まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

子どもの心をキャッチしていますか?

2008年07月28日 | う゛う゛ー
 子どもの心をキャッチする・・・これは、とてもむずかしいことですが、親子関係の中で、最も大切なことでしょう
 「親が相談に乗ってくれなかった」「勉強しろ、とばかり言われて、鬱陶しかった」「親に見捨てられたと思った」「大きなことをして、親を困らせたかった」etc.etc.
 いったい、何をふざけたことを言っているのだ・・・だいたい、いくつになって、そんな子どもじみたことを言っているんだろう?・・・勉強しろ!くらい言って当然だろう・・・おまえなんて死んでしまえ、くらいはカッとしたら言うでしょう・・・親を困らせたい?ふざけんな
 これははぜーんぶ、至極当然の「親のつぶやき」です。私だってそう思います

 でも・・・私は、ことの善悪という判断とは全く違う次元で、ほんのちょっと、思うことがあるのです

 子どもに届かない親の言葉は、どんなに語ったとしても、それは無言に等しいし、子ども側が実感できない親の愛情は、どこかで子どもが親に求めているベクトルとは違っている・・・ 
 愛しているぞと叫んでも、子どもが愛されていると実感できないとしたら・・・その愛情は空回りの虚しいものです・・・

 きっと、そういう親子は、本当にずっとずっと昔に、ボタンの掛け違いをしてしまい、それに気づかぬまま、全く悪気なく、大きな間違い、大きな罪を犯してしまっているのでしょう。
 もしかしたら、ボタンの掛け違いに気づいたとしても、もう、今さら面倒で、元に戻していくのは億劫だ・・・と感じた親もいるかもしれません そして、そんな時には、かけ違ったボタンをたぐり寄せる努力をしなかった自分を正当化するために、もう子どもは大きくなっているのだから、とか、今さら時間は巻き戻せない、とか、もっともらしい言い訳をしているかもしれません

 子どもが小さい頃は、よくこんなことがありますよね。
 「ねえママ、あのね、ぼくね・・・あのね、ぼく、今日、幼稚園でね・・・」
 子どもは話し始めますが、ママは夕飯の支度を急いでいて、真剣に聞こうとはしていません。子どもが、ママの後ろを付いて、話そうとします。とうとうママは言います。
 「○○ちゃん、あのね、今ママは、晩ご飯の支度をしていて、急いでいるの。だから、ちょっと待っててね。あとで、そのお話し、教えてね
 でも・・・ほとんどのお母さんは、「あとで、そのお話」を聞いてくれることはありません
 お母様がスケジュール通りにしたかった夕飯の支度を終えて、お母様のイメージした通りの時間に夕食を囲むことができたら、ママはもう、子どもが「あのね、あのね・・・」と、ママの後ろを付いてきて、わざわざ言おうとしていた、ということさえも忘れてしまっている人が多いものです

 塵は・・・積もれば山となります。
でも、たった1回だけ、子どもが語りたかったことをお母様がパスしてしまっても、山、にはなりません。
 しかし、悲しいことに、こういうお母様は、たった1回だけパスをしてしまうのではないのです 確信犯なんですよ・・・
「あとでね!」は、便宜上語られる慣用句で、その子達は知っています。
「ママに、「あと」はないんだよ・・・」ってことを
 
 この子ども達の、ママに聞いてもらえなかった残念な思いは、積もっていき・・・山となります。
 本当にお母様が忙しい時には、絶対に子どもには待たせるべきです。子どもは、王子様や王女様ではないのですから、大人が大事な用を済ませないといけない時には、ちゃんとそのことを理解して、待たなければなりません
 けれど、ちゃんと子どもが待った後は、当然、必ず、待てたことを誉め、真剣に子どもが話したかったことを聞いてあげなければ・・・子どもは、待った甲斐がありません

 以前、中高生のカウンセリングをした時、男女を問わず、多くの中高生は言いました。
 「先生、うちのお母さんは、昔から自分が言いたいことは目一杯言うクセに、オレが(私が)話したいと思った時には、必ずってほど聞かないんだ。『何言ってんのよ、そんなつまんないこと!』とか、「そんなこと言っている暇あったら、勉強しなさい!」とかさ。ホントは、オレのことなんて、どうでもいいんだと思うよ。」
 
