まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

親子で「幸せ」を知る時間

2009年06月30日 | う゛う゛ー
『北イラク、クルディスタンのこの地アルビールに着いて一週間が過ぎようとしています。お元気でしょうか?
 こちらは連日午後には40度を超える暑さです。原油価格が上昇する中、砂漠の熱気は勢いを止めることなくコーランのように万人に降り注ぎ、僕の顔はとりあえず一皮ぶんだけは、ぼろぼろになって剥がれ落ちています。
 で、さすが戦傷外科病院ですね、三夜連続で四人の銃創患者が搬入され、完全な四肢麻痺の19歳女性の第四頚椎のど真ん中に、レントゲン写真は躊躇う事なく、ちびた蝋燭のような白い銃弾を写し出しました。
 また25歳の男の右足から貫通した弾丸は左の大腿動静脈を破砕して、出血性ショックで若い命を奪いかけていました。
 2002年、連夜繰り返される文字通りの戦闘のあくる朝、救急外来に必ず横たわる死体と嘆き悲しむ家族の姿を目の当たりにしていた、パレスチナ・ガザ地区での体験が蘇っています。
 久しぶりに、本当の危機管理という鎧を全身に覆って暮らしています。』

 いかがですか、みなさん?
この文章は、小説の一節でも、過去の戦地レポートの一節でもありません これは、まさに3週間前に、私の夫が受信した、高校時代の友人からのメールの一部です
 このメールを友人である夫に送信してきてくれた方は、日頃は日赤のドクターとして関西で勤務している方で、時々、このように海外の紛争地域に派遣され、戦地と化した派遣地で医療活動を行いながら、地元のドクターの教育、指導にあたり、医療技術の向上、ドクターの育成に努められています
 
 私自身、お恥ずかしながら政治には疎く、世界各地の紛争は、ニュースで知る程度の知識しかありませんが、一応、世界情勢には興味があり、「そこで人がどんな目に合っているのか?どうしてそんなことになっているのか?」は知っていたいと思っています
 しかし、実際に現地にいる方から、淡々と送られてくるその地の現状を知ってしまうと、私が悠長に「頭だけでの発想」から「世界の情勢には興味がある」などと言っていることは何とも情けないく・・・筋違いな、苦笑してしまうだけの「頭でっかち的思考」であることを思い知ります
 何度も書きますが。
上記の文章は、ついふた月ほど前までは、上京するたびに夫と会社の近所の青山でランチをし、銀座や六本木のお店でビールで乾杯をしていたドクターが書かれたメールです。

 夫は毎日、精一杯働きながらも、勤務時間前には会社の目の前のジムで泳ぎ・・・私は旬の味覚を調理し、雨のしずくに濡れたあじさいを玄関に飾り・・・みなさんは、愛するわが子にお気に入りの絵本の読み聞かせをしたり、保育園や幼稚園への支度の遅さに苛立ち・・・テレビでは、マイケルジャクソン氏の死因が云々され・・・麻生総理を取り巻く戦々恐々とした動きに興味を示し・・・それでも、日本では、平和に、静かに、時間が流れています

 私達がこうして平和の中で暮らしていると、どんなにニュースで映像付きの悲惨な世界情勢が伝えられても、残念ながら痛みは伴わず、画面の向こう・・・遠い遠いところの話しでしかありません それは、仕方のないことです。
 でも、時には、ほんの数分だけでも、事実を身近なものとして受け止め、自分の生活、わが子との生活の中の「何らかに役立てる」必要はあるのではないでしょうか?

