まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

花の力、緑の力

2007年05月23日 | にこにこ
 今日は午後、ぽっかりと時間が空き、久しぶりに車を運転して、10分ほどのところにある大きなガーデニング屋さんに行きました
 広い敷地内に、所狭しと並べられたお花の苗たち・・・今を盛りに咲き誇るもの、これから成長し、夏にお花をつけるもの、まさに赤、白、黄色、どの花見てもきれいだなー、です

 すでに何度かブログでも書いていますが、私は小さなベランダに季節の花々を植えて楽しんでいます
 食事の時、リビングの窓に目を転じると、ピンクや黄色のお花たちが目に飛びこみ、その向こうに緑豊かに茂った桜の大木が見えるのです
 今の季節は、早朝にはウグイスがやってきて、きれいな自慢の声を聞かせてくれます。遠くに最寄り駅の電車の音が聞こえなければ、ここが町中であることを忘れさせてくれます・・・

 今日の私は、主人のおつかい、でした。新しいオフィスに置く大きめの観葉植物を探すお役を仰せつかったのです。今では、インターネット上でも、たくさんの観葉植物が選べ、通販形式でも購入できるのですが、せっかく空いた時間ですから、ぜひ、自分の目で確かめて、気に入ったものを選ぼう、思いました
 外でお花の苗を愛でるのに堪能した私は、やっとドーム型の室内に入り、観葉植物のところへ。幸い、気にいったものが見つかり、いくつか注文をしました

 お花・・・緑・・・本当に人の心を和ませますね
 今日は陽射しも強く、地面や緑からの照り返しもあって、お花を苗を10分ほど見て歩いただけで、直射日光を受けて顔がほてってきます
 でも、この太陽の光、敷地のあちこちでちょろちょろとホースから流れ出し、光っているお水、そして、色とりどりの花々 私までが植物になって、光合成を行っているような気になってしまいました

  「あなたの好きなお花は何ですか?」
  「あなたのお家には、今、どんなお花がありますか?」
  「あなたは、どんなお花を知っていますか?」

 たまに、私はクラスで子ども達にたずねてみます。もちろん、小さな子ども達は、どんなにお花が好きでも、名前までは覚えていない、という子もたくさんいますし、お花は好きだけれど、実際にお花を見ているのではなく、大好きな図鑑を眺めている、という子もいます
 どちらの子がどうだ、ということではありません。
図鑑を熱心に眺め、お花の名前を覚えている子も、お花屋さんが好きな子も、お庭やベランダのプランターに、一生懸命にお母さんと種を蒔いた子も、やっぱり、「お花を身近に」感じている子ども達、でしょう

 そして、お花が好きというお母様は、お花を眺めている時間は、それがどんなに短い時間であっても、心なごみ、優しい気分になって、顔も心もふっと笑みに包まれていることでしょう

 どうですか、お母さん?明日、お花屋さんに行ってみませんか?

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たとえ納得いかなくても・・・

2007年05月18日 | う゛う゛ー
 我が家の大学2年になる娘・・・超行動派で、なかなかゆっくりと話すチャンスがありません 同じ家に住みながら、食事の時間のような「家族での時間「」以外は、さすがに子ども達は自室で「自分の時間を、自分の空間で」過ごしますので、一層、家にいたとしても、親と関わり話す・・・という機会は少ないものです
 すっかり成長し、ごちそうさまと言っては自室に引き上げていく彼らの姿に、以前は(ああ、むかしはもっとリビングで一緒にいて、いろいろ話したのになあ・・・)などと、感傷的に彼らを見送ったものです
 けれど、今では当然のこととして定着したこの習慣は、ある意味、「私自身の時間」が尊重されているということでもあり
 ときどき、いつまでも彼らがリビングにいて、二人でああでもないこうでもない・・・などと話していると、「う゛ー・・・私、これから仕事をしたいのに・・・」などと思ってしまいます。習慣とは、恐ろしいものです

 さて、そんな娘との久しぶりの会話
彼女のサークルのお友達に、遅刻の常習犯ちゃん「Aちゃん」がいます。非常に聡明なお嬢さんで、何事にも秀でている人なのですが、なぜか時間にはルーズ どんな約束にも平気で遅れ(それも、5分、10分単位ではないところが恐ろしいところです)、あまり悪びれた様子もない、とのこと。そのかわりと言っては何ですが、他人が遅れることに対しても、非常に寛容だ、というのです

 お恥ずかしながら、我が家の娘も、決して「常に時間通り」とはいっていないようですが、さすがにその友人の奇行?にはしびれを切らしたらしく、先日、こんこんと「世間の常識」として、遅刻は罪であると解いた、というのです
 その話、なかなかおもしろかったので、概要をご紹介しましょう

 「あのさあ、Aったらね、どんなに私が唾を飛ばして遅刻はダメよ、と話しをしても、ピンとこない、まあそんなかたいことを言わなくていいじゃん!って思ってしまうんだって どこか、やっぱり変なんだよなあ、あんなに賢い子なのにねえ・・・ でもね、Aがおもいろいことを言ったのよ

 (Aちゃんの言葉)
 『あのさあ、さっきから、あなたが必死に私に話してくれてる、注意してくれてることなんだけどね、やっぱり私にはどうしても理解できない、納得できないことなんだよ・・・ でもね、納得はいかない、理解できないけど、あなたが言うように、それが世間の常識で、私にとってとっても大事なあなたが「これを守れない奴とは、良い友達にはなれない」って言うわけだから・・・だから、私、これからは守るよ 私がこれを守らなければ、友達のあなたを失っちゃうわけでしょ それはすっごく困るもん

 「何だか、私としては不完全燃焼っていうか、どうもすっきりしないAの言葉なんだけど、まあ、仕方がないかな、と思ったのよね とにかく、理由は何であれ、時間を守ってくれればいいわけだから 私、言ったんだ、Aちゃんに・・・世の中にはね、たとえ自分には理解できない、納得できないって思うことであっても、そういう次元ではなく、社会の中で生きていく上で、絶対に守らないといけないルールはあるんだよ、ってね はっはっは、偉そうに言っちゃったよー

 私は正直なところ、この娘が話した内容には、かなり呆れたというか、驚いたとのですが・・・けれど、なかなか深いものがあるな、とも思ったのでした

 いかがでしょうか?
  どうして、このお店には、ベビーカーで入ってはいけないのですか?
  どうして、小さな子どもが一緒だと、この美術館には入れないのですか?
  どうして、ここでは子どもにおやつを食べさせてはいけないのですか?
  どうして、この幼稚園(小学校)には、自動車で送り迎えをしてはいけないのですか? 
  どうして、保護者会には、下の子を連れてきてはいけないのですか?
 どうして、この学校に通う時、女の子はスカートでないといけないのですか?
  どうして、この学校に通う時、男の子は膝が隠れてしまうズボンではいけないのですか?
 どうして、制服の時には、キャラクターの髪飾りをつけてはいけないのですか? etc. etc.

 確かに、一つ一つの質問、疑問には、用意された答えがあるでしょう 他のお客様への配慮だったり、安全性だったり、幼稚園や小学校の伝統だったり、学校としての品格だったり・・・
 しかし、私は思うのです
そういうふうに、上記の疑問、質問に答えたとしても、きっと今の時代では、それを聞いた人に中には「それなりの反論」をする人は出てくるのでしょうね そしてその反論は、決して訳のわからない反抗のための反論ではなく、案外、筋の通った答えである場合もあるはずです。
 でも、やっぱり、「○○してはいけません」「○○してください」というのは、『決まり』なのですよね。

 娘が、お友達のAちゃんに最後に言ったように・・・
 『世の中には、たとえ自分には理解できない、納得できなと思うことであっても、そういう次元を越えた、社会の中で生きていく上で絶対に守らないといけないルールがある』わけです。
 理屈ではなく、ただただ、何が何でも守らないといけない、自分に課す必要のある、守るべきものがある・・・

 民主主義、個人主義が徹底した現代、「指示を出す、指示をする」ということは、時には「強制する」とか「強要する」という理不尽なこととして嫌がられます。そして、今はどんな人も、自分なりの理屈を振りかざし、自らの思い通りに、好き勝手に振る舞う・・・ということが増えました
 しかし、そんなことばかりが許されていては、社会の中に秩序は育たなくなってしまいます

 子どもが幼い頃から、お父様、お母様自身が、「理解や納得はできないけれど、ルールとして守るべきこと」を守り、我が子の社会性を育てるべく、お手本を示さなくてはなりません
 そして、子どもが小さなうちから、自分の好き勝手な行動は、時には秩序を乱すとんでもないこととして、教えなければなりません

 娘の話から、そんなことを考えました
そろそろあれから半月・・・Aちゃんは果たして、遅刻をしなくなったのでしょうか

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みーんな「今楽人」

2007年05月13日 | う゛う゛ー
 先日、朝から東横線に乗りました 
首都圏の私鉄の中でも、東急東横線は、比較的、朝夕のラッシュ時と日中の乗車率の大きな差のない電車です。つまり、昼間でも、結構、人が乗っているんですねえ 都心のターミナル「渋谷」から、横浜市の中心部、元町・中華街まで走っているこの路線。
  代官山、自由が丘というようなオシャレな町
  学芸大学、田園調布、日吉、というような住宅地
  武蔵小杉や菊名のようなJRとの乗り換え駅
そんなところを通っていくことを思えば、乗降客が朝夕のラッシュ時だけではない、ということも理解できます
 また、もともと東京や横浜には公立私立どちらも学校が多く、どんな私鉄の沿線でも、各駅には2つ、3つくらいは、小、中、高校があるものです

 その日、私が急行電車に飛び乗った時間も、大学生と思しき若者が、たーくさん乗っていました。
 乗ってすぐ、私は開いたドアとの反対側に行き、ドア横の手すりをもって立ったところ、一番ドア寄りに座っていた青年の頭に、少し私の腕が触れたようでした 咄嗟に、彼は頭をさっと動かし、ギロリっと私を見上げて、睨みました。チッと舌打ちしたようにも思いました
 「まあ、失礼いたしました おばさんが悪うございました」もちろん、そう口に出して言ったわけではありませんが、ちょっぴりイヤな感じで、心の中でそう思いました

 確かに、日本人はあまり「触れる」ことには頓着しませんが、欧米人は、人に触れてしまったり、触れられることをとても感覚的に嫌います ですから・・・私は、そんなふうに心の中では悪態をつきながらも、やっぱり申し訳なかったな、と思い、すぐに目礼をして、頭を下げたのでした

 乗ったとたんにそんなことがあったので、私はその場に立っている間、彼のほうが気になりました 残念ながら、立つ場所を移動するほど電車は空いてはいなかったので、私としても、そこに立っているしかなかったのです
 しばらくすると、私は図らずも「彼がなぜ、他人の動きにそんなに大仰に腹を立てるように反応したのか?」を知りました
 なぜなら、今度は横にいる私ではなく、前に立っていた男性の足が彼の足に触れたようでした。彼はやっぱりその前の男性を見上げて睨み、舌打ちをしたのでした
 じつは、彼は、小さなゲーム機で、ファイティングポーズをしていたのでした。彼は両手でそのゲーム機を目の前に構え、両手の親指で素早くボタン操作をし、画面の中の的と「真剣勝負」をしていたのでした

 その真剣勝負は、渋谷駅に着くまでの20分間、延々と相手を替えながら続いていたようでした 
 彼の耳にはイヤホンがあり、そこからは「音漏れ」のかたちで大音量でロックがかかっていましたので、車内アナウンスが聞こえたとは思えませんが、渋谷駅に近づくと、彼はゲーム機を専用ケースにしまい、胸元のフックにそれをぶら下げました 
 きっと、JR山手線?東京メトロ銀座線?半蔵門線?に乗り換えると、また、その真剣勝負を始めるのでしょう。さすがに、徒歩中は停戦なのですね・・・

 ゲーム機の開発を、一生のお仕事として取り組んでいらっしゃるN社、S社の方、申し訳ありません あなた方を責めたいわけではありません。でも・・・
 本来は多くのことを学び、自分の人生を考え、悩み、決して大袈裟ではなく、自分の所属する?国のことを考えるべき「若者」が、こんなことで良いのでしょうか

 小学生の頃から、いえ、その前から知育だ、早期教育だとガンガンと詰め込まれ、多くの子ども達は途中で結局は挫折をします
 子ども達が自ら挫折を選ぶのではなく、あまりに「自分の意志」とは無関係のところで、親の思うような教育を施され、結果を求められます 残念ながら、親の望むような結果が出せず、親から諦められる・・・その結果として、挫折の道をたどる子ども達も多いのです

 本来子どもとは、幼い頃から、自ら見たり、聞いたり、触れたりしながら、探求心を育てていきます そして、それらのことから多くを感じ、考え、表現するのです。その表現の手段が、言葉です 言葉の発達は、まさに人としての幅も広げていくのです・・・
 しかし、今は、多くの親から、「すぐに結果の出るもの」ばかり体験させられ、結果を求められる・・・
 そして、挙げ句の果てには、すべての「学びそのもの」に興味を失い、刹那的なものにばかり楽しさを求めるのです

 将来、愛するわが子が、電車の中で戦いに興じ、自分の身のまわりに対し「見ざる聞かざる言わざる」になってしまわないように・・・あなたは今、何ができるでしょう?

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枝葉を育てる

2007年05月02日 | にこにこ
 先日、初めて大阪にある「東洋陶磁美術館」に行ってきました
 私の両親が暮らす大阪の「梅田」というところからは、目と鼻の先。けれど、帰省しても、自宅で両親の相手をするのが私の役目、と決めていた私にとっては、自由に一人で勝手に出かける、ということは、なかなか気分的にも憚られ・・・
 そんなことを知ってか知らずか、せっかくこんなに近いのだから、散歩がてら行ってみようと、今回は一緒に帰省をした主人に勧められ、念願だった美術館行きが実現しました

 すでにご存知の方も多いと思いますが、この美術館に展示されてある主に中国と韓国の年代物の貴重な陶磁器は、かつては栄華を誇った今はなき「安宅産業」のコレクションです
 安宅産業が伊藤忠商事に吸収され、事実上の倒産に追い込まれた時、それを管理した住友銀行(現在の三井住友銀行)が安宅コレクションを大阪市に寄贈し、この美術館がオープンしました
 膨大Bな陶磁器をはじめとする芸術作品の目利きコレクターであり、安宅産業の二代目として生まれた権力者安宅英一氏は、音楽の分野でも多くの若き芸術家のパトロンとなり、事業家としては企業破綻を招いた浪費家ではあったものの、別の意味では、大きな偉業を成し遂げた人ではありました

  「・・・この本社ビルなあ(古くなり、少し色の褪せた本社ビルの写真が展示されてありました)、あの当時はえっらいきれいやったでえ。さすがに『アタカはんやなあ・・・』おもたわ
 車椅子を押して、美術館内の入ってきたご老人が、前屈みになって、車椅子に座る奥様に向かって話しました
  「アタカはん、ほんまにものすごい勢いやったさかいになあ・・・のーなってしもて(無くなってしまって)もったいないなあ・・・
 私はこの言葉を聞き、ああ、何て大阪的なこと・・・と思わずニンマリと笑ってしまいました
 この二人の会話を聞いていると、「アタカはん??このご夫妻は、あの『安宅氏』のお知り合い、なのか??」と勘違いをする人もおいでになるでしょうね 当然、話しの成り行きから(大阪人である私は、成り行きなど聞かなくとも、親しげに「アタカはん」と呼ばれていても、親しくはない、ということは感覚でわかりますが)、安宅氏とこのご夫妻には、何の人間関係もないことはわかるのですが・・・

 とにかく、大阪の人は、誰をも自分と妙に親しい存在、として会話に登場させます
 それは、人だけではなく、「えびっさん、だいこくさん、てんじんさん」と、戎様、大黒様、菅原道真公などという神様や奉られた人をも○○さん、と呼び、親しい自分の仲間にしてしまいますからね・・・
 そのほかには、食べ物を呼ぶ時にも同じようなことがあります。
その代表的なものには「飴ちゃん(あめ玉、キャンディー全般)」「お芋さん(芋類すべて)」「おかいさん(お粥)」「お鯛さん(関西での魚の王様、鯛に敬意を称して?!)」など
 まあ、今どきの大阪の若者達は、すでにそんな言葉は使わず、知らないかもしれませんが・・・

 それはさておき・・・
展示の部屋を、一つ一つゆっくりと見てまわっていると、どやどやと熟年の一団が入ってきました。
 声が大きく(ほとんどの大阪人の声は大きい!)、どう聞いても普通の会話なのに、まるで漫才のようにボケとつっこみがありおもしろいのです。私は主人とボソボソとたまに話し、しみじみと一つ一つの展示品を見ていたのですが、自然におじさん達の会話は耳に入ってきます

  「なあ、この形、何かに似てへんかあ?・・・何やろなあ・・・」
  「わかった なああんた、骨壺とちゃうか?しろーて(白くて)、つるっとした蓋ついてて・・・
  「ほんまやなあ、そんなこと言うたら、バチあたんで それにしても、こんな壺にお骨入れたら、僕やったら骨になっても、気―つこて(気を遣って)、ゆっくり成仏もできへんわあ・・・
  「はっはっは、ほんまやなあ それにしても、これ、こうたら(買うとしたら)、なんぼやろなあ(いくらでしょうね)?」
  「あんた、美術品見て、値踏みしたらいかんわー。それにしても、あの大きなお皿・・・てっさ(ふぐの薄造りのお刺身のこと)、何人前盛れるやろか?
  「しょーむないこと、思いつくなあ・・・ははは、100人前はくだらんでえ・・・」etc.etc.・・・

