まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

IQテストでご満悦?!

2005年11月28日 | にこにこ
 最近はクイズブーム。テレビをつけると、頻繁にさまざまな形態のクイズ番組が出てきます。言葉や文字に重点を置くクイズだったり、知識重視のクイズだったり、ひらめきや想像力が問われるクイズだったり・・・出場を希望する一般人ならまだしも、そういう番組に駆り出されるタレントさんや政治家、文化人の方は大変でしょうね 夕食などを食べながら、見ているほうは気楽に答えながら、「あー、間違ったー!」とか「やったー、正解!」などと楽しんでいれば良いわけですが、全国ネットで「いかに知識が豊富か?」「いかに物知らずか?!」を公表するようなもの・・・お察しします。

 さて、昨夜は、「IQ関連」のクイズがありました。家族で一緒に解きながら見ていたのですが、なかなかおもしろかったのは、家族それぞれに得手不得手が如実に表れます。ひらめきよりも地道な努力を惜しまないタイプの主人は、人の顔を覚えるような記憶や想像力というテストになると、すっかり諦め気分
 一方私は、計算や理系的要素のある問題になると完全にお手上げですが、間違い探し、お話の記憶や絵の記憶、線対称(折り紙を折って、ところどころにハサミを入れ、開いたらどんな図になるかを推理する)、順序の記憶、右手左手の確認等、ほぼ間違うことはありませんでした すると息子がひとこと。
「ねえ、お母さん。こういう問題って、小学校受験に出題されるような問題だよねえ?」
 ピンポーン!当たりです! そうなんですね。私がほぼパーフェクトだった問題は、じつは、私立や国立の小学校受験ではスタンダードな問題として出題されるものなのだったのですね。司会の古館氏が何度もコメントされていたように「・・・こういう問題は、比較的、小さなお子さんが間違わずに答えるそうですが・・・」その通りなんです

 世の中には、私立の小学校受験準備を横目で見ながら、あんなに幼い子供にかわいそうだ、というような批評をする人もたくさんおられますが、実際、取り組み方によっては、「頭を磨く」良いチャンスです 実際、小学校に入学してから、それから延々と「学業」という意味で机の上で学ぶことは、昨夜、私が得意だった問題とは全く趣を異にするものであり、脳の違う部分を使う問題であって、ひらめきや記憶、想像力等は、年齢が上がってからはなかなか磨くことはむずかしい問題と言えるでしょう
 問題を解きながら、何度も何度も「私の生徒さんだったら、きっとこの問題は出来るわ!」とか「年中さんのクラスでも、これは間違わないわね!」などと自慢げに語る私を見ながら、コツコツ努力の主人は、それはすごいなあ、とか、偉いなあ、とか、まじめに感心してくれて・・・かなり満足な私でした
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が子のことは、すべてわかる???

2005年11月23日 | にこにこ
 我が家では、玄関での「いってらっしゃい!」の後、必ずベランダから顔を出し、もう一度マンションの中庭を抜けて、出ていく子供達にバイバイをします これは以前、ブログにも書きましたね。
 昔は、フエルト製のかわいい制帽にお制服姿で、喜々として手を振り、満面の笑顔でバイバイをしていた我が子も、今ではもうすっかり大人です。未だに無視することなく、一応ベランダのほうを見て、小さく手を挙げてくれるのは、彼らの思いやり?親孝行だと感じています

 そんな我が子を送り出す時間、他にもランドセルを背負った子供達、学生服姿の子供達が歩いていきます。手に持ったお稽古バッグのようなものをブンブンと振り回し、スキップで出かけていく子、ポケットに手を突っ込んで、ずっと下を向いて歩いていく子、何か自分一人の世界に入っているのか、ジクザクに歩きながら何か話しながら歩いている子・・・小学生でも、本当にさまざまな子供の様子が見られます。本人達は、誰かに見られているとは気づいていないわけですから、本当に子供の自然な姿を私は見ているのでしょう
 中学生くらいになると、不思議なほどに誰一人として、意気揚々と出かけていく子供はいません。みな一様にカバンの重さを体全体で表現し、一歩一歩努力して前に歩を進めているようです いったい、いつ頃から、子供達にとって「学校」「毎日の登校」が、ウキウキするものでなくなるのでしょう・・・
 そんな登校していくたくさんの子供の姿をじっと眺めながら私は、一人一人の子供達に、小学生には小学生なりに、それぞれのうれしさ、それぞれの悲しみ、それぞれの憂鬱があるのだろうなあ、としみじみと感じてしまいます。

