まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

たかがキャンディー、ですが・・・

2007年01月28日 | う゛う゛ー
 先日、行きつけの美容院に行きました いつもお願いする美容師Iさんとは、すでに10年以上のお付き合い。元町の草分け的美容院のオーナーでもあるIさんは、ヘアーアーティストとしての腕もさることながら、しっかりとしたご自分をお持ちのとても魅力的な方で、最近ウッディーに改装された店内も、お店で働く美容師さん達も、当然I氏の厳しい目にパスした上級のもの 月に一度の美容院通いは、とても楽しみな時間です

 そんなIさんとは、いつもカットやカラーをしていただきながら、多方面のお話をするのですが、先日は「最近の親子談義」に花が咲きました
 Iさんの美容室には、乾燥する店内を気遣って、あちこちにキャンディーボウルがさりげなく置かれています おしゃべりの私などは、時々話しすぎて喉がカサカサになり、遠慮がちにではありますが、そこに置かれたキャンディーをいただきます
 今回、そのキャンディーが話題になったのですが、Iさん曰く・・・
「うちのお店は一見さんは少ないのですが、でも時々、ふらりと子ども連れのお客様が来てくださるんです そんな時、お子さんはお母さんのカットが終わるのを、入り口近くのソファで待っていてね、次から次へとキャンディーをバリバリ・・・ お母さんも、それを見ていても平気なんですね。なーんにもおっしゃらない 僕なんか小さい頃、同じように店の人がくださるものをもらう時も、何となく躊躇し、いただいてしまって良いものかどうか心配になり、親の顔を見たものですよ そしたら、父や母が「じゃあ、ひとついただきなさい」って声をかけてくれてね。それでやっと安心していただいたものです 気を利かせて、さあもう一つどうぞ、なんて言ってくださろうもんなら、心の中ではうれしくても、僕自身はもっともっと困ってしまって また親の顔を見て・・・そしたら、親も苦笑しながらお店の方に、すみませんねえ、お気遣いをいただいて、なんて声をかけ・・・僕には「じゃあ、最後のひとつをいただきなさい」なーんてね。ちゃんと静かに釘を刺すって言うんでしょうか そんなもんだったですよねえ・・・そんなことを思い出しながら、何だか、ちょっとバリバリと食べる子も、何も言わない親も、見ていたら悲しくなってしまいます・・・

 私はI氏が話された「そんな様子」を、思い浮かべることができました 私とIさんは、確か10歳ほど年が違うのですが、私が子どもの頃も、まさにそういう感じでした。

 両親と一緒にお邪魔をしたお宅 お茶菓子として出されたお菓子は、気を利かせた亭主が帰り際、「さあお嬢ちゃん、これをどうぞ」と言って、半紙に包んで「ありがとうございます」といただいてしまうのは憚られ、必ず父や母の顔を見て、確認をしてからニッコリとして、いただいたものです

 お店の試食なども、やはりいただくのはお行儀が悪い、と母に注意されていたように覚えています ですから、今の子ども達のように、試食の前に群がって次から次へとパクパクと食べる、などということはさもしいことと思えてしまいます 

 確かに、お店に置かれたキャンディーは、「どうぞ、ご自由にお召し上がり下さい!」ということであり、それがイヤなら置かなければいいんじゃない!という理屈もあるでしょうね
 もしここで、昭和の時代のことは知りません とにかく、今の時代は、「置いてあるものは、自由にいただいて良い」という意味と解釈をするわ!と言われてしまうと、ピシャリと、上手にそれに反論することはできない・・・そうも思うのです
 しかし、お行儀や礼儀云々ではなく、こんな理屈はいかがでしょう?

