まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

親の趣味は子供の趣味?!

2006年08月30日 | う゛う゛ー
 親の趣味に付き合わされる子供達・・・たくさんいますねえ

 私は子供のころ、イヤというほど、私の両親(いえ、父、というべきでしょうね)の趣味に付き合わされました 一人っ子ということもあり、兄弟姉妹でその事に対して文句を言い合う楽しみ?!もなく、ひたすら両親の趣味であった本格的な山歩き、お寺と仏像巡り、車やカメラの展示会まわりにつきあいました
 すっかり大人になった今、それらの経験は「私の一部」となり、プラスの面ももちろん多いわけですが、やはり子供の頃は、「自主的に喜びを持って関わっている意識」はありませんでしたから、私がお母さんになったら、絶対に私の趣味を押しつけるようなことはせず、自分の子供が楽しい、したい、という彼らの楽しみを何よりも十分に考えてあげよう と考えていたのでした

 幸い、主人も私と同じ意見でした 
主人は子供の頃、子煩悩だったお父さんと、一緒に釣りに出かけたり、愛車の手入れの手伝いをしたり・・・と、彼自身、興味のあることばかりをさせてもらった、ということで、自分が父となった時も、子供に無理強いはしたくない、と思っていたようです

 とは言え・・・今回の北アルプス行きでは、私はたくさんの親子に出会い、いろいろと考えさせられました
 私が会った一番小さな子供は、幼稚園の年少さんくらいに見える女の子でした 彼女は、お父さんとお母さんと一緒に、ひたすら楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていました
 私が彼女に出会った場所は、あと5分ほどで横尾に着く、という地点でした。横尾とは、車で入ることができる終点の上高地から約10キロ弱。平坦な道ではありますが、子供の足では3時間以上は十分にかかるところです・・・
 要するに、私が彼女にあったときには、間違いなく、彼女はその10キロの道のりを、ひたすら歩いてきたあと、だったわけです 彼女はいとも楽しそうに、ケラケラと笑いながら、軽やかに歩いていました。さすがに、私も驚きました

 偶然、私はその翌日、彼女を見かけることになります。
朝7時、私が横尾を通りかかった時、彼女は横尾のテントサイトに張られたテントの一つから、ひょっこりと顔を出し、一人前にオシャレなアノラックを着せてもらって、テントの外に出てきたのでした 彼女の家族は、横尾のテントサイトにテントを張って、キャンプを楽しんでいたようです
 しかし、何度も言うようですが、その横尾というところは、あくまでオートキャンプ場ではありません。北アルプスの真っ只中。そういう意味では、テントも、食料も、すべて両親がそこまで背負ってきたものであり、その子もそこまで歩いてきているのです
 それを思えば、きっと彼女の両親は、それなりに山でのキャンプ経験のある人であり、家族でアルプスでのキャンプを楽しもうと考えるだけの経験と知識もある人だったでしょうね

 その後、涸沢(横尾から、さらに急勾配を4時間)への往復の道で出会った数人の小学校低学年と思しき子供達も、父親と語りながら歩いていた小学校高学年の子供達も、みな、一応の装備を調えてもらい、足取りも軽く、歩いていたものでした

 私はふっと・・・もしかしたら、私も昔、あんなふうに見えていたのかもしれない・・・そう思いました。

 確かに、昔に比べて、どんなスポーツのウエアや道具、装備も飛躍的に進歩していますし、幼い頃からさまざまな種類のスポーツに親しむ子供も増えていますから、私が子供だった40年近く前から比べると、本格的な山行の装備も調えやすく、歩きやすい靴だったり、通気性の良い服だったりと、苦痛も軽減されているのかもしれません
 しかし、そういうことを考え合わせた上でも・・・彼ら子供たちの表情が豊かで、少なくとも「その一瞬」は充実しているようには見えたのでした

