まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

前向きに捉える!

2009年04月14日 | にこにこ
 前向きに捉える ― よく言われる言葉ですね
さまざまなことが起こっても、良いこと、悪いこと、起こったことのすべてのことを「あって良かったこと」として甘受し、それを肥やしとして成長していくこと、とでもいうのでしょうか。
 しかし、なかなかそれを上手にできる人は少ないように思います 特に子育て中のお母様方の場合は、「前向きに捉えられない、悲観的に感じてしまう」人が圧倒的に多いですねえ。なぜそうなんだろうか?と考えてみると・・・答えは簡単
 わが子の成長がスムーズに、効率良く、かつ効果的であることを心から願い、とにかく大小を問わず、トラブルは避けたい!と願っている・・・ということでしょう
 
 障害は、自分達親子の行く手を阻む大きな敵 わが子にとって不幸であるばかりか、わが子に降りかかったその不幸を排除するために、親も心身ともに奔走しないといけない、という「よけいな手間」が課せられてしまう・・・これは、親にとっても辛く、面倒なことに違いありません(ただ、この「親にとっても鬱陶しく厄介なもの」であるから、困難を回避したいと考えている自分、を認識している親は多くはありませんが

 じつは、私は「何事も前向きに捉えることが、非常に上手な人」である、と思っています。
 いつからこうなったのか?は定かではありませんが、少なくとも結婚をし、自分の両親の傘下から出て、人の妻、わが子達の母親となってからは、「どうあがいても、物事は自分の思い通りにはならない」「自分の努力だけでは、どうにもならないことはあるのだ」ということを悟ったからなのではないか?と考えています
 結婚前は、たとえば「こんな親の元に生まれた私の不幸」なーんて考えられたわけですが、夫は自己責任で自分が選んだ人、わが子は自分のDNAと、自分が選んだ夫のDNAを受け継いで生まれてきている上に、私が良しとする教育方法で育ててきているわけですものね。
 だから、夫や子どものことに文句を言うことは、天に唾すること、なわけで・・・
 そういう私たちに降りかかることは、結局は必然のことである、と思えるようになったのでしょう
 ・・・などと書きましたが、誤解を避けるために敢えて!
現在、私は幸せに暮らしていますよ そして何よりも、何事をも前向きに捉えるからこそ、流れに逆らわず、自分に与えられたことすべては「起こるべくして起こったこと」として、ありがたく受け止めていられるのです

 50歳を過ぎてから本格的に始めたスポーツ・・・すっかりはまっています
2年前の夏の夫の自転車事故の後、夫が無事に生活に復帰できたら、今度は一緒に楽しもう!と決めた思いと、常に教室で「がんばれ!がんばれ!がんばることは尊いことですよ!」と教えている私だからこそ、今度は私が誰よりも一番「がんばろう!」と誓った思い・・・
 今は、それがどんなに小さなことであっても、新しいことに挑戦するたびに、私は教室の生徒達の気分です
 教室を開いて16年。本当にたくさんの子ども達の「表情」を見てきました。
 今日はどんなことをするんだろう?と、ウキウキ気分で私を見上げる明るい顔。
 新しいカリキュラムの説明を聞いたとたん「うっ、わかんない・・・」と、狼狽でこわばった顔。
 何度も何度も説明を受け、「ああ!」とひらめいたり、つながったりして、理解できた時に輝くような表情
 スポーツをしている時の私は、まさに彼ら、そのものなんですよ

 ここ2か月の目標は、バイク用シューズを履いて、スムーズに自転車をこぎ、問題なく自転車の乗り降りができるようになること、でした
 レース用自転車のペダルにはアタッチメントのような金具がついていて、専用のシューズをカチャンとはめ込むようになっています。こうしてシューズとペダルを固定することによって、高速での走行がスムーズになり、「ペダルをこぐ」だけではなく「ペダルを引く」力も利用できるようになる、というわけなんですね
 ただ、不慣れな人にとっては、このペダルの金具へのシューズのはめ込み、はずし・・・が、なかなかネックになります(ペダルとシューズが固定されていますので、自転車を止めたとき、上手に金具を外していないと、そのままで転んでしまう危険性があるのです)
 もちろん、このペダルとシューズを使わずにレースに参戦しても問題ありません。ただ、やはりこれを使ったほうが効率良くペダリングができるので、40キロの距離をこぐことを考えれば良いに違いないですし、下り坂での安定性も断然良くなります。ということで、コーチからもお仲間達からも「練習!!」の命令が下っていました