 子供が幼稚園、保育園の頃、多くの親達は、「自分達こそ、我が子を理解している」と認識しています。確かに、それは正しいでしょうね。どの子も親の庇護を必要とし、他の誰よりも親の愛情を欲し、愛着を感じ、自分の思いをわかってもらいたいと願っています。 そして親には、評価され、ほめてもらえることを望んでいるものです
 しかし、それでも、100%親が子供を理解しているか?子供が100%親に自分のすべてをさらけ出すように見せているか?と言えば、きっと答えは「No」でしょう。

 私は仕事がら、多くの子供達に接しています。そして、クラスともなれば、「親子(母と子、父と子)セット」ではなく、「子供一人」と接し、彼らとの間に、私と子供、という関係を持ちます するとね、いろんな子供達の顔が見えてくるのですよ。決して彼らが語らなくても、彼らには彼ら一人の世界、彼ら一人の思いがあるのだなあ、と心から感じます
 「じゃあね、あとでお迎えにきます!」とパパやママが教室のドアを閉めた後、どの子も必ずパパやママと一緒の時とは違う「顔」になります。もちろん、親の管理下から離れて、ほっとした顔になる、そういう意味だけで言っているのではありません。とは言え、多少、そういう一人になった安堵の顔?!と見えることも多いのは確かです。
 要するに、4、5、6歳という、まだまだ幼い子供でさえ、しっかりと「自分一人の顔」を持っている、ということでしょう
 しかし、親のほうは・・・なかなかそういう事実を、五感ですんなりと理解することは出来ませんねえ。私が、ベランダで我が子にバイバイとする時、必ずといってよいほど「制帽、制服」だった頃の我が子を思い出してしまうように、親にとって(特に母親にとって)我が子は、100%自分を必要としていた頃の、未熟で、弱者であった子供なのです・・・

 親の子離れ。このための準備は、すでに子供が幼い頃から始めていなければならない!私は、子供達一人の時に見せる「自分の世界を持った顔」を見るたびに、そう実感しています
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満月の「みなとみらい」

2005年11月18日 | にこにこ
 今日、少し用があり、息子とふたりで「みなとみらい」に出かけました。みなとみらい地区、それは三菱重工横浜造船所跡地を埋め立て、水路やドックを上手く残し、整地した海に面した広大な土地全体の名称です
電車を降り、外に出ると、空には大きな満月。その満月の下、キラキラと光るビル群がそびえていました。ビジネスビル、ホテル、高層マンション、遊園地、ショッピングモール、etc. 歩幅が大きいため、少し前を歩く20歳の息子の背中を眺めながら、「あー、この町は、この子が生まれた頃には、なーんにもなかったんだなあ・・・」としみじみと思いました
 
 横浜に引っ越してきたのは息子が1歳のお誕生日を一月後に控えていた時。その3年後、現在の「みなとみらい地区」では「横浜博」が開催されました。息子が4歳、娘が1歳の時でした
 当時、主人は海外出張ばかりで、1年のうち、3~4ヶ月は、私と子供達3人の生活で、私はまさに子育てに孤軍奮闘していましたねえ・・・今ではすっかり格好つけの私も、当時はおしゃれなんてとんでもない。あの頃の私の定番は、「汚されてもかまわない、すぐにパッと動ける服装」でした
 そんな私は、子供達二人を連れて、「横浜博」には2度、出かけました。
入場してしばらくは大はしゃぎをしていた子供達も、午後の遅い時間になるとすっかり歩き疲れ、眠くもなってきます。さあ、大変!早く帰らなくちゃ!
 でも、どんなに叱咤激励しても、眠気は襲ってくるもの。娘はベビーカーの中で眠り込み 健気にベビーカーの横を歩いていた息子も、ふらりふらりとなってくる・・・あの頃は、電車にベビーカーのままで乗る、などということは許されない非常識なことでしたから、私は娘をベビーカーから降ろし、抱っこをして、ベビーカーを手に持ち、息子と手をつなぎます。抱っこされてガクリと首を傾ける娘の頭を気遣いながら、息子にいろんな話をして、興味をつなぎ、最後は「がんばれー!歩いてー!しっかりー!」と声をかけ、家路を急ぎます。荷物、ベビーカー、息子の手・・・私は汗びっしょりになり、背中や額から、玉のような汗が流れていました。泣きそうでしたねえ、本当に
 