 毎日の豊かな食事に感謝をしたり、教育がすべての子ども達に施される事実に感謝したり・・・それだけでも、意味のあることなのではないか?そう思っています
 
 幸せすぎて・・・幸せである実感のない日本の現代に生まれた子ども達。毎日、死と隣り合わせで暮らしている子ども達が、世界の中には確かにいるのです。
 時には、そんなことを子どもが知る!親が知らせる!そういう時間がなければ、親も子も、あたたかい温室の中で、ダラダラと無意味に時間の無駄遣いをしてしまうかもしれませんね

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お花の先生との会話の中で・・・

2009年06月18日 | にこにこ
 先日、生け花「草月流」の展覧会に行って来ました
年に2度開催されるこの草月展には、必ずもお声をかけていただき出かけます。今までにも、何度かこのブログに登場している草月展。何を隠そう、「お声をかけてくださっている方」こそが、私にトライアスロンを強力に勧めてくださった今年66歳の女性、Sさんです
 お弟子さん相手のおけいこや、海外でのお仕事のほかに、渋谷のホテルのロビーや、レストランのお花を担当なさっているため、夜中に活け込みをなさったり、手入れをなさったりすることも多く、お弟子さんやスタッフはおいでになっても、いったい睡眠時間はどのくらいなのだろう?あのバイタリティーはどこに源があるのだろう?といつも驚かされます
 Sさんは、国内外で活躍される、お忙しい女性ですが、世に言う「バリバリタイプの女性」とは醸し出される空気が違い、しなやかで、たおやかで、とても女性らしい柔らかさの溢れる方で 私が常々尊敬している方です
 Sさんとお目にかかってお話をする時には、今ではほぼ7割がトライアスロンや仲間達の話しで盛り上がってしまいますが、残りの3割の「濃くて深い」お話・・・今回も大変興味深いお話をお聞きしました

 Sさんが教室で、会社帰りの女性達にお花を教えていると、ここ数年はびっくりするようなことが、とても多いのだそうです
 総じて高い教育を受けられ、立派なお仕事をなさっている方々、今で言う「アラフォー」の生徒さん達は、会社では重要なお仕事を任されていたり、それなりのポストに就いていらしたり・・・
 ところが、「今日の花材は、○、△、□です。お店の中で、それぞれご自身でお好きなお花や木を選んで、ご自分のお席にお持ちになってね。」と声をかけると、お花のバケツの前で、もじもじとする方・・・
「どうなさったの?」とたずねると・・・
 お花のどこを、どのように持ったら良いのかがわからない・・・と言われる・・・
 先生は、その言葉にまずはハテナが飛び・・・その言葉の意味を理解するまで時間がかかった、ということでした

 「好きなお花がいくつもあって・・・どれにしようかと悩んじゃいます!」
 「先生、どのお花が活けやすいでしょうか?」
という質問や言葉は想像できても、「お花のどこを持ったら良いのか?」と言われるとは、夢にもおも思わなかった、と話していらっしゃいました

 驚愕の表情を必死に隠し、「あなたは今まで、好きなお花を買って帰ったり、活けたりしたことはないの?」とたずねると、「そんなことがあったら、習いには来ないですよ。未経験だから、お稽古に来たんです!」と少々ムッとされ、またまた驚愕・・・理屈は通っているようでも、やはり、こういう現象は「時代が変わったんだ」と納得はしたくないですよね、とおっしゃっていました
 
 また、お花の関連の講演会に出向かれ、最後の質疑応答の時間に・・・
 「仕事帰りに、いつも通る駅のターミナルで、ラッピングしたお花を毎週買って帰るのですが、あのラッピングはとったほうが良いのでしょうか?」
とよく質問される、というのです。
 要するに、ここ数年で一般的になった、すでにブーケにして、きれいにラッピングをして売っているお花を買って帰り、そのままでずぼっと花瓶(ビールのジョッキ、洒落たバケツ等)に入れている人も多いらしい・・・

 生活の中にいつもお花があり、それを愛でて潤いのある時間を過ごす・・・やっぱり、本当にステキなことですね
 「お花?そんなもん、別にいらないでしょう!」と唾棄される方よりも、ずっとずっとすばらしいですね
 そして、自分でいろいろとお花を選ぶのが当然だった頃よりも、ああしてきれいなブーケになっているほうが求めやすく、あの方式が町にお花屋さんを増やし、お花ファンを増やしたことは確かです。(駅構内や小さなスペースにお花屋を開設し、ブーケ状態でお花を販売する方法をひろめたA店も、じつは、同じトライアスロンチームのメンバーなのですが

 ただ、Sさんはおっしゃるのです。
お花はペットのように動き回ったり、鳴いたりはしないけれども、やはりそれは生き物であり、「置物」ではないのですよ、と。
 同じお花でも、生花を飾るのは、お花の絵を飾るとは意味が違う・・・
本来は(あくまで本来は、ベストは、と言っているわけではありません)、たくさんのお花の中から、自分の好きなお花やその日、ぜひ欲しいと思ったお花を選び、大切に持ち帰り、どうぞ私の部屋に居心地よく咲いていてくださいねという心を込めて水切りをしてやり、お気に入りの花瓶や花入れに活けてやる・・・
 毎日、生き物である花と語り、水を替え、時には水あげをして・・・そして、枯れていくお花に愛情を持ってお別れをする・・・
 絵や、造花や、プリザーブドフラワーとの違いは、こういう「お世話」のあるなし、でしょうね 切り花ではない鉢植えやプランターのお花の場合も、毎日水をやり、終わったお花を摘み、除虫をしてやる・・・

 今、こうして文章を書きながら、私は急に「なんちゃって○○」という、ここ6,7年で使われるようになった言葉を思い出しました
 「なんちゃって○○」とは、正真正銘の○○ではないけれど、それに近いもの、○○のようなもの、という意味です。
「なんちゃってお花好き??」すでにブーケにしたお花のことを考えていて・・・思わず、そんな言葉を思い浮かべました。
 でも、確かに心優しい「お花好き」ではあるのですね

 やはり、このSさんとしたお話ですが、今、様々な国の優秀と言われる若者達(大学生向けの調査のようでしたが)に、「あなたの国の文化について語ってください」という課題を与えたところ、時間をいっぱいいっぱい使って自国の文化について語る外国人の中にあって、ほとんど何も語れなかったのは日本人だった、という話題もありました
 日本には、固有の多くの文化があります。何も茶道や華道のような伝統文化だけが日本の文化ではありません。
 しかし、今、私達を取り巻く状況は、どんどんと文化を軽んじ、数値で表すだけの「優秀さ」を求める社会になっていこうとしています。無機質な優秀さ・・・
 21世紀を生きる子ども達を育てていく私達が、時には「何を大切にして子どもを育てるのか?」「どんな子どもに育てていくのか?」という根本から、考える時間も必要なのではないでしょうか。
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子どもに残る「感覚」

2009年06月10日 | にこにこ
 すでにみなさんはご存知ですが、私は、月に1度、介護帰省として大阪の実家に行っています。諸々の雑用をすること、車椅子の父と一緒に、両親のお気に入りのお店で外食をすること・・・これが私の大きな帰省時の役目です 電球を替える、大きなゴミ出しの段取りをする・・・私達にとっては簡単なことですが、高齢者にとっては難解で大儀なことなんですねえ
 また、たとえ5分程度で行ける近所にあるレストランでも、段差の多い町中の道を80歳近い母が父の車椅子を押して行く・・・こちらも至難の業なのです

 帰省時には、私はほぼ毎回、飛行機を使います 単純に計算して、帰省だけで年に24回。ビジネスマンであれば、頻繁に出張で飛行機を使うのは珍しいことではありませんが、50歳を過ぎたオバサンとしてはめずらしい部類にはいるでしょう。
 そんな私。先だって、石垣島に行く飛行機に乗った時のことです
その直行便が離陸して、高度が安定したころ・・・私は何気なく窓の外を見て、ちょっといつもの羽田-伊丹便に乗った時とは違う「感覚」を覚えました。
 窓から見える景色とか(実際、景色と言ってもまわりは空と雲なのですが)そういうものではありません。あくまで、なにかが違う、という身体が感じる「感覚」です
 しばらく雲を眺めていたのですが、それが何だかわかりません。考えることを諦めて本に目を落とすと、やっぱり「身体が感じる」のです。

