まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

小さな幸せ

2007年10月23日 | にこにこ
 我が家では、新聞を3紙とっています。
一紙は主人を中心とする家庭としての新聞、一紙は家族全員のためにとジャパンタイムス、もう一紙は長男のお気に入りのS紙です
 これは、息子の浪人中からずっと続いていることで、最近では、3紙の第1面の記事が違ったり、同じトピックスでも、全く違う報道の仕方をしていることが確認できたり・・・と、マスコミとは言えども、個性の違いを実感できて、なかなかおもしろいものです

 1週間ほど前、S紙の1面に、大きく「涸沢カール」の紅葉の写真が載っていました。涸沢カールとは、北アルプスの穂高連峰の中にある、すり鉢状の場所の名前です。きっとどんな人も、一度は写真や何かで見たことのあるところでしょう
 何とも美しく紅葉したダケカンバやナナカマド・・・穂高連峰をバックに、燃え立つようなすばらしい景観です そろそろ穂高山頂には雪が降り、麓の山小屋も営業を終わるころ・・・

 私は小学生の頃に、夏の涸沢には2回、春の涸沢には1回、両親ととも北穂高にいくベースの地として訪れたことがありましたが、それ以降、登山を止めてしまった私には、そこは「写真で見る」だけの地になっていました   
 しかし、一昨年、夫と一緒に、また夏山を再開した私は、昨年、夫が槍ヶ岳に行っている間、一人で30数年ぶりに涸沢カールまで登りました
 むかしは、身が軽かったせいか、スイスイと涸沢まで登ったという記憶しかなく・・・ 楽に涸沢まで行ける気がしていた私は、途中で青息吐息
 涸沢は断念して、「優雅な中年登山」の定宿にしている徳沢園に引き返してしまおう、とは思いませんでしたが、年齢よりも体力よりも、自分の体の重さを実感した登山でした
 今年の夏は、夫と二人、念願の「涸沢にテントを張る!」を計画をしていましたが、例の沖縄での自転車事故があり、残念ながら、その夫の夢はおあずけとなりました
 小学校入試の時期である秋に、私が「優雅に秋を楽しむ」ということは、立場上願ってはいけないこと、ではあるのですが、いつかは、紅葉の涸沢に立ってみたい・・・そう考えています

 さてさて。
その日は、私は朝から、新聞の1面で「すばらしい秋」を感じ、とても豊かな気分で家を出ました
 吹く風がとても心地よく、紅葉にはまだまだ早い都会ではありますが、やはり「秋」を自然の中に見つけたく、いつもとは違う、見晴らしの良いほうの道を歩きました 駅までのんびりと歩いて10分。最寄りの私鉄の駅は、小高い丘に囲まれた盆地にあります。

 その日、私は思い切って、新しいハンドバッグを下ろすことにしたのでした
 美しい紅葉の涸沢の写真は、この時期、眠りの浅かった私の心に急速にひろがり、気持ちをとても和ませ、ふわふわ気分にさせてくれたのですねえ・・・
 下ろしたバッグは、外出先で思いがけずに出会った理想のバッグでした
 黒地のゴブラン織り。大きめのスクエアーのバッグには、大きめのブーケの織り柄があり、ところどころにはビーズやスパンコールがあしらわれてあります。
 私は歩きながら、下ろしたてのバッグにチラチラと目を落とし、幸せな気分になっていました
 ちょうど私が眼下の駅や、向こう側の丘、反対側の丘の稜線が見える、見晴らしの良いところまで来たとき、前方から坂を登ってこられた老夫婦を見つけました。 お二人は、ゆっくりゆっくり坂を上りながら、小声でお話をなさっているようでした。そのお二人まで、私は愛しく感じたものです

 すれ違う時、私は思わず目礼をすると・・・思いがけず、奥様のほうからお声をかけていただきました。
 「奥さん、素敵なバッグねえ 坂の下からね、ずっとお日様の光りでビーズがキラキラと光っていてね、きれいでしたよ。本当に素敵。とてもお似合いですよ
 「まあ、ありがとうございます!そう言っていただけて、とてもうれしいです。今日、下ろしたばかりで、私も気になって見ながら歩いていたんです。お恥ずかしいです」と答えました。
 「ほんと、お似合いよ。お気を付けてね、いってらっしゃい
 「行ってまいります