 あれから16年。みなとみらい地区は、まだまだ進行形。それでも、横浜博のテーマ館で見た「21世紀のみなとみらい地区」のジオラマは、まさに今夜、満月に照らされていた世界そのものです
 「こんなにいーっぱい、ビルが建つの?すごいねえ、いつできるの?」と、ジオラマの前でピョンピョンと跳びはねていた息子と娘は、20歳と17歳になりました。
 今では頻繁に足を運ぶこのみなとみらい地区。
私はそこで一人でお買い物をしたり、お茶を飲んだりしながらも、時々、あの大変だった横浜博のことを思い出します 我が子を心から愛しながらも、あの頃は、永遠に続きそうに思えた育児の時間を、辛いよー、情けないよー、と感じることもしばしばでした

 でもね!
今、毎日育児に明け暮れ、辛い、悲しい、情けない、と思っているママ達!そんな時間は、永遠には続かないのですよ毎日、ちょっとずつちょっとずつ、自分の何かをあきらめながら、一生懸命に我が子を愛し、子供を育てることに励んでいれば、必ずたーくさんの素敵な思い出を作り出しながら、時間は進んでいきます そして十数年後、今夜の私がそうであったように、美しい満月を愛でながら、すっかり大きくなった我が子を、しみじみと笑顔で眺める時がやってくるのです・・・ママ、ファイト
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

決断をする痛み

2005年11月11日 | う゛う゛ー
先日、来春4月に引っ越し予定の、私の両親の新居の内覧会に行ってきました 40年近く住み慣れた郊外の一戸建てから、大阪の中心部の高層マンションに引っ越すことを決意した両親。その潔い決断に、私は心から敬意を表します

現在の郊外の家に引っ越した時、私は中学1年生でした。当時は、まだまだはえ揃わない芝生の向こうに、貧弱に立っていた松、しだれもみじや、紅梅、白梅、そんな若木もすべて立派な木々に育ち、今では木陰を作るほどになっています。
結婚して大阪を離れて22年。帰省するたびに、木々が大きく茂っていくことが、私もとてもうれしく、よく話題にしたものでした。
マンション住まいの我が家の子供たちも、幼い頃は帰省するたびに芝生に作ってもらったお砂場で遊び、ビニールプールで大はしゃぎ しかし、そんな子供たちも中学、高校へと進学すると、帰省する機会も減り、手間のかかる芝生は、きれいな石の庭へと変貌。芝生の庭のお役目が終わったように思えました。

古い家は、何かと不便です。バリアフリー、グローバルデザインなどという考え方が皆目なかった時代の家は、あちこちに段差があり、パーキンソン病で歩行困難な父には何よりの問題です。介護する母にとっても、いじめとしか思えないような使い勝手の悪いキッチン、お風呂、洗面所・・・etc.
とは言え、専門分野であったわけではないものの、父が設計したその家は、父にとっては何物にも代え難い宝物であるのです。そこを出ていく両親・・・ 
毎日、新しいマンションへの思いを募らせる母。ときどき送られてくる携帯のメールでも、母のはしゃぎようが伝わってきます それに引き替え、どんどんと寡黙になる父。間取り図を手に、にこにことしていたはずが、帰省した私と母が新居の話で盛り上がると、突然不機嫌になります
今まで48年間、一度も父に逆らわず、父をひたずら支えてきた母。その母の、父の不機嫌さを全く意に介さないような手放しの喜びようを見ていると、日頃の介護の大変さが想像できるのでした。

自ら設計した、宝物である住まいを出る父の決断。植物が好きで、どんなに大変でも水やりを欠かさず、植木屋さんに教えを請うて端正して花々を育ててきた庭を手放す母の決断
両親に代わって新しい家を整える役目を負った私は、いつもそんな両親の本当の心持ちを思い、胸の締め付けられる思いをしています・・・

若くて、勢いに満ちている、ということは素敵ですね 身のまわりのすべてのことに目をやり、さまざまな思考、決定にそれを役立て、最先端の技術や情報を駆使して、より一層「すばらしいもの」を目指す・・・今、私が両親の新しい家のためにしている努力です。
しかし、両親が本当に満ち足りた気持ちで、34階の新居のリビングから、淀川の流れ、六甲の山並み、眼下に見下ろす梅田の摩天楼、大阪湾のきらめきを見るためには、私は「両親の痛み」を知らずして、決して前進してはいけないのだろうなあ・・・そう実感しています
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の献血

