まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

読み聞かせの落とし穴

2008年10月27日 | う゛う゛ー
今日は歯科受診の帰りに、久しぶりに駅に隣接している本屋さんに立ち寄りました
 この書店は大きく、さすがに某有名私立大学のお膝元だけあり、専門書からマンガまで品揃えは豊富です。夕方近くだったせいもあり、本屋さんの中は学生の数が多く、熱心に立ち読みをしているようでした
 奥のマンガのスペースと、普通の書籍のスペース、ほぼ同数の学生がいて、これまたほぼ同じ熱心さで立ち読みしているところが、とってもおもしろいな、と思って眺めたものです

 そんな中、今日も、絵本や幼児向けの本のコーナーで、熱心に本を手に取っているママ達の姿がありました
 私は、どんな本屋さんに行っても、必ず幼児向けの本売り場をのぞいて、本ではなく、ママ達の様子に興味を持ち、ながめてしまいます
  お母様達が、どんなふうに本を手に取っているのか?
  どんな本を見ているのか?
  どれくらいの時間、その本をチェックしているのか?
とても興味があります。

 活字離れが叫ばれて久しい現代。
しかし、幼い子どもを持つママ達の「絵本熱」は、むしろ昔以上に高くなっているのではないか?と思えてなりません
 幼児向けの本売り場には、所狭しとカラフルな絵本が平積みにされ、書棚にもたーくさんの本が並んでいます
 私が幼い頃には、せいぜい日本の昔話やイソップ、グリム、アンデルセン童話くらいが関の山、でした。それを思えば、今は、本当にたくさん幼児向けの本が、世界中のさまざまな国からやってきています
 そのすべてを一日一冊読んであげたとしても、義務教育が始まるまでには読み終えないのではないか?と思うほどの数ですねえ
 
 こういう時代になるとともに、幼い子どもとの日課の中に「読み聞かせ」という親子の時間が浸透してきています。
 私がお目にかかる多くのお母様方は、子どもに必ずしている事として「読み聞かせ」をあげられます。
 きっと今では、この「読み聞かせ」は、教育レベルの高いご家庭の「子育ての定番」になっているのでしょう
 確かに、この習慣は、お子様とママ(パパ)との大切なあたたかいふれ合いの時間でしょうし、子どもの想像力や言葉の理解、言葉の発達のためには、本当に価値のある、効果的なものだと思います

 しかし
そういうお題目のような、表面的な?読み聞かせ効果ではなく、あらためて「果たして、私とこの子の読み聞かせは、本当のところは、子どもにとってのどんな時間になっているのだろう??」と、見直してみることも大切だと思うのですが・・・いかがでしょう。
 
 小学校受験のテストの中には、必ずと言ってよいほど、「お話しの記憶」「お話しの理解」という問題が出題されます
 学校側が、わざわざこの傾倒の問題を出題するには、どうしても知りたい「子どもの力」があるからでしょう。
 たとえば、その力とは、子どもの「聞く力」「理解をする力」です。
 しっかりと聞けているかどうか?
  聞いた内容を、理解できているのだろうか?
 先生が本の読んでいる間(テープでお話しが流れている間)、お話しを真剣に聞き、そして理解が出来ているからこそ、その内容を「記憶」することができるのですね。

 ところが・・・です。
私が、年長児になった子ども達に対して、試験のための学習の一環として、ではなく、もっともっと幼い段階、たとえば、年少児や、年中児の春あたりに、「記憶」してもらうためではなく、たんにお話しを聞いて楽しむ・・・という目的のために「読み聞かせ」をしてみると・・・
 きゃーーーーというような反応が常、なんですねえ
 きゃーーーー!という反応。それは、子どもが、普段から、よく耳にしているであろう日本の昔話を聞かせても、予想をはるかに超える「わかっていない」という返事が戻ってきて、愕然とします
 
 この反応には、大きく分けて、2つの原因が考えられます。
  ひとつは、子ども達が、毎日読み聞かせの時に読んでもらっているお話しは、とても幼い頃には「ノンたん」、その次には「ぐりとぐら」、その次には「はじめてのおつかい」、「エルマーのぼうけん」・・・のように、良い!と言われる幼児向け絵本ばかりで、昭和の30年代、40年代前半に育った子ども達のように、日本の昔話などはあまり耳にしたことがない・・・という場合。
  二つめは、とてもよく知っているお話しで、ママ(パパ)にもよく読んでもらっているけれど、聞いているだけで、わからないことがあってもそのママで素通り。だから、内容を聞かれても、よくわからない・・・でも、ぼく、そのお話しは空で言えるよ!みたいなもので・・・という場合、です。

