まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

装いについて、ちょっと考えてみませんか?

2009年04月07日 | ふーん
 先日、中高大と10年間、ともに学んだ友人とランチをしました まさにツーカーの仲 その日は、結構きれいに装ったオバサン達ではありましたが、食事をしながらも、私達はティッシュを片手に大爆笑し・・・これで私達の話す大阪弁が品の悪い大阪弁でなければ、きっと顰蹙をかってしまうのでしょう
 話題は昔のことに留まらず、大阪を離れて暮らす26年間(彼女はすでに28年間、東京暮らしをしています)をもよく理解している彼女との会話は、本当にリラックスできるものです

 私は母校のある郷里を離れて暮らしていますので、なかなか同級生、同窓生と一緒に時間を過ごす・・・ということはありません。数年に1度程度、中学部、高等部の同窓会も行われますが、懐かしい思いで参加しても、結局は私は「遠来の客」。思い出話だけではもたなくなってしまいます
 というのも、私の母校は地元の私立校という少々特殊な事情もあり、同級生達の多くは、現在も「わが子を母校に通わせているママ仲間」で、まさに、彼女達の付き合いは、大学の卒業式は「第一部の幕」であり、その後は「母親編」の「第二部」が始まり、今も現在進行形で続いている・・・という場合が多いのです
 まあ、こういう状況を思えば、私達は遠来の客であるのは仕方のないことでしょう。

 そんな状況のもと、7月に東京支部の同窓会がある、というのです 母校は、幼稚園から大学までの一貫校で、東京支部の同窓会、というと、幼小中高大すべてを含めた学院の同窓会です。ちなみに、サッカーの日本代表チームの監督「おかちゃん」は、学院の小学部、中学の男子部の卒業生です
 今度の東京支部の同窓会は、先日会った友人のお姉さんの学年が幹事をなさるとのこと。そこで、私達も勇んで出席することにしましょう、と話し合いました
 そこで、話題になったのが「その日の装い」でした そして何よりおかしく、笑ったのが、彼女の言ったひとこと「よそいき」という言葉でした

 「よそいき」私達が使ったその言葉は、「余所行き(よそゆき)」というのが正しい言葉だそうです。
 辞書で調べてみると、「あらたまった席、外出する時に着る衣類、そのための装い」とありました。
 いかがですか?みなさんは普段、この言葉を使われるでしょうか?
私は昭和33年生まれですが、当時はよく耳にする言葉でしたねえ・・・
  「さあ、出かけるから、着替えましょ!さすがに、ちょっとよそいきに着替えていかんと失礼やから・・・」
  「きゃー、かわいい 今日は○○ちゃん、よそいきを着てはるー!」
  「お母さん、よそいきの格好して、どこに行くのん?」などなど。
 でも、いつの頃から、あまり聞かなくなり・・・自分でも、「母」の言葉として、わが子に「よそいき(よそゆき)に着替えましょう!」というようなことを言った記憶は多くはありません。
 そう思うと、確かに、冠婚葬祭にまつわる装いの支度はしても、いつの間にか「よそいき」という考え方は消滅してしまったのかもしれないですねえ。

 社会が豊かになり、普段の格好が、それほどみっともない、まさに「普段着」ではなくなってきているのでしょう
 それに、本当の意味での普段着、つまり、自宅でくつろぐ時の装いも様変わりし、パジャマと兼用になるようなホームウエアやオシャレなスウェットが一般化され、分類が「よそいきと普段着」ではなく、「外出着とホームウエア」になったのでしょうね。
 そう言えば・・・ 磯野波平さんやかつおくんが着るような「ザ・パジャマ」は、小さな子どもを持つ家族の中では、姿を消しつつあります。
 昔は、ネルという圧縮されたような生地が、冬のパジャマの定番だったような記憶があるのですが・・・

 今の子ども達は、「よそいきに着替える」ということがなくなった分、気持ちの切り替えがしにくくなったのではないでしょうか?
 私は、友人とのその会話の中に登場した「よそいき」という言葉から、ふっとそんなことを考えてしまいました。
 
 昔は・・・髪をとかしてもらい、きれに結んでもらってリボンをしてもらうと、出かける気分になりましたねえ
 ワンピースを着たり、ピシッとアイロンのあたったブラウスにスカート。スカートの吊りひもが肩からずり落ちないように、母は何かと工夫をしてくれていました
 白いソックスにエナメルの黒のパッチン靴・・・レディーになった気分でした
 自然に、立ち居振る舞いも、姿勢も、ピシリとしましたねえ・・・