 そこに用意されたキャンディーは、「お客様向け」のもの。
お客様とは、そこでカットやパーマ、カラーという施術を受け、それに対してお支払いをする人のことを言います
 そういう意味では、母親の付き添いであり、時々フロアをうろうろして美容師さん達に迷惑をかけたり、時には泣いたり、大声を出して他のお客様を不愉快にさせる子どもは、その日の「お客様」ではないのです
 キャンディーのサービスは、オーナーの心遣いではありますが、そこが美容院という有料の施設である限りは、その心遣いは、お客様へのサービスの一環、そういうことでしょう

 この話題は、「たかがキャンディー」の話しですから、ケチなことを言うなよという反感を買ってしまうかもしれませんね。しかし、やっぱり私は「されどキャンディー」の話しであり、キャンディーはあくまで「ひとつの例」であって、この話題の本質は「キャンディー」ではなく、本当は「親の社会への意識」だと思うのです
 
 じつはこのIさんとの話しは、次から次へと「今どきの親子」の新しい話題へと発展し・・その日のカットとカラーは、まるで幼児教育の座談会に出席したかのような充実感がありました

 ちなみにIさんは、ギャングの盛りであるご子息、幼稚園児のパパでもあり、日々試行錯誤をし、いろいろ考えながら育児を楽しんでおられます
 たかがキャンデー、されどキャンディー・・・あなたなら、いかがですか?

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子どもの経験、親しだい

2007年01月20日 | う゛う゛ー
 午前中、めずらしくテレビをつけてみると、まあ何と、「冬のソナタ」が出てきました また再放送をしているのですねえ

 私が初めてNHKのBSで、土曜日の深夜に「冬のソナタ」放送をしているのを観てから、すでに4年になるでしょうか。
 まさかあの後、すごいオバサンパワーの韓流ブームが起きるとも知らず、当時はドラマの中の「イ・ミニョンさん」がすてきだなあ、と思って私も機嫌よく観ていたものです
 「見るからに知的で、外国語が堪能な、ただの欧米かぶれではない国際派の、アグレッシブなメガネをかけた男性が理想」という、とっても欲張りな私にとって、ドラマの中のイ・ミニョンさんは、まさに憧れの人でした
 しかし、先日、久しぶり「冬のソナタ」のスキー場でのシーンを見ていて、あらためて私は「あー、この俳優さん達の薄着は気の毒だあ・・・」と痛感したのでした

 韓流ブーム全盛の頃、あの冬のソナタの撮影秘話などが頻繁に語られ、真冬のソウルや春川、スキー場でのシーンの寒さは俳優たちを苦しめた、とか、マイナス10度の中での撮影・・・などと言われましたが、正直、あまりピンときていなかったのです ふーん、そうなんだあ、程度、でしょうか
 しかし、昨年の12月初旬、3泊4日で主人と二人でソウルを訪れた私は、タイミングよくソウルでの初雪の日に到着し、郊外の水原ではツルツルに凍った道やつららの中を歩き、本当に「寒い韓国」を実感したのでした
 熟年アスリートの主人は、体脂肪率が非常に低く、ホテルから一歩外に出ると寒い寒いしか言えず・・・ ズボンの下にはタイツ、カシミヤのセーターの下はロングT-シャツ、マフラー、手袋にダウンジャケットのいでたちでも不十分だったのでした

 私はドラマの中で、スキー場のゲレンデをバックにベンチで語るペ・ヨンジュンさんとチェ・ジュウさんの白い息を観ながら、
 「あー、どんなにテレビの画像が進化し、デジタルハイビジョンの映像を見て、まさに自分がそこにいるように感じられる画像が配信されるようになっても、実際に「体感」しないと感じられないものはあるんだなあ・・・」と、しみじみと思ったものです

 ああ、そうか
あのソウルでの千切れるような耳の冷たさ、手袋なしでは指先がしびれてしまう寒さ・・・そんな冬の寒さで、「透き通るような純愛のピュアさ」を一層演出したかったんだなあ、と、あらためて監督さんの意図を読み取ったような気がしたのでした