 幸い、私の二人の子供たちは、私たち両親が趣味を押し付けなくとも、学校や学校外での環境の中で、多くのことを経験し、現在は結構幅広く、自分たちの趣味や嗜好としています これは、とてもラッキーだったと思っています
 しかし、私が今度の山行でたくさんの子供の姿を見て以来、ずっと考えていたこと・・・それは、「親の趣味は、子供への押し付け、強要である」と定義づけ、親が子供たちに自分たちの経験や知識を何も伝えようとしなかったなら???彼らに何も経験させなかったならば???
 もしかしたら、子供たちの経験は激減し、単に学校(幼稚園や保育園)と家庭の往復で終わってしまうのかもしれない・・・急にそう思い始めたのでした

 私は、妙な被害者意識の塊になり、「親の趣味を我が子には押し付けない」という思いに固執し、実際には、せっかくの親の貴重な特技や経験など、何も受け継がせてやれずにいただけではないのか?そう思ったのでした
 たった一つ、我が子達二人が幸運だったことは、主人の3年間のインドネシアの駐在期間があったため、美しい南の海が身近にあり、ダイビングのインストラクターの資格を持つ主人から、きちんとスキンダイビング、スキューバダイビングのいろはを習い、ライセンスを取得したことでしょう
 
 小学校1年生のとき、私が大好きなものとして図工の時間に描いた「千手観音」。
 小学校2年生の頃に、一番おいしかったものは?と聞かれて、「横尾の川の水」と答えたこと。
 マセラッティやランチアから知った「イタリア」、ライカやローライから知った「ドイツ」・・・

 本当は、私はちっとも不幸せではなかったのかもしれません
厳しくて、スパルタ教育の父のもと、まともな反抗期を過ごさなかった私が、ずっとずっと後になってから、遅ればせながら「反抗期の抵抗」として、私は両親から趣味を押し付けられて不幸だったのだ!と必死に感じようとしていたのかもしれません

 子供たちが、親の趣味を「自分の趣味、自分の嗜好」とするかどうかは、後々、彼らが自分で選択し、決めることでしょう
 むしろそれまでの時期は、ぜひ、ひとつでも多く、親が趣味として経験してきたものを「子供への良いチャンス」として与え、さまざまなものを感じたり、考えたりする糧に出来るといいでしょうね

 今回の山行で、見かけた多くの子供たちの姿をしみじみと眺めながら、私はあらためて、そんなことを考えていました
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サクマドロップスは悲しく・・・

2006年08月24日 | めそめそ
 8月もあとわずか。残暑は厳しいものの、日が暮れると、ほんのちょっぴりですが、秋の気配を感じますね・・・ さすがに、花火や海水浴のカットのあるメモは、もう使えないな・・・と思う時期に入りました

 さて、先日、私はどんな残酷でショッキングなことでも、時には親として、子供達にきちんと伝え、教える義務がある、というようなことを書きました
 特に戦争に関しては、風化するに任せるのではなく、どんな方法でもよいから、歴史上の事実として、加害者の立場になったことも、被害者の立場になったことも、双方をきちんと伝えるべき・・・私はそう考えています

 そういう考えに基づき、私は我が子が幼稚園の年中になった頃から、努めて多くのことを意識的に話し、教えてきました 理解度は定かではありませんが、少なくとも「知らない、は罪」という思いと、「感性に響いてほしい」という思いからの親心?!でした

 当時主人は、仕事の関係で、インドネシアのジャカルタに3年間の単身赴任中でした。
 インドネシアは、第2次世界大戦当時は、日本に併合されていた国の一つです ただ、日本の統治時代の前は、「東インド」として、長い長いオランダの統治下にあり、日本の敗戦をきっかけとして、悲願のインドネシア独立に至った経緯があったため、中国や韓国ほど、日本の侵略時代に対しての強い反発は残ってはいませんでした。
 それでもなお、地方に旅行に行くと、そこで出会う年配者などは「君が代」が歌えたり、「ハンチョウドノニ ケイレイ」などという言葉を覚えている人がいたり・・・ そういう事実にたいしては子供達は幼いながらも、少し居心地の悪い、複雑な感情を持っていたようでした

 特に、インドネシアが独立宣言をした8月17日は、日本の敗戦2日後のこと。夏休みを利用して、主人のジャカルタの家に滞在する時にはいつも、この8月17日の独立記念日がやってきて、イヤでも日本との関係を知ることになります

 そんなこんな、主人と私は、努めていろいろと教えてきたのですが、皮肉なことに、幼い彼らの感性に、一番訴えることになったのは、私達が意図して与えたものではなく、たまたま彼らがテレビで見ることになったアニメーション映画「火垂るの墓(ほたるのはか)」でした
 みなさんは、「火垂るの墓」をご存知でしょうか?1988年のスタジオジブリの作品です。
 原作者の野坂昭如氏は、昨年、日本テレビでドラマ化されるにあたり書かれた文章の中で、「あれは確かに自分の経験を書いたものだけれども、原作はすでに自分を離れて一人歩きし、実際には自分は、あの兄ほど優しくはなかった」とあります

 しかし、原作云々ではなく、あのスタジオジブリ特有の、優しいタッチで描かれた人々の容姿や表情であるにもかかわらず、1シーン1シーンは強烈なエネルギーを発し、「戦争はいやだ」という強い拒絶反応だけが沸々とわき上がってくる・・・挿入歌である「はにゅうの宿」も何とももの悲しく、大人の私も、ティッシュの箱を抱えて嗚咽しました

 劇中に大切な意味を持って登場するサクマドロップスの缶・・・
私は子供の頃、あのサクマドロップスが大好きで、母が取り出してくれる一粒一粒を、とっても大切に食べたものです
 金属のふたを開けて、コロコロっと母の手のひらに出てくるきれいな色のドロップ・・・ 
 その時に出てきた色が、「食べる色」であり、替えっこすることは許されません。一度手のひらに乗せられたものは湿気を含んでしまうから、再び缶に戻してはいけない、必ず出てきたものを食べましょうね、それがおたのしみよ というのが母との約束でした。
 たった一つの例外は、真っ白の「ハッカ」が出てきた時でした。
からくて喉にヒリヒリするから、という理由で、ハッカが出た時にはさっと母が口に入れてしまい、「はい、もう1回」と言って私に缶を振らせてくれます。
 でも、缶を振るときも、そっとそっと なんですね、ドロップスが砕けてしまうから・・・

 そんな私の母とのあたたかい記憶から、私も我が子達に、当時すでにレトロ化していたサクマドロップスの缶から、よくドロップを同じようにして与えていたのでした
 しかし、劇中のサクマドロップスの缶は、そんなあたたかい記憶を木っ端微塵にし、それ以降は、全く別のイメージを与えるものになりました

 映像や音、感覚から、子供に与える影響には、計り知れないものがあります
 少なくとも、感覚的に物事を捉えるのを得意とする幼児期に、「火垂るの墓」が我が子達に与えた印象は、筆舌に尽くしがたいものがあったようです
 すっかり大きくなり、その後たくさんの知識も会得し、それらを素にまがりなりにも持論を展開できるようになってからも、彼らは「火垂るの墓」と聞くだけで、戦争とは無意味なもの、悲惨でばかげたもの、ということを「感覚」として蘇らせ、「火垂るの墓だけは、もう勘弁して欲しい・・・」と言います
 
 あれ以降、彼らは小学校で「ガラスのうさぎ」を始め、多くの戦争を伝える本や映像などを目にしていますが、「火垂るの墓」を越えるインパクトのあるものには出会っていないようです
 何の前触れもなく、楽しいアニメを観るつもりで、兄妹揃ってテレビの前に座った彼らに与えたあまりに強い「痛いほどの悲しい衝撃」に、親として、やっぱりかわいそうなことをしたのかな?と、あれから10数年の時が過ぎた今でも、胸が痛みます
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「やっぱ」はちょっと・・・

2006年08月23日 | う゛う゛ー
 今日は処暑。暦の上では、暑さが治まり、どんどんと秋が深まっていく・・・という日なのですが、まだまだ残暑は厳しいようです

 この暑さもさることながら、甲子園のフィーバーぶりも治まることを知らないようで、マスコミはどこもかしこも「ハンカチ王子、斉藤くん」一色です
 甲子園の第1回大会から出場している伝統校、早稲田実業の快挙は、ソフトバンクホークスの王監督、西武ライオンズの荒木コーチという伏線もあり、確かに大きく扱われることは当然ですが、それにしても、一時の韓流のような盛り上がりぶり 週末から、アメリカ遠征のある選手達の、貴重な休日を見守る優しさ、あって然るべきの思慮深さを求めるのは、無理なのでしょうか・・・

 さて。
その熱狂の決勝戦第2試合。主人は朝から録画予約をしてでかけました 私は夜、主人と一緒にビデオ観戦をしようと思いながらも、やはりプレイボールの1時になるとそわそわ・・・結局、7回からは外出先のテレビで観戦することとなりました
 そこには女性を中心に20名くらいの人がいたでしょうか・・・もう早実の優勝が決まったかに思われた8回の駒苫の反撃 沸きに沸きました そして、9回、田中投手が斉藤投手のストレートの前に三振に倒れた瞬間、やっと普通に呼吸が出来るかのような大きな安堵と、大歓声が起こりました

 もちろん、私も外出先であることを憚らず、拍手拍手で両校の健闘を讃え、立派に最後まで投げきった早実の斉藤投手を賛美しましたが、じつはなかなか興味深かったのは、その後の優勝した早実の選手へのインタビューに対する、そこに居合わせた人達の反応でした

 最初に登場したのは、早実のキャプテン後藤選手。多くの野球部員を率いる主将の顔も興奮と安堵。日焼けしたスポーツマンらしい笑顔。
 しかし、彼がインタビューの中で発した数回の「・・・・やっぱ・・・・、・・・やっぱ・・・・」に、そこにいたオバサン達の反応は、いやー、それはそれは冷ややかでしたねえ あっちでも、こっちでも、

「やだー、やっぱ、やっぱ、って言うんだねえ」
「仕方ないでしょ、今の子はみんな言うわよー」
「でもねえ、全国に流れるインタビューでしょう?普段、しゃべってるときとは違うんだしさあ・・・」
「まあねえ・・・」


 確かに、私も同じ意見でした。ただ、彼を責める、というよりも、とても残念に思ったのでした きっと彼は、人望も厚く、すばらしい主将なのだろうに・・・と。
 どんなに日頃は当たり前に使っている言葉でも、インタビューを受ける「主将」としての自分の立場、学校を背負う重みを自覚して、やっぱり、きちんとこのインタビューという機会の中では「やっぱり」と言えれば、もっと良かっただろうなあ・・・もっと男を上げられただろうなあ・・・なんて

 さあ、マイクが斉藤投手に向けられました
「やっぱ」を批判したオバサン達のゴクリと唾を飲み込む気配がありありと感じられました なぜかよくわかりませんが、私も心の中で「斉藤くん、こんなに注目されている君なんだから・・・どうぞ、やっぱり、と言っておくれー」そう念じていました。そして、彼のインタビュー。

 「・・・・ありがとうございました!・・・やっぱり・・・・、やっぱり・・・」
 部屋の中の空気が、すーっと緊張から解放されたように感じました ああ、彼は「やっぱ」じゃないんだ・・・

 スポーツの世界です 勝つか負けるか、強いか弱いか、の世界 そこに言葉遣い云々を持ち込むのは、とっても筋違いだと顰蹙かもしれませんね
 けれど、私は一人の大人として、親として、「やっぱり」早実の主将に言ってあげたいと思ったのでした
 伝統校の主将という立派な立場に立てるだけの人格的評価を受けているあなただからこそ、今後は、こういうことにまで気をつけるほうがいいですよ、と
 まあ、スポーツ選手なんだから、そんな硬いことを言わなくていいじゃないですかと、試合の結果以外のことは許される場合も多いのでしょうが、考えようによっては、それは失礼な話でもあります。

 全人格的に人が評価され、多くの視線を集める立場にいる時には、言葉遣いをも含めた多くのことに気を配り、自分を処して存在する必要性
 我が子が、いつかそんな立場に立つことを夢見て?!、親は「やっぱり」いろいろと子供に教えてやらなければなあ・・・あらためてそう思った時間でした

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高校野球・・・明日もファイト!

2006年08月20日 | めそめそ
 今日の甲子園の決勝戦は、すばらしい試合でしたね きっと、球史に残る良いゲームだったでしょう
 明日は決勝戦の再試合。もう私は見られません・・・ どちらが勝っても負けても、とても残念に思うでしょうから・・・
 前回の決勝戦の再試合は、1969年。小学校6年生だった私は、なぜか一人、テレビの前で涙を流しながら応援したことを、今でもよく覚えています

 甲子園の思い出・・・
私は大阪の出身ですから、子供の頃から「強いPL」を必死に応援していました 今でこそ珍しくはなくなりましたが、昭和40年代からアルプススタンドに展開されるパネルを使っての文字。私も主人も(彼は大阪市内の出身です)、なぜかPLの校歌まで歌えてしまいます
 思えば、PLの関係者でもない私達が、歌詞を思え、歌えてしまうほど、PLの校歌は甲子園のたびに何度も何度も歌われた・・・常に勝ち進む強いチームだった、ということですねえ

 当時、私の父は「PLの選手は、大阪出身者とは限れへん、あの学校は、日本のあっちこっちから良い選手を見つけては連れてきよる。あんなんは、もう大阪の学校とは言われへんでえ!」などと憎まれ口を叩き、必死にテレビの前でPLを応援する私は、心の中でイライラとしました 
 私にとっては、どこの出身の選手でも、その学校に席を置き、ユニホームの腕に刺繍された「OSAKA」を背負ってバッターボックスに立つのであれば、みんなみんな大阪代表。応援したい!そう思っていました もちろん、あの強かった清原選手、桑田選手には、われんばかりの拍手を送り、試合を見たものでしたよ
 ですから・・・現在、どんなに強いチームでも、新設校が大阪の代表として出場するのはあまりうれしくはなく、やっぱりPLだあ・・・そう思ってしまいます

 さて、そんな私・・・
息子が生まれてからは、甲子園を見る目も違ってきました まだまだ息子が幼い頃は、甲子園から目が遠ざかった時もあったのですが、だんだんと息子が大きくなり、中学、高校へと進学していくと、まさにバッターボックスに立つ選手、汗をぬぐいながら緊張の面持ちで投げるピッチャー、必死にフライを追いかける外野手・・・すべての若い選手の表情に、ついつい私は、自分の息子を重ねて見てしまいます
 そして、思うのです。
『この子のお母さんは、今、どんな思いで息子を見ているのだろう?しっかりと息子を正視できるのだろうか?』
 我が子でありながら、すでに息子は自分の腕の中を離れ、「チームの、学校の、県の思いを背負う選手」となってそこに存在する・・・

 幸か不幸か、私の息子は、スポーツで何かの代表選手になることはありませんでしたが、息子でも、娘でも、我が子の成長とともに、親は我が子にしてやれることは、「祈る」ことだけになっていく・・・そう思っています

 ともに200球近く投げた両投手 どうぞどうぞ、両チームともに、悔いの残らない試合をしてもいたい!そう思っています
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母親の空回り?

2006年08月18日 | にこにこ
 ここ1ヶ月、ずっとずっとトライしながらも、うまくいかないことがあります それは、タイミング良く、アゲハチョウとお花の写真が撮れない・・ということなんです

 我が家のベランダに、ささやかな花壇を作っていることは、すでに何度かお話をいたしましたね 今は、どんどんと増えたポーチュラカと、サフィニア、ミリオンベルが満開です
 中でも、ペチュニアの品種改良種のミリオンベルは、ハンギングプランターから溢れるようにして咲き、マンションの中庭からでも、濃いピンクの花が美しく咲き誇っているのが見えています
 そのミリオンベルは、どうもとっても蜜の多いお花のようで、梅雨が明けた頃から、毎日毎日、アゲハチョウがやってきては、ホバリングをしながら、長い間、蜜を吸っているのです 時には、大きな大きなクロアゲハも来るのですよ

 じつは・・・我が家のじゃじゃ馬娘は、大のアゲハチョウ好き メールのアドレスや、いろいろなところに、アゲハ、swallowtail などの言葉を使っています
 そのことを良く知っている私・・・何とか、そのハンギングプランターにやってくる美しいアゲハチョウと、きれいに咲いたミリオンベルの写真を撮りたくて、リビングの中からアゲハがやってきたことを確認すると、携帯電話を持って、すぐにベランダに出ます
 なぜか、そんなにすてきなアゲハチョウとお花が見られるとき、決まって娘は家にいないのです
 本当にきれいな写真、すてきな写真を撮るには、カメラで写すのが良いのでしょうが、最近の携帯電話の内蔵カメラも精度が良いと聞いていますので、とにかく、手軽なほうがタイミングを逸しない

 ところが、外に出たとたんにアゲハチョウはたいてい逃げてしまいます
たまたま今朝は、お洗濯を干しにベランダに出ていると、ふっと気づいたらそこにアゲハチョウがいるのです 私は這うようにしてリビングに戻り、また這うようにして携帯電話を手にベランダへ

 たぶん、10分くらいは、ナイスなシャッターチャンスを待ち、汗をダラダラと流しながら携帯電話を構えていました
 しかーし 残念ながら、今日も写真は撮れませんでした
 汗だくになってリビングに戻り・・・エアコンの効いた部屋の中から、ミリオンベルを眺めながら思ったのです・・・

 「私は、いったい、何をやっているのだろう???

 もし、私がすばらしいシャッターチャンスに恵まれて、納得のいく良い写真が撮れたとして?
 私が得々とした様子で、娘の前に携帯電話をさしだし、アゲハの写真を見せたとして?
 果たして、娘は「わあ、何てきれい! ママ、この写真、すごいじゃない いつ撮ったの? 私のために撮ってくれたの??」・・・・ そんなことを言って、満面の笑顔で喜ぶのだろうか?

 そんなことを考えているうちに、何だかおかしくなって、笑えてきました
 もしかしたら、娘は、私も驚くくらいに喜んでくれるかもしれません でも、もしかしたら、「へえ、家にもこんなふうにアゲハチョウが来るんだねえ」あっさり言うだけで、さっさと携帯電話をパシンと閉じて、返してくるかもしれません

 ふふふ、私には、どちらともよめません

 でもね、やっぱり明日になったら、私は携帯電話を側に置いて、家事をするでしょうね そして、時々気になって、リビングからハンギングプランターをチェックするのです また汗だくになって、携帯電話を構えて、アゲハチョウに声をかけるのです。「ねえ、もう少しこっちに来てよ ああ、そんなに向こうのお花に行っちゃったら、写真が撮れないじゃないの・・・」

 娘が喜んでくれようと、くれまいと・・・私は、アゲハチョウ好きの娘に見せてあげたい!という一心で、携帯電話を構える 
 それが、私の満ち足りた時間であり、幸せであり、我が子への愛情なんです

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