まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

時代の変化を認識する

2006年05月31日 | う゛う゛ー
 ここ最近、こどもが犠牲となる多くの事件、事故が頻発しています。不謹慎な表現ながら、ニュースで取り上げられていても、いくつも同時に起こっているために、二つ、三つの事件が、頭の中でミックスされてしまい、あらためて見直し、整理しないと、すぐには事件の詳細が思い出せない、ということがあります

 日頃から、お子さまをお持ちのお父様、お母様とお目にかかっていると、かならず一度は「僕が(私が)子供の頃は、こんなじゃなかったですよねえ・・・」というお言葉を聞きます。
 確かにそうですねえ 私が子供だった昭和30年代後半、40年代前半は、まだまだ「戦後○○年」などと、戦争で日本が混乱していた時代から数えて何年・・・という表現をした時代でした

 しかし、それはすでに感覚の中では、「おとぎ話」ほど、昔の時代になりました。
 航空写真を見れば、いくつもの高速道路が交差するジャンクションはあちこちにありますし(これは、鉄腕アトムの中でしか見たことのないような絵でした)、どこに行っても、小さな機械が人の声と情報を提供してくれます
 今の時代、便宜上、待ち合わせ場所と時間を決めますが、正直、どこに出かけたところで、人と人は携帯電話でつながっていますので、「もしかしたら会えないかも・・・」などという心配は皆無です

 そしてもちろん、家の中でも、家庭の電話機などは、ある意味ファッションか、習慣上何となく存在しているようなもので、実際には、父、母、子供達、それぞれは携帯電話を持ち、家庭の有線電話などを使うことも稀になってきているのです

 こんな時代の子育て・・・
「僕が子供の頃は・・・」は、すでに「むかしむかし、あるところに・・・」という響きと同じになっているでしょう。
 私は、そういうことが良い、と言っているわけでも、悪いと言っているわけでもないのです
 ただ、大切なことは、そういう「時代の変化」を実感し、認識し、同時に体で受け入れなければならない・・・ということです
 
 家から一歩出れば、幼い子供と言えども、社会人です
その意味においては、どんなに時代がかわっても、公共での道徳心や守るべきマナー、エチケットは身につけなければなりません
 しかし、そういう不変のもの以外に関しては、現代を生きる(これからの社会を生きる)子供達は、私達親とは、まったく違う世界で生きているのです
 何度も言うように、これは「良い、悪い」ではありません。

 この変化、現実をしっかりと理解しなければならないでしょう 親のほうが時代の流れに遅れ、その時代を生きる子供達の心理が見えなくなっていては、時間に飲み込まれた悲しく愚鈍な親になってしまいますよね・・・
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いきいきと、生きる責任

2006年05月30日 | う゛う゛ー

 昨夜、NHKのBSの番組予告を観ていると、「WATARIDORI」というフランスの映画についての短い解説が出てきました

 監督は、飛んでいる鳥の視点で、一緒に飛ぶ鳥達、鳥達の眼下に広がる大地を撮影したい!と考え、鳥の「すりこみ」の習性を利用した、と言います
 つまり、大自然の中の鳥を撮影するために、わざわざ撮影する鳥達が孵化するその瞬間からスタッフが立ち会い、それ以降40週間かけて、鳥と人間(カメラやマイクを含めて)を近い存在として会得させ、非常に臨場感あふれる、ダイナミックな映像を撮影することに成功した、と言うことでした

 残念ながら、あまり生き物に深い興味のない私は、大変話題になって日本に入ってきたこの映画を観ることはありませんでしたが、それでも、公開された当時、「いったい、鳥になったように感じられるこの映像は、どのようにして撮ったのかなあ?」と疑問に思ったことは、よく覚えています

 この解説付き宣伝の後は、カメラマンの話題でした
あるNHKのカメラマンは、自分の豊富な撮影経験から、もっともっと求める映像を撮影するために、さまざまな工夫を凝らしたカメラや、撮影補助機材を自ら設計し、それを利用して、日々すばらしい映像を撮影している、とのことでした

 その中でも、今回番組の1シーンとして紹介された映像は、東南アジア原産の淡水魚「アロワナ」が、水面からはるか上の木の枝にとまった甲虫を食べる、というスローモーションのシーンです 確かに、ものすごく貴重な瞬間です
 アロワナが水面から体をジャンプさせ、大きく口を開けて、静かにとまっている甲虫をパクリと口に入れ、再びバシャーンと水の中に姿を消すのです・・・
 この映像は、どんな学者の解説よりもシュアで、インパクトがありました

 映像が消えた後は、そのカメラマンへの短いインタビューが流れました。
「すごい瞬間を捉えることが出来ましたね!」の言葉に、
「ありがとうございます!待った甲斐がありました!」の返事
「こんな決定的瞬間を撮影するためには、どのくらい待つのですか?」と尋ねられると、
「思った映像が撮れるまで、ですよ

 私は、あらためて悟った気がしました

「自分は何がしたいのか?」ということを、しっかりと自分で理解できている人間には、とてつもなく大きなパワーがあり、そのパワーが成功へのパッションとなって、必ず良い方向に導かれ、結果が出せるのだなあ・・・と