 人の心は、絶対にささくれていたらいけませんね・・・
気持ちが優しい思いで満たされている時には、心は豊かで、すべてのことが「素敵」に感じられるものです きっとそんな時には、人は穏やかな表情で時間を過ごしているのでしょう

 涸沢の紅葉が見たい・・・確かに、その場で美しい木々の紅を愛でて、冷たいアルプスの空気を感じたい・・・けれど、出来ないことを残念に思い、それをマイナスに感じたところで、なーんにも幸せにはなれません
 それよりも、たとえそれが紙面であれ、思いがけずに望みのものを見て、そして空気を想像し、感じられることで、私はとっても幸せになりました
 そんな小さな幸せを大事にしたからこそ、次々と幸せがやってきたのだな、と思いました

 幸せは、たとえ小さくても、それはやっぱり「幸せ」ですよね。
不幸ばかりを見つけ、憂いていては、きっと小さな幸せさえも感じられない人になってしまう・・・そんな気がしました

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一流を目指す

2007年10月15日 | う゛う゛ー
 ここ1年ほどは、あの3兄弟のボクシングの試合そのものは大騒ぎしなくなったようでしたが・・・ただ今回は、負け方に特徴があったため、あらためてすっかり話題になっていますねえ

 最近では、この質問も下火にはなってきましたが、以前は、私が大阪出身だと人に話すと、必ずといってよいほど・・・
  「おー、大阪のご出身ですあ では、阪神ファン、なんでしょう?」とニマニマ笑いながら尋ねられます
 そして、例のボクシング3兄弟が世に出てきてからは・・・
  「へえ、大阪出身ですか。そう言えば、あのボクシングの3兄弟、どう思います?
 という質問も頻繁にありましたねえ、全盛期は・・・
 私としては、好きとか嫌いとか、どちらを答えても、質問者からはそれなりのコメントが返ってきそうなので、あまり答えたくないな、というのが本音でした
 ただ、あの特異なスタイルが前面に出て、彼らが試合やトーク番組に登場するのではなく、彼らの日常を追ったドキュメンタリーのような番組が放映されると、必ずそこで言われることは、「あの3兄弟は、とてもよく練習をする選手達だ」ということでした。

 こんな大騒動になって、よく耳にするスポーツコメンテーターからの言葉は・・・
  「せっかく良い素質を持った選手なのだから、スポーツマンシップに則り、正統派のボクサーとして出直せば、きっと強いボクサーになるだろう・・・」というもの。
 素人ながら、私も、本当にそう思います 彼らが、一生懸命に、ひたむきに練習をする努力を惜しまない人格であれば、かえってあのパフォーマンスこそ不要ではないか?と思ったりしていました。
 まあ、人には好みというものがありますから、彼らはああいうスタイルのボクシングを貫きたかったのかもしれません。しかし、それが世の中に受け入れてもらえないのであれば、どこかで、軌道修正をする必要はあるでしょう

 昔から、何となく私は、プロレスは一つのショーのように華やかなもので、ボクシングはハングリーでもっと地味なスポーツ、というイメージを持っていたものでした
 そんな思いの中で、登場してきたのが「あの3兄弟」でした。
闘志むき出しの姿は、やはりハングリー精神のひとつのあらわれかもしれませんが、彼らのスタイルは、スポーツというよりもショー的な要素が強く、また、フレンドリーさの度が過ぎた「タメ語」の大阪弁は、さすがにチャーミングさよりも、時には不快感もあり・・・ とにかく、彼らの熱心さ、真面目さ、家族愛、父親を尊敬する姿、そんな大きなプラスを評価するものとしては、とても残念な思いで、彼らの動向を見ていたのでした・・・

 数日前、モーニングショウを見ていた時、みのもんた氏が、とても印象に残るコメントをされました
  「・・・まあねえ、いろいろ思うことはあるけど・・・とにかく、一流を目指すならば、やっぱりマナーや品格というものが、一番大事ですからねえ・・・
 いやいや、私はまさに同感です
 一流であること、一流を目指すこと、一流を身につけること、一流の世界に身を置くこと・・・『一流は、マナー、品格が命』ということですね