 私は、身につまされる思いがしました。
もし、4,5歳児が、中高生のような言語能力を身につけていたら、きっと同じことを言って、愚痴を言う子ども達は多いでしょうね。
 そして怖いことに、4,5歳児の頃から、こうして親に待たされながら、聞いてもらえなかった子ども達は、何と10年の長きに渡り、ずっとずっと、親に真剣に聞いてもらっていない、ということです・・・

 4,5歳の子どもが、親に聞いてもらいたいと思って一生懸命に語ろうとしていることは、たぶん、親にとれば「ほんの些細なこと」に違いありません。
 けれど、「是非、ママに(パパに)聞いてもらいたい」と思った「心」を踏みにじって良いわけはないでしょう

 中高生になった子ども達が、親に真剣に何かを語りたい時、聞いてもらいたいと言う時、彼らはきっと深刻な顔をして、まるで「渡る世間は鬼ばかり」の中のえなりかずきのように・・・
 「お父さん、僕、お父さんに折り入って話したいことがあるんだよ。忙しい時に申し訳ないけど・・・相談に乗ってもえらえるかな」などと、言うわけはないのです。
 あれは、大人が、勝手に描いた理想の息子像でしかありません

 親が、どれほど子どもからの「今、聞く時」という瞬間をキャッチできるか?
 キャッチしてやろうと、心を子どもに向けているか?
 これが、すべての鍵となるでしょうね

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人間万事塞翁が馬

2008年07月21日 | にこにこ
 今日は、我が家の大事な記念日です。
お誕生日?結婚記念日?いえいえ、「事故記念日」です

 昨年の7月21日土曜日の朝、夫は、沖縄県伊江島村で、トライアスロンの練習試合中、自転車から落車事故を起こし、その後、一ヶ月、名護市の県立病院に入院。横浜に戻って、10日間のリハビリ入院をしました。
 その時期のことは、昨年のこの時期のブログに、いろいろと書いていますが・・・ 
 事故の日の21日は快晴 事故直後から、ずっと意識がしっかりとしていた夫は、ボートと救急車を乗り継いで沖縄本島の県立病院に搬送される途中、ボートの上で、車椅子に座り、雲一つない空、真っ青な海を眺めて「こんな時でも、海はほんまにきれいやなあ・・・」とつぶやいたことを、今でも時々思い出します
 ボートのエンジン音が高く、普通ならその音にかき消されてしまうはずの夫のつぶやきでしたが、伊江島の診療所からずっと付き添ってくれたリゾートの方や、トライアスロンのコーチも皆、なぜかはっきりと、その声を聞いていたのでした。
 
 1年が過ぎた今、「事故一周年、事故記念日」などと(ふざけたこと、と聞こえてしまいそうな・・・私たち夫婦は大真面目ですが)言えるのは、当然、すっかり完治し、以前と全く変わりない生活を送れているからに他なりません。
 まずは、そのために事故直後から奔走してくださった島のみなさま、名護の県立病院のドクターや看護師さん達、ずっとエールを送ってくださったトライアスロン仲間や友人達、知人のみなさまに、あらためて感謝を申しあげる日、として、今日を過ごしたい、と思っていました

 じつは、あの事故から、私たちの生活は、すっかり様変わりをしました
 まずは、その距離同様、とっても遠い県だった「沖縄県」が、夫婦二人の郷里である「大阪府」以上に身近になり、多くの交流が始まったこと
 そして、アスリートである夫の姿を、どこか白けた目で眺めていた私が、心底一緒にスポーツを楽しむ同志へと変身したことでしょう
 あと1日2日で、私のトライアスロン用の自転車もできあがってきます 車体に、「madoka manners」と塗装してもらった私のバイクは、新しい私の宝ものになります

 人間万事塞翁が馬・・・私が、小学校の高学年の頃に知った言葉です。
何だか難しい音の連続で、初めて聞いた時には、きっと理解しがたい難しい意味なんだろう、と思ったものですが、その意味を知ったことで、妙にこの言葉は私の「座右の銘」的な言葉となりました
 どんなことがあっても、決してそれをマイナスには受け止めず、貴重な学びの経験として甘受すること。どんなに幸運なことがあっても、決して慢心せず、「おかげさまで・・・」の心で頭を垂れて感謝すること。
 これが、私流のこの言葉の解釈でした
 
