第19部「コーエン兄弟の物語」~第2章~
「懲役には反省と復讐という、まったくちがうふたつの効果がある。俺の場合は、完全に後者のようで…」(『赤ちゃん泥棒』より)
…………………………………………
H・I・マクダノー、通称「ハイ」は泥棒の常習犯である。
実弾を使わない。
ひとを傷つけない。
ことを理由にして早めに仮釈放されるが、前科は10を超えていると思われる。
悪事を繰り返す理由を「レーガンの政策が…。いや、彼は評判がいいからな」と訂正し、冒頭に挙げた「復讐としての懲役刑の効果」をひとりで実践? するような男だ。
ハイは何度目かの逮捕時に警察署で女性警官エドに出会う。
ふたりは恋をして、ハイの出所後に結婚。
ハイは改心し真面目に働くようになるが、どれだけ子作りに励んでも命は宿らない。
診断の結果、エドは子どもを産めない身体であることが分かる。
ふたりは養子を取ることに決めるが、ハイの前科が引っかかって許可が下りない。
「僕は前科者ですが、彼女は元警官です」
だからって、前科が帳消しにされるわけもないのに。
ある日、全米が5つ子ちゃん誕生のニュースに沸いた。
ふたりはテレビを観ながら「不公平だ」と嘆く。
そうして「5人も居るのだから」と考え、赤ちゃんひとりを「泥棒する」計画を立てた・・・これが、コーエン兄弟の第二作目『赤ちゃん泥棒』(87)の前半10分である。
ふつうに演出すれば30分くらいを要する背景を、短いショットの積み重ねとハイ(ニコラス・ケイジ)のモノローグによって「手短に」説明してしまう。
描きたいのは「ここからだ」ということを証明するかのように、映画のタイトルが表示されるのも「このあと」なのである。
原題は、『Raising Arizona』。
「このあと」に起こることとは、賞金稼ぎスモールスとの戦いであった。
…………………………………………
「赤ちゃん泥棒」のニュースを聞いたスモールスは、ハイを追ってハイウェイをバイクで疾走する。
バイクが通り過ぎると花々は燃え、野ウサギは彼が放った手榴弾によって「爆死」してしまう。
スモールスの追跡はハイを怯えさせ、「子どもを盗まれた母親の怒りのようだ」とモノローグで告白している。
だが『赤ちゃん泥棒』は、あくまでもコメディ映画だ。
子どもを盗まれた母親や脱獄犯たちの「過剰過ぎる」絶叫とともに、かなり大袈裟なアクションがスピーディに展開されていて爆笑必至なのである。(だいいち、スモールスはウッドペッカーのタトゥーを入れているわけだし!!)
筆者にとって「初のコーエン兄弟」となったこの映画はスマッシュヒットを記録、批評的にも概ね好評だった。
だがコメディというジャンルゆえか、米国では作品だけが評価され、監督に言及する識者やファンは少なかったそうである。
たしかにコーエン兄弟の作家性は捉え難い。
撮影や編集技術に長けていることは一目瞭然だが、新作の度にジャンルそのものを「大きく」変化させてくるところがあって、「こういう監督である」と結びづらい。
90年、『ミラーズ・クロッシング』の発表。
禁酒法時代の米国を舞台にしたギャング物である。
派手な銃撃戦もあるが、なぜか「静謐な映画」という印象が強い。
寡黙な主人公という設定がそうさせるのであろうか、その洗練された創りは『ゴッドファーザー』のシリーズ(72~90)や、同年に発表されたスコセッシの『グッドフェローズ』などと比べても新鮮で、同じギャング映画という括りに入れていいものか疑問に思うほどだった。
…………………………………………
筆者が東京にやってきて初めて劇場で観た映画が、コーエン兄弟の第四作目『バートン・フィンク』(91)であった。
ニューヨークの劇作家がハリウッドに招待され、劇映画の脚本を書く―ただそれだけの物語だが、
泊まったホテルは湿気に満ちていて、
ロスには居ないとされている蚊が飛び、
壁紙はゆっくり剥がれ、
どこからか呻き声「のようなもの」が聞こえ、劇作家なのに「まるで書けなくなる」―そんなブラック・コメディである。
場所はテアトル新宿。
ほぼ満員状態で、館内のあちこちからクスクス声が聞こえた。
80年代後半より日本ではミニシアターブームが起こり、それは90年代前半に隆盛期を迎える。
『バートン・フィンク』はカンヌ初の三冠―パルムドール、監督賞、主演男優賞―というニュース性も追い風となって、とくに日本で歓迎された。
そう、コーエン兄弟は「まだ」ハリウッドでは無名にちかい存在だったのである。
主人公バートン・フィンクは難産の末に脚本を書き上げ、その晩、狂ったようにダンスホールで踊る。
だが時代は大戦前夜―。
女たちはバートンの誘いを受けず、みんな兵隊たちと踊る。
怒ったバートンは海兵隊員の制服を恨めしそうに眺め、そうしてこう叫ぶのだ。
(脳味噌を指差し)これが、俺の制服だ!!
いま現在はそう思わないが、劇場で観た当時、筆者は思った。
このことばは、コーエン兄弟自身の宣言であると。
俺たちだって、映画で戦っている―そんな風に解釈したのである。
…………………………………………
つづく。
次回は、10月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『がらん、がらん。』
「懲役には反省と復讐という、まったくちがうふたつの効果がある。俺の場合は、完全に後者のようで…」(『赤ちゃん泥棒』より)
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H・I・マクダノー、通称「ハイ」は泥棒の常習犯である。
実弾を使わない。
ひとを傷つけない。
ことを理由にして早めに仮釈放されるが、前科は10を超えていると思われる。
悪事を繰り返す理由を「レーガンの政策が…。いや、彼は評判がいいからな」と訂正し、冒頭に挙げた「復讐としての懲役刑の効果」をひとりで実践? するような男だ。
ハイは何度目かの逮捕時に警察署で女性警官エドに出会う。
ふたりは恋をして、ハイの出所後に結婚。
ハイは改心し真面目に働くようになるが、どれだけ子作りに励んでも命は宿らない。
診断の結果、エドは子どもを産めない身体であることが分かる。
ふたりは養子を取ることに決めるが、ハイの前科が引っかかって許可が下りない。
「僕は前科者ですが、彼女は元警官です」
だからって、前科が帳消しにされるわけもないのに。
ある日、全米が5つ子ちゃん誕生のニュースに沸いた。
ふたりはテレビを観ながら「不公平だ」と嘆く。
そうして「5人も居るのだから」と考え、赤ちゃんひとりを「泥棒する」計画を立てた・・・これが、コーエン兄弟の第二作目『赤ちゃん泥棒』(87)の前半10分である。
ふつうに演出すれば30分くらいを要する背景を、短いショットの積み重ねとハイ(ニコラス・ケイジ)のモノローグによって「手短に」説明してしまう。
描きたいのは「ここからだ」ということを証明するかのように、映画のタイトルが表示されるのも「このあと」なのである。
原題は、『Raising Arizona』。
「このあと」に起こることとは、賞金稼ぎスモールスとの戦いであった。
…………………………………………
「赤ちゃん泥棒」のニュースを聞いたスモールスは、ハイを追ってハイウェイをバイクで疾走する。
バイクが通り過ぎると花々は燃え、野ウサギは彼が放った手榴弾によって「爆死」してしまう。
スモールスの追跡はハイを怯えさせ、「子どもを盗まれた母親の怒りのようだ」とモノローグで告白している。
だが『赤ちゃん泥棒』は、あくまでもコメディ映画だ。
子どもを盗まれた母親や脱獄犯たちの「過剰過ぎる」絶叫とともに、かなり大袈裟なアクションがスピーディに展開されていて爆笑必至なのである。(だいいち、スモールスはウッドペッカーのタトゥーを入れているわけだし!!)
筆者にとって「初のコーエン兄弟」となったこの映画はスマッシュヒットを記録、批評的にも概ね好評だった。
だがコメディというジャンルゆえか、米国では作品だけが評価され、監督に言及する識者やファンは少なかったそうである。
たしかにコーエン兄弟の作家性は捉え難い。
撮影や編集技術に長けていることは一目瞭然だが、新作の度にジャンルそのものを「大きく」変化させてくるところがあって、「こういう監督である」と結びづらい。
90年、『ミラーズ・クロッシング』の発表。
禁酒法時代の米国を舞台にしたギャング物である。
派手な銃撃戦もあるが、なぜか「静謐な映画」という印象が強い。
寡黙な主人公という設定がそうさせるのであろうか、その洗練された創りは『ゴッドファーザー』のシリーズ(72~90)や、同年に発表されたスコセッシの『グッドフェローズ』などと比べても新鮮で、同じギャング映画という括りに入れていいものか疑問に思うほどだった。
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筆者が東京にやってきて初めて劇場で観た映画が、コーエン兄弟の第四作目『バートン・フィンク』(91)であった。
ニューヨークの劇作家がハリウッドに招待され、劇映画の脚本を書く―ただそれだけの物語だが、
泊まったホテルは湿気に満ちていて、
ロスには居ないとされている蚊が飛び、
壁紙はゆっくり剥がれ、
どこからか呻き声「のようなもの」が聞こえ、劇作家なのに「まるで書けなくなる」―そんなブラック・コメディである。
場所はテアトル新宿。
ほぼ満員状態で、館内のあちこちからクスクス声が聞こえた。
80年代後半より日本ではミニシアターブームが起こり、それは90年代前半に隆盛期を迎える。
『バートン・フィンク』はカンヌ初の三冠―パルムドール、監督賞、主演男優賞―というニュース性も追い風となって、とくに日本で歓迎された。
そう、コーエン兄弟は「まだ」ハリウッドでは無名にちかい存在だったのである。
主人公バートン・フィンクは難産の末に脚本を書き上げ、その晩、狂ったようにダンスホールで踊る。
だが時代は大戦前夜―。
女たちはバートンの誘いを受けず、みんな兵隊たちと踊る。
怒ったバートンは海兵隊員の制服を恨めしそうに眺め、そうしてこう叫ぶのだ。
(脳味噌を指差し)これが、俺の制服だ!!
いま現在はそう思わないが、劇場で観た当時、筆者は思った。
このことばは、コーエン兄弟自身の宣言であると。
俺たちだって、映画で戦っている―そんな風に解釈したのである。
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つづく。
次回は、10月上旬を予定。
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『がらん、がらん。』
楽しく読みました