 もう2年ほど前になるでしょうか。
飛行機の機内誌の記事に、とても興味深いものがありました。それは、関西学院大学の社会学の先生、(確か川島恵美先生、という方だったと思います)が書かれた記事で、「非言語的コミュニケーションの影響力」というものだったと思います。
 私はその分野に精通しているわけではないので、多くを論じることは出来ませんが、私なりに解釈し、少しお話をさせていただくと・・・

 人のコミュニケーション手段には大別して2つあり、一つが言語を介するもの。つまり、話す、ことですね。
 もう一つが非言語的コミュニケーションで、話しの内容、書く内容そのものではなく、話す時の声の大きさやトーン、表情や姿勢、服装や髪型、外見、というものです。
 こういうものがが互いに一致すると、そこに「理解」が生まれます
 一致することが多ければ、理解は深まり、それはしだいに信頼に発展したりします
 しかし、なかなかスムーズに一致するものがなかったという場合には、人は一生懸命により深く理解しようと努め、2:8位の割合で「言語そのもの」以上に「非言語」を手がかりにして、理解を深めようとすることが多いのだそうです。

 私はこれを読んだ時、なるほどなあ・・・と思いました そして、自分なりにいろいろなシチュエーションを想像してみました。
 たとえば・・・
お話を聞いていて、「むー、あの人の言うことは、確かに正しい」と感じても、どうもその人のことを「すばらしい ステキだ」とすんなりと思えない・・・どうも好感が持てない・・・そんなことがありますよね。そんな時、私はよく自分のそういう気持ちを不思議だなあ、と感じたのでした。言われていることには共感できるのに、あまり好きではない人・・・どうぞしっくりとこない人・・・
 でも、この先生のお話で考えれば、不可解とも思えるこの私の気持ちが、とても理解しやすくなりました

 つまり、この場合、言語のチャンネルでは確かに共感できる内容が語られたのに、語った人の「非言語チャンネル」が私にアピールしなかった、私を拒絶させる要素が多かった、ということでしょう。
 たとえば・・・その人の話し方がとてもイヤだったとか、声が気にかかったとか装いが適当すぎて好感が持てなかったとか・・・こういういくつもの「非言語的なマイナス要素」があったため、お話の内容には非常に共感し、理解したのに、総合的には「その人やその話は私に十分アピールしなかった」という結果になってしまった、ということなのでしょう。

 私は、この記事を読んでいて、あらためて表情、話し方、立ち居振る舞いの重要性を実感し、同時に「人の装いの大切さ」を痛感したのでした。
 今ではほとんど聞かなくなってしまった「よそいき」という言葉や考え方は、本当はとても大切なものだったのではないか?と思ったのでした

 「人を見た目で判断してはいけません!」確かにそうですね。
でも、見た目でしか判断できないほど、まだまだ縁が薄い時には、やはり「見た目」の印象は大きくならざるを得ません
 そして、先ほどの「2:8」の比率を考えると、どんなに内容が良くても、その影響力が「2」であるならば、残りの「8」に気遣わなければ元も子もなくなってしまうわけですよね。

 あらためて。親子の装い・・・考えてみませんか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

育児にも美学あり?!

2006年05月25日 | ふーん
 先日、電車に乗っていて、ふっと考えました。「子育てにも美学があるかな」と

 私が下を向いて本を読んでいると、どやどやっと親子が乗ってきました ちょうどその親子と入れ替わりに数人の人が降りたので、私が座っていた前の席が空いたのでした。
 もちろん、その親子がドーンと座りました 3人掛けのところに、当然のことのように、荷物もどどっと置いて・・・
 子供は希望通りに座れたにも関わらず、乗ったその時からなんだかんだと文句を言っては泣いたり、奇声を発したり。さすがに、その車両の人達の目は、その親子に注がれていました

 とても印象的だったのが、今どきにはめずらしく、その子の上下の前歯が全部真っ黒になった虫歯で、形も原型を止めず
 確かに乳歯なのだから、まもなく新しい永久歯がはえてきます しかし、こんなに「予防歯科」的発想が育児の中に浸透した時代、フッ素やキシリトールなどという単語が、普通に生活の中で話される時代になった今、真っ黒になった虫歯を見るのは、本当に久しぶりで、私はまるで自分が子供だった昭和30年代後半にワープをした気分でした 
 それにしても、その子はよほど遺伝的に歯が弱いのか、それとも、甘いものばかりを好んで食べさせながらも、まともに歯磨きをさせる習慣がないのか??? かなり不思議でした

 子供が騒いでもお母様は困る様子も叱る様子もなく、携帯を出してメール
 今度はその子は足ブラブラを始め、お隣の中年ビジネスマンのズボンにあたっています。男性は何度も咳払い それでもお母さんは「あんた、うるさい」と一言だけ言って、子供の口にキャンディーを入れただけで、またメール
 私は、呆気にとられながらも、そういう親子を見ているだけで、少し気分が悪くなってきました
 
 そんな辟易した私がふっと目を転じると、私はまったく気づきませんでしたが、一つ向こうのブロックの椅子に、ほぼ同じ年令に見える親子がいたのです 
 その子はぎゅっとお母様にくっついて座り、絵本を読んでいました 話の内容までは聞こえませんが、子供がお母様のほうに向いて何か話すと、お母様は首を子供の顔のほうにかしげて、うんうんとうなずき笑顔
 また子供は本に目を落とします。また何かを話すと、今度はお母様がそれに応えるように話している様子
 ドアを挟んでそのとなりに、ブラブラしている子供の足が見えました

 きっと笑われるかもしれませんが・・・
私は、わが子が幼い頃、「人から見られる自分達の姿」を、とても意識していました
 子供達と一緒に、電車やバスに乗ったり、公園やお役所など、公共の場に出かける時などは、人から見られて恥ずかしくない振る舞い、見た目にもスマートに見える振る舞い・・・とてもとても意識していましたねえ 
 人に迷惑をかけない、という事は、わざわざ意識する以前の、極々当然の守るべき事柄だと思っていましたし

 そう、当時の私の子育ての美学、それは・・・
 「他人の目を意識し、賢く正しい親子として人様の目に映ること、洗練された親子としてスマートに見えること」でした

 そんな私達親子のコンビ、トリオも、すでに解散?して数年が過ぎました 今ではすっかり大きくなり、大人に成長した子供達ではありますが、やっぱり私は、こういう部分でも、「三つ子の魂、百まで」を信じています

 いかがですか?みなさんは、子育てに、何かこだわり、美学を持っておいでですか? 
 みなさんの「美学」はどういうものですか?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教養を身につける方法はいろいろ?!

2006年05月16日 | ふーん
 ここ数年、「まんがで○○日本史」とか「まんがで○○経済学」というような本が、書店に並んでいます
 まんがに関しては、「えっ?あなたがまんがですか?」というような方がとっても好き!というようなこともありますので、あくまで嗜好の問題ではありますが、やはり私としては気持ちのどこかで、「何もまんがで日本史や世界史を学ばなくても・・・せめて小説とかで学べばいいのになあ・・・」などと、勝手なことを感じていました

 しかし・・・
今日、たまたまテレビをつけると、子供向けの「まんがで○○」のCMが出てきました それも、毎週、どんどんと新しいものが発刊され、揃えればかなり立派なシリーズになる、というものです
 むー、私は唸ってしまいました

 世の中では、活字離れが危惧されています
もちろん、「まんがで○○経済学」も、そういう時代背景の中で生まれた苦肉の策的企画だったのでしょう。
 しかし
今日の私には、はっきりと自分の中で結論が出ましたよ
そうです、媒体が何であっても・・・テレビからの情報、新聞からの情報、インターネットからの情報、書籍からの情報、そしてまんがからの情報であっても良いのです
 大事なことは、それらの情報から学び、知識を得て、自分の中でいろいろと処理していって、立派な教養として身につけること・・・ これだと思います。
 本を読むことが嫌いだから、というだけで、この便利な時代に、何の情報も得ることができず、たんに自分の好みの範疇で過ごすのはあまりにもったいない、ですよね

 とてもコンサバティブな私の気持ちの中では、かなり画期的な譲歩案、だと思うのですが、みなさんは「まんが○○~学」をどう思われますか?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時には初心にかえって 

2006年04月26日 | ふーん
 ブログ、という勝手気ままな個人の日記が定着しました
ほとんどのブログは、自分の記録的な要素が色濃く、ひとりごと的なものがほとんどではありますが、それはそれで「読み物」としてもなかなかおもしろいものです
 
 私は、子育て真っ最中のママ達が、自分の息抜きのためという目的もあって、一生懸命に我が子の成長を綴っているブログを、頻繁に読みます
 いやいや、いいものですねえ、ブログって デジカメで撮影した我が子の写真もアップし、あれこれと自分の思いも書き添える育児のブログ・・・

 私は頻繁に、そういう「育児ブログ」を読みながら、書き手のママ達が、何とみなさん「新鮮な目」を持ち、我が子の毎日の生活を愛情豊かにご覧になっていることか

 一歩歩いた!と言って、夫婦で手を取り合って喜んだその瞬間の気持ちを書いたり、初めてファミリーレストランにつれて行った時の我が子のことをレポートしたり、ナサリー初日の緊張を報告したり・・・
 そういう両親の驚きや感動、感激は、まさに心底からの我が子への愛情なんだなあ そう私は感じています

 親とは、子供が少しずつ成長していくにつれて、どんどんと夢や期待が膨らんでいくもの、でしょうね そう、まさに「這えば立て、立てば歩めの親心」です
 しかし、育児ブログを書きつづっている親達に、親としての邪念が、まだまだないからこそ、我が子を見る目は本当に優しく、ブログの中の文面から、子供が無条件に愛されていることを実感します

 高い理想を掲げること、我が子への展望を持ち、ひやすら親の思い描く理想の子供像の方向にリードしようとすること・・・すべて親の愛情だと思います

 しかし・・・時には初心にかえってみませんか?
我が子が誕生した日のこと、初めて抱っこした時のこと、初めて「パパ、ママ」と呼ばれた日のこと・・・思い出してみてください
 煮詰まっていたり、滞っていたりする親子間の思いが、ふーっと晴れる気がすることでしょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さく、狭くなる世界?!

2006年04月06日 | ふーん
 今日の夕方、自由が丘から各駅停車に乗りました
途中駅までの電車だったので、比較的空いていたのですが、乗って、まわりを見回してびっくり
 半分以上の乗客が、携帯電話を片手に、メールをしているのです しーんと静かな車両、たくさんの乗客が、ぴこぴこと手を動かしています まさに一時代まえに言われた言葉、「親指族」です。

 私は最近、長年書棚に放置されていた、第2次世界大戦開戦後、間もない頃の軍部を題材にした小説を読み始めました
 日独伊3国の軍事同盟・・・確かに世界史で習いました 習った時は、ふんふん、そうなのね、とすんなりと覚えましたが、でも、よくよく考えてみれば・・・独伊の同盟はわかりますよね、同じヨーロッパで地続きで、近い国ですからね
 でも、日本はどうでしょう 政治的なつながり、ということはわかりますが、それにしても、その距離・・・気が遠くなりませんか?

 5年ほど前、私は、両親と一緒にドイツ旅行をしましたが、往路も復路も、現代のジェット機を利用しても、東京フランクフルト間は10時間以上かかるのです
 海路に至っては、いったいどれほど遠方の国なんでしょうね???それなのに、同盟?!ですよ
 通信手段だって、満足なものではなかった時代のはずですもの・・・

 今日、電車の中で、続きを読むべくその本を広げ、あらためて電車内の中の「携帯メールを打っているひと」を意識的に見て・・・ 
 「世界史の授業で、何の疑問も持たずに、すんなりと理解し、納得した私」が、何だかあまり深く物事を考えず、呪文のように世界史を覚えていたにすぎないんだなあ・・・と思い、ちょっと恥ずかしくなりました 当時の世界の距離感、通信手段等、深く掘り下げて考えてみると、もっと違う疑問や世界が見えてきますねえ。

 以前にも、携帯電話の話題でブログを書いたことがありましたが・・・
世の中は本当に、本当に変化、進化しているんですねえ。それにしても、今日の電車には驚きましたねえ。使っている人の割合の大きいこと

 きっとそのうちに、子供が描く絵の中に「携帯電話でメールをしている人」とか、「携帯電話で話している人」というものが当然のことのように登場する日も近いでしょうね
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする