まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

受け止めるは・・・共有すること

2010年12月26日 | めそめそ
 先日、胃カメラの検査を受けました
以前、とんでもなく太ってしまった時、逆流性食道炎を患ったことがあったのですが、今回もほとんど同じ症状。きっと、秋から運動を止めている間に、かなりリバウンドしたこともあって、またきっと同じ状態になったのだろう、と素人判断をしていました。
 いつものホームドクターである友人の女医を訪ね「これこれ・・・しかじか・・・だから、あの時と同じお薬をちょうだーい」と話したところ、一笑に付され、「・・・だとしても、胃カメラの検査はしないとダメー」と言われてしまいました。まあ、当然と言えば当然ですね。
 
 胃カメラの検査が「好きだ」という人はいないとは思いますが・・・結構辛いんですよねえ、胃カメラって 今では、鼻から入れる胃カメラもあり、それであればチューブの外径が細いことと、異物を感知して、吐き気をもよおしてしまう箇所も通らなくてもよいので、かなり楽になった、と聞いていますが、残念ながら、彼女のクリニックでは、まだ口から入れていくタイプの胃カメラを使用。検査の日程が決まった時から、すでに気分はかなりブルーでした

 9時前に到着すると、すでに待合室は風邪らしき患者さん達で溢れていました。私の到着を見つけた馴染みの看護師さん達は、天井のほうを指さし「南坊さん、今日は胃カメラね。・・・ファイト」と片目をつぶり、ニッコリ。
 3階の検査室前は、1階からは想像できないくらいに静かで、あたたかい陽射しが差し込んでいました 看護師さんにで渡された、喉の奥のほうを麻痺させる、どろりとした液体を口に含み(実際には、口に含んでいるのではなく、飲むか、飲まないか、のまさに境目のあたりで留めて、5分も待つのです・・・)、天井のほうを向いてタメイキ・・・飲まないように我慢します すでに、この時点で、十分に気持ちはどん底でした。

 そして、いよいよ、検査が始まりました。
再度、喉の入り口あたりの感覚を麻痺させるスプレーをシューッ。
 「はーい、身体に力を入れず、楽にしてー。だら~んとしてくださーい。ちょっと辛いけれど、我慢しましょう すぐに終わりますからねえ・・・」
 と消化器科のドクター(友人の女医ではありません)は抑揚のない声で言われます。きっと、彼は一日に何回も、患者の顔を見ることもなく、この言葉を発するのでしょう
 「唾液を飲み込まないでくださーい。そうすると、むせてしまいますからね 看護師が用意しているトレイに、口の横からダラダラっと流し出してくださいね・・・」
 これも、かなり無理な注文です 人とはおかしなもので、日頃の習慣から、出てきた唾液は、そう簡単には口から外には出せないものなんですね。唾液は無意識のうちに飲み込むもの、と、52年間の生活の中で、脳も身体も記憶し、会得しているのですから・・・
 ああ、チューブが喉を通っていきます。
う゛――――・・・気持ちわるー・・・げげげーってなります。その辛いことったら、ないのです 1度そうなると、何回も何回もそうなってしまいます。
 ドクターの言われることを素直に聞こうとしているのですよ。身体の力を抜いて、ひたすらだら~んとして・・・でも、気持ち悪いのです・・・

 すると。
看護師さんが、私の背中を、優しく・・・優しく・・・大きく弧を描くように撫でてくれます 何度も、何度も、優しく、優しく・・・手から、あたたかいものが伝わってきます・・・
 「南坊さん、お辛いですねえ。ゆっくり・・・ゆっくり、大きく息を吸って・・・そうですよー・・・そして、ゆっくり吐きます・・・・ふー・・・・また、繰り返しましょうね・・・ 一番、辛い部分をチューブはもう通り過ぎましたからね・・・ああ、苦しいですねえ・・・・そう、ゆーっくり、大きく息を吸っていきましょう。そうですよー、そうですよ・・・
 そうおっしゃりながら、背中の手は、ずっとゆっくり動いていました。

 手当・・・手当とは、・・・よく言ったものです。
私はね、看護師さんの「がんばりましょう!」という激励の言葉でも、十分にがんばれたと思うのですよ、大人ですからね。
 でも、ガンバレではなく「ああ、お辛いですよねえ・・・」という最初の言葉から「私の辛さをわかってくれているんだ・・・わかってくれていて、その上で、優しく背中をさすり、励ましてくださっているんだなあ・・・」と、とてもあたたかい、安心感に満たされた思いになったのでした。そうですねえ・・・やはり、一番大きかったのは、「安心感」だったでしょうか そういう安心感があったからこそ、辛さもうーんと軽減されました。

 とかく大人は・・・頻繁に「がんばれ」と言います。
そう、人はみな、がんばらなければいけません。常に、前を向き、ちょっとやそっとではへこたれない強い心を持ち、がんばらなければなりませんね
 でもね、得てして、それが子どもであったとしても、人は、「今は、がんばるべき時」「今、僕は(私は)がんばらないといけない!」という時には、そのことは重々わかっているものです
 しかし、それでも尚、不安になったり、緊張したり、へこたれてしまいそうになっているのです・・・私の胃カメラの時がそうであったように・・・
 大きな病気であったら大変!
 検査はしなければならない!
 そんなに時間のかかるものではない!
 ずっと辛いわけではない!etc.etc. 
そんなことは、十分に理解し、納得もしているのです
 でも、やっぱり苦しくて、辛い・・・そう感じるのです。こればかりは「しかたがない!」と言いたいです・・・

 そんな状況下で、あの時、私の背中をさすりながら、「辛いですね。もうまもなく終わりますよ」と、きちんと説明をしながら、優しく「手当」をし、言葉をかけてくださった看護師さん・・・あの、大きな安心感こそが「心」であり、親として、子どもに与えてあげるべきもの・・・心からそう思いました

 むかーし。我が家でも、こんなことがありました。
息子が大学受験の時。彼は、かなりの遠回りをしました。人間関係で心が折れ、何も手につかず、自分の心をコントロールするのがむずかしかった時、父子でこんな会話がありました。
 「今、おまえは何をすべき時か、馬鹿じゃないんだから、十分にわかってるだろう 高校を出る、大学へ進学する意志があるなら、当然のこととして受験勉強をする!そんなこと、誰だってわかる それなのに、どうして、そんな簡単なことができないんだ
 そう怒鳴る父親に、息子は本当に悲しい顔をして答えました。
 「お父さん、僕も、十分にわかってます。当然、そうすべきです。僕だって、そうしたいと思います。でも、なぜか、どうしてもそれができない・・・ どうしてなのか、僕にもわからず、僕もそれが辛くて、悲しくてなりません・・・
 あの時、ひと言、「ああ、そうなんだね・・・君も十分にわかりながら、そうできないのか・・・そうなんだね・・・そうだったんだね・・・」と受け止めてやったら、どれだけ彼はあたたかい気持ちになれたでしょう。その上で、話し合っていく、良いアドバイスを模索する・・・そうしたほうが、効果的でもあったでしょう。

 娘と私の間にも、そんなことがあったのです。
生まれた瞬間から「笑顔」だったでろう私・・・私は、むしろあまり「怖い顔」ができません かなり辛い時、苦しい時でも、名前を呼ばれて返事をする時には「笑顔」になってしまう・・・それが私です。
 そんな私の娘なのに(と当時は思っていました)、なかなか笑顔にならない中学生頃の娘に・・・
 「あなたは愛想が悪い・・・どうして、いつもそんな無愛想な顔になってしまうの?人と会った時には、笑顔ですよ おばあちゃまがいつもおっしゃっているでしょう?女の子は、笑顔千両だ・・・ってね
 すると、娘はこう言いました。
 「ママ、私は、一生懸命に笑おうとしているの・・・でも、なかなか、笑えないの 笑顔になろうと思えば思うほど顔が引きつり、上手く笑えない・・・自分でも、どうして笑顔になれないのかって、悲しくなる・・・ママの笑顔、本当にいいと思う・・・私もそうなりたいのよ!でも、そうなれない・・・
 理不尽な私は、「じゃあ、努力しなさいね」と、ピシッと言いはなったものでした。
 何て残酷なことを言ったのでしょうね・・・鬼親です・・・
 もし、あの時、娘に「そうなのね、あなたは、十分に笑顔を作ろうとしてるのよね。大丈夫、大丈夫 そう思っているだけで、きっと自然に笑顔は生まれてくるものよ」そう言ってやったら、きっと娘は、打ちのめされることなく、ほっとして、あたたかい思いで癒されたでしょう・・・
 私は図らずも、たくさん娘を傷つけてきたことに、一生かけても償えない、大きな十字架を感じています

 まずは「受け止める
これは本当に大切なことだ、と思っています 受け止めるのは、許すことでも、受け入れてしまうこともありません。
「受け止める」ということは、一旦、その子、その人の苦しさ、辛さを「共有してあげる」ということです。
 
 ガンバレということは、とても簡単です。
でも、単にガンバレ!ということは、辛さも苦しさも共有することなく、辛く苦しい思いをしている相手を、突き放すことでもあるのです

 ああ、胃カメラ・・・辛かったです。
看護師さん・・・本当に本当にありがとうございました おかげで、以前より、辛さはぐんと軽減されました!看護師さんの手は、魔法の手のようにあたたかく、大丈夫・・・大丈夫・・・という呪文のようでした
 でも、次回は是非、鼻からの胃カメラで検査をしたいものです

 2010年も、あと数日。
今年も、「ママ達のおやつ」をお読みくださり、本当にありがとうございました
ほんの少しでも、このブログの中に「気づき」や「癒し」を感じていただけたらなら・・・こんなにうれしいことはありません。
 どうぞ、良いお年をお迎えくださいね

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マイナスをプラスに転じる発想

2010年12月15日 | にこにこ
 先日、キッチンで家事をしながら見るともなくNHKのニュースをつけていると「左手だけで弾くピアノの曲」というトピックが流れました
 急に興味が湧き、手を拭きつつリビングに戻ると、確かに右手は膝の上に置かれたまま、左手だけで演奏している映像が映し出されています。けれど、巧みなペダルワークもあり、奏でられる音楽は、それはそれは美しく、そして力強く、何と言うのでしょうか・・・とても豊かな音色なんです 感動でした

 昔むかし、ピアノの前に座り、鬼のような(失礼!)ピアノの先生の顔を思い浮かべ、泣きそうになりながら、なかなか上手く弾けない「左手」の練習をした・・・そんな記憶が甦りました あの時に練習していた「左手のメロディー」は、あくまでも伴奏的メロディーであり、それを聴くだけでは妙にマヌケな曲に思えたものです。
 ところが、その映像の「左手の曲」は、それだけで人を圧倒する魅力を持った、迫力のある、感動的なメロディーでした

 そのニュースでは、音楽大学でピアノを専攻しながらも、突然の病で右手の自由を奪われたピアニストが、「左手だけの楽曲」に出会い、再び音楽の道、演奏家としての道を歩み始め、ドイツを始めとするヨーロッパの国々から、左手のみで演奏する楽曲を探し出し、演奏する活動を続けている・・・ということを紹介していました
ニュースの始めの部分を見落とした私は、あとからインターネットによって、そのピアニストが「智内威雄(ちない たけお)氏」であることを知ります。

「左手だけで弾く曲」その演奏を聴くことがなければ、何とも不思議なもの、ですね。その言葉だけを聞けば、ハノンのような、指の動きをよくするための、左手専用の練習曲なのかな?と思ってしまいます。
しかし、それらは何と、バッハ、ラヴェル、というような、そうそうたる音楽家が作曲した立派な曲であり、練習のための「サブの曲」ではありません。
 では、いったいなぜそんな曲がたくさん出来上がったのか?
その理由を聞いて、私は本当に驚いてしまいました

 ヨーロッパでは、19世紀、20世紀と、大きな戦争が2度もあり、人々は戦場に駆り出され、豊かな伝統ある文化を持った国々は焦土と化しました そこでは、多くの音楽家達の命も奪われ、そしてまた、多くの演奏家が大怪我を負って帰還。そんな演奏家、ピアニストのために、作曲家は敢えて「片手のための曲」を作曲したのだそうです。
その驚くべき完成度の高い「左手だけで弾くピアノ曲」は、皮肉にもそんな社会的な、悲惨な情勢から誕生した産物だったのでした。
 しかし、世の中が平和になるに従い、それらの曲の必要性も低くなり・・・そして、いつしか演奏されなくなっていって、楽曲も埋もれていく・・・それを惜しんだ「左手のピアニスト」が立ち上がり、世界中から、左手のための楽曲を集めている・・・という話題だったのでした
 全く初めて耳にするその話題に、私は非常に心動かされました。智内さんが演奏するその「左手の曲」は、その日一日、私の頭の中で響きました

 それにしても・・・
私はそのニュースの内容にも驚かされ、そのあと、いろいろとインターネットで調べてもみて、非常に感銘を受けたのですが、私はそのニュースから、全く違う次元でも、考えさせられることが多かったように思います。

「マイナスをプラスに転じる」これはよく言われることです。「災い転じて福と成す」これも同じ、でしょうか。
身に降りかかった災いを嘆き、「失ったもの、マイナス」を嘆く・・・それは当然のことでしょう あの日に見たニュースで言えば、将来を期待されるピアノ科の学生だった智内さんが、ある日突然に病気の宣告を受け、動きにくくなった右手、痺れる右手は、もう二度と自由には動かない、と聞かされた時のショックは・・・私には想像もできません。
しかし、リハビリをしている時、たまたま出会った「左手の楽曲」で新たな道を見つけ、失った右手の自由、その「マイナス」をリセットし、右手が動かないという自分を「100」として考え、新たに歩み出す・・・
マイナスを背負った事実、その自分を「満点の状態」として考えれば、その時点で、すでにマイナスは現実からは消えていく・・・そこが「ふりだし」であり、そこが「スタート」と捉える・・・そう思えば、きっと、その時から人生観もかわっていくのでしょう もちろん、そのために、とてつもなく大きなパワー、エネルギーが必要だったことは忘れてはならないことでしょうが。

 そんなことをしみじみと考えていると、はるか昔ですが、こんなことがあったことを思い出しました
私が大学生の頃、ボランティアのクラブで活動をしている時、アメリカの車椅子バスケットボールの選手達のお世話をしたことがありました
 その日、私は彼女達のショッピングの手伝いをしたのですが、一日、彼女達と行動を共にしているとき、そのチームのエース選手が話してくれた言葉が印象的に残っています
 「もし私が事故に遭わず、今でも健常者だったとしたら、きっと平凡な生活をしていただろうなあ、って、いつも思うのよ こうして日本に来ることもなく、あなたに会うこともなかった。平凡がいけないことだなって思わないけれど、でも、今の私みたいに、こんなにイキイキと、張り合いを持って生きていなかったかもしれない・・・いつも、そんなことを思うのよ・・・」
 当時も、私は彼女の言葉に、深く深く考えさせられたことを、今でもよく覚えています

 彼女が不慮の大きな事故に遭い、足を失ったことは、それはれは大変不幸なことでした 彼女は絶望し、車椅子バスケットに出会うまでは、毎日、ひたすら泣き暮らした・・・と言います。両足で歩けていた頃の自分を思い出しては、頭を掻きむしり、気が狂いそうになった・・・と。
 けれど、車椅子バスケットに出会い、彼女の人生はそこでリセットされ、新しいステージが始まった・・・そして、私に語ってくれた「こんなイキイキと張り合いを持って生きていける毎日」がやってきたのでした。

 自分の身のまわりに起こる様々な「マイナス」 そのマイナスの値は、智内さんや車椅子バスケットのアメリカ人女性ほど、とてつもなく大きな値ではなくとも、人はみな、きっとその「マイナス」を嘆き、「マイナス」に視点を置き、なかなかそこから抜け出せないものだと思います
 けれど・・・
私は今回の「左手の楽曲」のニュースを見て・・・そしてまた、あらためて、彼女のことを思い出し・・・考えさせられ・・・そして、やっぱり尊い、強いエネルギーを感じさせてもらったのでした
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香道体験 自分を見つめる時間

2010年12月05日 | にこにこ
 「香道」体験してきました
仲良しのトライアスロン仲間からのお誘いで、銀座のビルの中にある香席(日本香堂の本社内にありました)に出向き、志野流の若師匠(第二十世家元 蜂谷宗玄のご長男)のご指導の元、とても優雅で、有意義な時間を過ごしました。

 ここ数年は、日本でも「香り」がブームになってきていますね あちこちで耳にする(目にする)「アロマ」がそうです。アロマキャンドル、アロマディフューザー、アロマランプ等、さまざまなものが販売されていますね。
 世の東西を問わず、良い香りには人の心、気持ちを落ち着かせる効果がある、ということがわかっていて、紀元前の昔から、高貴な人々の間では非常に珍重されてきました。
 幸いなことに今では、高貴な階層の方のみならず、万人がその効果を知り、楽しめるようになっています
 ただ、ここ数年、今までにないブーム到来で、その「香りの癒し効果」のニーズが高まっていること自体、人の心がストレスに苛まれている?!ということなのでしょうが・・・

 さて、その「良い香り」ですが、日本の「香道」は、西洋の「香りの癒し効果」とは少し趣を異にしているようです。
 日本の香りのルーツは、仏教とともに伝来し、1000年以上の歴史があるそうで、最初は平安の頃、人口の約1%に満たなかった貴族達が「自分を表現する(認識させる)印」として、一人一人が香りを持っていたのだそうです
 たとえば、あるプレイボーイである「Aの君」が、自分だけの香りをブレンドしてもらい、その香りを着物に移しておくと・・・「Aの君」がお部屋に入ったり、廊下を歩いただけで、御簾の向こうから、「ああ、Aの君がおいでになったのだわ」などと認識された・・・そんな風流でもあったそうです。

 しかし「香道」として、一つの高貴な方々の一つの「たしなみ、芸道」になったのは室町時代になってからのこと。
 京都の銀閣寺を舞台にした東山文化の中で育まれました。そのリーダーが足利八代将軍の義政。彼を取り巻く文化人や武将の中で、「香りを表現するために用いた和歌の知識」「それをしたためるための書道」とともに、雅であり、かつ高い教養を必要とする芸道でした。それが、500年以上の時を経て、今日に至っているのだそうです
 西洋の香り文化が、人の「癒し」に役立ったことに対し、日本の「香道」は、あくまでも「自分を見つめるための時間」「無となり、自分を高めるための芸道」となっているのだとか・・・

 体験の日は、合計3つの香りを「聞き」(香道では、香りを嗅ぐことを「聞く」と言います)、それを当てる、というゲーム的な遊び?をしたのですが、確かに、心を静めて、邪念を払わなければ、なかなか香りを聞き分ける・・・ということは難しかったですよ
 この日は、何と言っても初めての体験で、いきなり「香りを当てましょう!」と言われ、ルールをお聞きし、何十年ぶりかで墨をすり、筆で字を書く・・・ということになり、すっかり舞い上がってしまい、到底「自分を見つめる」ところまではいきませんでした


 体験を終えたあと、先生がおっしゃったひとことが、とても心に残りました・・・
 「香木は非常に貴重です。自然の中での偶然によって、香木は誕生します。しかし、それ自体が偶然を待つような稀なものであるものなのに、今ではそれに拍車をかけるように、原産国であるマレーシアやインドネシアの熱帯樹林開発が進み、木々、森々そのものがなくなろうとしています
 でも、何としても私はこの「香道」を守りたいと思っています。500年前の武将、貴族達が楽しんだ香木の中には、いまだに残っている、非常に貴重なものがあります。たとえば、その香りを聞けば・・・私達のお隣に、まさに織田信長や徳川家康が座っている・・・同じ香りを聞くことができるのです 時代を超えて、香りは存在しているのですね・・・」
 むー・・・驚きましたでも、そうなんですねえ。きっと、戦国武将も、貴族も、豪商も、聞いた香りを、私達も聞くことができる・・・すごいことです

 なかなか、こういう機会には恵まれませんが、何とか上手に、「自分を見つめる時間」を作り、心を静めて自分と対話する・・・きっと必要だなあ、と思いました

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