 この間の日曜日にあった大井埠頭での練習では、やっと落ち着いて金具の着脱もできるようになり、走行にも自信が持てるようになりました
ところが、いよいよ走り終えて自転車を降りるときになって、ドッテーン お仲間達の間で言われる「立ちこけ」というやつを経験したのでした
 自転車を止めて降りるときには、ブレーキをかけながら、サドルからお尻を落とし(サドルが高いので、サドルに座ったままでは足が地面につかないのです)、左足だけペダルの金具からカチャンとシューズの固定を解きます。
 そして、止まると左足を地面について、やっと右足のシューズをペダル金具からはずすんですね。
 ところが・・・です
無事に練習を終えた私は無事に自転車を止め、左足を金具からはずしたのですが、そのとたんに気が緩んだんですねえ。先に到着していたお仲間達の「お疲れ様!上手になったね」の声にうれしくなって、満面の笑顔で応え・・・右足のシューズがまだペダルにくっついたままであることをふっと忘れてしまっていて・・・
 「あれれ?なんで私、右足が地面につかないの???」と思っているうちに、止まった状態で、ドッテーン
 
 笑えました
もちろん、止まっていますので、たんに、どったんと転んだだけですから、右手右足の軽い打ち身だけです
 「まどかさん、立ちこけは結構するわよ。でも、自分で勝手に転ぶだけだから、人に迷惑はかけないし、かなり恥ずかしくて格好悪いけれど、それだけのこと、問題なしよ」と言われてはいたものの、あの高さ(サドルまたがっていると、かなり高い気がします)からこけると、どうなるんだろうか?とか、どんな状況でその立ちこけが起こるのだろうか?など、想像しているだけはやっぱり不安でした

 そんな思いの中、私はめでたく「ドッテーン」と立ちこけをしたのでした。
どうして立ちこけが起こるのだろうか?という疑問にも答えがでました。私の場合、左の靴を上手くはずしたにも関わらず、右側の人たちに気を取られ、左側に降りようとせず、思わず右側に降りようとしてしまった・・・
 どうなるんだろう?との疑問の答えは、まるでスローモーションのように右側に倒れていき、なかなかその間に首尾よく右側のペダルの金具を外すのは難しい、ということ・・・
 決して負け惜しみではなく、「ああ、レースまでに立ちこけも出来て良かった」と思いました。もちろん、倒れないのが一番良いのですが、「知らないこと」があるのは不安なんですね。

 私は、今回のバイクシューズに挑戦した練習では、たくさんの「問題、不都合」を経験しました。
  シューズを履いてみると、靴裏の前の部分に金具がついているため、とても歩きにくくて、つるんと滑りやすいこともわかりました。
  初めてシューズをはき、まずは右側をペダルの金具にはめようと焦ると、ペダルの表裏を考える余裕がなくて、かえって上手くいなかいことを知りました。
  右足でこぎ始め、焦って左側を入れようとしたとたん、ペダルがつるっと滑って、しこたま左足の弁慶の泣き所をぶっつけてしまいました。
  右側に気を取られると、足がはずれていないことを思わず忘れてしまうことも学習しました。
  立ちこけしても、案外痛くないこともわかりました。
 ぜんぶ、知っていて、経験して、本当によかったと思います

 つい先日、就職活動をしていた娘が、やっと内定をいただきました
大学受験を思うように終えた娘にとって、今回の就職活動は、競争をする機会の少ない彼女の人生の中で、初めての辛い試練の毎日だったようです。
 でも、暗い顔をしながら遅くまでエントリーシートを書いている(のであろう)娘の重い空気を感じながら、私は思ったものです。
「無駄な経験なんて、なーんにもない 転んでも、泣き笑いをしながら立ち上がりなさい!辛い経験も、ぜんぶぜんぶあなたの生きる肥やしになるのだから」と。
 
 これから先、長い長い人生を歩いていくわが子に、前向きに生きていくことのすばらしさ、大切さを教えてあげられるのは両親です。
 その両親が目の前の事象に一喜一憂していては、きっと子どもは大きな人間には育たないのではないでしょうか ねえ・・・

 
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装いについて、ちょっと考えてみませんか?

