まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

子どもに残る「感覚」

2009年06月10日 | にこにこ
 すでにみなさんはご存知ですが、私は、月に1度、介護帰省として大阪の実家に行っています。諸々の雑用をすること、車椅子の父と一緒に、両親のお気に入りのお店で外食をすること・・・これが私の大きな帰省時の役目です 電球を替える、大きなゴミ出しの段取りをする・・・私達にとっては簡単なことですが、高齢者にとっては難解で大儀なことなんですねえ
 また、たとえ5分程度で行ける近所にあるレストランでも、段差の多い町中の道を80歳近い母が父の車椅子を押して行く・・・こちらも至難の業なのです

 帰省時には、私はほぼ毎回、飛行機を使います 単純に計算して、帰省だけで年に24回。ビジネスマンであれば、頻繁に出張で飛行機を使うのは珍しいことではありませんが、50歳を過ぎたオバサンとしてはめずらしい部類にはいるでしょう。
 そんな私。先だって、石垣島に行く飛行機に乗った時のことです
その直行便が離陸して、高度が安定したころ・・・私は何気なく窓の外を見て、ちょっといつもの羽田-伊丹便に乗った時とは違う「感覚」を覚えました。
 窓から見える景色とか(実際、景色と言ってもまわりは空と雲なのですが)そういうものではありません。あくまで、なにかが違う、という身体が感じる「感覚」です
 しばらく雲を眺めていたのですが、それが何だかわかりません。考えることを諦めて本に目を落とすと、やっぱり「身体が感じる」のです。

 なにかが違う・・・いつもの大阪便に乗った時とは、あきらかになにかが違う・・・

 そんないつものとの違いを感じながら、それでも静かに本を読んでいたら・・・その感じる「何か」が、確かに以前に体験したことがある感覚である、と思い出しました
 そう・・・そうなんです その「感覚」は、2年前の夏、主人が骨盤骨折をして沖縄県名護市の県立病院に入院していた時、私が主人を見舞うために何度も往復した那覇-羽田間の便の中で感じた感覚
 そうだったんですねえ。同じように飛行機に乗って空を飛んでいるのに、このいつもと違う・・・そう身体全体で感じた感覚は、「高度の差」によるものだったのす。気分が悪くなるとか、目眩がする、とか、そういうものではありません。単なる「違いを感じる感覚」です
 いつもの慣れた羽田-伊丹便は、2都市の距離が500キロ。たった45分で到着する距離です。
 つまり、大阪便は、とても低い高度を飛んでいくのですね。その一方で、羽田-那覇は約1500キロ。羽田-石垣は、約2000キロ 羽田から飛んでいく直行便の国内便の中では、一番長い距離を飛ぶ便でしょう。
 この石垣便は、大阪便の4倍ものを距離を行くために、羽田を離陸した飛行機はどんどんと高度を上げていったのでしょう
 
 私は、おもしろいなあ・・・と感じました。
こうして「長距離を飛ぶから、高い高度を行くのです」と理屈を書けば、「なるほど。確かに!」と頭で理解しますが、私が石垣便に乗り、ぼーっと座っていただけで「身体が感じた」ことは、理屈ではありません すぐに、高度の差、いつもよりもはるかに高いところを飛んでいるから、違う感覚を覚えたのだ!とは気づかなかったものの、確かに「違い」は感じ、「なるほど」などという頭での理解以上に、強く強く身体が悟った「違いの感覚」でした。

 私はその時、ぼんやりとこんなことを思いました。
子ども達は、大人よりも知識や経験が少ない。だからこそ、いろいろと体感をしたことを、感覚として意識の中に残し、身体や心の記憶として、強く残していくだろうな』と。

 みなさんは、こんなことはありませんか?
私の父は、非常に厳しい人でした。スパルタ教育パパであり、昭和の時代によくいた暴君的父親だったわけです。教育的見地からも厳しかったのですが、ある意味もっと、自分の気分に左右されてわが子を叱りつけたり、怒鳴ったりするタイプ・・・と言えばおわかりいただけるでしょうか
 そんな人でしたので、パシッと叩かれたり、怒鳴られたりした時、「ああ、私が~~~ないけないことをしたからだ。しまった!」とか「やっぱり~~~は言ってはいけないことだったのだな。私が悪かった!」と即座に反省できる時もあれば、「あれ?私はどうして今、叱られてるのかな?」「げげげ・・・これはいったい何だろう??」のような時も多々ありました
 まあ、いずれにしても、私は51歳になった今でも、私を叱りつけたり、怒鳴ったりした時の父の「冷酷とも言える形相」を覚えていますし、その時の「空気」を思い出せます
 もちろん、こういうマイナスの感覚ばかりではなく、うれしかった時や、幸せだなあと感じた時のことや、プラスの記憶にまつわる「感覚」だってありますよ

 子ども達がおままごとをしているのを側で見ていると、その子の母親や父親と全く同じような話し方や叱り方をしていて、思わず笑ってしまう・・・というようなことがありますよね
 あれは、子ども達が両親の語り口を記憶しようとして学習していることではなく、あくまでも耳から聞き、身体で覚えている「感覚」から身に付いているものだろうと私は思えてなりません
 このことと同じように、子ども達も私達も、「記憶」とはまた違うところで、さまざまなことを「感覚」で覚えているのだと思うのです。そして、感覚で覚えていることのほうが強く、深く心の中に残っていく・・・

 こんなふうに考えてみると・・・
子ども達には、どんな親にまつわる「感覚」が残っているのでしょうね?できることなら、何歳になっても、喜びや感激の思いを伴ってよみがえるような「プラスの感覚」を、たくさん与えてあげていたいものです。
 そして自分自身も、それがプラスであれマイナスであれ、「感覚」として自分の中に残せるような、敏感な柔らかい心の持ち主でありたいですね


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