 成人した我が子二人の子育てを振り返ってみても、まさに、万事塞翁が馬、でしたねえ・・・
 子育ては、親の意識、親の心の持ちようで、如何様にもなるものです 
毎日、大変だ大変だと思って我が子と関わり、そこに楽しみや喜びを見出そうとせず、ひたすら不満だらけの時間を過ごしていくと・・・きっと、親子双方にとって、色あせた歴史となるでしょう こんな親子の時間なんて、百害あって一利もありません。
 前向きに生きる、とか、前向きに捉える、ということは、実際には、なかなか出来ることではない、と思われているかもしれませんね。
 でも、本当は、ものすごく簡単なことだと私は思います
自分の意識、自分の心、一つです。そうすれば、オセロ版の、一番隅っこに駒を入れたとたん、どんどんとパラパラ裏返っていくように、すべてのことが、素敵なものに変わっていくはず

 昨年の今夜、夜9時近くに夫をICUに残し病院を出て、電話で予約をいれたビジネスホテルの部屋についた時、不思議に悲しみはありませんでした。
 不慣れな土地で、これからどうなるのかわからない恐怖は、悲しさにはならずに、ひたすら神経を研ぎ澄ましていたように思います。「今、私がしなければならないことをする!」そういう責任感・・・でしょうか
 夫に代わって、私がタイムリーにしないといけないことは山ほどありましたし、私自身の仕事、家族のことなど、悲嘆に暮れている時間などはなかったです・・・
 
 そして、1年後、まさか、私がメタボリックシンドロームの心配から解放され、こんなに真剣にスポーツに取り組む生活がやってくるなんて・・・想像できませんでした

 来月、トライアスロンの仲間達と、宮古島に行きます。夫は、すでにランニングとスイムには復帰していますが、事故後、そこで初めて自転車に乗ります。
 そしてその日が、私の自転車デビューの日になります
 夫のリボーン、私のデビュー・・・人間万事塞翁が馬。
 今を迎えられていること。すべてのことに、感謝です

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宮崎駿監督の言葉から

2008年07月17日 | にこにこ
 4年ぶりの宮崎駿監督のアニメ映画「崖の上のポニョ」は、すでに話題になっています
 先日、NHKの朝のニュースで、宮崎監督がインタビューの中でこんなことを語っておられました。
 「微妙な『ゆらぎ』が、生命観を与える
 今回の作品では、今までのようなCGという機械的な技術を使わず、ひたすら、スタッフ総動員で、背景の細かい部分の一つ一つまで、手描きによって仕上げたのだそうです。CGによっては表現しきれないものがある そういう強い思いがあり、「微妙なゆらぎまで手で再現することによって、よりリアルな、いきいきとした生命観を与えたかったから・・・」

 なるほど・・・・私は、この監督の言葉に、いたく感銘を受けました
 私は、特に宮崎駿ファンというわけではありませんが、となりのトトロや魔女の宅急便など、代表作品はほとんど見ていますし、好きですねえ
 そして、多くの評論家が語る、それぞれの作品のビッグポイントばかりではなく、特筆されることのないさまざまなシーンやセリフから、私はたくさんのことを感じたり、学んだりしていたと思います
 
 このブログの少し前の回に、私は「雨の音」について触れましたね また、この「ママ達のおやつ」のサブタイトルにも・・・
 「身のまわりの出来事、ほんの少し心を込めて見てみれば、新しい何かが見えてきます。心豊かであれば、平凡な毎日もステキです!」と書きました。

 そうなんです そうなんですよ
宮崎監督が話された「微妙な揺らぎ」は、もちろん、画像のことをおっしゃったのですね。たとえば、何てことのない海の中のシーン・・・主人公のポニョの背景でしかない小さな海藻や、細かいごみのようにも見えてしまう水の中を漂う微生物、海底の岩のまわりの水の動き・・・こういうものを、より手描きで正確に描くことが、そのシーンに生命観を与えると考えた、という意味です
 実際、海の中のワンシーンが映像として紹介されましたが、本当に、何もかもが、片時も止まってはいないのです・・・上手く言えませんが、監督のそこのお言葉を聞いた上で、あらためてそういうワンシーンを見てみると、本当に、すべてのものが愛おしく思えます

