まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

東京マラソン 親子百景

2008年02月20日 | にこにこ
 2月17日、今や東京の大イベントとなった東京マラソンは大きな混乱もなく、無事に終了しました
 私の夫は、3年まえのホノルルマラソン以来、久しぶりのフルマラソンへのエントリー。骨盤、恥骨、肋骨骨折・・・という重傷(ですよねえ)で、半年前は沖縄の病院のベッドにいたことを思えば、こうして再び走れるようになっていることは、何とありがたいことでしょう
 今回は、以前のようにラン練習でストイックに走りこむーというチャンスがなかったとは言え、何とか4時間は切りたいという願いも叶い、17日の夜は、夫婦で完走の祝杯をあげお世話になった名護の県立病院の方向に向かって、深々とお礼のあいさつをしたものです

 今年は好天に恵まれ、昨年とはうってかわってランナー達も走りやすい条件のもと、42.195キロという過酷な中にもどこかお祭りに参加する雰囲気を漂わせながら、快走していたように思います
 応援の私も、至れり尽くせりの公式ランマップのおかげで、地下鉄、JR、ゆりかもめを駆使し、4キロ地点の市ヶ谷付近、21キロ地点の有楽町、32キロ地点の茅場町、41キロ地点の有明・・・と、効率よく先回りをして、応援することができました
 また、携帯の公式サイトにアクセスし、ゼッケン番号を入力すると、5キロ、10キロ、15キロ・・・とラップと通過タイムを知ることができるシステムも大いに活用しました
 いやいや、3万4千人のランナー、それを応援するサポーターのために、たくさんの知恵と労力を使い準備をしてくださった方々、ボランティアの方々、周辺の一般市民の方々のご苦労とご厚意に、心より感謝いたします

 さて。
私は夫を応援するだけではなく、幸運にもこの日は、早朝から、素敵な親子百景?!にたくさん出くわすことができました
 沿道で、声を限りに「パパー、パパー」と叫ぶ子供たち。
 乗り物の中で、手描きの「パパがんばって!」ポスターを自慢げに見せる子供たち。
 パパに肩車をされ、「ママはもう来る?今も走ってる?」と聞きながら、遠くを見つめる子供たち・・・
 そんな子供たちは皆、とってもハイテンションで、ものすごく一生懸命、という様子でした。
 そんな我が子たちの前を通過していくパパ達、ママ達は、みなさん一様にとっても嬉しそうでしたが、単なる「ハッピーな表情」というのではなく、その声援に真剣そのもので応えているように見えました その顔はランナーの顔である前に、「がんばるパパ」「がんばるママ」の姿そのもの、だったと思います

 がんばれ
・・・という言葉。私たちは日頃からよく使いますね。
慣用句化されたこの言葉は、それほどの努力を必要としない行動に対しても使われます。
 たとえば、毎朝出勤するパパに「パパ、いってらっしゃい!今日もがんばってねえー」とか、幼稚園に行く子どもに「おい、今日もがんばれよ!」のように。
 しかし、この東京マラソンで見かけた子どもたちの「パパ、がんばれ」「ママ、がんばって」という「がんばれ」という言葉には、そんな日常の「がんばって」とは全く違う趣があり、何と言えば良いのでしょうか・・・もっと尊い?もっと力強い行動へのエール、とも言うべき響きがありました

 そして、その「がんばって」の声援を受けて走るパパランナー、ママランナー達は、そんな子供たちの声援を決して聞き流すのではなく、全身全霊で受けとめ、まさにその声を即、エネルギーに変えて爆発させているように見えました
 走り去ったパパ、ママを見送る子供たちの目には、間違いなく「大きな、熱いハート」が入っていましたよ