2009年04月07日 | ふーん
 先日、中高大と10年間、ともに学んだ友人とランチをしました まさにツーカーの仲 その日は、結構きれいに装ったオバサン達ではありましたが、食事をしながらも、私達はティッシュを片手に大爆笑し・・・これで私達の話す大阪弁が品の悪い大阪弁でなければ、きっと顰蹙をかってしまうのでしょう
 話題は昔のことに留まらず、大阪を離れて暮らす26年間(彼女はすでに28年間、東京暮らしをしています)をもよく理解している彼女との会話は、本当にリラックスできるものです

 私は母校のある郷里を離れて暮らしていますので、なかなか同級生、同窓生と一緒に時間を過ごす・・・ということはありません。数年に1度程度、中学部、高等部の同窓会も行われますが、懐かしい思いで参加しても、結局は私は「遠来の客」。思い出話だけではもたなくなってしまいます
 というのも、私の母校は地元の私立校という少々特殊な事情もあり、同級生達の多くは、現在も「わが子を母校に通わせているママ仲間」で、まさに、彼女達の付き合いは、大学の卒業式は「第一部の幕」であり、その後は「母親編」の「第二部」が始まり、今も現在進行形で続いている・・・という場合が多いのです
 まあ、こういう状況を思えば、私達は遠来の客であるのは仕方のないことでしょう。

 そんな状況のもと、7月に東京支部の同窓会がある、というのです 母校は、幼稚園から大学までの一貫校で、東京支部の同窓会、というと、幼小中高大すべてを含めた学院の同窓会です。ちなみに、サッカーの日本代表チームの監督「おかちゃん」は、学院の小学部、中学の男子部の卒業生です
 今度の東京支部の同窓会は、先日会った友人のお姉さんの学年が幹事をなさるとのこと。そこで、私達も勇んで出席することにしましょう、と話し合いました
 そこで、話題になったのが「その日の装い」でした そして何よりおかしく、笑ったのが、彼女の言ったひとこと「よそいき」という言葉でした

 「よそいき」私達が使ったその言葉は、「余所行き(よそゆき)」というのが正しい言葉だそうです。
 辞書で調べてみると、「あらたまった席、外出する時に着る衣類、そのための装い」とありました。
 いかがですか?みなさんは普段、この言葉を使われるでしょうか?
私は昭和33年生まれですが、当時はよく耳にする言葉でしたねえ・・・
  「さあ、出かけるから、着替えましょ!さすがに、ちょっとよそいきに着替えていかんと失礼やから・・・」
  「きゃー、かわいい 今日は○○ちゃん、よそいきを着てはるー!」
  「お母さん、よそいきの格好して、どこに行くのん?」などなど。
 でも、いつの頃から、あまり聞かなくなり・・・自分でも、「母」の言葉として、わが子に「よそいき(よそゆき)に着替えましょう!」というようなことを言った記憶は多くはありません。
 そう思うと、確かに、冠婚葬祭にまつわる装いの支度はしても、いつの間にか「よそいき」という考え方は消滅してしまったのかもしれないですねえ。

 社会が豊かになり、普段の格好が、それほどみっともない、まさに「普段着」ではなくなってきているのでしょう
 それに、本当の意味での普段着、つまり、自宅でくつろぐ時の装いも様変わりし、パジャマと兼用になるようなホームウエアやオシャレなスウェットが一般化され、分類が「よそいきと普段着」ではなく、「外出着とホームウエア」になったのでしょうね。
 そう言えば・・・ 磯野波平さんやかつおくんが着るような「ザ・パジャマ」は、小さな子どもを持つ家族の中では、姿を消しつつあります。
 昔は、ネルという圧縮されたような生地が、冬のパジャマの定番だったような記憶があるのですが・・・