 前者の場合には、私が本を読み終え、子ども達にいろいろとたずねたところで、チンプンカンプンだったとしても、確かに頷けます。初めて聞くような話しであれば、日本の昔話は、時代も違うために、シチュエーションそのものが理解できないから、だからわからない・・・ということは十分に理解できます
 しかし、後者の場合には、そんなに頻繁に聞いてきていたお話なのに、どうしてほとんどと言って良いほど、詳しいことに言及すると、理解できていないのでしょうか?

 それはね。
「読み聞かせ」は、子どもにとって大変有意義なものである!と信じて疑わないご家庭が、気づいていない意外な「落とし穴」なんです・・・
 この落とし穴は、前者のご家庭にも起こりうること、です。なぜなら、私が子ども達に読み聞かせる本を「日本の昔話」ではなく、「はじめておつかい」のようなものにしたとしても・・・読み聞かせた後で、詳しく内容について聞いてみると、???のことが多いものです
 
 要するに。
読み聞かせる本が、すばらしいと評価の高い幼児書でも、絵本でも、昔からある日本のお話しでも、どんな種類の本であったとしても、子どもが聞いている「お母さんの読み聞かせ」が意味、内容の理解できる物語ではなく、単なる音の羅列の『呪文』としてしか聞こえていなかったとしたら???

 昔、私は「ふるさと」という歌を聞くのが、とても嫌いでした どうして大人は、こんなに酷い、怖い歌を歌うんだろう・・・と思っていました。
 はっ???と思われますか?
私は、「うーさーぎーおーいし・・・」という歌詞を聴いて、「ウサギを追う」とは思えず、「ウサギはおいしい・・・あの山のウサギはおいしい・・・」と理解していたのです

 「読み聞かせ」でも、じつは全く同じことが起こっているのですよ。
たとえば、桃太郎のお話。「おじいさんは、シバカリに・・・」これを、子ども達にたずねてみると・・・ 
 「おじいさんは、ぶーんって音のなる機械みたいなもので、芝刈りをしているんでしょ?」
 と言う子がたくさんいます。
 「おばあさんは、川へ洗濯に・・・」これは。
  「おばあさんは貧乏で、洗濯機がお家になかったんでしょう?」という具合。
 おばあさんが作ってくれた「きびだんご」に至っては、全く意味がわからない呪文、です。ですから、「きみだんご」と覚えている子もいますし、「きっびだんご」と言う子もいます(どうも、この子の場合は、歌の歌詞から、このリズムを覚えたようです)

 いかがでしょう?
おじいさんが、どこかの山で、わざわざなぜか芝刈り機で芝刈りをし、貧乏なために洗濯機が買えないおばあさんが、川で洗濯をしていると、川上(先生、「カワカミ」って、どこ?どこにあるところ?とよくたずねられます)から中に赤ちゃんの入った大きな桃が流れてきた・・・・
 ああー、支離滅裂なお話しです

 「読み聞かせ」は・・・子どもの想像力や言葉の理解、言葉の発達のために大変価値のあるもの
 どうでしょう?あなたのご家庭では、実際に、そうなっていますか?
 
 我が家では、子どもが幼い頃から、毎日欠かさずに「読み聞かせ」をしている!という親としての満足感ですっかり有頂天になり、豊かな家庭教育をしている「つもり」になっていませんか?