2005年11月03日 | にこにこ
 先日、横浜を歩いている時、停車中の日赤血液センターのバスに目が行き、ふらりと献血をしました。財布から献血手帳を出して渡し、申し込み書に記入していると、担当してくださった男性が、「ああ、昨年、この新しい手帳に替えた時に担当させていただいたのは私ですよ。ほら、この手帳の字、私が書かせていただいたものなのですよ。」と言われました。「まあ、そうなんですね。偶然です。どうぞよろしくお願いします!」と私も笑顔で返しました「偶然と言えば、昨年も10月31日になさっていますよ。ちょうど去年の今日、です!」
 私は心の中で苦笑しました。さっきは、「ふらりと献血をした」と書きましたが、実際には「ふらり」でもないのです。どうもこの時期になると、私は意識して、とことん意識して、日々一つでも多く「善行」をしよう!としてしまいます
 神奈川の考査が始まり、いよいよ東京の考査も始まる…というこの時期、私は毎年、同じ気分に襲われるのです。もう手の届かないとことにいってしまった、かわいい私の生徒達… ひとりで考査を受けている子供達に、何とか見えないパワーを送ってあげたい!そして、私はたーくさん善い事をしますから、どうぞ神様、子供達に報いを!(かなり俗物的ですねえ。こういうのは、がめつい大阪人だからの思考でしょうか)

 以前、口の悪い娘に、「ママって、献血が趣味なの?」と言われたことはありますそれもそのはず、じつは、私は今回の献血で54回目になります。まあ、この回数を見れば、娘が「趣味?」と言うのも無理はありません。18才、大学生になった記念に?との思いで、父の所属していたライオンズクラブが一つの奉仕活動としてしたやった献血キャンペーンに参加して以来あしかけ30年間、献血に励んでいます。私にとっては、もっとも身近な善行、でしょうか

 そんな私にとって、「血液」という響きには、特別の思いがあるのです。
あれは私が小学校6年生の頃だったでしょうか。日頃は気難しい父が、気持ちよく食事をし、少し酔いがまわっていた時のこと…
「おまえは難産でねえ。お母さんが分娩室に入ってから、何時間待っても待っても出て来ない…そんな時、担当医の先生が出てこられてね、悲痛な顔でお父さんに言われたんだ。大変な難産で、母子共に危険な状態にある、って。もちろん、どちらも元気に!というのは当然のことだけと、万が一、どちらかを優先する、ということになった時、お父さん、あなたはどちらを…とお考えでしょうか?ってね。おまえには申し訳ないけど、お父さんはすぐに答えたよ。どうぞ、家内を助けてやってください!ってね。」

話しはなおも続きました。

「そしてね、先生は、お母さんに輸血の必要があるから、すぐに取りに行って欲しいって言われてね…お父さんは、言われるままに、地下の血液センターに走ったよ。5階の産婦人科病棟からね…言われた通り、500ccの瓶、3本を持って急いで戻った…そして、暗い廊下で待ったんだ。今でも、あの時、5階の窓から見た町の風景と、氷るように冷たかった輸血用血液の瓶の感触、忘れることができない…」

 小学校6年生とは言っても、やはりまだまだ幼く、出産ということも、夫婦という関係も、人の死についても、すべてが自分の生活から遠いものでしたが、それでも、この父の話しは、確かに私の心にずしーんと届き、心に強く響きました。
 毎回、献血をするたびに、「人のために役に立とう!」とか「この私の血が、誰かのお役に立つのね…」などと意識をしているわけではありません。しかし、確かに私の身体から細いチューブを通って用意された袋に出ていく血液は、さまざまな成分に分けられて、誰かの身体に入っていくのでしょう

 あの日、私の向こう側で献血をしていた、とってもマッチョなお兄さん。子供の太ももほどもある二の腕には、立派なタトゥーがありました。彼は献血の間、自分の血管は細く、なぜか毎回苦労するのだ、という話しを、看護師さんと笑顔で話していました。私はその様子をぼんやりと見ながら、このマッチョ兄さんは、どんな思いがあって、何回も苦労しながら献血をしているのだろう…と考えていました



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする