Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

シネマしりとり「薀蓄篇」(109)

2015-02-16 03:25:27 | コラム
すてぃーぶんすぴるばー「ぐ」→「ぐ」っどばい

あらゆる映画のなかで、最も多用された台詞とはなにか?


おはよう―?

ちがう。

こんにちは―?

ちがう。

よろしく―?

ちがう。

ありがとう―?

ちがう。

愛してる―?

ちがう。

さようなら―?

ちがう。


きっちりと調べ上げたひとは居ないが、「ここを出よう(出ましょう)」なんだそうだ。

あぁ! なるほど、ちょっと分かる!! と思う。

場面を変えることを促すことば、だものねぇ。

それでも「愛してる」より多いのか? と意外だったり。


映画は「モノガタリ」ではなく「ヒトガタリ」であるからして、出会いと別れが主軸となる。

出会いのシーンでハッとさせてくれる映画もある―チャップリンの『街の灯』(31)とか―が、別れのシーンのほうが圧倒的に印象に残るものだと思う。
別れは終幕に描かれることが多いし、それによって深い余韻というものが生まれるのだから。


グッドバイ! だけじゃなく、サヨナラ! も、アディオス! も、字幕や吹き替えなしで「よその国のひと」にも通じる。
そのくらい、別れは「ドラマにつきもの」っていうこと。

自分の性格上、泣ける別れよりもクールな別れにしびれる。


『用心棒』(61)における、三十郎の「あばよ!」とか。

『ミッドナイト・ラン』(88…トップ画像)における、「来世でな」とか。

『タクシードライバー』(76)のトラビスは、ベッツィとの別れ際、ヒトコトも発せずに料金メーターを戻す。
あの戻す動作に「さようなら」の意味がこめられていて、すっげ格好いい。

『ダイハード』(88)の、「じゃあな、ハンス!」も悪くない。

『パルプ・フィクション』(94)で、トラボルタがユマに投げキッスを送るのもいいよね。


切りがないからやめておくが、これを日常生活で実践するのはなかなかに困難である。

いや出来ないことはないが、クールに決めることは難しい。

そういう意味では映画は、良質なテキストにはなり難いかもしれない。
しれないが、あのとき、ほんとうはこんな風にいいたかったんだ―と、自分の気持ちを整理することは出来る。
そんな風に自分の気持ちと主人公の気持ちがリンクしたとき、映画は宝物になる。

究極的にいえば、映画好きというのは、そういう映画を沢山発見出来たひと、、、を指すのではないかな。


ムダにトシを重ねてきたと自虐する自分も、そこそこの人間ドラマを築いてきた(つもり)。

(成就するかはべつとして)恋多き男子だし、履歴書に記し切れないほどのアルバイトを経験してきた。
出会いの数だけ別れがあったはずで、しかし、その光景は思い出せても、自分がなにを発したのか、まるで思い出せない。

その昔、付き合っていた子に「モノカキのクセして、肝心なときにキュンとくることばをいえないんだから!」なんていわれたこともあったが、まぁ現実はそんなものである。


ひとついっておくよ。

クールな別れを実践出来るひとは、モノカキなんかにならない。
実践出来ないからこそ、創作上の人物にその思いを託すわけです。

自分にとって映画とは、90%のリアリティと、10%のファンタジー。

分かってもらえるかしら?


※映画の動画、あるいは淀川先生の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」を貼ろうかと思ったが、何度聞いてもいい曲なので





あすのしりとりは・・・
ぐっどば「い」→「い」んらん。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(110)』

コメント (3)
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