 子どもを育てていく上では、「読み聞かせ」に限らず、どんなことでもそうなのですが。
 言われたことだけを深い理解もないままに実行し、それをやっているというだけで、自分が教育レベルの高い親だと自負している・・・これは大きな誤解であり、単なる自己満足に過ぎません
 
 中には、「我が家の読み聞かせ」の行為は、「親子の大切な時間」というところだけに価値を置き、それ以上のものを望んでいないですよ!と、おっしゃっるご家庭もあるかもしれませんが、やはりそれは言い訳でしょう 「親子の大切な時間」を望まれるのであれば、もっともっと、価値の高い、楽しい時間があるはずですからね。

 読み聞かせは、字の通り、読んで聞かせる、という行為だけでは、子どもにとっては呪文に過ぎないものです。
 それが、ベッドやお布団に入ってからの習慣であれば、本当に睡眠への導入剤であり、一つの儀式、の意味しかないでしょう
 
 おじいさんが柴刈りに・・・と何度か読んであげたあとで・・・
 「ねえ、ママが言っている『おじいさんはシバカリにって、どんな意味だと思う?』
 と話しを始め・・・
 『昔はね、今みたいに、お台所には便利なガスがなくってね。みーんな、小さな枝に火を点けて、大きな火になってから、もう少し大きな枝を持ってきて・・・』
 と教えてあげると、きっと子ども達は驚くでしょうねえ

 そして、次の日、お台所を覗きにきた時に、言ってあげればどうでしょうか。 「ママは、こうしてお湯を沸かせるけれど、桃太郎のおじいさんは、お湯をわかずだけでも、柴に火をつけないといけなかったのよね。ママは、山に柴刈りに行かなくてもいいから、うれしいわ。昔の人は大変!」・・・・
 
 これで、やっと、子どもの「想像力」が育っていき、語彙も増え、お台所や火、昔の暮らしなどもにも興味が広がっていくかもしれないですね これも、親のリードしだい、です
 さあ、あなたの「読み聞かせ」は大丈夫ですか?

 

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小学校受験、前日

2008年10月20日 | にこにこ
 小学校受験の考査日、目前に控えて。

 ブログを書いている場合じゃない・・・そうも思います。
けれど、いつかは、考査を目前に控えた日の「送り出す側の気持ち」を、書き留めておきたい、とも思っていました。
 その場が、公開されるブログであって良いのかどうか・・・は、判断がつきかねますが。
 
 私は、この「考査の日、直前」を迎えるのは、今年で16回目になります。
生徒を送り出す側として、16年。この歳月は、すでにこの仕事としては新米ではなく、ベテランの域に入っているということでしょう。 けれど・・・どんなに回数を重ねても、何年が過ぎても・・・この受験を目前に控える気持ち、に慣れることはありません。

 手塩にかけて育ててきた子ども達・・・
必ず考査の前日にも会って、一人ひとりに声をかけ、注意をし、誉め、勇気づけ、そしてハグをして送り出します。
 でも、教室のドアを閉めたとたんに、また、子ども達の顔が浮かびます。
  
  苦手な問題を前にして、目に涙をいっぱいためて、ペーパーを眺めたままでかたまってしまっている姿。
  まわりの子ども達がすんなりと理解し、わかった!と笑顔で解いていく横で、どうしてもわからない・・・「なぜ僕はわかんないのかな?困った・・・どうしよう・・・」という困惑で引きつった顔。

 そんな姿を見ていると、ぎゅっと抱きしめ、「大丈夫!大丈夫!あなたには先生がついているのだから。絶対に、あなたがわかるまで説明するから!」と笑顔で話し、元気づけ、心の底から「がんばれ!がんばれ!」と叫びたくなります。

  ひゃ~、わかった!できた!という、歓喜に満ちた満足げな笑顔。
  本当は、小躍りしたいくらい嬉しいのに、喜びを表面には出さず、チラリっと私のほうを見て、にたっと笑うおとなしい子の顔。

 私は、そんな子ども達の真剣な様々な表情を、ご両親よりも先に見ることのできる存在です。
 私はときどき、こんな、子どもの成長そのものである「価値ある瞬間」に、真っ先に立ち会っているという事実に、ぶるっと震えるほどの緊張と責任を感じます。
 そして同時に、ご両親よりも先に、そんな貴重な時間に立ち会えていることを、とても申し訳なく思うことがあります。これは、私の特権なのですね。

 ここ7,8年、私立小学校受験というものがジワジワと浸透してきました。文科省が「ゆとり教育」を提唱した頃から、そのことに懸念を抱く家庭が増えたことによって、加速度的に広まっていったように思います。 
 しかし、「受験生が幼い子ども」だからという理由で、小学校受験は昔から、親のエゴ、親の身勝手、親のブランド思考・・・というふうに捉えられ、「お受験」という造語で揶揄され、受験準備をする家庭、準備のための教室などは、マスコミからおもしろおかしく取材されたり、無責任なことを書かれたりする悲しい現実があります。
 一時は、そういう心ないマスコミ報道に持って行き場のない憤りを感じたものでしたが・・・今では、もう相手にはしないよ、と思えるようになりました。どうせ、よほどの番組ではない限り、そういう「お受験特集」は、視聴者の娯楽の一部であり、すぐに通り過ぎていく話題なのですからね。

 それに、とても残念なことには、小学校受験をするご家庭の中には、そういうバッシングや嘲笑の餌食、標的になってしまうような、受験産業に踊らされてしまっている家庭も多いわけで・・・
 ここで、「違います!」と声を荒げて抗議すればするほど、またまたそれが冷笑の的になってしまうでしょう。

 どんなに好奇の目で見られる世界であっても、それぞれの世界には、真っ当な人達はいるのです、そう、私の教室のご家庭のように。
 受験産業に踊らされず、ひたすら小学校受験を我が子の成長のまたとないチャンスとして捉え、我が子の「人間力」ともいうべき、さまざまな力、自己の意識を高めてこられたご両親。
 そういう意識の改革は、とてもエネルギーを必要とするものだったでしょう。
 子どもの横に座って、怒鳴りながら数十枚のペーパー学習をさせるほうが、本当は親として、楽であったかもしれません。

 子どもの真の力を伸ばすべく、日々の生活の中で地道な言葉かけをし、辛抱づよく、根気強く、我が子をリードすることは、並大抵のことではありません。時には、自分達の生活そのものを見直し、修正する必要もあったでしょうから・・・


 私は、考査を明日に控えた今日、あらためて、そんなご両親のリードと大きな愛情に拍手を送り、労いの言葉をおかけしたいと思います

 そして、かわいい子ども達に。明日から、がんばれ
あなた達は、本当にすばらしい、ステキな、立派な子ども達だったと、心から伝えてあげたい・・・
 
 楽しいことだけをして生きていくのは、とても簡単。
ピーターパンのように、大人になりたくない、楽しいこと、好きなことだけをして生きていきたい!と言っていては、結局は、いつまでも、「より大きな喜び、より素敵な世界」を知ることはできないんだよ、という私の語りかけに真剣に耳を傾け、そのことを五感で理解し、私を媒体として、たくさんのことを学び、感じ、自分の真の力として成長してきてくれた子ども達  

 自分の耳でしっかりと聞き、自分の頭でしっかりと考え、自分の力で行動できるようになったすばらしい子ども達に、私は心から感謝し、明日から始まる考査に向けて、大きな大きなエールを送ります

 小学校受験は、ひとつの通過点です。その通過点を、かけがえのない価値のあるものとするかどうかは、その家庭の力量、その両親の意識にかかっているでしょう。

 私には、特別に帰依している宗教はありません。
けれど、私は信心深く、信仰は尊いものだと心の底から思っています。祈ること、感謝をすること・・・人が万能だと奢らず、こうべを垂れることこそ、人の生きる姿勢だとも思います。
 だからこそ、何か一つの対象にではなく、大きな力に対して、私は手を合わせて祈ります。
  どうぞ、私の生徒達だけではなく、一生懸命に準備をしてきた子ども達、そしてそのご両親達の努力が実を結びますように。子ども達とご家庭にとって、最も幸せになる道へと、正しくリードをしてくださいますように・・・



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おばあちゃんの「前向き」

2008年10月14日 | にこにこ
 横浜のデパ地下でのこと。
時間的に余裕がなく、それでもお腹がすいた私は、ささっと食事の済ませられるイートインで食事をすることにしました
 私は、久しぶりに天丼を食べるべく、カウンターに座ると、2つ向こうの席に、小綺麗にしたおばあさんが天丼を食べていらっしゃいました。

 話しはちょっと横道に逸れますが。
お昼、一人で外食をする機会が増えて気づいたことなのですが・・・
中華料理や、天ぷら、トンカツ屋さんのような「こってり系」のお店で食事をしている年配の方は、どうも、見た目から、かなり精力的?行動派?に見えます
 注文する時の様子ひとつとっても、「Aの、このランチね」とか「天丼の松」とか、声も大きく、お店の方に対して、まさに注文してますー!という感じ  
 一方、おそば屋さん、おうどん屋さんという「あっさり系」にいらっしゃる年配の方は、いかにも、絵に描いたような華奢なイメージの、楚々とした感じ・・・が多い
 とにかく、食べっぷりも、何もかも、明らかに雰囲気が違ってみえます
 もちろん、先週のお買い物の帰りに八宝菜を食べたから、今日はざるそばにしましょ!という方もおいでになるとは思いますが・・・

 さて。
その天丼屋さんのおばあさん。食べながら、ずっとお隣の方に話しかけています。私が、ついつい気になり耳をそばだててしまったのは、その方が関西弁で話していらしたから、かもしれません

 「私ね、今日、初めて「そごうさん」に、こさしてもろたんですのん!」
(まいりましたのよ、という意味。ただ、~~してもろた、は、~~してもらった、ということですから、may come,とか、can come のように、直訳すればなってしまいます。結構、関西弁では、よくこういう表現をつかいます。この表現の中には「おかげさまで、~~させていただけます」というような、そういうニュアンスが入っているのですね。「そごうに来たんです!」より、かなり柔らかく、この方の優しい雰囲気、品格あるお人柄が出る表現です
 「えろー、ひろーてびっくりしましたわ。(とても広くてびっくりしました)、あんたさんも、今日はお一人でお買い物ですか?」
 「私ね、京福電鉄の沿線に住んでましてんけど、主人がのーなりましてね。(亡くなりましてね)3ヶ月だけわずろーて(患って)、ぽっくり。まあ、お互い、それでよろしかってんけど。」
 「私んとこは(私のところは)、一人息子でして、大学からこっちに来てますねん。それでね、なあお母ちゃん、お父ちゃんもいてへんなってんさかいに(いなくなったのだから)、こっちに来たらどうやって言うてくれましてな。まあ、それもよかろうおもて(良いだろうと思って)、決心して横浜に来ましたん。まだまだ、住めば都、いうところまでは来てませんけど、一人でこなして(このようにして)、あっちこっち行かしてもろて、はよ(早く)、こっちに慣れよう思ってますねん。」
 「天丼ひとつとっても、味も違いますやろ。まあ、おもしろいですわ。この年になって、初めてのこともたーくさんあって、楽しめますわ。こっちに暮らせへんかったら、そんなことも、知らんままに、毎日、平々凡々と暮らしてたんやさかい・・・そうおもたら、おもしろいですわ

 もちろん、ずっとお一人でお話しをされているのではなく、途中で、お隣の方も、そのお話しの内容に、少々驚かれたらしく、すっかりおばあさんのペースにはまり、お相手になって相づちを打たれていたのです

 おばあさんのお年は80歳だそうで・・・決して、そのお年には見えませんでした。ご子息のご家族の近所に、一人でマンション暮まいを始められた、ということで、毎日のように、横浜のあちこちに出歩き、探訪、探検をされているらしいのです
 日頃はお一人だからでしょうね。すっかり良い調子でお話しになり、ぺろりと天丼を平らげ・・・
 「ああ、ごちそうさんでした。」と手を合わせ、お店の方に「おいしかったですわ。おおきに、ありがと!ごちそうさま」とお声をかけて、愛嬌を振りまいて出ていかれました。

 いやー、私は正直、驚きました
80歳で新天地。そして、自発的にあっちこっちと見て歩き、ちゃんとお昼になったら一人で天丼を食べ(ここのお店は、関西にもありますねん、有名な東京のお店ですわなあ、と途中で言ってらっしゃいました)、ニコニコと去っていかれる・・・
 午後は、どちらにいらしたのでしょうね。あの調子だと、きっとどこかで休憩をなさり、コーヒーやお茶を楽しまれたかもしれません
 注文が難しそうだから・・・とSBコーヒーを躊躇せず、「カフェラテ、ていうの、いただきましょか。何?サイズ?・・・ほな、小さいのんでお願いします」と注文をなさりそうです。