 今の子ども達は、「よそいきに着替える」ということがなくなった分、気持ちの切り替えがしにくくなったのではないでしょうか?
 私は、友人とのその会話の中に登場した「よそいき」という言葉から、ふっとそんなことを考えてしまいました。
 
 昔は・・・髪をとかしてもらい、きれに結んでもらってリボンをしてもらうと、出かける気分になりましたねえ
 ワンピースを着たり、ピシッとアイロンのあたったブラウスにスカート。スカートの吊りひもが肩からずり落ちないように、母は何かと工夫をしてくれていました
 白いソックスにエナメルの黒のパッチン靴・・・レディーになった気分でした
 自然に、立ち居振る舞いも、姿勢も、ピシリとしましたねえ・・・

 もう2年ほど前になるでしょうか。
飛行機の機内誌の記事に、とても興味深いものがありました。それは、関西学院大学の社会学の先生、(確か川島恵美先生、という方だったと思います)が書かれた記事で、「非言語的コミュニケーションの影響力」というものだったと思います。
 私はその分野に精通しているわけではないので、多くを論じることは出来ませんが、私なりに解釈し、少しお話をさせていただくと・・・

 人のコミュニケーション手段には大別して2つあり、一つが言語を介するもの。つまり、話す、ことですね。
 もう一つが非言語的コミュニケーションで、話しの内容、書く内容そのものではなく、話す時の声の大きさやトーン、表情や姿勢、服装や髪型、外見、というものです。
 こういうものがが互いに一致すると、そこに「理解」が生まれます
 一致することが多ければ、理解は深まり、それはしだいに信頼に発展したりします
 しかし、なかなかスムーズに一致するものがなかったという場合には、人は一生懸命により深く理解しようと努め、2:8位の割合で「言語そのもの」以上に「非言語」を手がかりにして、理解を深めようとすることが多いのだそうです。

 私はこれを読んだ時、なるほどなあ・・・と思いました そして、自分なりにいろいろなシチュエーションを想像してみました。
 たとえば・・・
お話を聞いていて、「むー、あの人の言うことは、確かに正しい」と感じても、どうもその人のことを「すばらしい ステキだ」とすんなりと思えない・・・どうも好感が持てない・・・そんなことがありますよね。そんな時、私はよく自分のそういう気持ちを不思議だなあ、と感じたのでした。言われていることには共感できるのに、あまり好きではない人・・・どうぞしっくりとこない人・・・
 でも、この先生のお話で考えれば、不可解とも思えるこの私の気持ちが、とても理解しやすくなりました

 つまり、この場合、言語のチャンネルでは確かに共感できる内容が語られたのに、語った人の「非言語チャンネル」が私にアピールしなかった、私を拒絶させる要素が多かった、ということでしょう。
 たとえば・・・その人の話し方がとてもイヤだったとか、声が気にかかったとか装いが適当すぎて好感が持てなかったとか・・・こういういくつもの「非言語的なマイナス要素」があったため、お話の内容には非常に共感し、理解したのに、総合的には「その人やその話は私に十分アピールしなかった」という結果になってしまった、ということなのでしょう。

 私は、この記事を読んでいて、あらためて表情、話し方、立ち居振る舞いの重要性を実感し、同時に「人の装いの大切さ」を痛感したのでした。
 今ではほとんど聞かなくなってしまった「よそいき」という言葉や考え方は、本当はとても大切なものだったのではないか?と思ったのでした

 「人を見た目で判断してはいけません!」確かにそうですね。
でも、見た目でしか判断できないほど、まだまだ縁が薄い時には、やはり「見た目」の印象は大きくならざるを得ません
 そして、先ほどの「2:8」の比率を考えると、どんなに内容が良くても、その影響力が「2」であるならば、残りの「8」に気遣わなければ元も子もなくなってしまうわけですよね。

 あらためて。親子の装い・・・考えてみませんか?

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