あっ、ドアが開いた・・・どうしたのかしら、勉強に集中していないのかも
むー、遅いわねえ・・・ 何かあった?いやいや、そんなわけはないか
これは、我が家の二人の子どものうち、「手のかかったほう」の子どもに対しての「私」です
浪人中、私はパソコンに向かいながらも、いつも廊下の向こうの子ども部屋に神経を集中していましたし、我が子の話す言葉に、何か隠れた深い意味はないか?行動を見ながら、何かマイナスの変化はないか?ずっとそんなことを気にしながら、生活をしていました
父親である主人もまた、母親の私とは違う反応ではありましたが、やはり我が子のことをずっと気にかけ、見ていないようなふりをしながらも、かなり神経を集中して子どもの変化を見落とすまいとしていたと思います
まあ、こういう両親の態度、様子を「我が子を見守る」という言葉で表現をすれば、非常に体裁の良い姿ですが、私達の気持ちは、大真面目に「見守って」いたものの、今振り返ってみると、ここまで両親の目と心が我が子に向いていると、当の子どもからすれば、「監視されている」と感じていたかもしれない・・・そう思います
こういう状況の中で、もう一方のわが子
良くも悪くも、常に手のかかったもう一人の陰となり、こちらは何でも自分でやってのけました
卵が先か?ニワトリが先か?ではありますが、親がもう一人に手を焼いている間、こちらは「仕方がないから一人でやった?」それとも「しめしめ、親の注意がそれほどこちらに向いていないうちに、じゃんじゃん自分の思うように事を進めてしまおう!」と思ったのか?
まあ、どちらかは定かではありませんが(きっと、その両方が相まっていたのでしょうね)、いずれにしても、こちらはとっとと我が道を「上手に」進んでいます
最近、私はあらためてよく思うのです
幸福な家庭に生まれた子ども達にとっては、目が届く不幸せ??・・・とでも言うのでしょうか。
我が家の場合、すでにすっかり大きくなっていますので、子どもにとって親のお世話焼きは、それほど大きな問題になりません 彼らが十分に大人だから、親に目や手をかけられても、基本的には彼らには彼らの世界があり、上手に親の「干渉?世話焼き?」をかわしながら生活ができます
適当に「はい、はい」と返事をして、いっこうに気にしない、というようなこともできますし、家庭に波風を立てないように(これも、自分が気持ちよく暮らすのため、という理由であり、親への気遣いは二の次、でしょう)表だって反抗こそしないまでも、後ろ向いて大きくアッカンベーをしたり、自室でクッションを思いっきり殴ったり・・・
しかし、まだまだ小さな子どもには、そんな器用な業はありません
真っ向から親の「攻撃」という尊い愛情(そうです、子どもにとって、親の愛情は七変化、なのですから)を喰らい、にっちもさっちもいかなくなる・・・
現代の親達は、微に入り、細に入り、子ども達に干渉します もちろん、親はそんなことに気づいていません。なぜなら、その干渉は「尊い愛情の一つ」ですからね
親が愛情の名のもとに行う子どもへのお節介とも言うべき手出し口出しは、子どもの自発性を失わせ、自らの力を用いての表現力を奪い、子どもの挑戦への意欲を減退させています
何か新しいことに取り組む時にも、親が細かい指示さえしなければ、3歳は3歳なりの、4歳は4歳なりの「知恵」を働かせ、とにかく、行動を起こすでしょう
たとえ時間がかかっても、そこに親の監視の目がなければ、それなりの行動を起こすはずです。もちろん、「逃げる」という退却の選択もありますが、それさえも、自分の力で考え、自分で決めたこと、ですからね
本来、親の干渉は、社会的なルールやマナーを教える、ということに使われなければなりません
公共でのマナーを教える、ということであったり、他人に迷惑をかけないために、子どもの行動上での注意を与え、エチケットを教える・・・など。
しかし、今は、こういうことに一生懸命になる親は極端に少なく、我が子の「能力的な成長」ばかりに躍起になります
我が子の自主性を重んじ、個性を尊重して欲しい・・・これが、現代の家庭の、学校への第一の希望です
しかし、これは、半熟卵しか用意せず、一流のコックさんに「おいしい卵サラダを作ってください!」と言っているようなものです 一流のコックさんを招き、高級な食器を用意し、花や観葉植物で飾った部屋に、すばらしいBGMを流す・・・しかし、肝心の食材は未成熟 見た目は良くても、中はすかすかだったり、味のない形ばかりが良いものだったり。
確かに、こういう例えはかなり極端ではありますが、意味はご理解いただけるでしょう
目をかけ、手をかけ・・・それは尊い愛情です 辛辣な比喩で、若いご両親を批判する私も、実際には我が子に「目をかけ、手をかけ」てきた一人です
けれど、その程度を十分に考え、目をかけすぎず、手をかけすぎずに見守ること
時には我が子が転んでも、必死にこらえて手を出さず、自ら立ち上がり、歩き出すだけの強さと知恵を育てる「忍耐」も愛情のひとつでしょうね
きっとあなたも、昔は、自分の親の尊い愛情を、鬱陶しいものとして感じたこと・・・あるでしょう
むー、遅いわねえ・・・ 何かあった?いやいや、そんなわけはないか
これは、我が家の二人の子どものうち、「手のかかったほう」の子どもに対しての「私」です
浪人中、私はパソコンに向かいながらも、いつも廊下の向こうの子ども部屋に神経を集中していましたし、我が子の話す言葉に、何か隠れた深い意味はないか?行動を見ながら、何かマイナスの変化はないか?ずっとそんなことを気にしながら、生活をしていました
父親である主人もまた、母親の私とは違う反応ではありましたが、やはり我が子のことをずっと気にかけ、見ていないようなふりをしながらも、かなり神経を集中して子どもの変化を見落とすまいとしていたと思います
まあ、こういう両親の態度、様子を「我が子を見守る」という言葉で表現をすれば、非常に体裁の良い姿ですが、私達の気持ちは、大真面目に「見守って」いたものの、今振り返ってみると、ここまで両親の目と心が我が子に向いていると、当の子どもからすれば、「監視されている」と感じていたかもしれない・・・そう思います
こういう状況の中で、もう一方のわが子
良くも悪くも、常に手のかかったもう一人の陰となり、こちらは何でも自分でやってのけました
卵が先か?ニワトリが先か?ではありますが、親がもう一人に手を焼いている間、こちらは「仕方がないから一人でやった?」それとも「しめしめ、親の注意がそれほどこちらに向いていないうちに、じゃんじゃん自分の思うように事を進めてしまおう!」と思ったのか?