 私が解釈をする「微妙なゆらぎ」とは・・・自分の生活を取り巻く自然、人、もの、そんなものすべての「動き、揺らぎ」です。
 私が電車の中で、つり革につかまって立って外を眺めている時も、車窓からは信号待ちをする車、その中で疲労の色を見せながら首を回す人、先を急ぐバイク便、ベビーカーを押して歩く女性・・・さまざまなものが見え、動いています
 車両内でも、楽しそうに甲高い声で話す女子高生達、メールをしている大学生、右に左に身体を揺らして居眠りをするサラリーマン・・・強い陽射しを受けて真っ青に茂る木々、咲き始めたひまわり・・・
 私は、常に日頃の生活の中で、自分の身のまわりのものすべての「揺らぎ」を感じ、時にはそれらから驚きを、時には潤いを、時にはゆとりを、時には安らぎを感じて暮らしているのですねえ・・・そのことを、宮崎監督の言葉から、あらためて実感しました

 そして私は、家事だ、仕事だ、と時間に追われながらも、一生懸命に子育てをしているお母様方にこそ、こういう「微妙な身のまわりの揺らぎ」を肌で感じ、貴重な癒しの時間としていただき、これを肥やしとして、母の豊かさに一層の磨きをかけてもらいたい、と願っています

 「ママ、あの雲、ソフトクリームみたい!おいしそうだねえ・・・
 そんなことを言う子はだんだん減ってきました。それに・・・
 「ほんとねえ。でも、あんなにおっきいソフトクリームを食べちゃったら、お腹こわしちゃうかもねえ・・・きゃー
 なんて。一緒に楽しい会話をしてくれるお母様も減ったような気がしています
 「雲はね、本当は小さな水のつぶつぶなのよ。だから、雲の上に乗りたいなんてことは、絶対にできないよ」などと言ってしまったら?それが真実であれ、こんな無機質な、無味乾燥な会話はあまりに悲しいです

 「生き生きとした感覚」「みずみずしい感覚」を持ち、わが子と関わっていってほしい・・・屈託なく笑う子ども達の表情を思い浮かべながら、そう強く強く思っている自分を、あらためて感じました
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がんばれ!と言う前に・・・

2008年07月11日 | にこにこ
 私たちは、よく「がんばって」と言います。
私たちが生活の中で、とっても安易に使う言葉の一つだなあ、と、私はしみじみ思うのです
 親も、我が子に頻繁に言いますよね、「がんばりなさい」って。
 でもね、「がんばる」って言うのは、なかなか大変なもの、ですよ

 私は最近、すっかりアスリート的生活をするようになりました
 そろそろ、レース用の自転車もできあがってきます サドルの下のフレームには、「madoka manners」という文字を入れてもらうことにしました
 この自転車ができあがれば、当然、自転車の練習も始めることになります。要するに、私は、50歳の手習いとして本格的に始めた「ランニング」に、すっかりのめり込み、先月から始めた「クロールの練習」に必死になって、かなり「がんばる」生活をしています
 そして、そのうちに、自転車の練習も始まり、これから以降は、熟年アスリートとして、しっかりと「がんばる」生活を続けていくでしょう

 でもね、自慢話のようで恐縮ですが
このようにブログの中に書いてしまえるほど、三日坊主ではなく、自分の生活の一部に運動を組み込めるようになるまでには、地道は努力が必要でした

 昨年の10月。夫が事故以来、初めてランニングに復帰する日、私はやはり夫が心配で、一人でランニングに行ってもらう気にはなれませんでした そこで、サポーターとしてお付き合いをして走ることにしたのでした
 夫の青山の会社から、半蔵門に出て、皇居を1周するコース。もちろん、骨盤骨折の後の復帰ランニングですから、恐る恐るのランニングです。
 確かに、距離は8キロほどありましたが、始めは歩き、徐々にジョギング程度の速さ。途中には歩いたり、また少しスピードを上げたり・・・まさに、リハビリランニングです 

 でも、その日の私は、ものの10分ほど走ると、足のあちこちが痛くなりました 筋肉がギュッギュッと引き連れたような感じがして・・・息も、ハーハーと上がりました
 夫のリハビリのためと心に言い聞かせ、嫌な顔をせずに付き合おうと決めてはいましたが、走り出したとたんに、もう止めたくなりました 実際、少し走ると息が上がる、ということ自体、私の心肺機能は「走る」ことについていけなかったわけです