 私の両親は、2年前の春、74歳の時に、大阪の郊外の家から、梅田というところ(大阪駅とほぼ同じ場所)のマンションの34階に引っ越しました
 その時まで、全く縁のなかった大阪の北側の土地柄。私は、自分で勧めておきながら、実際には、かなりの冒険、かなりの精神的、物理的な負担を母に負わせることになる、と少し心が痛みました
 しかし、私の母も、やっぱり新しい土壌に馴染もうと、せっせとお買い物に行き、今では最寄りのデパ地下では、「○○さんの奥さん」と名前まで呼んでもらうまでに成長しました。
 そして、完全オートロックで、セキュリティー万全なものの、カードキー一つですべてを行う「かなり高度で難しい」生活にも慣れ、34階からの見晴らしを自慢にしています

 とは言え、やはり、私の両親は同じ大阪の中での移動でした。大阪の北と南とでは文化が違う、と言っても、それでも同じ大阪で、言葉も、文化も一緒。
 関東と関西ほどの違いがあるわけではありません それに、母の場合は、「父の介護のためには必要なこと」という、強い意志もあり、父の世話をするためには、自分が新しい生活に慣れないといけない、という使命感が背中を常に押していましたからね。
 それを思うと、私は、この天丼のおばあさんの「前向き」は、本当にすごい!と思いました

 前向き、顔を上げて前進すること・・・
言うのは簡単です。けれど、なかなか、人はすんなりと実行できないものですよね
 何かおおごとが起きると、いつまでも、悲劇のヒロインでいることを無意識の中で望み、反省することや、人から哀れんでもらうことに、知らず知らずのうちに、少しだけ快感を感じていたり・・・
 前を向くなんてできないと最初から決めつけてしまったり・・・ どうせ私の気持ちなどは、私の境遇にならないとわからないわ!などと、当たり前のこと、言っても仕方のないことを口に出し、人を呆れさせていたり・・・
 
 このおばあさん ものすごく、魅力的でした
 そして、お年寄りにありがちな「おしゃべり」ではありましたが、内容が暗くてジメジメした「愚痴」ではなく、とっても愉快で、カラリとした、聞いていて、こちらまでもが一緒に笑ってしまう、ハッピーになってしまうようなものでした
 
 後ろを向く人、いつまでも立ち止まり、停滞する人は、まわりに「どんよりとした空気」しか与えず、自分自身も、決してハッピーにはなれず、ジメジメか、カサカサとした印象しか与えない、嫌われる人になってしまうでしょう

 おばあさん、今日もどこかに行っているのでしょうか?
 80歳のおばあさんに、あらためて「前を向いて進むこと」のすばらしさ、重要性を、教えてもらった時間でした

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小学校1年生のトライアスロン

2008年10月06日 | にこにこ
 会場に大きく響きわたるアナウンス。
「たった今、小学校1年生の○○○○くんがゴールしました。よくがんばりました
 ○○くんは、拳を握りしめ、大きく開いた両手を空に向かって掲げ、笑顔でゴールテープを切りました
 小学校1年生の彼は、1位ではありませんでした。「小学校1年~3年」という分類のグループでは、さすがに、1年生は体も小さく、技術も未熟でしたから。
 でも、彼の笑顔、彼のガッツポーズは、彼にとっては1位にも勝る喜びの表現だったのだとよくよく理解できました

 第1回、川崎港トライアスロン。
昨日は、東扇島で開催されたトライアスロンレースの応援に行きました。観戦の目的は、夫や私のトライアスロンチームの専属コーチ。ワールドカップの日本代表として活躍した後は、トライアスロンや、ランニングなどの指導者として長年活動してこられたのですが、昨日、久しぶりにレースに出場することになったのでした

 私は今まで、東京マラソンのように、夫の出場するマラソンレースを観戦をしたことはあるものの、トライアスロンのレースを観戦した経験がありません。
 実際に、私は、来年の春、石垣島でのレースデビューを目標にしてはいますが、北京五輪をテレビの前で大騒ぎをして観戦した経験しかなく、夫が出たロタでのDVDを観たり、話しを聞いたりはするものの、選手の泳ぎ、自転車、トランジット(トライアスロンでは3種目あります。一つ一つの種目の間にある準備時間や準備ゾーンのことをトランジット、と言います)を観たことはなかったのです 幸い、東扇島までは車で30分程度。これは行くしかありません