 我が子を含め、現代を生きる子供達には、こういう「自分は何がしたいか?」のところが、はっきりしません
 だからこそ、何事に対しても「燃えない」んですね、きっと
そして、「だるい、疲れる、つまんない・・・」こういうネガティブな言葉が、安易に出てしまうのでしょう

 いかがですか?
大人でも、したくてしたくてウズウズするようなことであれば、パパっと取りかかり、嬉々として出来ますよね
 そして、それほどしたくないことをするから・・・当然のこととして、すべて中途半端な満足感しか得られない、そういうことなのだと実感しました。

 これは、今の中高生の風潮ですが、もし、みなさんのお子さま達、幼稚園児、小学校低学年の子供達が、こんな「だるい、疲れる、つまんない」のような腐った大人のようなボキャブラリーを身につけ、普段、使うとしたら??? 

 それは、とんでもない危険信号・・・
そう思うべきでしょう そして、その責任は、「いきいきと生きていない、親に責任がある」と、やっぱり認識すべきでしょうね
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山でしばかり?川でせんたく?

2006年05月29日 | にこにこ
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは 山へしばかりに、おばあさんは、川へ洗濯に出かけました・・・」

 みなさんがよくご存知の、「ももたろう」のお話です
現代のように、たくさんの児童書が発刊される時代になり、新しい名作と呼ばれるに相応しい多くの絵本があっても、きっと、初めて語る「添い寝の時のお話」が桃太郎だという、というおうちは多いのではないでしょうか

 それほどまでに、日本人の耳には、「むかーしむかし・・・」や「おじいさんは、しばかりに・・・」が心地よく響いてくるのでしょう

 そこで・・・です
私が、教室の生徒さん達に、カリキュラムに一環として、昔話の教材を使う時、確認の意味で、
 「ねえ、おじいさんは、どこで、何をしたって?」とたずねると、子供達は応えてくれます

 「やま、山!先生、やまだよ!山で、し・ば・か・り」こういう自信満々の時の子供達の顔は、すごくかわいいんですよ

 そこで、たたみかけるように、また尋ねてみます。
「山に行って、しばかりをするの?」

 すると・・・たいてい、なかなかおもしろい、ユニーク解説が始まるんですよ

 「山にさあ、お庭があるんじゃなーい?芝刈りしないと、伸びちゃうんでしょ
 「おじいさん、大変だよねえ お山まで、あんなに大きな芝刈る機械、持って行かなきゃいけないでしょう?

 そうなんです ほとんどの子供達にとって、耳から聞こえてくる「しばかり」は、現代の芝生のお庭の芝刈り、というイメージなんですよね
 もちろん、川へ洗濯に・・・も、いろいろと尋ねてみると、笑える応えがかえってきます

 「おばあちゃんちの洗濯機、修理する人、いつくるのかなあ・・・」
 「おばあちゃんちは、川のとことに、洗濯機を置いてるの、なんでなのかな?

 決して、これは笑い話、作り話ではありません
しかし、往々にして、子供にはとっても愉快な勘違いがある、想定していないで子供達の言葉を聞くと、一瞬、えっ???と思ってしまうことでしょう

 子供は、3,4歳になれば、十分に大人の話し相手が出来るようになり、大人の口調を真似た、一人前の相づちも打ってくれるようになります
 だからついつい、大人は「この子はなんでもわかってる」という気分になってしまうものです

 しかし
ときどき、いろんな話をチェックしてみてくださいね とくどき、とってもおもしろい誤解や、言い損ないの言葉や、覚え間違った言葉が登場します

 何てかわいい、何ておもしろい と思ったあとは、ちゃんと訂正をしてあげて、なおかつ、物語を誤解しているようなときには、きちんと子供にわかるように、説明をしてあげましょう 
 思いのほか、子供の幼い時の記憶は、訂正するのに時間がかかったりするものですよ
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素朴さの中の「豊かさ」

2006年05月27日 | う゛う゛ー
 今ではすっかり翻訳ものを読まなくなった私ですが、学生時代に夢中で読んだ本の中に、パール・バックの「大地」という本があります
 辛亥革命前後の中国。音を立てて国が大きく変革していく中で、数奇な運命を生きる主人公「ワン・ルン」
 小説は3部作で、息子の代、その次の代・・・と、ワン家3代の物語として展開していきます。

 もともと、地理や歴史好きで、友好訪中団のメンバーとして、3週間の訪中を終えた直後だった私は、小説の中に描かれた壮大なドラマに魅せられ、寝る間も惜しんで読み進めました

 あれからも、好んで数多くの歴史小説を読んできたと思いますが、未だに「大地」ほど、魅力を感じる小説には出会っていない気がします

 なぜ、そんなに惹かれてしまったのか?
私は、教育もなく、ただの貧しい農民だった初代の父親ワン・ルンの「深くて、強い、素朴な豊かさ」に 強烈に惹かれたからだった、と思っています
 どうぞ、興味を持たれた方は、一度、読んでみてください

 今、豊かな時代を生きる子供達・・・
おもちゃや絵本、さまざまな便利な道具に囲まれ、子供達はまさに「豊かさ」の中で毎日暮らしています
 食べるに困らず、教育環境も充実し、何も不自由なし、というのが現代の子供達でしょう
 世界も狭くなり、幼くして、海外旅行に出かける子供達もたくさんいます 3つ先の県には行ったことはないけれど、ハワイには行ったことがある、という子供もめずらしくありません

 しかし・・・ 私はどうも、そんな現代の子供達の中に「豊かさや強さ」を感じられないのです

 日本人でありながら、正しい日本語、美しい日本語を知らず、学ばず、それよりも先に、国際語である英語を!と外国語学習が一歩先を行く・・・
 マッチ棒のような、間に合わせのおもちゃを工夫して遊ぶよりも、パソコンのお絵描きソフトを使いこなす・・・

 「大地」の中で、貧農ワン・ルンの3人の息子達は、大地主、穀物商、軍人となり、父親とは全く違った「豊かさ」を手にします 
 でも私は、空の雲を見て、風の臭いを感じ、農作物の種まきの時期や、収穫のタイミングを五感で会得していたワン・ルンの豊かさのほうに、本当の豊かさや、強さ、深さを感じずにはいられません

 豊かな時代に生きる我が子達を育てながらも、やはり私は、もっともっと大切な、人間の本質的な強さや豊かさ、そう、3人の息子達には欠落していたワン・ルンだけが持っていた「真の豊かさ」を理解し、そこに価値を見いだし、子供達に与えてやりたい
 私は心から、そう考えています・・・
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育児にも美学あり?!

2006年05月25日 | ふーん
 先日、電車に乗っていて、ふっと考えました。「子育てにも美学があるかな」と

 私が下を向いて本を読んでいると、どやどやっと親子が乗ってきました ちょうどその親子と入れ替わりに数人の人が降りたので、私が座っていた前の席が空いたのでした。
 もちろん、その親子がドーンと座りました 3人掛けのところに、当然のことのように、荷物もどどっと置いて・・・
 子供は希望通りに座れたにも関わらず、乗ったその時からなんだかんだと文句を言っては泣いたり、奇声を発したり。さすがに、その車両の人達の目は、その親子に注がれていました

 とても印象的だったのが、今どきにはめずらしく、その子の上下の前歯が全部真っ黒になった虫歯で、形も原型を止めず
 確かに乳歯なのだから、まもなく新しい永久歯がはえてきます しかし、こんなに「予防歯科」的発想が育児の中に浸透した時代、フッ素やキシリトールなどという単語が、普通に生活の中で話される時代になった今、真っ黒になった虫歯を見るのは、本当に久しぶりで、私はまるで自分が子供だった昭和30年代後半にワープをした気分でした 
 それにしても、その子はよほど遺伝的に歯が弱いのか、それとも、甘いものばかりを好んで食べさせながらも、まともに歯磨きをさせる習慣がないのか??? かなり不思議でした

 子供が騒いでもお母様は困る様子も叱る様子もなく、携帯を出してメール
 今度はその子は足ブラブラを始め、お隣の中年ビジネスマンのズボンにあたっています。男性は何度も咳払い それでもお母さんは「あんた、うるさい」と一言だけ言って、子供の口にキャンディーを入れただけで、またメール
 私は、呆気にとられながらも、そういう親子を見ているだけで、少し気分が悪くなってきました
 
 そんな辟易した私がふっと目を転じると、私はまったく気づきませんでしたが、一つ向こうのブロックの椅子に、ほぼ同じ年令に見える親子がいたのです 
 その子はぎゅっとお母様にくっついて座り、絵本を読んでいました 話の内容までは聞こえませんが、子供がお母様のほうに向いて何か話すと、お母様は首を子供の顔のほうにかしげて、うんうんとうなずき笑顔
 また子供は本に目を落とします。また何かを話すと、今度はお母様がそれに応えるように話している様子
 ドアを挟んでそのとなりに、ブラブラしている子供の足が見えました

 きっと笑われるかもしれませんが・・・
私は、わが子が幼い頃、「人から見られる自分達の姿」を、とても意識していました
 子供達と一緒に、電車やバスに乗ったり、公園やお役所など、公共の場に出かける時などは、人から見られて恥ずかしくない振る舞い、見た目にもスマートに見える振る舞い・・・とてもとても意識していましたねえ 
 人に迷惑をかけない、という事は、わざわざ意識する以前の、極々当然の守るべき事柄だと思っていましたし

 そう、当時の私の子育ての美学、それは・・・
 「他人の目を意識し、賢く正しい親子として人様の目に映ること、洗練された親子としてスマートに見えること」でした

 そんな私達親子のコンビ、トリオも、すでに解散?して数年が過ぎました 今ではすっかり大きくなり、大人に成長した子供達ではありますが、やっぱり私は、こういう部分でも、「三つ子の魂、百まで」を信じています

 いかがですか?みなさんは、子育てに、何かこだわり、美学を持っておいでですか? 
 みなさんの「美学」はどういうものですか?


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