 なにかが違う・・・いつもの大阪便に乗った時とは、あきらかになにかが違う・・・

 そんないつものとの違いを感じながら、それでも静かに本を読んでいたら・・・その感じる「何か」が、確かに以前に体験したことがある感覚である、と思い出しました
 そう・・・そうなんです その「感覚」は、2年前の夏、主人が骨盤骨折をして沖縄県名護市の県立病院に入院していた時、私が主人を見舞うために何度も往復した那覇-羽田間の便の中で感じた感覚
 そうだったんですねえ。同じように飛行機に乗って空を飛んでいるのに、このいつもと違う・・・そう身体全体で感じた感覚は、「高度の差」によるものだったのす。気分が悪くなるとか、目眩がする、とか、そういうものではありません。単なる「違いを感じる感覚」です
 いつもの慣れた羽田-伊丹便は、2都市の距離が500キロ。たった45分で到着する距離です。
 つまり、大阪便は、とても低い高度を飛んでいくのですね。その一方で、羽田-那覇は約1500キロ。羽田-石垣は、約2000キロ 羽田から飛んでいく直行便の国内便の中では、一番長い距離を飛ぶ便でしょう。
 この石垣便は、大阪便の4倍ものを距離を行くために、羽田を離陸した飛行機はどんどんと高度を上げていったのでしょう
 
 私は、おもしろいなあ・・・と感じました。
こうして「長距離を飛ぶから、高い高度を行くのです」と理屈を書けば、「なるほど。確かに!」と頭で理解しますが、私が石垣便に乗り、ぼーっと座っていただけで「身体が感じた」ことは、理屈ではありません すぐに、高度の差、いつもよりもはるかに高いところを飛んでいるから、違う感覚を覚えたのだ!とは気づかなかったものの、確かに「違い」は感じ、「なるほど」などという頭での理解以上に、強く強く身体が悟った「違いの感覚」でした。

 私はその時、ぼんやりとこんなことを思いました。
子ども達は、大人よりも知識や経験が少ない。だからこそ、いろいろと体感をしたことを、感覚として意識の中に残し、身体や心の記憶として、強く残していくだろうな』と。

 みなさんは、こんなことはありませんか?
私の父は、非常に厳しい人でした。スパルタ教育パパであり、昭和の時代によくいた暴君的父親だったわけです。教育的見地からも厳しかったのですが、ある意味もっと、自分の気分に左右されてわが子を叱りつけたり、怒鳴ったりするタイプ・・・と言えばおわかりいただけるでしょうか
 そんな人でしたので、パシッと叩かれたり、怒鳴られたりした時、「ああ、私が~~~ないけないことをしたからだ。しまった!」とか「やっぱり~~~は言ってはいけないことだったのだな。私が悪かった!」と即座に反省できる時もあれば、「あれ?私はどうして今、叱られてるのかな?」「げげげ・・・これはいったい何だろう??」のような時も多々ありました
 まあ、いずれにしても、私は51歳になった今でも、私を叱りつけたり、怒鳴ったりした時の父の「冷酷とも言える形相」を覚えていますし、その時の「空気」を思い出せます
 もちろん、こういうマイナスの感覚ばかりではなく、うれしかった時や、幸せだなあと感じた時のことや、プラスの記憶にまつわる「感覚」だってありますよ

 子ども達がおままごとをしているのを側で見ていると、その子の母親や父親と全く同じような話し方や叱り方をしていて、思わず笑ってしまう・・・というようなことがありますよね
 あれは、子ども達が両親の語り口を記憶しようとして学習していることではなく、あくまでも耳から聞き、身体で覚えている「感覚」から身に付いているものだろうと私は思えてなりません
 このことと同じように、子ども達も私達も、「記憶」とはまた違うところで、さまざまなことを「感覚」で覚えているのだと思うのです。そして、感覚で覚えていることのほうが強く、深く心の中に残っていく・・・

 こんなふうに考えてみると・・・
子ども達には、どんな親にまつわる「感覚」が残っているのでしょうね?できることなら、何歳になっても、喜びや感激の思いを伴ってよみがえるような「プラスの感覚」を、たくさん与えてあげていたいものです。
 そして自分自身も、それがプラスであれマイナスであれ、「感覚」として自分の中に残せるような、敏感な柔らかい心の持ち主でありたいですね

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