 このユーモアが介せなかったら、本当にくだらない話しで、美術館には相応しいとは思えない会話ですが・・・でも、おじさん達、最後にこんなふうに話しをまとめていたのでした

  「せやけど、アタカはん、最後はしょうむないことになってしまいはったけど、よーさん音楽してはる人や、芸術してはる人を助けはったんやで・・・私には、ここに並んでる壺の良さとか値打ちはわからへんけど、アタカはんが男の一生かけてやりはったことは、やっぱり意味のあることやわなあ
  「ほんまほんま。僕らも、あとなんぼほど(あとどのくらい)生きられるかわからへんけど、死んだ時に、息子や娘が、『お父ちゃん、不細工な人やったけど、○○だけはすごかったなあ・・・』みたいに、一つだけでも言うてもらえること、せんといかんなあ(しないといけないね)思うわ
  「名も残さへん、大きなこともようせんけど(できないけれど)、あの人の『○○はすばらしかった!』みたいに言うてもらえるように生きないかんな

 何だか、私はうるっとしてしまいました。
身のまわりのこと、すべては自分の生きる糧・・・私はよくそう思います
 私も「好み」はありましたが、そこに展示されていた作品について、深く何かを感じられるほど、そういうものに造詣が深いわけではありません むしろ私も、おじさん達にアタカはんと呼ばれていた安宅英一氏の生き様や、アタカ産業という企業についてのほうに興味を引かれました
 あのおじさん達・・・きっと、東洋陶磁美術館で、たくさんの「何か」を感じ、帰っていかれたのでしょうね。そして、そのことは、1週間後?ひと月後?1年後?5年後?に、何らかのかたちとなって、おじさん達の生き方に反映されるのでしょう

 たまたま、一つの展示スペースの入り口に、ピアニストの中村紘子さんが書かれた文章がありました。
  「ある時、突然に安宅英二氏からお電話をいただき、ボリショイサーカスに行きましょう!と誘っていただきました。その日は、初日。私は道化、動物のサーカス、空中ブランコなど、次から次に展開される出し物に夢中になりながらも、いったいなぜ、今日は安宅氏からこのサーカスにお招きをいただいたのだろう、と考えていました。すると、急に安宅氏は、こう切り出されました。『動物の謝肉祭ですが・・・』私はやっとわかったのでした。私はそのすぐ後の時期に、シューマン作曲の動物の謝肉祭を演奏することになっていたのでした。しかし、私はサーカスなどは一度も見たことはなく、ひたすら想像を膨らませながら、ガンガンとピアノの練習をしていたのでした。でも、あのボリショイサーカスを見て以来、私には確かに「何か」が生まれ、良い演奏ができるようになったのでした・・・

 このことにも、同じような意味がありますね
何か物事に相対する時、目先のことにばかり必死になっていても、結果的には頭打ちになったり、良い打開策が見つからなかったり、一段越えることができなかったり・・・しかし、発想の転換や、気持ちを入れ替えたり、価値ある息抜きをしたりすることで、飛躍的に物事がはかどったり、良い発想が生まれたりするのではないでしょうか?

 我が子に、勉強ばかりを強要しても成績は伸びなかったり、練習ばかりさせても、得点やタイムが伸びなかったりすることが多々あります。
 教養を磨く・・・ これは、人としての「豊かさ」を身につける、という言葉と同義語だと思います。教養や豊かさこそが、ピンポイントではないけれど、人のさまざまな面での向上、成長を促す・・・違うでしょうか?

 漫才おじさん達は、東洋陶磁美術館で、「アタカはん」が集めた東洋の陶器を見ながら、あとの残りの人生を、どう生きるか?を考えました
 中村紘子さんは、ボリショイサーカスを見ながら、動物の謝肉祭の演奏をより豊かに弾く感性を身につけられました
 ピンポイントの学習は、とてもデジタル的で効率良い方法でしょうが・・・人には枝葉、寄り道が必要に違いない・・・

 子どもを育てる時もきっと同じです
とかく現代の親は、目先の成長、促成栽培的効果を望み、ピンポイント学習に魅力を感じるようです
 また、育児そのものに対しても、ここ数年は効率の良さを重視する傾向にあるように思います。

 こんな子育てをしていては、「優秀」と呼ばれる子どもは育っても、無味乾燥で、「優秀」だけが取り得の、カサカサの人間が育ってしまう・・・私はそう思い、とっても憂いています
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