まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

子どもの意志と学びの真理

2009年10月27日 | にこにこ
私は、昨年からトライアスロンをはじめ、今ではすっかり「オバサンアスリート」気取りです とは言え、アスリートのつもりではあっても、なかなかコンスタントに練習のできない状況では、本物のアスリートにはほど遠いのが現状ですが・・・
 しかしながら、中学、高校、大学を通じて運動部の経験のなかった私が、ひょんなことから運動を始め、トライアスロンやランニングのレースに向けて練習をするようになったことで、気づけたことがたーくさんあります
 
 その一つは、これです
「『はじめ』『動きだし』は大変だけれど、一度動き出したら、どんどんと簡単に動くようになり、加速度がついていく」ということ。
 そして、これは「一度動き出し、加速度がついたものを止めるのは、なかなか難しい」ということをも意味しています。
 私は、これはスポーツだけに限ったものではない、と最近、痛感しているんですよね

 たとえば私の教室。
小学校受験準備を始めた当初の子ども達は、親に言われるがまま「お教室」と呼ばれる知らない場所に連れて行かれ、わけもわからず頭のトレーニング、時には意識の改革を始めます。
 もしかしたらそこは、マイペースで通える、慣れた幼稚園や保育園とは違い・・・
 厳しい先生がお小言を言う怖い場所かもしれないし
 わからなかったり、間違ったりしたら、みんなの前で名指しで叱られるところかもしれないし
 姿勢を良くしなさい、しっかりと声を出しない!と細々としたことを注意されるところかもしれません
 
 いやいや・・・目新しいことがいっぱいで、毎回行くことが楽しくて、ルンルン気分で通えるところかもしれませんね
 まあ、いずれにしても、やっぱり、最初は慣れない場所に戸惑ったり、慣れないお勉強に頭を痛めたり・・・と、子どもにとっては、それなりに負担に思える時間だったことでしょう
 しかし、大変だあ・・・と思いながらも、ママに手を引かれて通い続けていくうちに、辛かった時間が楽しくなってきたかもしれませんし、面倒だなあ、イヤだなあ、と思うことが、興味をそそられる価値ある時間になってきたかもしれません。 そして何よりも、「通い続ける」ことで、知らず知らずのうちに「大きな力」がついてくる それが、受験準備をしている子ども達の特徴なんですね

 さあ、私が何を言いたいか?に気付いてくださったかもしれません。
先ほど私が書いた「動きだしは大変だけども、一度動き出したら、どんどんと簡単に動くようになり、加速度もつき・・・」まさに、今私が書いた「通い続けていたら・・・」に通じる、と思われませんか?
 
 このようにして、子ども達の学習意欲が高まってくると、どんどんと子ども達は「知る楽しさ」「わかる喜び」「できる満足」を感じるようになってきます。
 そして、その子ども達の学ぶ意欲と学習のペース、この2つのバランスさえとれていれば、子ども達の「興味・意欲・探求心」は、どんどんと広がり、深まり、確実に力もついていくのです

 しかし・・・
こういう子ども自身の学びのサイクルを無視してしまったり、軽んじてしまったりしたらどうなるでしょうか?親の無理強い的なリードや、親からの一方的な押し付けや詰め込みをしてしまったら・・・・? 

 じつは、こういうことをしてしまうと、急に子どもの「伸び」は鈍化し、そのうちにだんだんとやる気がそげ落ち、子どものイキイキとした前向きな姿勢は失せてしまうのです
 そのうちに・・・ピタリと動きを止めてしまう・・・言ってみれば「ふりだしに戻る」という状態がやってくることも少なくありません
 もっと酷い場合には、「ふりだし、以前に戻る」つまり、学習以外のことにもやる気がなくなり、幼稚園への登園を嫌がったり、弟や妹をいじめるようになったり・・・家庭内での乱れが目立つようになります もちろん、線の細い子の場合は、チックの症状が見られるようになるのもこの頃から、です

 小学校受験の準備に限らず、私はご両親に、子どもの身のまわりのものすべてを、そういう「子どもを伸ばすチャンス」だと考えて欲しいなあ、と思っています。
 それが小学校受験の準備であれば、受験の準備は「親がさせるもの」ではなく、やり続けていくうちに、自然に「子ども自身がするもの」という意識を、是非とも持っていただきたい
 