 私はここ数年、痛いほど感じていることがあります。
子育ての世界、教育の世界でも、今の時代は、多くの人が一流を目指します それは、とってもすばらしいことですねえ なぜならば、一流を目指す、ということは、「一流の親子が増える」ということを意味します
 
 しかし、残念ながら、実際にはそうではない場合が多いものです
かけ声と、気分は立派でも、いっこうに行動や言動は一流にならない・・・まさに、みのもんた氏の言う、マナーと品格の面では、一流を目指しながらも、「マナーや品格」に関しては、全く意識の外・・・ 
 一流になるべく全神経を集中し、がんばって背伸びをし、自分磨きをする、という行動は全くなし
 これでは、「一流」はいつまでたっても「思い描いただけの偽りの世界」でしかありません。
 それを目指し、眺めるだけでは、実際には、いつまでたっても一流にはなれないし、一流の世界も手に入りません
 最高級の装いをして、最高級のバッグを持ち、最高級の靴を履き・・・しかし、中身が最高級でなければ、所詮はバッグも靴も装いも、ただただ借り物の張りぼて

 「一流を目指す精進」は、私の一生をかけての課題であり、私が教室の中で、一生懸命に伝えようとしている、まさにそのものなんですね・・・


 
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「粗末にしては、いけません!」

2007年10月09日 | にこにこ
 先日、ある年長児に・・・
  「あなたは、どんな時にお母さんに叱られますか?」
と質問をしたら。
  「はい、ものを粗末にしたときです
という答えが返ってきました。

 私は、とっても久しぶりにすがすがしい気持ちになりました 「すがすがしい」というと、???と思われるかもしれませんね。でも、こういう答えを5,6歳児から聞いたのは、本当に久しぶりだったからです
 「兄弟げんかをした時です」とか「お友達とケンカをした時です」のような答えの場合はさておき、今回のような答えは、家庭生活の中での「躾」の部分ですから、子ども達の答えは「良い、悪い」「正しい、間違っている」という尺度の判断外、です。
 ただ、最近では、躾の類に関する子ども達の答えでは、圧倒的に、「人に迷惑をかけた時です」という場合が多く、「ものを粗末にする」という答えが返ってくることは稀でした
 もちろん、子ども達の答えに、「粗末にしたとき」という答えが返ってこないからと言って、今どきのご家庭が、子ども達に「ものを粗末にしてよい」と教育なさっている、とは思っていません

 辞書で「粗末」という言葉を引いてみると、名詞としては「作りが雑なこと。品質が劣っていること。また、そのさま。」とあり、「粗末にする」と動詞に的に使うと「扱いがおろそかなこと。大切に扱わないこと。また、そのさま」とあります。
 
 それにしても・・・私は、この「粗末にしたとき」に叱られる、と答えた子ども、その家庭が、妙にキラリンと光って見えました
 お母様におたずねすると、その日の朝、その子があまり食べたくないものが食卓に上り、それを残す・・・という一連のことから、このご注意になったのだそうです。
 この子にとって、私の「どんな時にお母さんに叱られますか?」という質問が、まさに叱られたすぐあとで、記憶として新しい、ということで、間髪をいれずにこの答えが返ってきたわけですが、それにしても「粗末にする」といういまどきのご家庭では、あまり使われなくなった言葉を、5歳の子どもが神妙な顔をして語ってくれたことを、私は大変うれしく思いました

 私は、このブログの中で、以前に何度か書いたことがありますが・・・
飽食の時代に生きる近頃の子どもは、食べ物に対して、また、食べられるということに対して「感謝の思い」がほとんどありません
 クラスの中で・・・
  「ねえねえ・・あなた達がいつも食べてるご飯ね。どれだけの時間をかけて、どれほどたくさんの人が、一生懸命になって作られたものだかわかるかな?」という質問をすると、子ども達は総じてキョトンとするものです
 確かに、こんなことは、都会に暮らしていて、スーパーで袋詰めになった2キロや5キロのお米しか見たことのない子ども達に尋ねたところで、実感がないのが当然でしょう。
 最近では、「自分達でお米を作ろう」というような企画で、郊外の田んぼに行って田植えを自ら経験し、秋になると、自分で田植えをした田んぼに再び行き、実った稲穂を刈り取り、脱穀してもらって、自分で作ったお米を食べる・・・というような経験をする子ども達も増えました 何にもも知らず、ご飯が何からできているものなのかを全然知らない、というよりも、それはそれは意味のあることです しかし、やはり、田植えと稲刈りだけでは、「稲作の真似事」にしか過ぎません
 