 よほど日頃からかなり真剣にトレーニングをしているランナーでない限り、20キロを過ぎる頃からは、あちこちに痛みが出てきたり、気持ちはあっても、なかなか思うように足が前に進んでいかない、という状態になってきます
 私が、ここのところ夫にリードされながらトレーニングで走る10キロでも、問題なく走れるようになるまでには、かなりの期間と練習が必要でした。
 最初のうちは、2キロの地点で、すでに脛の筋肉痛があったり、5キロで足の付け根が痛かったり・・・
 最近は一種のブームで、簡単に「フルマラソン」と言いますが、それがお祭り的要素の高いホノルルマラソンでも東京マラソンでも、42.195キロという距離は、とんでもなく長い距離です どんなに華やかな大会でも、決して安易に、「ノリ」で走れる距離ではありません
 それこそ、あんなに日頃から練習をしていた福士選手でさえ、30キロを過ぎたあたりからは、予想だにしなかったこともおこるわけですものね

 32キロ地点、茅場町あたりで、子どもたちの前を行くパパ、ママランナーの姿は、「颯爽と」とは言い難くなっていました 
 声援に手を振って応えながらも足を引きずっていく人。
 子どもの前で「パパ、がんばるぞ!」と歪んだ笑顔を作り、ストレッチを何度かして、また走り出す人。
 差し出されたチョコをうれしそうに食べて、パンパンと顔を叩いてから走り出す人。
 みな、疲労の色は濃く、急に陽が陰ったせいで気温が下がり、午前中の明るさもあたたかさもなく、よけいに悲壮感が漂います
 実際、私の夫はまあまあ早いタイムでこの地点を通過しているランナーですから、同じようなタイムで子どもたちの前を通過していくパパ、ママランナーは、かなりトレーニングを積んでいるランナーだと思います。「東京マラソン?むー、いっちょ、走ってみるか!」のような気持ちで、にわか練習をしたランナーではないでしょう。そういうランナー達は、30キロ以降は、もう早歩き、歩き、のモードになっていたかもしれません。

 でも
パパもママも、子どもたちの尊い声援を受けて、まさに「がんばる」のでした

 大人が、子どもたちを相手に、簡単に口にする「がんばれよ」の言葉。
この言葉が、本当の意味で我が子に届くのは・・・
子どもたちがその真実の意味を五感で実感するのは・・・
 それは、きっと親が、大人が、真剣にその「がんばる」ことを態度で示し、「がんばる」を実行しているとき、なのかもしれません。

 そんなことを痛いほど感じながら、パパランナー、ママランナー、素敵な応援団の子どもたちを眺めました

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南大門、炎上・・・

2008年02月12日 | めそめそ
 今朝のニュースで、大々的に報道されたソウルの南大門の火災。出火の原因は、放火だったということですが、私は昨夜、ニュース映像で流れる崩落する南大門を眺め・・・泣きました。
 南大門は、韓国の「国宝第1号」で、今から35年前、私が高校生の友好訪韓団の団員としてソウルを訪問した時にも、通訳で同行してくださった方が、誇らしげに説明をしてくださった時のことを、よくよく覚えています。
 今から3年前、知人の米寿のお祝いのため、仕事でどうしても時間がとれなかった主人の代わりに、32年ぶりに一人でソウルを訪問しました。
成田からの最終便でソウル入りした私は、翌日の早朝、ソウルの町を、散歩を兼ねて歩きました。ホテルから出て、すぐ近くのソウル市庁舎の前に立ち止まると、まっすぐ道を進んだところに、南大門が見えました。私は本当に久しぶりに見る、韓国のシンボルとも言うべき南大門の堂々とした姿に、しばらく見とれたものです。
あれ以来、私は3度ソウルを訪れましたが、南大門の威風堂々とした姿は、さまざまな季節の中で、何とも言えない味を出していました。しばらく工事中だった南大門が、出入り自由なロータリー的な公園となって目の前に現れた時には、身近になったぶん、ちょっぴり威厳に欠けてしまうのではないか・・・と思ったものでしたが、その、「自由に出入りできるようになったこと」が、こんなかたちで仇となってしまったこと・・・本当に、残念で、残念で・・・
バラバラと猛火の中で、音をたてて崩れ落ちる瓦、虚しい放水、そして石造りの台座の上の黒く焼けこげた残骸・・・言葉もありません。

 あの立派だった南大門への思いを込めて。
少しでも、このブログを読んでくださるみなさまに、私の訪韓の経験を通し、日韓両国の関係をあらためて知っていただければ、と思い、私が当時のホームページ内「お母様、ちょっとお耳を・・・」の中に書いた文章を、再度掲載したいと思います。
 かなり長くなりますが、一つの読み物として、お時間のある時にでも読んでみてください。

(2004年 11月 お母様、ちょっとお耳を・・・から)

 私は幼稚園から大学まである、私立の一貫校の卒業生です。
当時は、音楽や絵画、彫刻のような芸術系に進む生徒以外は、ほぼ全員が自分の学校の大学か短期大学(今はもうありません)に進学する、という学校でした。
 30年前にすでに高校の授業が完全な選択制になっていましたから、良く言えば生徒は時間にゆとりがあり、悪く言えば「ひま」な高校生活を送る事になりました。
 そんな中、負けず嫌いの私は、大学受験をしないからと言って、何となくバカにされたくない!同じくらいがんばって、何か達成感のあるものを見つけて邁進してやるぞ!と心に決めていました。それが英会話の専門学校に通う事と、論文コンテスト、弁論コンテストに出場する事だったのです。

 当時、私の学校の高校は、韓国のソウルにある私立の女子校「淑明女子高校」と縁があり、夏に1週間程度、10名ほどの留学生を受け入れていました。
 私が高校1年の夏(1974年7月)、我が家でも2名の高校生を受け入れました。ひとりはある繊維関係の財閥のお嬢さん、もう一人は日本で言う警視総監のお嬢さんでした。きっとソウルでも、お嬢さん学校、と呼ばれるような学校だったのでしょう。
 最後の日の夕食時、ソウルに新しく開業する「地下鉄」が話題になりました。今では、ソウルには7路線、8路線目が工事中で、縦横無尽に地下鉄が走っていると聞いています。あの年は、その第1号の路線の開通が近かったのでした。彼女達は誇らしげに話してくれました。
「ねえまどか、ソウルに地下鉄が開通するのよ。きっと日本みたいになるわ!」
「そう!ステキね。是非私が今度ソウルに行く時には乗りたいなあ。いつ開業なの?」
「開通は、8月15日よ!」
「まあ、8月15日?!終戦記念の日ね!」
 私達の会話は、双方の共通語である英語でしたが、8月15日、と聞いた私が、すかさず答えたその次の瞬間、急に彼女達の顔がこわばり、時間も空気も止まったように感じました。
 「まどか・・・8月15日という日はね、私達韓国人が、日本の統治から解放され独立をした、記念すべき日なのよ・・・」
 私は、全身から血が引いていくのがわかりました。何という不用意な言葉だった事か・・・
 その後、私は何をどのように食べたのか、今でも全く思い出せません。

 私は、その出来事にまつわる話しを題材にし、その年の秋、「国際理解協力のための高校生の論文コンテスト」とスピーチコンテストに応募しました。幸い、両方のコンテストで賞をいただいた私は、翌年の春、高校生の友好訪韓団のメンバーとして、1週間、韓国に派遣されることになりました。1975年、3月のことでした。
 下関から釜山までの関釜フェリーは、大荒れの玄界灘を行く大揺れの航海でした。どんな乗り物にも強く、酔わない私も、さすがに横になったままで、何をする事も出来ませんでした。しかし、夜に出向した船は、夜明け前には釜山沖に到着。夜が明けるまでフェリーは沖に停泊し、入港を待ちました。揺れから解放された私達メンバーは、静かなエンジン音を聞きながら、皆一様に、まさに隣国である事を実感した時間でした。

 訪韓団のメンバーは、全国からの高校生8名。同行の先生は2名。私達は出発前の5日間、春休みを利用し、毎日毎日、日本史、世界史の先生から、朝鮮半島の歴史、とりわけ近代史の補習を受けました。
 5日間の補習のうち3日は、大日本帝国当時の、36年間の侵略の歴史についての勉強に費やされました。その時学んだほとんどすべての内容は、教科書では「さらり」としか触れられていない事ばかりでした。36年の長きに渡り、朝鮮半島の人々が日本の侵略によってどんな生活を強いられたのか、戦後なぜ朝鮮半島が分断されたのか?どうして板門店や非武装地帯があるのか・・・5日間の補習は、多感でピュアだった16歳の心に、痛いほど浸透しました。

 私の韓国訪問は、本当に有意義なものでした。
あの頃、朝鮮戦争終結後20年たらず、まだまだ韓国は「戦後」だったのかもしれません。今、一つの知識として思えば、現在40歳~50歳になっている、あの当時、私と同年代だった高校生達が学校で受けていた抗日教育は徹底された強烈なものだったと思います。
 しかし、釜山で訪問した男子校の生徒さん達、ソウルの淑明高校の生徒さん達から私達が受けた歓迎は、そんな事を全く感じさせない、本当にあたたかい歓迎でした。私達メンバーは、それぞれに様々な思いを持って一瞬一瞬を大事にしていたと思います。

 確かに、慶州の仏教遺産はすばらしく、李朝の豊かな文化に思いを馳せました。
しかし、私の目に焼き付き、心に突き刺さった多くの事は、荘厳な仏教寺院でも色鮮やかな民族衣装でもありませんでした。
 板門店近くで、ぶつんと途切れた北への鉄道の線路、板門店の異様な空気、非武装地帯の果てしなく続く有刺鉄線。当時はまだソウルは戒厳令下にあり、夜の12時以降は外出禁止でした。  
 11時半頃まで賑わっていた町が、12時過ぎるとひとっこ一人いない静けさに包まれ、巡回する兵隊だけの靴音が響きます。朝は、朴大統領が首相官邸から出勤する時間には、道路に面した高層ホテルの部屋のカーテンは閉めなければなりませんでした。狙撃される事を避けるため、と聞きました。
 興味本位ではなかったものの、ほんの少しカーテンを開けて覗いたとたん、瞬時にそれに気づいた兵士が銃口を高く上げ、私達のほうに向けました。その時の兵士の鋭い視線は今でも忘れられません。
 私の韓国は、そういうものに象徴された、やっぱり両国の歴史の暗い部分が大きくクローズアップされた重い1週間でした。

 あれから30年、私は一度も韓国に行った事がありません。
飛行機でひとッ飛びの距離にありながらも、やはり私にとっては、気軽に行こう、と思える国ではありませんでした。心の中では誰よりも親韓家である自分を意識し、距離と同時に気持ちの中でも韓国はもっとも近い国です。しかし、何と言えばよいのでしょうか・・・ 春休みの補習を含めた、あの友好訪韓団での経験が、終戦後10年以上たってから生まれた私でありながら、朝鮮半島36年間の統治時代の責任を、なぜか私一人でかぶったような、そんな重さを感じていたとでも言うのでしょうか。
 とにかく、私は、あの訪韓以来、誰よりも隣国「韓国」を愛し、誰よりも過去の歴史の間違いを恥じ、深く懺悔する人間として、立派な大人になってから居ずまいを正して、正装する気持ちで、必ず韓国に戻らなければならない、そんなふうにこの30年間、感じてきたのでした。

 昨年の春、たまたまつけたNHKのBSで、韓国のドラマが放送されていました。それが「冬のソナタ」でした。普段は滅多にテレビドラマを見ない私ですが、当時主人はインドネシアのジャカルタにおり、土曜日の夜は、仕事を終えた私のほっとする時間だったのです。
 深夜のドラマの中の「韓国」は、私の知っている30年前の韓国とは、全く違ったところでした。毎週出てくるソウルのカフェや、レストラン、スキーリゾートのホテルなど、私が知っている昔とは、全く違った香りがしました。登場人物のイ・ミニョン(ペ・ヨンジュン)さんも、ユジン(チェ・ジュウ)さんも、カン・ミヒさんも、サンヒョクさんも、訪韓団のメンバーが小声で話す日本語を聞き、さっと顔色を変えた釜山や大邱で会った韓国の人とはまさに別人に見えました。
 この30年で日本がすっかり変わったように、きっと韓国も、ドラマの中で垣間見るような、西洋化した世界、暮らしになってきているのだろう・・・そう実感しました。
 もちろん、1988年のソウルオリンピックの時、すでにテレビの中の「違う韓国」を見てはいましたが、当時の私はまだまだ子育ての真っ最中。24時間体制で「母」としての暮らしをしていた私には、韓国も、アメリカも、ヨーロッパの国々も、すべてが遠い存在だったのです。
 しかし、子供達も成長し、あらためて「自分の世界」を持ち始めた今の私にとって、テレビの中に広がる「冬のソナタから見る韓国」の世界は、衝撃的でした。
 きっと、ちょうどタイミングがぴたりと合ったとでも言うのでしょうか。長い長い間、封印されていた私の心の中の「重い韓国」が、突然「冬のソナタ」というドラマが溶解剤になって、急に目の前に明るい陽射しと共に現れた!そんな気がしたのでした。

 この1年のすさまじい韓国ブーム。生意気な息子は、「韓流ブームは、日本の大手広告代理店が意図的に経済効果を狙って流行させたものに違いない」と言って笑います。
 両国の経済効果は900億円にものぼると何かの記事で読んだ気がします。韓国旅行ブーム、俳優さんのグッズ、雑誌、韓国映画やドラマのDVDやビデオ等、確かに、さもありなん、です。 
 娘が夏、バンクーバーの語学学校で机を並べた韓国人留学生は、「韓国ではやっぱり映画が一番。テレビドラマの俳優は二流なのよ。」と教えてくれたとか。むー、そういうものなのでしょうか。

 最近では、「政冷経熱」と言われる日中関係、韓流ブームにわく日韓関係、日本人の中でアジアが以前よりずっとクローズアップされている事は確かです。日頃、何となく暮らしていると、あまり「国」を意識せず、淡々と日々を送っていますが、実際には世界は毎日めまぐるしく動いています。
 現在では、決まり文句のように「国際人」「国際社会」という言葉が願書の中に登場します。しかし、単なる「言葉」としてではなく、私達一人一人が「日本人」である自分を意識し、アイデンティテイを大切にしながら、外国に目を向け、国際人として、グローバル化した社会の中で暮らすというのはどういう事でしょう?
 子供を育てる親として、21世紀を生きるわが子達に、何を求め、何を身につけさせるべく、何を与えてやれば良いのでしょう?そもそも、私達が今、安易に使う「国際人」という言葉の本当の意味は、どういう意味なのでしょう?私はときどき、考えてしまいます。外国語を流暢に話す事?頻繁に海外旅行をする事?多くの外国文化を取り入れて暮らす事?・・・

 私は韓国を訪問した2年後、友好訪中団の一員として1ヶ月、中国を訪れました。
 今はライトアップされたビル群の中に広がる上海繁栄の象徴のような黄浦公園ですが、私が訪中した当時は、夜ともなれば真っ暗で、外国人向けのデパート「友誼商店」の明かりだけがぽつんと見える広い公園でした。
 人々はみな人民服で、珍しい外国人が歩く外には人だかりが出来て、外国人が歩くたびに、その人だかりも一緒に動きました。そんな頃の事をしみじみと思い出しながら、現在の上海の映像を見るたびに、劇的な発展を肌で感じています。
  
 あまりの過熱ぶりに、同じ年代の女性として、少々目を背けたくなる韓国ブームではありますが、私にとっても「全く違った意味で」ではありましたが、韓国のドラマは私に新しい何かを与えてくれたようです。
 30年前のように、侵略国である日本人を意識し、目を伏せて韓国を考えるのではなく、一生懸命に日々を生きる日本の中年のおばさんとして、正しい事実としての両国の歴史をしっかりと理解した一人の女性として、お隣の国「韓国」をこれからも愛していきたい、そう思えるようになりました。

 多感な10代に、強烈に暗く重い歴史を背負ってしまっていた日本人高校生。自分の知らないもう1代も2代も上の世代の人が犯した過ちを、自分の事として受け止め、身動きとれなくなってしまった高校生。
 その高校生が、今は2人の子供の母親となりました。そして今私はあらためて、「暗い歴史の事実」を何とか乗り越え、明るい両国の関係をつくる一つの歯車になりたい!真剣にそう考えています。
 
 今、私の2人の子供は、まさに私が韓国や中国を親善旅行で訪れた年令になっています。残念ながら、私が経験したような民間の親善大使的な訪問のチャンスは彼らにはありませんが、やはり私は2人に、しっかりと五感で様々な事を感じ、何事も真剣に考えてもらいたいと願っています。

 10年前、彼らがまだまだ幼かった頃、インドネシアに単身赴任していた主人のもとを、何度も母子で訪れました。裸足で歩く子供達、生活費を稼ぐために働く子供達、そんな自分達と同年代の子供達の姿を目にしたわが子は、稚拙ではありますが、一生懸命に自分の感じた事を話してくれていた事をよく覚えています。
 
 今年の「韓流ブーム」は、本当に多くの事を考えさせてくれる良いチャンスの1年でした。さあ、このブームはいつまで続くのでしょうか。ブームが去った時、また何事もなかったかのように、すべての事が忘れ去られてしまう事を私は今から恐れています。
 ブームはブームで良いでしょう。しかし、本当に私達が狭くなった世界の中で生きる一日本人として、「世界」を意識しながら生きていくのであれば、どんな事をも多面的に見る目と、深く広く物事を知ろうとする意識は持つべきでしょう。そして、人の親であればなおさらの事・・・

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不本意な「臭い」

2008年02月05日 | う゛う゛ー
 私は、人の観察が大好きです
これは、子どもの頃からの趣味とも言えるもので、電車の中、町の中、どこにいても「私のまわり」の人を観察してしまいます
 そして、ステキな人に出会っては、その人の「ステキさ」を学び、とりあえあずはそのステキさを真似ようとしました いやだなあと思う人に出会うと、なぜイヤだと感じてしまうのかを考え、同様の振る舞いをしないように、自分のも似た部分があれば、すぐに改めようとしました

 昨日、私は羽田から飛行機を利用し、大阪の実家への月一帰省をしました
 幸いにも「観察好き」の私を十分に満足させてくれる人が、昨日の飛行機とお隣さんでした
 以前にも、ブログの中で、「すぐに靴を脱いで足を組む、いばりんぼオジサン」のことを書いたことがありますが、昨日のお隣さんも、その靴下オヤジに負けす劣らずの困ったさんでした
 その困ったさんは、定刻ぎりぎりに入ってこられました。私の隣の席が空いていたので、「ああ、あの人が隣に座るんだな・・・」と思い、見るともなく、通路を進んでくる男性を眺めていました。
 
 これは余談ですが
東京―大阪便の朝夕の利用者は、ほとんどがビジネスマンです。そういう意味では、私にとっては20代から60代まで、「ビジネスマンの品評会」の感あり・・・です
 さて、その「通路を進んでくる男性」は、身なりもきちんとされた50代のビジネスマン。靴にも神経を遣っていることがよくわかりました(私は、あまり目立たない靴も、男性にとっての大切な身なりの一部だと思っています)。
 ところが・・・です。
その方が近づいてくるに従って、うっと思うような臭いも近づいていたのです。そして、お隣に座られたとたん、強烈なタバコ臭が私を包みました
 最近は、愛煙家の方にはお気の毒なほど、公の場所、さまざまな施設では禁煙化が進みました 
 そのため、喫煙のためには、敢えて設けられた所定の「喫煙所」を利用することになります。喫煙所は、ホームの端のほうだったり、パーテンションで囲まれたスペースだったり、ガラス張りの小部屋だったり・・・どんなに換気がされていても、面積のわりには人の数のほうが多いためか、外から見ると煙で白く見えるときもあります
 きっとこの方も、空港のゲート近くにある喫煙スペースの中で、搭乗ぎりぎりまで喫煙をされていたのでしょう。その間に、コートの生地がすっかりタバコの臭いを吸い込み・・・
 当然、このことに気づいたのは私だけではなく、通路を挟んだ向こうの側の席の人もうっ!という顔をなさいました
 それに、隣に座られて改めて気づいたのは、コートに染み付いたタバコの臭いだけではなく、その方にはかなりの口臭もあり・・・熱心にパソコンに向かわれている間の口呼吸とタバコの臭いで、私は伊丹空港に到着するまでの50分間、機内誌を読んでいる間も、コーヒーを飲んでいるときも、目を閉じてうたた寝をしているときも、ずっとそのお隣さんの「臭い」に悩まされたのでした

 でもね、当の本人は、まったくその「臭い」には気づいていないのだと思うのです
 離陸したとたん、さっとおしゃれな老眼鏡を取り出し、仕事をされていたお隣さんです。万事に「鈍感」な方だとは思えませんでしたし、装いからしても、「無頓着」な方だとも思えませんでしたから・・・

 私の夫。なかなかユニークな主人です。
その夫との婚約中、忘れられない思い出があります 
 二人で並んで電車に乗って話しているとき、突然、「まどかちゃん、口、臭いで」と言われました。
 私はその瞬間、ぎゃーーーーーー
 夫は(そのときは婚約者、だったわけですが)、そう言った後は、まるで何事もなかったように、話しを続けましたが、私はもう、何を話していたのかも思い出せなくなり、ひたすらフィアンセにそんな恥ずかしい注意を受けたことばかりが頭の中をぐるぐるとめぐりました
 話すためには、口を開けなければなりません。口を開けると、口臭がある、というのです・・・

 結婚後も、出かける支度を整え、さあとリビングに行った瞬間、夫は「むー、その服で行くのん?ものすごく太く見えるでー」とひと言。またまた、ぎゃーーーーーです。
 でも、のちのち、それらの辛い思い出が笑い話になったとき、やっぱり私は注意を受けたときにはショックだったのよ、と夫に話すと、夫は真顔で答えたものです。
 「一番身近な僕や言わないと、誰がそんなこと、教えてくれる?この人は口が臭いなあ・・・とか、わー、この人はもともと太いのに、こんな服きるとより太って見えるよなあ・・・とか。多くの他人が思うわいけでしょう?そんなの、あまりに君がかわいそうやん・・・なっ、せやから、僕がズバリと言うわけやん
 むー・・・なるほどねえ
確かにそうですね。服装に関しては、大いに自己満足もありますから、より一層太く見えようが見えまいが、その服を着たいよー!という感情もあるわけですが、口臭に関しては、よほど親しい人しか言えない、というのは確かです
 それに、私の会話の相手が、楽しいどころか、私の口臭のために、不快な思いをして会話をしていたとしたら・・・

 この3月には銀婚式を向かえる私達夫婦です 25年前にはショックを受けていた私も、今ではこういう単刀直入な夫のさまざまな忠告を、ありがたく、ありがたく受け止めています (それに、幸い、私の口臭の主な原因だった歯周病は、有能な歯科医の友人のおかげで、まったくなくなっています。ただ、より一層太って見える原因の「肥満」のほうは、まだまだ改善されずにいるのですが

 機内のお隣さん・・・
仕事で毎日空間をともにする同僚、先輩、後輩、身近なご家族・・・どなたか「こっそり」親切心で忠告をしてくれる人はおいでにならないのでしょうか。
 最近では、加齢臭とか、オジサン臭、などという悲しい言葉が横行しています。科学的、医学的に、年齢を重ねるに従って「プラスアルファ」の臭いが生まれてくるのかもしれません しかし、実際にそうであったとしても、やはり人が「一人では生きてはいけない」生き物である限り、人との関係は必ず生まれるものです そんな中で、同席する人が不愉快になるような「臭い」を発散させてしまうのは、きっとどんな人でも本意ではないでしょう。
 ましてや、それがそれなりに社会的に地位のある方であれば尚更の事・・・

 あなたは大丈夫ですか?
 あなたの伴侶は大丈夫でしょうか?
 あなたの両親は?

 私は今から、帰りの飛行機で、お隣になる方のことを想像し、少々気が重くなっています


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