 実際に体感するから、いやでも何かを肌で感じる・・・
 実際に経験をするから、頭ではなく体で感じる・・・

 そうなんですねえ
それがどんな些細なことでも、見たり、聞いたりして「頭」で理解するのと、その場に自分が置かれて経験するのとでは、まったく感じ方、考え方の深さが違ってくるのでしょう

 親が子どもに与えてあげられるチャンス、経験をさせてあげられることは、無限にあるわけではありません。
 しかし、わが子にたくさんのチャンスを与えてやろうという意思、一つでも多く経験させてやりたい、という気持ちが親になければ??? 子どもには何も起こりません

 成長したわが子が、広い世界の中で、自分の意思で多くの経験をする・・・そういう時期がくるまでは、やはり子どもは「どういう考えを持った親の元で育つか?」に大きく影響されます
 親の責任・・・大きいですね
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確かに利発な少年だったけど・・・

2007年01月16日 | う゛う゛ー

 先日、電車に乗り込むと、突然に携帯電話が鳴りました 電話ではなく、メールだったためにすぐに音は鳴りやみましたが、それでも、確かに派手に携帯電話は鳴りました
 すっかり言い訳ですが・・・24時間、携帯電話をオンにしている私は、頻繁にマナーモードにしたり解除したりを繰り返します。昨日は、ついうっかり電車に乗る時にマナーモードをオンにするのを忘れたままで乗り込んでしまったのでした

 そう、その電話が鳴ったとたん、前に座っていた2年生くらいに見える、ランドセルを背負った男の子が・・・
  「マナーモードにしてください
と、すかさず私に注意をしました
 比較的静かだった車内に鳴り響いた着信音で、すっかり動揺してしまっていた私は、すぐに慌てて携帯電話の操作をしながら、
  「ほんと、その通りよねごめんなさいね」と応えました。
 男の子は、次の駅で降りて行きました
 
 とっても賢そうな、しっかりとした子でした
電車の中では、携帯電話はマナーモードにする!それは、誰もが守るべき極々当たり前のルールです。
 大声でしゃべるような女子高生や、傍若無人ないまどきの若者でもあるまいし、ついうっかりとは言えそんなマナーも守れず、車内で大きな着信音を響かせたオバサンは、叱られて当然です

 でも・・・どうしてなのか、私の気分はしっくりとはいきませんでした。何と言おうと私が悪いのです それでもなお、何だかすっきりしない・・・
 私に注意をした男の子は、間違っていません。ましてや、勇気をもって大人に注意をするなんて、とてもすばらしい行為です でも・・・

 同乗していた私の友人も、じつは同じ気分を感じていたらしく、少年が降りた後、「むー、確かに、あの子の言う通りなんだけどね・・・」と言いました。
 ああ、彼女も私と同じ気持ちなんだな。彼女のそのひと言で、急に私も、「しっくりといかない気分」について話したくなりました。

 物事には「善」と「悪」があります。
時には、その中間、つまり「善でもなければ、悪でもない」という場合は、ほとんどありません まあ、善悪の中間の「どちらでもない」ものもあるでしょうが、実際には、それはその時々の状況によって、条件がつけられたり、例外になったり、注釈がつけられたり・・・ということであり、やっぱり本来は「中間」はないでしょう

 しかし、男の子が降りていった後、友人と私がいろいろと話し合った結果、到達した結論は・・・
 「正しいことを言う、ということが、いつも『良い』わけではない」 でした。

 いかがですか?実際に生活をしていると、こういうことはよくありませんか?