 一昨日、場所や時間の確認をしていて、私はふっとあることに気づいたのでした。レースのタイムテーブルを見ていると、「ジュニアの部・キッズの部」とあり、下記の記載がありました。
  小学校1~3年 スイム50m、バイク1Km、ラン500m  小学校4~6年 スイム100m、バイク2Km、ラン1Km  中学生    スイム200m、バイク3Km、ラン2Km  
 ひゃーーー 第1回川崎港トライアスロンには、小学生や中学生の部もあったんだあ
 私は、コーチの応援をする楽しみにプラスして、子ども達のレースを観戦し、是非、多くを感じ、学んでみたい!と心から思いました。

 昨日は、幸いにも晴天 特に午前中は気温も上がり、スイムにはありがたい晴れ、でした。
 でも、小学校1年~3年の部の集合のアナウンスがあり、子ども達が砂浜に集合し、海に少し入ると、「冷てー」の声。
 大人は、スイム用のウエットスーツを着用しますが、子ども達は水着のまま、です。
 砂浜には、選手の父兄達も集まってこられ、思い思いのことを子ども達に叫びます。
 「ちょっと水に浸かってごらん。そしたら、すぐに冷たさに慣れるから!」
 「何言ってんだよ。水はいつも冷たいの!」
 「根性足りない!ほら、ピョンピョン跳んでみて!」etc.
 
 子どものレースは、大人のレースよりも先に行われました。ですから、この子どものレースに出る子ども達は、トライアスリートのパパはママの子ども達がほとんどで、きっと、彼らのスタートを見に来るご両親は、そのどちらかが、ご自分のレースの出で立ちをなさっているに違いない、と思っていました  なぜなら、トライアスロンは、日本では決して大人にもポピュラーなスポーツではないので、子どもがそれをする場合には、必ず親が「トライアスロンを趣味にしていう人」であり、自動的に我が子にもそれを勧める(強いる?!)親だと思っていたからでした。
 しかし、意外にも、半数以上は、親は普通の格好をした人、でした

 子ども達は、総じて興奮気味で、「冷てー」と口々に言いながらも、キャッキャと楽しそうで、すでに意気込んで泳いでいる子もいたほどです
 いやいや、子ども達の泳ぎは上手でしたねえ。「水、しょっぱい」と口々に叫んでいましたから、きっと、彼らは普段、スイミングスクールに通い、プールで泳いでいる子達だったのでしょう。
  
 そんな中で、一人、泣いている女の子がいました 2年生くらいでしょうか。彼女のお父さんは、すでにウエットスーツを着ていらしたので、あきらかにその後の、レースに出られる方でした。
 お父さんは彼女に向かって、何もおっしゃいませんでした。女の子は泣きながらも、何を言うでもなく、スタートする方向を見ながら、それでも、肩を震わせて泣いていました
 私は思わず心の中で「がんばれ!きっとあなたはずっとずっと後になって、パパに感謝する日が来るから」と。

 すでに、かなり以前になりますが、私がブログに書いたことがありましたが、私の両親は、本格的な登山が趣味で、山岳会に所属していました。
 そんなことで、当然のこととして、私は幼稚園の頃から親の登山(高尾山や六甲山のレベルではありません)の趣味を押しつけられ、週末は本格的な山行の練習のため、小さい頃は3キロ、少し大きくなったからは5キロのリュックを背負ってトレーニングの山行をしていました
 
 けれど、小学校3年生の夏、槍ヶ岳山頂から見た雄大な景色や、小学校4年生のGW、北穂高岳山頂からの真っ白な北アルプスの峰々は忘れられません
 まあ、どんな経験も、貴重な財産になるわけで・・・その女の子も、今はイヤイヤでも、テレビの前にごろりと寝そべり、鼻くそをほじほじしているよりは、どんなに価値のあることかしれませんからねえ。
 
 さあ、いよいよスタートです
なかなか彼らの泳ぎは見事なものです。夫と二人、ワクワクして声援を送りました。日頃、スイミングスクールで泳いでいるであろう彼らにとって、50メータは決して長い距離ではないでしょうが、慣れない海でのスイムは、それなりに難しかったようですね
 何よりも、コースロープがないために、まっすぐに泳げないとコースアウトをしてしまいます。ボードに乗って、スイムのコース整備や万が一のために陣取るライフセーバーのお兄さんやお姉さんに、何度も何度も、「ほらー、もっと右、右」と声をかけられながらも、全員が無事に完泳。
 