 何度も言うように、こういうことは、受験準備だけに言えることではなく、子どもを育てている上では、すべてのことに通じるものです
 ヴァイオリンやピアノのお稽古、スイミング、バレエ、英語、絵画、etc.etc.・・・すべて、これが真理です
 「させられている」と子どもが感じているうちは、真の「伸び」というものはほとんど見られない、と言っても過言ではありません。
 
 何のための学習か?
多くの子ども達は、「親を喜ばせるための学習」「親を喜ばせるための練習」だと思っているもの、なんですよ

 残念ながら、世の中には、たくさんの「困ったさんママ」がいて・・・
どーんと構えることができず、ちょっとしたことで一喜一憂し、自分のイメージ通りに育児やお稽古事が進まないと・・・
 「もうやめましょう!」
 「そんなだったら、止めてしまいなさい!」
 「もう、ヴァイオリンなんて弾く必要ない!」
 「泳げなくてもいいから、スイミング、もう行かなくていい!」などと叫び、鬼の形相で勝手に興奮し、「やめてしまいなさい!」を連呼するママ・・・そういう「困ったさんママ」がそこら中に生息しています
 要するに、こういう「やめてしまいなさい!」と叫ぶ時のママの思考回路では、「自分が始めさせたのだから、いつでも止めさせられる」という思いなのでしょう。(そう叫んでいるくせに、本当は「じゃあ、止める!」と言われたら、もっと逆上するクセに・・・
 
 子どものお稽古は、犬の散歩とは違うのです。
犬のお散歩であれば、勝手にコースを短くしたり、コースを替えたり、時にはお休みをしてしまったり、止めたり・・・できますね。
 でも、子どものお稽古は、よほど経済的な理由がない限り、そんな親の一喜一憂が理由で、ころころ始めたり止めたりして良いものではない・・・なぜなら、お稽古をしている「主人公は子ども」だから・・・そうですよね。

 子ども達が、真剣な眼差しで向かい、自分の意志を持って聞いたり見たりし、自分の力で理解し、驚いたり、納得したりする時の顔は、本当に素敵ですよ そして、そんな時の子ども達は、輝くような姿勢で学ぶことを楽しんでいます
 学習とは、本来、こういうものであるべきです
いずれ、中高生になれば概ね、残念ながらイヤイヤ机に向かう時期はやってきます。そうであるならば、せめて幼い頃は、「学ぶことは楽しい」という思いを実感させてあげませんか?
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ママ友世界の裏表?!

2009年10月12日 | う゛う゛ー
 私が子育てをしていた頃には「ママ友」という言葉はありませんでした。
当時、流行りだした言葉が「公園デビュー」でした はてさて、今でもそんな言葉は育児の世界では生き残っているのでしょか・・・

 今は、「何でも一緒にする」というのが、子育てに限らず、の中の風潮のようです。それは、個性没と言うよりも、不安な人が増えたということ・・・私はそんなふうに思っています
 インターネットの普及で、様々な情報がいつでもどこでも簡単に手に入るようになり、自分の力で考え、判断し、時には大決断をする・・・というような、時にはリスクを伴うかもしれない恐ろしい作業をしなくても「みなと一緒にする みなと一緒である」というほうが楽であり、不安を緩和させる安全な道・・・と思うでしょうね
 そんな社会にいると、自分で考え出したことが結果的に突飛で、他人から驚かれたり、ちょっと風変わり扱いされることは是非とも避けたい そう思うようになっていくのも自然な成り行きです。
 
 とにかく
今の人々はみな不安でいっぱいになりながら、あまり自分に自信が持てないで生きているようです 特に不慣れな子育てをしている時期の母親は、その不安人種の中でも筆頭にくるでしょうね。
 だから、ママ達は安心するための情報をたくさん集め、心の平安を求めて毎日の子育てをしています
 
 ところが・・・です。
このママ友。「みなと一緒」のことをしている時には、すこぶる不安を緩和してくれるオアシス的集団ですが、ひとたび自分が「ちょっと違うこと」をしようとしたとたん、たちまち厄介な怪物になってしまうようです
 その「ちょっと違うこと」の最たるものが、幼稚園受験や小学校受験
 今まで「私達は仲間よね、私達はいつも一緒よね」と一種の連帯感を持って過ごしてきた仲間が、突然「特別な人」になろうとする
 今までは横一列だった仲間が、頭一つ?体一つ?飛び出そうとしている
口に出して「そ、そ、そ、そんなあ」と言ったり、露骨にイヤな顔をしなくても、本音は「あなただけ・・・なんで?なんでそんなことになるわけ?許せない」という思いや空気が生まれ、たちまち関係はギクシャクしてくる・・・
 今までは一番近しい、一番心やすらぐ仲間達が、異分子になろうとするヤツを「標的」にして、急に集中砲火を始める・・・それも静かに・・・密やかに・・・でも、確実に、強烈に、辛辣に

 きっと、あなたは悲しい思いをされるでしょうね。
「今まで、あんなに仲良しのママ友で、良き理解者だったのに なぜ?
 
 いえいえ、それはあなたの妄想だったのですよ

 女子校のおトイレ友達が、所詮は「お手洗いに行くための仲良しごっこの相手」だったように、私学を目指すあなた達親子を目の敵にするようになったママ友達は、所詮は、子育ての不安を慰めあうための仲良しごっこの相手だった・・・
 そこまで言い切ってしまうのは乱暴ではあります。ママ友の中には、子育てを終わった後も長く長く続く付き合っていく、大親友になる人もいるでしょうから だから、ママ友がみな、「軽く、はかなく、つまらないもの」と言うつもりはありません
 それでもやっぱり「当たらずとも、遠からじ」のはずですよ・・・
 
 けれど、もしあなたのご家庭の幼稚園受験や小学校受験を期に、急に態度が変わってしまうような人であったならば??
 残念ながら、その人との関係は、その程度のものだった、ということです

 あなたに本当に大事にすべきことは受験ですか?それともママ友ですか?
受験そのものが、わが子や家族にとっての一大事という認識をしなかったとしても、子どものために「小学校受験(幼稚園受験)を選択し、真面目に親子で取り組もう」と決めた「一つの貴重なチャンス」であることは間違いありません
 そうだとすれば、「我が子のチャンス」と「不安を癒すママ友」と、どちらを優先したいでしょう?
 おのずと答えはでるでしょうね?

 むかーし、むかし。
私自身も、Tくんママ、Mちゃんママとして、同じ経験をたくさんしましたよ
 娘が2年保育の幼稚園受験を控えた頃、彼女は長男と一緒に、年少児として近所の幼稚園に通っていました 娘は、一貫校の付属の幼稚園に合格をいただいたら、年中になるときに転園をさせることになります。
 そんな状況の中、急にある時期から、登園のために幼稚園バスに乗り込む時、娘が乗るのを嫌がり、シクシクと泣き出したのです
 すると・・・待ってましたとばかりに
 「あらー、Mちゃん、きっと疲れてるのよねえ。幼稚園受験のためのお勉強ってやつ、大変なんじゃないの?かわいそうに・・・」の声。
 そんな声は、同年、小学校受験の準備をしていた、毎日元気いっぱいだった息子にも向けられました
 「Tちゃん、うちの子が言うには、急に乱暴になったんだって きっとストレスなのよねえ

 ご迷惑をおかけしているなら大変だと思い、息子にも確かめ、幼稚園にもお聞きしましたが、何も変わった様子はない、とのこと。
 要するに、息子の件は、親が意図的に?!おもしろおかしく受験準備をあざ笑ったことであり、また、同じ小学校に行く仲間から「一抜け」しようとしている、というふうに思われ、そんな私達親子に良い感情を持てなかった・・・そういうことだったのでしょう

 さあ、あなたのまわりはいかがですか?
もし、ママ友達の様子が「違って」きたら、もう、あがかないことです

 そういうママ友達の豹変は、あなたにとってはとても残念でしょうし、悲しいに違いありません。
 時には人間不信の思いも生まれてくるかもしれません
 でも、あなたの大切な子どもを育てるのは「あなた自身」です 誰かに育ててもらっているわけではないですよね? 
 確かに、多くの人に支えられ、たくさんの親切や思いやりによってあなたは子育てをしてきたことでしょうね。中でも、ママ友達の時間は、あなたの心のよりどころで、何度も助けてもらった・・・

 けれど、ママ友があなたにとっての「癒し」ではなく、「重荷」や「悩み」になってしまったら???
 
 ママ友との関係は、ケセラセラ
思い悩まず、思い煩わず
 今のあなたにとって、あなたのお子様にとって、大事なものは何なのか?それを考え、ママは笑顔でいないといけません
 ねっ!そうだったでしょ?


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感性は家庭で育まれます!

2009年10月06日 | にこにこ
  芸術的感性を磨くために・・・ピアノ、ヴァイオリンのレッスンをする。
  創造性を豊かにするために・・・造形教室、絵画教室に通う。
  音感やリズム感を養い、体感の感覚を磨くために・・・リトミックのレッスンを受ける。
  国際感覚を身につけ、英語が堪能になるために・・・子どもの英会話教室で学習をする。
  体力をつけ、同時に抜きに出るスポーツで健康作りをするために・・・スイミング、体操教室に通う。 Etc.etc.

 熱心なご家庭に育つ子ども達は、毎日、幼い頃から忙しいですねえ。マネージャー的存在のお母様も八面六臂
 でも、確かにそれぞれの優秀なスペシャリストに我が子を託し、毎回すばらしいレッスンを受け、経験を積むことができる子ども達は幸せですが・・・でも、よくよく考えてみると、すべての教育は「外注」のようですが、お父様やお母様は、「何の担当」でいらっしゃいますか?

 お料理に例えれば、フレンチならば○○、イタリアンならば○○、中華ならば○○、お寿司は○○、うなぎなら○○、和食は○○・・・最近流行の「内食」の場合は、○○デパートの地下お総菜売り場・・・そうですね 行きつけのお店はおありになるでしょう。
 でも、お料理であれば、それが「卵かけご飯」であったとしても、家庭料理は確かにあるはず。それぞれのご家庭によって、お味噌汁や卵焼きの味が違うように、必ずその家庭「らしさ」が存在します

 ところが、子どもの教育となると、なぜか急に「家庭」の存在は貧弱になり、ここ10年は教育熱心なご家庭であればあるほど、その傾向は強くなっているように思います

 子ども達は、さまざまなお稽古に参加することで、技術やスキルを習得します 当然、豚の絵なのか馬の絵なのかわからないシュールな絵?!を描いてしまうお父様に教えてもらうよりも、美大を卒業した先生から教えてもらうほうが、子ども達の絵は上達するでしょう
「かなづち」のお父さんでは、クロールは教えられないし、メタボのお父さんとは走れないし、音痴のお母さんから歌を習うと音程がはずれるし、「ジス イズ アッ ペーン」でいっぱいいっぱいのお母さんでは、英語は教えられない・・・確かにそうです
 そりゃあ、それぞれの専門家にお願いして、しっかりと教えてもらうほうが、子どももいらない遠回りをすることなく、効率的に技術を磨けること間違いなし、です

 そう言えば・・・私にも、同じような苦い経験がありますよ。
私の父方の家系は、みな、水泳が非常に上手でした とは言っても、学校の水泳部だった、というのではなく、戦前の日本の「田舎での話し」ですから、父を含め叔父や叔母達は、全員が近所の「川」で毎日毎日泳いでいるうちに水泳が上達し、県大会に出場するほどの腕前になった、という人達でした
 私は、そんな叔父叔母が一緒に暮らす大家族の中で育ちましたので、夏ともなれば、全員が勇んで私に水泳を教えてくれます。シンクロナイズドスイミングで有名な井村コーチを輩出した、大阪府堺市の浜寺水練学校・・・私は、そこで水泳を習いたい!と幼い頃から思っていたのですが、家族は全員声を揃えて言うのです
 「まどかちゃん、なんでそんなもの、わざわざ学校に行って、他人さんから習わらんといかんのん!そんなことをせんでも、ちゃーんとおじさん(おばさん)が教えたる まかしとき
 
 ところが・・・です。
毎年、夏休みになって、浜寺水練学校の本拠地、大阪府営浜寺プールに「家族と一緒に」通っても、私はアップアップするだけで、一向に泳げるようにはなりません まさに、船頭多くして船山に上る状態、とでも言いましょうか・・・とうとう、私は小学校6年生になっても、息継ぎさえできない・・・カエルなんてとんでもない!おたまじゃくしにもなれないという泳ぎでした・・・
 ところが、中学受験を経て、母校である帝塚山学院という学校に入ったとたん、あれよあれよという間に、泳げるようになってしまいました

 一貫校である私の母校は、その当時、小学部では3年生から臨海学校があり、南紀白浜の海で4キロの遠泳があったのです。
 3年生でパスしなかった子ども達は、翌年の4年生で挑戦。それでもダメだった子は5年生に挑戦・・・というふうなシステムになっていて、毎年、その臨海学校には、学院の同窓会からたくさんの卒業生である水泳部員が「お世話係、お手伝い要員」として先生方と一緒に参加し、万全の体制で臨海学校が催されていたとのことでした
 中学1年生の臨海学校では、小学部から内部進学してきた子達は、ほぼ全員が4キロの泳力がありました
 その時の「かなづちの私」の恥ずかしかったこと・・・南紀勝浦で実施された中1の臨海学校。ずらりと整列した中で、小学部出身者は圧巻でした。泳力によって色分けされた水泳帽。彼女達は全員が「2キロ以上泳げる」という色

 おっと・・・話しが横に逸れてしまいましたね。
つまり、母校の体育科の先生方は、幼い子ども達に水泳を教えるのが、非常にお上手だったわけです。
 当時は、まだまだ地方都市である大阪には、スイミングスクールなどはない時代。前出の浜寺水練学校(浜水、ちなみに、夫はこのハマスイ出身です。腹立つわー・・・)くらいが水泳の専門教室で、それも屋外プールですから、夏休みにしか開校されません
 そんな状況のもと、私立小学校の体育科の先生方は、卒業生という助っ人もいて、非常にレベルの高い水泳指導をなさったのでしょう。

 そして私。何と、勝浦の臨海学校での2日目には、100メーターに合格。3日目には500メーターに合格。最終日の4日目には、2キロの遠泳に合格し、立派な「カエル」になりました
 まさに、餅は餅屋、というわけで・・・あれ以降、叔父や叔母はとっても「静かに」なったものです。

 ・・・とは言え、です。
これは、あくまで技術やスキルに関すること。さっき私が書いた、『すべての教育は「外注」のようですが、お父様やお母様は、「何の担当」でいらっしゃいますか?』の話し、をしましょう
 お料理の例え。
フレンチや中華・・・というレストランが「技術やスキル」だとすれば、ご家庭でのお料理は、「感性」の部分だと私は思っています
 
 確かに、専門家であるシェフが作られたお料理はおいしいですね お味のみならず、盛りつけも、食器もすばらしく、それらが一層味を引き立てます
 でもね、子どもが朝、眠い目をこすって起きてきた時、ママの笑顔と一緒に「はいどうぞ!」と出てくる卵かけご飯やフレンチトーストのほうが、ずっとご馳走なんですよ。本場のコックさんが作るカレーや麻婆豆腐以上に、ママ特製バーモントカレーや丸美屋の麻婆豆腐のほうが好き
 つまり・・・お父様やお母様は、スキル以外のもの、すべてを担当なさっているはず、なんです

 私は、10月1日の「衣替えの日」に、私のお教室の年長さん家庭宛てに、こんなメールを送信しました
 「・・・現在は、「感性を養う」と言うと、何となくイメージ的に「自然や芸術から特別なものを感じる」というふうに思われているようですが、本当の意味での感性とは「いろいろなことを感じる豊かさ」ということだと思います。特別なことを経験して、そこから何かを感じる・・・というのではなく、身のまわりのすべてのものから「感じる」ことだと思うのです。
 ただ、昔は、もっともっと世の中も、もちろん各ご家庭も、季節の行事などを大切にし、文化的な目や心が自然に養われていたのだと思うのですよ。だから、当然、子どもの心のセンサーも育ち、そういう日常の普通の生活から、「感じるセンサー」が敏感に保たれていたのでしょう。
「衣替え」なども、その中のひとつだったと思います。
私のような汗っかきは、5月の下旬、10月の上旬は冬用の制服を着て、毎日「修行僧か行者」のようでしたねえ・・・帰宅してもすぐは着替えられない・・・なぜなら、汗をかいているせいで、ベトリと制服が身体にくっついていて・・・脱げないのです。
でも、そういう不便さはさておき、やっぱり6月1日、10月1日を迎えることで、「ああ、季節が変わったんだなあ・・・」としみじみと感じたものです・・・」

 私は以前、「八百万の神様」に関してのブログをいくつか書きました。今回も、またそのことに触れますが、人の豊かさは「いかにさまざまなことを、敏感に感じられるか?そして、感じたことを、どれだけ自分の生き方に反映させることができるか?」ということだと考えています
 このような持論を持っている私は、「生きていくために役立つスキルや技術」と、「生きていくために役立つ感性」とは、どちらも大事な生きていく上での二本柱、だと思うのです
 
 前者をすべて「外注」するのであれば、せめて後者の「感性」は、責任を持って家庭生活の中で意識して豊かにしてあげなければなりません
 日常生活をなおざりにせず、一日一日を大切にし、身のまわりのすべてのことを愛おしみ大事にすること・・・そして、自然や生き物、それにまつわる行事や文化を身近に感じ、大切にしていくこと・・・
 それは、八百万の神様、という考え方に通じ、人としての感性の豊かさを育むことだと思っています

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