにしたのです。
 まだBもCもDもEも残ってるじゃないか・・・と思うのではなく、「A」をきちんと終えることができたー!無事に終わらせた、良かった良かった!と思うようにしたのです。
 すると、とっても気分が軽くなりました。そして、Aをやっている時は、自然とAだけのことを考え、慌てることも焦ることもなく、愛情を持ってAに専念できました

 これは、例のお寺のご本堂のお掃除の時に、「心をこめて一つのことをする」ということから、自然に会得したことかもしれません。
 実際に、Aに取り組み、Aを終えたら、すべきことは一つ確実に終わるのです。ところが、BもCもまだ残っている、と考えている時には、終わらせたAには心はない・・・ということ、ですよね。要するに、Aの時にはAのことを考え、Aを終わらせたらAを終えた!ときちんとAへの気持ちを完結すること・・・そして、あらたな気持ちでBに向かう!ということでしょうか。

 すると不思議ですよ。一つ、一つのことを終わらせる時、とても充実感があって、あたたかい気持ちになれます 気持ち良く次のことに移れるのです。これは、年末に限らず、どんな時に、どんなことをする場合も同じだと思います

 何だか、私は大きな真理を得た気分で・・・年末年始、帰省をした実家で、のんびりと座る暇もなく、あちこちに気を遣い、コマネズミノように働いた時も、今までのようにストレスは感じませんでした。(でも、大層疲れて戻ってきましたが

 どうぞ、みなさまも試してみてください こんなふうに気持ちの持ち方、発想の転換をするだけで、自分が楽になり、そして、すべてのことが好循環になりますよ



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