まあ、どちらかは定かではありませんが(きっと、その両方が相まっていたのでしょうね)、いずれにしても、こちらはとっとと我が道を「上手に」進んでいます
最近、私はあらためてよく思うのです
幸福な家庭に生まれた子ども達にとっては、目が届く不幸せ??・・・とでも言うのでしょうか。
我が家の場合、すでにすっかり大きくなっていますので、子どもにとって親のお世話焼きは、それほど大きな問題になりません 彼らが十分に大人だから、親に目や手をかけられても、基本的には彼らには彼らの世界があり、上手に親の「干渉?世話焼き?」をかわしながら生活ができます
適当に「はい、はい」と返事をして、いっこうに気にしない、というようなこともできますし、家庭に波風を立てないように(これも、自分が気持ちよく暮らすのため、という理由であり、親への気遣いは二の次、でしょう)表だって反抗こそしないまでも、後ろ向いて大きくアッカンベーをしたり、自室でクッションを思いっきり殴ったり・・・
しかし、まだまだ小さな子どもには、そんな器用な業はありません
真っ向から親の「攻撃」という尊い愛情(そうです、子どもにとって、親の愛情は七変化、なのですから)を喰らい、にっちもさっちもいかなくなる・・・
現代の親達は、微に入り、細に入り、子ども達に干渉します もちろん、親はそんなことに気づいていません。なぜなら、その干渉は「尊い愛情の一つ」ですからね
親が愛情の名のもとに行う子どもへのお節介とも言うべき手出し口出しは、子どもの自発性を失わせ、自らの力を用いての表現力を奪い、子どもの挑戦への意欲を減退させています
何か新しいことに取り組む時にも、親が細かい指示さえしなければ、3歳は3歳なりの、4歳は4歳なりの「知恵」を働かせ、とにかく、行動を起こすでしょう
たとえ時間がかかっても、そこに親の監視の目がなければ、それなりの行動を起こすはずです。もちろん、「逃げる」という退却の選択もありますが、それさえも、自分の力で考え、自分で決めたこと、ですからね
本来、親の干渉は、社会的なルールやマナーを教える、ということに使われなければなりません
公共でのマナーを教える、ということであったり、他人に迷惑をかけないために、子どもの行動上での注意を与え、エチケットを教える・・・など。
しかし、今は、こういうことに一生懸命になる親は極端に少なく、我が子の「能力的な成長」ばかりに躍起になります
我が子の自主性を重んじ、個性を尊重して欲しい・・・これが、現代の家庭の、学校への第一の希望です
しかし、これは、半熟卵しか用意せず、一流のコックさんに「おいしい卵サラダを作ってください!」と言っているようなものです 一流のコックさんを招き、高級な食器を用意し、花や観葉植物で飾った部屋に、すばらしいBGMを流す・・・しかし、肝心の食材は未成熟 見た目は良くても、中はすかすかだったり、味のない形ばかりが良いものだったり。
確かに、こういう例えはかなり極端ではありますが、意味はご理解いただけるでしょう
目をかけ、手をかけ・・・それは尊い愛情です 辛辣な比喩で、若いご両親を批判する私も、実際には我が子に「目をかけ、手をかけ」てきた一人です
けれど、その程度を十分に考え、目をかけすぎず、手をかけすぎずに見守ること
時には我が子が転んでも、必死にこらえて手を出さず、自ら立ち上がり、歩き出すだけの強さと知恵を育てる「忍耐」も愛情のひとつでしょうね
きっとあなたも、昔は、自分の親の尊い愛情を、鬱陶しいものとして感じたこと・・・あるでしょう