 次は自転車です。
砂浜に上がった彼らは、一目散にトランジットの場所まで走っていき、靴を履き、ヘルメットをかぶって、自転車を押して走ります。決められた場所までは、自転車に乗ってはいけないのです
 さあ、自転車に飛び乗り、スタート。
このトランジットの時間も、タイムの中ですから、ぐずぐずとやっている暇はありません
 彼らの自転車は、思い思いの自転車です。ヒーローの絵の描いてある子供用の自転車の子、お買い物かごがついた自転車、ちょっと気取ったマウンテンバイク・・・
 大勢の人達(父兄、レースに出る人達、公園に遊びに来ている人達など)の声援を受けて、自転車をこぐ!先導者のおじさんの自転車のあとを、1キロ必死に進んでいきます
 さあ、1キロが終わると、決められた場所で自転車を降り、またトランジットの場所に戻って自転車を置き、ヘルメットを脱いで、今度はランのスタートです。
 ランは500メーター。元気な小学生にとれば、500メーターは長くはありまえんが、緊張の元、彼らはすでに海を泳ぎ、自転車で走った後です。
 でも、果敢に走っていましたねえ・・・ すごいです。顔を歪めて、走る!走る!そして、全員が、手をあげてゴールです
 例の、泣いていた女の子も、結構、良いタイムでゴールをしました。やっぱり泣いていましたけれど・・・

 その中でも、ひときわ嬉しそうにガッツポーズでゴールした1年生の男の子とお父様に、私は思わず声をかけました 彼のお父様は、トライアスリートではありません。
 「おめでとう!とってもステキだったわよ!あなたは1年生なのよね。」
 「そう。1年生。川崎市立○○小学校の1年生。」
 「あなたの、一番好きな種目は何?」
 「むー・・・やっぱり、バイクかな。」
 「そっか。じゃあ、なんでバイクが一番好きなのかな?」
 「だって、速いでしょ。それに、スイムからバイクへのトランジットがおもしろい!」
 「一番嫌いなのは何?」
 「そりゃあ、やっぱりラン!辛いもん!おばさん、トライアスロン、する?」
 「うん、始めたばっかり。まだレースに出たことないから、あなたがおもしろいって言う、トランジットをしたことがないの。おばさんも、トランジット、楽しむようにするわ。」
 「うん、それがいいよ。トランジット、速くね。もたもたしたらいけないんだよ。」
 「わかった!教えてもらってありがとう!おばさん、がんばるわ!」
 彼は、一人前にに、つなぎになった黒の水着姿で、バイバイと手を振り、颯爽とパパと一緒に去っていきました

 お父様に、なぜトライアスロンを?とおたずねをしたところ、1度に3つのことをさせられるので・・・とお答えになっていました。
 ご自分がなさらないのに、不安はありませんか?とおたずねしたら、「いやー、息子がやって楽しそうだったら、僕も始めようかな、なーんてね。そろそろ始め時かもしれませんね、はっはっは!」とおっしゃっていました。

 確かに、成長時の子ども達には、同じ動きばかりしたり、同じ筋肉や関節ばかり使うスポーツよりも、トライアスロンのように、それぞれ違う筋肉を使うスポーツは良い、という考え方もあるようです。
 そういう考え方から、オーストラリアのようなトライアスロン先進国では、5,6歳から、昨日の子ども達のように、気軽にトライアスロンを始めさせ、チーム競技の一員となってプレッシャーを与えず、「一人でひたすら頑張る姿勢」を育てる、という教育も浸透しているのだそうです

 子どもにとって、どんなスポーツが良いか?ということを論じるのではなく、私は、昨日の1年生のトライアスロンレースの様子から、あらためて実感しました。

 「子ども自身が自ら経験し、その経験から喜びを感じ、辛さをもしっかりと味わい、そして、達成感を味わうこと」の価値は大きい・・・と。

 あの泣いていた女の子
ここから先、彼女が「させられている」という思いを払拭し、たとえ「させられる」ことからスタートをしても、やっぱりやっていて良かった!すごい!と思えるようになるためには、親の適切な言葉かけ、リードが必要でしょう
 
 でも、もしかしたら、どんな言葉かけよりも、パパが過酷なレースに参戦し、必死にがんばる姿こそが、彼女にとっては意味があるかもしれませんが・・・

 いずれにしても、とてもすばらしい秋の一日でした

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