  空梅雨の空を仰いで、元気のない青い稲を心配そうに眺める毎日・・・
  雑草や害虫から稲を守り、育てる苦労・・・
  刈り取る間際、実った稲穂を見守りながら、近づいてくる台風情報に目を凝らす時間・・・
 本当に、それを生活の糧として、稲作をしている農家の方々のご苦労を、私達大人も、それほど「身近に感じること」もなく、毎日、当たり前のようにご飯をいただいています

 食卓に上る多くの食材・・・
いったい、どのようにして、この食卓にたどり着いたのか?どんな人たちの苦心の上に、私達の食事があるのか? 
 大人も、親も、真剣に考えてみなければ、本当の意味での、心に響く、子どもへの「性根の入った言葉かけ」などできないかもしれません

 クラスのあと、子ども達が持ってきた折り紙を見せてもらうと、私が子どもの頃には想像もできなかったような、美しい折り紙を持っています
 両面に色がある、というようなものは当たり前の時代で、裏表が違う柄だったり、グラデーションだったり・・・
 でも、そんなきれいな折り紙を、案外、子ども達はささっと折るだけで次の折り紙を出し、ひどいときには捨てて帰ってしまいます
 それを見ていると、「何か違う・・・」と感じてしまう私です。古い・・・と笑われてしまいますが、私が子どもの頃は、折り紙一枚も、本当に大切にしました よく、新聞に挟まってくる広告の紙を使って、私の祖母などは折り紙を教えてくれたものです。紙飛行機などは、チラシで作るのが当たり前でした

 ビュッフェスタイルのレストランも、高級な折り紙も、決して悪いものだとは思いません
 たくさん並んだ美味しいお料理は、人の心を豊かにしますし、さまざまなものを知り、食べることは、健康にも大切なことです
 きれいな色の折り紙で折る鶴はやはりきれいですし、明るい色を見ていると、幸せになりますね

 でも
「食べ物を粗末にしてはいけません!」「紙を粗末にしてはいけません!」という注意を、親も、躾の上での慣用句として上っ面だけをすべるように伝えるのではなく、性根の入った注意としてしっかり伝えられるように、そして、それを聞いた子どもも、粗末にすることの罪悪感を、肌で感じられるようになるために、それが「自分達の目の前に届くまでの」ことに思いを馳せる機会が、定期的に必要なのではないか?と思いました
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とらえ方ひとつで!

2007年10月03日 | にこにこ
 この場をおかりして・・・
7月21日、沖縄県伊江島で、トライアスロン競技中、自転車から落車。肋骨3本、恥骨、骨盤臼蓋部骨折をした夫でしたが、おかげさまで、すでに普通生活に戻っております 完全復帰しておりますことをお知らせするとともに、大変ご心配をおかけし、多くのみなさまからお見舞いのお言葉、励ましのお言葉を頂戴したことに、あらためてお礼申し上げます。本当にありがとうございました

 夫は、日頃からランニングやスイムで鍛えた筋力、体力が功を奏し、驚異的な早さで回復しました
 また、事故後に搬送され、1ヶ月間入院した沖縄県名護市の沖縄県立北部病院が、マラソンやトライアスロンという競技に対して非常に明るく、理解が深かったため、骨折や気胸の治療と同時進行で、健康で無傷の筋力を入院することで落としてしまうことなく、むしろ、骨折、安静によって落ちてしまう筋力や体力を補わなければならない、という考え方で、事故後「早い時期から、筋力トレーニング的なリハビリ」をしてくださいました この事も、信じがたいほど早い快復に大きな意味を持ちました