 入院中でも、筋力が落ちてしまうことを心配し、ずっと動くほうの足は動かすように心がけていたり、松葉杖で片足歩行が出来るようになると、リハビリの先生のアドバイス通り、毎日、50回以上の腹筋を欠かさなかったり・・・そんな夫のほうが、ずっとずっとタフでした

 地道な努力・・・あの日から、私の「がんばる」が始まりました。夫は、2月の東京マラソンを復帰戦に決め、これまた地道な努力を始めました。私はそんな夫の指導の元、徐々に脚力がついていき、心肺機能もあがっていきました
 年が明けてからは、夫のトライアスロンチームのコーチの指導も受け始め、チームの女性メンバーと一緒に走ったりも出来るようになりました

 私はずっと・・・ずっと・・・自分に向かってかけ声をかけていました。「かんばれがんばれ
 でもね、この声は、「私が、私に対してかけた言葉」であって、「誰かが、私にがんばりを強要した声」ではありませんでした。
 つまり、私は、確かに決して楽ではないランニングではあっても、自分がしたい!ということに向かって、邁進するためのかけ声をかけていたわけです。

 夫も、コーチも、チームのメンバー達も、みな私を励ましてくれましたし、「がんばれ」と声をかけてくれていましたが、所詮は、「がんばらないといけない」と決めたのは「私」自身だったのですよね。

 そして、なぜ私が「がんばれるのか?」と言えば、がんばって走れるようになり、がんばって泳げるようになり、がんばって自転車で完走できるようになれば、3種目をやり遂げる達成感が待っている・・・ 今までに、私が一度も経験したことのない、とてつもなくすばらしい充実感が手に入れられるだろうなあ、と感じているからなのです

 この間の日曜日、私は夫と一緒に、横浜国際プールに初めて行ってきました。
競技に使われる50メータープールは空いていて、とても泳ぎやすいところです。
 その日は、すぐ隣のダイビング用プールで、シンクロナイズドスイミングの神奈川県ジュニア予選が開催されていました。私も夫も、そちらが気にかかり、さっさか泳いでしまって、その後はかなり長い時間、プールサイドに座って、彼女達の演技を見ていました
 高校生と思しき二人のソロ演技。中高生のペア演技。
なぜかその日は、途中で音楽が切れてしまったりというハプニングが何度もあって、ひと組の女子高生ペアの演技は何度も何度も中断され、そのたびにプールサイドに上がり、二人で待っていました。
 彼女達は、泣いていました・・・ 音楽が切れ、プールに上がるたびに、彼女達は、しぼんでいくように見えました

 トラブルの原因は何だったのかは知りませんが、音楽が止まるたびにスピーカーのところに集まり、ゴソゴソと機械を触って・・・挙げ句の果てには、その選手達に「あなた達、あのテープ、1本しか持って来なかったの?」などと、少しむっとしてたずねる関係者・・・
 夫も私も・・・
 「あなた達、いい加減にしなさいよ。この子達が、どんな思いでここで待っていると思ってんの?大会の関係者ならば、始まる前に、入念にチェックくらいしておきなさいよ!それがあなた達の役目でしょう!」と、怒鳴りたい気持ちを抑えるのに必死でした。
 何度も、そんな悲劇を繰り返した後、彼女達は、立派に最後まで演技を続けました 得点は、むごいものでした。それが、彼女達の実力の評価点に成り得る状況であろうはずがありません

 私はこの時、ふっと思ったのでした。
私がもしあの子達に声をかけるとしたら、「がんばれ」と言っただろうか?そんな、慣用句の、お座なりの言葉をかけただろうか?

 私は、これからも私の生徒達に、きっと機会あるごとに「がんばれ」と声をかけることでしょうね。
 私の言う「がんばれ」とは「Do your best あなた達の最善を尽くしなさい
 
 でも、本当の意味で、幼い子ども達を「がんばらせる」ためには・・・
 がんばる姿勢は尊いものであること、
 がんばった後には、必ず手に入る貴重な何かがあること、
 がんばるあなたは、とても素敵であること、
 そういうことを、まずはしっかりと伝え、教えてあげなくちゃ・・・と思っています

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個性ですか?変わり者ですか?

2008年07月06日 | う゛う゛ー
「嫌なことはしない
「苦手なことはしない
「好きなことだけ進んでする
「上手で、誉められることだけする

 これは、今の子ども達の傾向です
私は、こういう子どもが育っていく陰には、「個性、個人を大事にする」という、現代の育児の柱となる考え方があるのではないか、と思っています。
 「我が子の個性を尊重する」いやー、かっこ良い響きのある言葉ですよね 親として、意識高く子育てをしているぞ、という気持ちになれますし、ちょっと上等な、スマートな親である気分が味わえます
 表現は適切ではないとは思いますが、「個性尊重」という言葉は、現代の子育ての「錦の御旗」のように感じてなりません。
 しかし、この言葉は、まさに「七色」だと思うのですよねえ、私は・・・

 たとえ子どもだからと言って、まるで親のお人形、親のおもちゃのように、存在を否定されるがごとく、親の横暴を甘んじて受けなければいけない、というのは断じて違うでしょう
 子どもには稚拙ながら、子どもなりの「思い」「気持ち」はあるのですから、それを聞いてももらえず、「黙って親の言う通りにしなさい」というのでは、あまりの子どもが気の毒です

 しかし、生まれて間もない頃から、「この子の~~~ところは、この子の個性なのだ」と決めつけ、社会的道徳や常識、慣習等を無視し、何ら軌道修正をすることなく、すべて受け入れ、認めている親・・・今は多いですねえ
 そして、そういう親に限って、「自分は進歩的な親である」という自覚を持ち、そういう自分の子育てに酔っているものです。
 でも・・・私は、増加しているそういう親子を眺めながら思います・・・

 案外、親は気づいていないのですが・・・時代は変わっても、子どもって、結構コンサバティブなんですねえ
 ちょっと「変わった子」に対しては敏感に反応し、その子のマイナスポイント(他の子ども達と比べて、少々特異に見える部分や言動、行動など)は、かなり仲間としては受け入れがたいもの、として感じるようです

 要するに、親が「個性」として尊重してきたようなもでも、時には子ども世界の中では「変なところ」としてしか受け止めてもらえないことがある・・・

 子どもとは残酷なものですから、何でもズバリとものを言うものです
 「○○ちゃんは~~だからイヤだ-
 こういうことを平気で言うことは良いとは思いませんし、当然、ご家庭で巨行く的指導は必要ですが、現実の子どもの世界では、こういう会話は日常茶飯事、ですよ
 大人が理想として考えるような・・・
 「○○ちゃんはね、~~ばダメだけど、でも、~~は良いから好きなんだ
 のような感覚は、まだまだ6,7歳という年齢では育ってはいません。そんなふうに、人を「総合的に評価する」という習慣は、もっともっと後になって育っていく感覚でしょう

 ですから、親に「個性」だと評価されて、家庭内では「何でもあり」「何でもステキ」という状態で育った子ども達は、結局は、子ども世界の中では「特異な存在」となっていくことは多いのですね・・・
 親は進歩的なつもりでご満悦でも、我が子が毎日生きている現実的な子ども世界では、結構子どもは困ったり、悩んだりしているかもしれない・・・その責任は、「親」にあるのですよね

 数回前のブログでも話題にしましたが、今のご両親は、子どもが幼い頃から、非常に熱心に知育教育に取り組まれます
 それは、芸術性の高いもの、運動能力向上のためのもの、脳開発的なもの・・・じつにさまざまです
 そして、もちろんそういうものはすべて、必ず、子どもの成長の上で、大きな役割を果たし、子ども達の肥やしになっていきます
 
 しかし、家庭生活、家庭教育の中でしか、培ったり、養ったりできない、というものもたーくさんありますよ
 「嫌なもの、苦手なもの、誉めてもらえないもの」にも、人はひたむきに取り組み、たとえ結果はどうあれ、自分の好みではないものに挑戦し、その過程からさまざまなものを経験して学ぶ・・・そういう「取り組みの行為」が、子どもにとって有意義であり、学びの基本となるんですよね
 もちろん、結果が伴えば、もっともっと素敵ですが・・・

 子どもの個性、という言葉にカモフラージュされてしまう努力の回避や、無意識下での甘やかし、社会性の欠如など、現代の子ども達に関わる問題は山積です
 あなたの親子関係は、大丈夫ですか?
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