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石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

2024年のイスラム経済規模は7兆ドル―Global Islamic Economy Report 2019/20の概要 (2)

2019-12-17 | 今日のニュース

(注)本レポートは「マイライブラリー」で一括してご覧いただけます。

http://mylibrary.maeda1.jp/0489GlobalIslamicEconomy2019-20.pdf

 

(2018年のイスラム経済規模は4.7兆ドル、2024年には6.7兆ドルに拡大!)

2.世界のイスラム経済の規模

(表http://menadabase.maeda1.jp/1-O-01.pdf 参照)

 報告書ではイスラム経済をイスラム金融とハラール食品などライフスタイル6分野に大別し、それぞれについて2018年の実績値と2024年の見込み額を示している。イスラム金融の2018年の規模は2兆5,240億ドルとされ、2024年には38%増の3,472億ドルと見込んでいる。年間平均増加率は6.3%になる。

 

 ライフスタイル6分野の支出総額は2018年が2兆2,2170億ドル、2024年が3兆1,860億ドルであり、増加率は44%(年間平均7.3%)である。両者を合計したイスラム経済全体の規模は、2018年が4.7兆ドル、2024年は6.7兆ドルとされ、この間の増加率は40%、年間平均では6.7%である。

 

 全体に占めるイスラム金融とライフスタイル6分野の比率は、2018年は53%対47%であり、2024年には52%対48%と、ライフスタイル分野の比率が若干上昇する見通しである。

 

(イラン、サウジアラビア、マレーシアがイスラム金融の3大国!)

3.2018年のイスラム金融の国別資産額

(図http://menadabase.maeda1.jp/2-O-09.pdf参照)

 2018年のイスラム金融の規模は2兆5,240億ドルである。これを国別に見ると、もっとも大きいのはイランの5,750億ドルであり、これに続くのがサウジアラビア(5,410億ドル)、マレーシア(5,210億ドル)である。これら3か国が5千億ドル台で並び、その他の国々を圧倒している。

 

 これら3か国に次ぐのがUAEの2,380億ドルで、カタール、クウェイトが100億ドル台で5位および6位につけている。そして7位以下10位まではインドネシア、バハレーン、トルコ及びバングラデシュの各国である。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

                               E-mail; maeda1@jcom.home.ne.jp

 

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石油と中東のニュース(12月17日)

2019-12-17 | 今日のニュース

(参考)原油価格チャート:https://www.dailyfx.com/crude-oil

(石油関連ニュース)

(中東関連ニュース)

・イランの政府抗議デモの死者304人以上:アムネスティ―

・トルコ大統領、地中海のNATO基地閉鎖の可能性に言及

・カタール外相:サウジなどボイコット国との関係改善の兆し

・サウジ、第3四半期の失業率5.5%、前期より改善

 

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見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(18)

2019-12-17 | その他

(英語版)

(アラビア語版)

第2章:戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界

 

荒葉 一也

E-mail: areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

 

4.離合集散を繰り返すアラブ世界

第二次世界大戦後、ヨーロッパ帝国主義の桎梏から解放されたアジア・中東・アフリカの各地で多くの独立国家が誕生した。それぞれの独立国家の成り立ちには民族、宗教、歴史その他種々の要因があったが、一番大きな要因は民族としての独立であろう。

 

中東のシリアで生まれたバース党が掲げた汎アラブ主義はアラブ民族の連帯をめざす思想運動であり、それを最も強く希求したのがエジプトのナセル大統領であった。ナセルは第一次中東戦争(1948年)でイスラエルに惨敗したが、その後非同盟諸国の旗頭として第一回アジア・アフリカ会議(1955年。いわゆるバンドン会議)でアラブ諸国の代表としての名声を確立した。しかし翌1956年の第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝ってスエズ運河の国有化を世界に認めさせたものの、軍事的にはシナイ半島を失い勝利とも敗北ともつかない中途半端な結果に終わった。

 

これらの経験を通じてナセルはアラブ民族による壮大な連合国家の実現こそが目前の敵イスラエルに対抗し、さらには世界にアラブの力を認めさせることになると考えた。彼の頭の中には7世紀のムハンマドに始まり、マッカの正統カリフの時代を経てダマスカスを都とするウマイヤ朝、さらにはバグダッドを都とするアッバース朝と言うアラブ・イスラムの全盛期が思い浮かんだことであろう。なにしろウマイヤ朝時代には西のイベリア半島を支配下におき、アッバース朝時代には東のインドまで征服、学術文化でも当時のヨーロッパキリスト教国家をはるかに凌いでいたのである。その偉業を成し遂げたのはアラブ民族と言う血の絆であり、イスラムと言う信仰心のなせる業であった。

 

ナセルはこの昔日の栄光を取り戻すためにアラブ民族の大同団結を目指したと言えよう。歴史上、新興支配者が征服の御旗に使うのは民衆に「我々は同じ民族だ」と語りかける甘いささやきである。戦前の日本で「アジア民族による大東亜共栄圏」構想が声高に叫ばれたのもその一例である。ナセルは演説でことさらにアラブ民族意識或いはイスラム信仰心を掻き立て、一般市民はその言葉に酔いしれた。

 

ナセルはシリアに連合国家構想を持ちかけた。アラブ民族主義を掲げるバース党が支配するシリアに異論のあるはずがない。1958年2月、両国はエジプト・シリア・アラブ連合共和国を樹立する。ここにはもちろんイスラエルを挟み撃ちにするという戦略的発想も潜んでいたことは言うまでもない。この動きに乗り遅れまいとするかのようにわずか3か月後の同年5月に「イラク・ヨルダン・アラブ連邦」が発足する。両国は共に教祖ムハンマドに連なるハーシム家の末裔を国王に戴くイスラム王制国家、すなわち「血」と「信仰」を共有する兄弟国家なのである。こちらは緩やかな絆による連邦を目指しており、政治的一体化を目指したエジプトとシリアの連合とは異なる。イラクとヨルダンの場合は対イスラエルと言うよりもエジプト・シリアに代表される共和制国家の出現に脅威を抱き、君主体制を死守しようとしたためと考えられる。

 

しかしアラブ連合共和国もアラブ連邦も長続きしなかった。アラブ連邦は結成のわずか2か月後にイラクで軍事クーデタが発生、王家一族は全員殺され、イラク・ヨルダン・アラブ連邦はあっけなく崩壊したのである。アラブ連合の場合はナセルが強引に一体化を推し進めようとしたことにシリアの軍部が反発、3年後の1961年9月に陸軍将校団によるクーデタが発生、エジプトとの連合を解消した。

 

その後バース党政権のシリアとイラクが急速に接近1963年にはイラク・シリア連邦が形成された。両国を含む地中海東海岸地方はレバント地方と呼ばれオスマン・トルコの時代から一つの地域と見なされていた。しかし第一次大戦中の英国とフランスによる領土分割秘密協定「サイクス・ピコ協定」によりシリアはフランスに、イラクは英国に分割された経緯がある。従って汎アラブ主義を綱領とするバース党が政権を握れば両国の友好関係が深まるのは当然の成り行きであった。余談であるが現在この地域で猛威を振るっている「イスラム国」の別名は「ISIL(イラクとレバントのイスラム国)」であり、このことはイスラム国がシリア及びイラク北部を一体とみなしていることを示しているのである。

 

(続く)

 

 

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