 じつは、子供の世界、幼稚園や学校などの団体生活の場では、頻繁にここが「人付き合いのポイント」になっています
 たとえば、Aちゃん。とても利発で、先生からの評価も高い ママ達の中でもAちゃんはしっかりとした賢いお子さんだ、という評判です
 そのAちゃんは、よく先生にこんなことを報告します・・・

  「先生、○○ちゃんは廊下を走っていました!走ってはいけないというお約束を守りませんでした。」
  「先生、△△ちゃんがおしゃべりを止めません。~~な時はおしゃべりをしてはいけないのに・・・」
 Aちゃんのご両親は、きっと我が子のことを「非常に正義感が強く、悪いこと、間違ったことを許せない子供」だと、秘かに我が子のその部分を長所として自負されることでしょう 確かに、その通りです ご両親が自慢に思われるのは、非常に自然な思いでしょう

 しかし、とても残念なことではありますが・・・
子供の世界の中でのAちゃんの評価は、時には「なかなか難しいポジション」ということもあり得るのです
 間違いなく、Aちゃんは「一目置かれる存在」です これは間違いのない事実でしょうね。
 ただ、時には、正義感強く、何でも正そうとする姿勢は、同年代の世界の中では「鬱陶しい」「うるさい」「煙たい」という存在、として見られてしまうこともあるのです

 現代社会の中では、子供の世界でも、たぶん大人の世界でも、ヒーローの存在はいつも「ビニョー・微妙」なのです
 換言すれば、勧善懲悪とは、アニメや映画、ドラマの中だけで拍手喝采される対象であり、実際の世界ではなかなかそうはいかない・・・

 ただ
親が物事の善悪を教えなければならない、ということは、至極当然のことです。
 しかし、問題は、「そのあと」なんですね

 ついつい、大人は「善を善」「悪を悪」として評価することをすばらしいこととして感じています もちろん、善悪を正しく認識することは大切です。
 しかし、子供がハッピーに団体生活の中で生きていくために、親がもっと力を入れて教えるべきは、「それをどう表現するか?」ではないでしょうか?

 先ほどのAちゃんの話しですが。
たとえば・・・Aちゃんが先生に○○ちゃんはいけない、と言いに行くのではなく、直接○○ちゃんに「○○ちゃん、廊下を走っていたら危ないよー、転んじゃったらAちゃんがケガしてしまうかもしれないよ!」と言うとしたら??
 少しは言葉の響きは違ってくるでしょう

 つまり・・・言葉は生きているのです
言葉の使い方ひとつで、さまざまなものが大きく違ってくるのですね。聞いた人がどのように感じるか?によって、語られたことが、たとえ正しいことであったとして、評価されない、という現実があります
 これは親子の間でもそうですね
話した言葉がどんなに正しくとも、相手に伝われないようであれば、それはその言葉は生きてはいないのです

 「悪」を感じた時、それをどう伝え、正すか?
 自己満足ではなく、話す相手に伝わり、心に響く言葉を話す、とは?
これは、老若何女、すべての人にとって永遠のテーマなのでしょうね

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「親の役割 2」

2007年01月05日 | にこにこ
 
 2年ほど前、真鶴の海岸で、父親と一緒にウェットスーツを着て歩く小さな男の子の姿を見て、「親の趣味に付き合う子供は大変だあ」というようなことを書いたことがあります (「親の趣味は、子供の趣味?!
 その親子は、私からずっと離れたところで歩いていたので、男の子が嬉々として父親と一緒に歩いていたのか、それとも、気乗りはしないけれども、仕方なく父親の趣味に付き合い、こそこそと父の隣を歩いていたのかはよくわかりません。
 しかし、子供が幼い頃は、かなり大きなウェイトを占めて、「親の趣味」や「親の意向」「親の願い」などによって、子供の趣味、おけいこ、余暇の時間の過ごし方が決まっています
 そして、そういうものは「すりこみ」とでも言うのでしょうか、子供が成長をしていく上で、避けがたいもの?として子供の生活や気持ちの中に残ったり、自然とそちらの方向に進んでいくというかたちをとったりして、子供の人生に影響していくものでしょう
 もちろん、中には、幼い頃に父や母に半ば強制され、連れていかれた、やらされた、という反動で、「絶対にアレだけはしない!」という強い反発?拒否反応?になる場合もあるのでしょうが・・・

 たとえば私の場合。両親は山岳会に所属して、本格的な登山をしていました そして、大の社寺仏閣や仏像が好きでした。
 ですから、私の家族の日曜日は、2通りの使い方しかありませんでした 春や夏のアルプス山行のため、近くの1000メーター級の山にトレーニングとして登る、か、京都や奈良のお寺や神社を訪れる、だったわけです。まあ、当時はマイホームパパ、などという考え方は一般的ではありませんでしたし、むしろ、どこのお父さんも「こわい」と相場が決まっていましたので、父親の号令一過、今週は山、今週はお寺、と「私の日曜日」の予定も決まったのでした
 そんな私は、今でも仏像やお寺が大好きです 結婚後は大阪を離れましたので、京都や奈良はすっかり遠くなり、簡単に行けるところではなくなってしまいましたが、未だに幼い頃のある雨の日、小さな厨子に収まった浄瑠璃時の吉祥天女像(当時は、常に見ることができました)の不思議な優しさ、西芳寺(一般的には苔寺と呼ばれ、現在は世界遺産)の静かで美しい庭園(こちらも、当時は申し込みなしでいつでも入れました)を忘れることはできません

 しかし、その一方で、登山には長い間、拒否反応がありました
中学2年という多感な頃に、山岳会の身近な人が春の穂高岳滝谷で遭難死をした、というショックもあって、一生、登山はするまい、と身体が拒否していましたねえ・・・
 これは間違いなく、友達が当たり前のように、日曜日に家族と行っている動物園や遊園地にはちっとも行けず、いつもトレーニングの時でさえ重い荷物を背負って、何時間も何時間も黙々と「歩かされた」ことに対する強い反発だったのでした。
(そういう私が2年前から、また夏山を始めたのは、決してまた歩くことに興味を持ったのではなく、私が「枯れて」、自然の雄大さを目の当たりにすることのできる山に魅力を見いだしたせいと、主人とのこれからの楽しみの一つとして、そこに価値を見いだしたから、です

 少し話しが横道に逸れましたが・・・
『幼い子供達は、親の趣味や意向、親の願いや夢などによって、趣味、おけいこ、余暇の時間の過ごし方が決まってしまう』ということ
 もちろん、これを「悪い」と言っているのではありません
子供の世界は狭いものですから、たくさんの新しいものを与えてあげなければ、好むと好まざるとに関わらず、自分の狭い子供の世界の中に留まっていることになります
 親の趣味に同行させる、親の夢を託し与えることは、一つの新しい「チャンス」に他なりません 「チャンス」は子供を磨き、成長を促す大きな原動力ですからね
 
 違った見方をすれば・・・親の見果てぬ夢をも含めて、やはり豊かな趣味を持った親、大きな夢をもった親の元に育つ子供は、豊かな感性を磨くたくさんのチャンスに恵まれている、ということでしょう
 もちろん、子供が自ら「新しいもの」を見つけることもあるでしょう。しかし、やはりそれは小学校に入ってから、というのが一般的でしょう。
 子供が親が同伴、同行しない世界、つまり小学校という環境や、課外活動という世界の中で、子供自身が新しいものを経験し、新しいものを見つける・・・こういうことができるようになるまでは、やっぱり親に大きく左右されるものです

 大切なことは・・・たくさんのチャンスを与えてあげる、ということ
そして、もしそれが可能であれば、そのチャンスを親子で一緒に「楽しめる」ならば、もっともっと素敵でしょうね

 大人でも子供でも、「辛い、苦しい」ことは、やっぱり楽しめないものです たとえスポーツのように、それが時として辛く苦しいことであったとしても、辛さの後にやってくる達成感や、努力の課程にあるからこそ味わえる素晴らしさを実感できるなら・・・きっとその辛さや苦しさは「価値あるもの」となり、辛い、苦しいという負の力も半減するでしょう

 むかーし。重い荷物を背負って、ひたすら下ばかりを向いて歩いていた私 もし、ふっと顔を上げた時に見える木々の間から差し込む光の美しさや、3000メーターを越える尾根を歩いている私の、はるか上空を飛ぶ鳥が見ていたもの、そういうことに気づかせてくれる言葉があれば・・・きっと私は、あの辛く苦しい山行を、もっと「すてきなもの」として捉えられたのではないか?と思っています

 ついつい親は、「がんばりなさい 努力しなさい」と言い続けてしまいます。
 しかし、大人でも子供でも、本当にがんばるためには、「がんばれ!がんばれ!」だけでは不十分・・・私はそう思うのです

 それほど遠くない将来、子供は自分の世界の中で、「本当の自分の世界」を持つようになっていきます そんな日が来れば、親はひたすら見守り、エールを送ることしかできなくなります。
 まだ我が子が、親の庇護を求め、そばでニコニコと笑っている間は、親の豊かさを与え、ともに楽しみ、いつかは「親子のすばらし思い出」となるたーくさんの時間を過ごしてくださいね

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年頭にあたり 「親の役割 1」

2007年01月01日 | にこにこ
 あけまして おめでとうございます
本年も、一生懸命、思いを込めてブログを書きます。どうぞよろしくお願いいたします

 さて。
2007年、平成19年も穏やかに明けました。昨夜は年を越してすぐに、近所の神社にお参りをし、帰宅後もゴソゴソとしているうちに時間が過ぎ・・・すっかり寝坊をしてしまったために、せっかくの「初日の出」を拝めませんでした
 我が家は南東向きにベランダがあり、マンションそのものが高台にあるため、幸い、住宅街の向こうから昇る朝日をしっかりと見ることが出来るのです。
 今朝、カーテンを開けた時には、すでにお日様はかなり昇ってしまっていて、とても残念に思いました。きっと、美しい初日の出が拝めたはずですから

 年末年始は、遊びでもお買い物でも、外出をするときには子供連れ・・・というのが定番ですね 私も年末のお買い物の時、昨夜の初詣の時、多くの「親と子」を見かけました。
 私は、外に出るとどうしても、子供連れの家族に目がいき、相手がお気の毒なほど、こそっとではありますが、それらの親子をじっくりと観察してしまいます。
 そして・・・過去のブログにも数回、書いたことがありますが、私はここ数年「叱らない親」を実感し、とても腹立たしく、情けなくなってしまうのです
 私のように、日頃から多くの子どもを観察し、教室でも子供に接していると、間違いなく「叱らない親」に育てられていることの歪みが、如実に、子供達に悪影響を与えていることを感じます
 「ああ、またこの話題かあ」と辟易とされる方も多いのでは?と思いますが、やはり年の始めに、このことはしっかりと伝えたい、と考え、敢えて元日の話題にしたいと思います
 すでにこれに関して読み飽きた方は、どうぞ今日はスキップをなさってくださいね。

 たとえば電車の中、デパートの売り場、神社の神殿前・・・こういうところは、公共の場、です それぞれに状況の違う場所ですが、一般人と接する空間、という意味では、やはり同じ意味を持った場所、でしょう。
 そういうところで、ふざけている我が子を叱らない・・・いつまでもダラダラと泣いている子供を叱らない・・・理不尽なことを言って、親を困らせている我が子を叱らない・・・どうしてなのでしょうか? 
 
「昔は、うるさがたの人がご近所にいたりして、よく子供を叱ってくれたものです 最近では、そんなふうに子供を叱る人が少なくなったのは残念ですねえ・・・」などとテレビでよく語られますが、いやいや、なかなか人の子供は叱れるものではありません。なぜなら、側で親が平気な顔をしていたり、時には「いやだわ、この子ったらあ」などと笑っている親を差し置いて、「なんですかあ、あなたはー」と他人の子供を叱れません
 もし、私がそんな子供達を叱って歩いていたら、叱り疲れてしまって、二度と外出など出来なくなるかもしれませんし・・・ ははは

