Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

シネマしりとり「薀蓄篇」(292)

2019-06-14 00:10:00 | コラム
えん「ぎ」→「ぎ」ろん(議論)

Aという考えとBという考えがあって、それぞれが説明し論じ合い、やがてCという新たな考えが導き出される―というのが理想なのだけれども、実際はそんなにうまくいかない。

最初から相手を潰す気のひとも居れば、相手の考えを聞かず自分の考えばかりベラベラと喋るひとも多い。

だから議論と口喧嘩のちがいが分からなかったり。
『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)がそうだよね、あれは見世物としては最高に面白い、しかし番組の最後になんらかの答えが導き出されることはないものな~。


※関係ないが三浦瑠麗さんを「安倍の女」みたいな感じで批判しているひとって、このモノイイがひどい女性差別にあたるということを考えているのかな



20代30代のころは酒場で熱き映画論を展開したりして、それこそ相手と喧嘩することもあったけれど、最近は穏やかだなぁ。

上のような理由から・・・なのだが、だからといって諦念があるわけでも相手を見下しているわけでもない、楽しく酒を呑みたいと思うようになっただけ。


じつはもうひとつ理由があって、
決定的な真理というかね、それをいっちゃあお終いよ、、、というか、それはそうなんだけど、それいったら新たな考えさえ導き出せない―と思ってしまうのは、いろいろ議論したあとに、

「まぁ、ひとそれぞれだから」

ということばを吐かれるとね、分かるんだけど、それはそうなんだけど、ちょっとちがうのではないか・・・みたいなね。


そして(けっこう)議論好きだった自分は、いま、それほど好きでもなくなってしまったというわけなのです。



『十二人の怒れる男』(57)

議論を主題とした古典中の古典。

ある識者は「まだ米国の正義や良心を信じられる時代に撮られた」と評していたが、なるほどと思った。

『日本の夜と霧』(60)

ほぼ全編が政治論争に終始するという、オオシマらしい挑戦的な映画。

しかもその舞台は、結婚式なのだった!!



『博士の異常な愛情』(64)

議論というか会議というか。

このビジュアルが強烈だったため、以後、トップ会議を描くとなったらこういう舞台装置を持ってくる映画が多くなった。



『シン・ゴジラ』(2016)

大人気シリーズを別の視点で捉えて見応え充分だった・・・が、これが米国ではぜんぜんウケなかった。

求めているものがちがったということでしょう、これもまた面白い現象。



『ゆきゆきて、神軍』(87)

「神軍平等兵」奥崎謙三に肉迫した傑作ドキュメンタリー。

奥崎さんの場合は、議論というより、自分の主張を押しつけるだけだったりするのだが。。。笑


あすのしりとりは・・・
ぎ「ろん」→「ろん」げ。

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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(293)』
コメント (2)
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