 沖縄のドクターや看護師さん達は、夫が全く動くことができず、ベッドの上だけの生活を余儀なくされていた時期から、常に部屋をのぞいては・・・
 「南坊さん、一日も早く良くなって、沖縄で開かれる競技に参加しましょうねえ
 と、声をかけてくださいました 車椅子や松葉杖で歩けるようになると、売店や食堂の方々まで、
  「ツールドオキナワは、名護であるんですよー。知っていますかあ?」とか・・・ 
  「南坊さん、トライアスロンの復帰戦は、沖縄の大会がいいと思いますよー!」とか・・・盛んに声かけをしてくださいました
 
 これが都会であったなら。
  「南坊さん、もう、年齢だって50歳を過ぎてるんだから、あんまり過酷な趣味は考えもんですよ・・・ 他に、たくさんあるでしょう、危険を伴わないスポーツが。今度の怪我は、そんな警告の意味もあるんですよ、きっと
 というような言葉になったのではないでしょうか・・・(実際、横浜の病院では、これに似たことを、何度言われたことでしょう・・・

 都会では、50歳を過ぎる年齢になれば、スポーツどころではなく、メタボリックシンドロームを危惧する人達がほとんどです。
「スポーツは健康に良い」とはわかりつつ、ジョギング程度なら理解の範疇。しかし、毎週末、必ず20キロくらいは走るトレーニングをしたり、時間を見つけてはささっと1キロ泳いだり、苦手といいつつも自転車の練習をする・・・・そんな夫は、「変わり者」の目で見られます
 今回の怪我は、まさに変人が、勝手に沖縄まで行き、海を満喫するでもなく、仲間とトライアスロン そして、勝手に転んで、骨折、入院・・・ ああ、バカだなあ・・・ってところ、です・・・

 じつは、私も不思議に、夫の事故のあと、すぐに思ったことは「ほら、こんなことになってしまって・・・もう、絶対にこんな危険なスポーツは止めてもらおう」ではありませんでした。
 もちろん、転倒して肋骨骨折、という程度のケガではなく、大きな骨の骨折でしたし、骨盤の中でも「臼蓋部」という、足の骨を支える部分の骨折で、歩行に大きな影響のある部分 全治3ヶ月、と言われ、ICUに緊急入院した時には、「これはとんでもないことになった」と思いました。
 事故後2,3日は、状態の急変もありえるから、と言われていて、多くのことを考える余裕もありませんでした

 けれど、次第にさまざまな数値も安定し、あとは時間の流れを待つのみ・・・ となってきた時には、私はひたすら、夫がまた、お仲間との大好きなトライアスロンに復帰し、息子との沖縄でのダイビングを楽しめるように、一日も早く、快復を と願い、「自転車をやめる」ことなど、考えもしませんでした
 むしろ、この事故を教訓に、自分の筋力や体力を過信せず、一層、適切なトレーニングに励めるよう、また、身近な仲間も、あらためて自転車の危険性を再確認できるまたとないチャンスとなるよう、願いました

 「人間万事、塞翁が馬」と言います。
 私は、まさにそう思います

 自分に降りかかったことを、どのように受け止めるか?受け入れるか?というのは、とても重要なことです。
 受け止め方によって、前進することもできれば、足踏みをしたり、時には後退してしまうこともある・・・

 今回の夫の快復には、沖縄の土壌が大きく関係しています
 あの「ゆいまーる、いちゃりばちょーでー」のあたたかい心を持った沖縄の人達の、「前向きな捉え方」「前向きな言葉かけ」が、1500キロ離れた横浜と名護を5往復することを余儀なくされた私の心を明るく、ハッピーにしてくれました 「旅行だったら、とうの昔に帰ってしまっていたところ。住人でもなく、旅行者でもない、この摩訶不思議な立場で、たーくさんの『沖縄』を感じよう」という意欲を持たせてくれました

 そして、「僕は、なんてバカなことをしたんだろう・・・ 多くの人に迷惑をかけて・・・」と、怪我の痛さの何倍も、精神的に落ち込み、どん底の暗い気持ちを抱えた夫の心を「骨折だけ、これだけで済んでよかったんだ」と気持ちの切り替えをさせ、せっせとリハビリに励む鋭気を与えてくれました

 私達だって、物事の捉え方で、「沖縄の人」のようになれるのです。
私はあらためて、自分自身のために、これからの人生、気持ちの持ち方を自分で上手くコントロールし、後退も足踏みもせず、常に「前に進む」ことをモットーにしていきたい、心からそう考えています

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