 「叱らない」親には、大きく分けて二つのタイプがあります。
まず、ひとつ目のタイプ。
 それは、「あまりにも親としての意識が低い」や「親としての品格に大きな問題がある」という場合 こちらは、残念ながら決定的、です。親そのものの意識や教養に問題があるのでは、子供の家庭教育や躾以前に、親のほうに「躾と教育」が必要になります。
 高校の制服のスカートを、お尻が出るくらいに短くした女子校生が、駅のホームのベンチに靴のままで足を乗せ、ルーズソックスに履き替えたり、ソックスを直したりする時代になって、すでに5年が過ぎたでしょうか。
 その彼女達が、深い覚悟もないままに安易に結婚をし、成り行きのように親になる時代・・・かもしれません そういう現実を思うと、この「ひとつ目のタイプ」は、今後、増加していく傾向にあるのでしょうね・・・

 しかし、私はむしろ、もう一つのタイプのほうに、憤りと、危機感を感じるのです。
そう、その二つ目のタイプは・・・親に十分な教養も教育もあり、ご自分達が意識を高く持って育児に携わっている、という場合。
 こういう方は、どこかで、子供を育てる上での意識の高さを、間違って解釈しているのだと思えてなりません。

 むかーしむかし、まだ私に子供がいなかった頃のお話しです。
主人の母が上京し、私は、出来て間もない東京ディズニーランドにお連れしました 何に対しても純粋に向かい喜んでくれる義母は、TDLのさまざまなものを満喫し、大変楽しんでくれました。そして、お茶をするために入ったお店で、急に義母は私にこんなことを尋ねたのでした
 「ねえ、まどかさん、あなた、子供が出来てね、あんなふうに子供が聞き分け悪く、泣いて騒いだ時にはどうする?」
 ちょうどその時、お店の外で、何かをねだって聞き入れてもらえないために、大声で泣き、道に寝転がっている子供が見えていたのでした 義母は、その様子を見て、ふっと私に聞いてみたい、と思われたのでしょう。
 私は、躊躇せず、胸を張って答えました
 「はい、お母さん。私だったら、決してあんなにみっともなく泣かせたりしません ちゃんとここはどんなところなのか、ということを話し、泣いたり寝ころんだりすることがどんなにいけないことかをしっかりと言い聞かせます
 それを聞いた義母は、ふんふんと頷きながら、笑顔で私の答えを聞いてくれていました
 厳しい家庭で育ち、大学では専門ではなかったまでも、大学卒業後、仕事の上での必要性があり、幼児心理や幼児教育を学んだ私です。自信を持って答えたその優等生的な答えは、自分にとって大変満足のいく答えでしたし、正論であると思っていたのでした
 しかーし 私は、今でもあの時のことを思い出すと、冷や汗が流れそうになります

 そうです。そんな理想、そんな教科書的な考えで、子育てなどは出来ないのですよ・・・本当はね
 私はその1年後、とんでもないやんちゃ者の長男を生みました 彼が困ったことをするたびに、私はこんこんと物事の道理を説き、「もうしません」と約束をさせます。彼は「ごめんなさい」と涙を流して詫びますが・・・私が一瞬目を離した隙に、もう次の悪事?を働きます・・・
 妙な言い方ですが、息子は幼い頃から、物事が理解できない、言葉が理解できない、というわけではありませんでした たぶん、私がこんこんと説く道理も理解していましたし、教え続ける道徳観もものの善悪もわかっていたと思います

 しかし 子供は、そういう「頭や理性」では説明できない部分の世界を持っていて、その中に一度入ってしまうと、どんなに厳しい親の禁止の言葉や約束よりも、自分の好奇心が勝ってしまう・・・
 理不尽な我が儘を言って泣き出してしまうと、理性のブレーキが利かなくなり、どんどん興奮が興奮を呼んで収拾がつかなくなってしまう・・・ 
そういうもの、なんですねえ

 こんな時、TDLで、したり顔で私が話していたような・・・
 「ねえ、そんなに泣いてどうするの?あなたは間違っているじゃない?違うかしら?・・・」などというような親の冷静な言葉や、
 「ダメじゃないの、こんなところで騒いだりしちゃいけないでしょう?あなたはお利口さんだから、本当はちゃんとわかっているでしょう?さあ、お座りをしましょうね、いい子ねえ・・・」などという甘い親の言葉では、その「困ったちゃん世界」からは脱出は出来ないのです

 それなのに、「二つ目のタイプの親」に限って、何が何でも、こういう冷静さの中で、子供を諭し、事態収拾を図ろうとします あたかもそれが、賢い親のあるべき姿、理想の姿だという高い意識の思いから

 しかし、実際の子育ての上では、そんなの・・・ダメダメです
子供にはね、ガツンと言ったり、怒鳴ったり、時にはピチャリとお尻を叩いたりして、「困ったちゃん世界」を遮断したり、その世界から引っ張り出したりする必要のある時があるのです

 そこが公共の場であろうと、人がたくさんいる所であろうと、少々気の張る席であろうと、親は毅然と叱り、声を荒げ、そんな親の変化にひるみ、驚いた子供が「パパが怖いから、止める ママが怖いから、止める」という理性を越えた、動物的とも言える一瞬の判断をさせることも必要です

 今の子供達には、困ったことに「怖いもの」がありません
ママは優しく、そして、昔は怖いものの代名詞であったパパも、またまた優しいのです こういう感情がエスカレートすれば、子供は親を、大人を「なめる」のですよ
 私から見れば、すっかりなめられているのに、そのことに気づかず、相変わらずガミガミだけのお念仏を唱えている親は多いものです。

 最近の子供達に「お母さんはどんな人?」と尋ねると、必ず「優しい」という答えが戻ってきます。これは、とっても素敵なことですね
 やはりお母様は、まずは子供にとっていつでも戻っていけば抱きしめてくれる「優しい人」であるべきだと私も思います。
 しかし、ほとんどの場合、優しい、だけでは終わらず、「でも、ママはうるさい」と言うのです。
 おわかりでしょうか?ママは厳しいのではなく、ママは「うるさい」と子供には受け止められているのです。そう、私がさっき書いた「ガミガミのお念仏」は、子供にとっては何の効果もなく、ただただ「うるさい」だけなのですね。これは、なめられている、第一歩です

 お父さんにもお母さんにも、本当に求められているものは、「優しさと厳しさ」だと思います

 「パパもママもいつも笑顔で優しいけれど、ぼくが(わたしが)いけないことをした時には、とても怖い顔をして、大きな声で叱ります!ぼくはそんな時、とてもドキドキして、パパのことが怖いと思います。いつも優しいパパが、こんな怖い顔をしてぼくを叱るのだから、今ぼくがしたことは、本当にいけないことなのだと思い、ぼくはすぐにやめました。このあいだ、それでもぼくがいけないことを止めなかった時、パパはバシンとぼくのお尻をぶちました。ぼくはびっくりしました。・・・」
 きっと、子供の心の中には、こういう心の動きは必要でしょう
 こういう「めりはり」こそが躾であり、家庭教育なのではないでしょうか?

 昔は、父や母の「一瞥(いちべつ)」に効果がありました。
子供が、何か度を超したと感じた時、ふっと父や母のほうを見たら、すごい顔をして、眼光鋭く睨んでいた・・・それで、思わず止めた・・・ こんな絶大な効力を発揮する一瞥を送ることの出来る親は、すっかり少なくなってしまいました

 諭し、教えることも大切です
しかし、それは、子供が冷静な状態の時にしか効果はありません。一度子供が騒ぎ出したり、収拾がつかないほど泣いたりした時には、説いても諭しても意味はありません。

 いかがですか?
今年は「効果ある一瞥を送れる親」になってみませんか?
日頃はとっても優しくて、そして時にはとても厳しくて怖いパパやママ・・・きっとそれが、本当の意味での意識の高い親だと、私は思います

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