読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

武士道

2010年05月25日 23時12分38秒 | 文化
 
新渡戸 稲造氏の著書。
新渡戸 稲造氏は旧五千円札に肖像が用ひられてをりましたが、1862年(江戸時代)に盛岡に生まれ札幌農学校、東京帝大で学んだ後アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学。
敬虔なクリスチャンでもあり、この時期に出会ったメリー・エルキントンと結婚。1887年から3年間独逸に留学され帰国後、札幌農学校、京都帝大、第一高等学校、東京帝大、東京女子大学で教鞭を取られます。
一方では国際連盟事務次官を務められました。
 
「武士道」はもともと英語で書かれた本であり、執筆は1897年カリフォルニアに移住した際にベルギーの法学者ラヴレー教授から「宗教教育がない日本でどのように子孫に道徳教育を授けるのか」と聞かれたことがきつかけとなつたさうである。(「私が日本精神の華 「武士道」を書いた理由」より)
 
このラヴレー氏の質問は中々興味深い。
キリスト教の文化において、「宗教」といふ授業がありここで「道徳」を教わるとは・・・!
 
この問いに即答できなかつた新渡戸氏は、「私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を
分析してみると、そのような 観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった」(「私が日本精神の華 「武士道」を書いた理由」より)
 
私が読んだのは「要約版」であり、完璧に読みたい方には「完訳版 武士道」(奈良本 辰也訳)をお勧めする。
 
要約版である本書は以下の構成から成つてゐる。
1.武士道とは何か
2.「義」 揺らぐことのない武士の「背骨」
3.「勇」 ものに動じない心の磨き方
4.「仁」 「武士の情け」の美しさ
5.「礼」 人とともに喜び、人とともに泣く
6.「誠」 なぜ「武士に二言はない」のか?
7.「名誉」 苦痛と試練に耐えるために
8.「忠義」 人は何のために死ねるか
9.武士は何を学び、どう己を磨いたか
10.「克己」 弱い心に打ち勝つ
11.「切腹」と「仇討ち(あだうち)」 生きる勇気、死ぬ勇気
12.「刀」 なぜ武士の魂なのか
13.武士道が求めた女性の理想像
14.「大和魂」 いかにして日本人の心となったか
15.武士道から何を学ぶか
 
読んでゐる最中から、「最もだ」と思ふことや「今の政治家に読ませて一から出直しさせたい」
と思ふことや「命」についての認識など勉強になつた。
 
そして、先日花形歌舞伎を観た演目が「忠義」の部分で取り上げられてゐた 。(P77-80) 
「武士道では個人よりも国を重んじる」といふ説明がなされてゐる。
さうか・・・ あたくしは「身分制度」を現在と比べて観てしまつたが、本来この演目は
「個人よりも国がまづ存在し、個人は国をになふ構成部分として生まれてくる」といふ武士道を
説いてゐたのだな・・・ ううむ・・・勉強になるな・・・・
http://liebekdinoschumi.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/5-045d.html

侍の真の「忠義」 
主君と意見がわかれるとき、家臣のとるべき忠節の道は、あくまで主君のいうところが非であることを説くことであつた (P83)
・・・・・・
主君の器がわかる一文だな・・・・ 今の政治家に仕える秘書、使はれる官僚はだうなのかな?
政治家だけでなく、企業の上司と部下の関係にも当て嵌まる。
 
興味深いのは、女性の理想像について。
ここで、懸念されるのはT教授のやうに「女にばかり家事をさせて云々」とかホザキだす人たちがここを何と言ふかである。(逆に興味があるが)
あたくしは、これは立派な教へだと思ふし逆に今、だうしたらこの「武士道」における男女のそれぞれの役割を家庭で担うかを考えるべきだと思ふ。
 
はつきり言えば、結婚後の家庭内の役割など個人の問題で他人が、とくに「公」で「かうあるべき」とかザくものではない。
どつちがパンツを洗はうとだうでもいひし、今は昔と違つて洗濯機が給水から洗浄すすぎとやつてくれるのだから、さつさとスイッチを押せばいいのである。
 
あたくしが考えたのは、「精神面」である。 男性と女性は精神面で違ふところがあるし、子供への接し方も違つてくる。武士道の女性の理想像は、その精神面を中心に書かれてゐる。
感心することしきりである・・・・ (賛同できない人は、しなくてよい)
 
「生きる勇気と死ぬ勇気」 これは現代の精神教育に必要であらう。
P110以降にある武士の例が記載されてゐる。いくさに敗れ、山野を彷徨し森から洞窟へと追い詰められた。
ついには刀欠け、弓折れ、矢尽きてただ一人空腹に耐えかねてゐる自己を発見する。
しかし、この侍はここで死ぬことは卑怯だと考えた。
(中略)
あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心をもって立ち向かう。これが武士道の教えであつた。
真の名誉とは、天の命ずるところをまっとうするにある。
 
・・・・・・
忍耐がなく、命を簡単に投げ出したり奪ったりする人が今、どれほど多いことか・・・・・
命を投げ出すことまでなくても、逃げだして楽を考える方向に向かつてゐる・・・・
「友愛」なるものがほんたうに正しいかだうか。あれはただの甘ったれを大量生産するだけの政策ではないのか?

「礼」 人とともに喜び、人とともに泣く
ここに、大変面白ひ「西洋」と「日本」の精神面の違ひの例が記述されゐる。 (P54-56)
全く同感で、「西洋」には日本のやうに「相手の状況を見て自分も相手に同調する」感覚はない。「人は人、自分は自分」が「個人主義」として確立してゐるので、「相手」に情緒的に感情移入することは全く思ひ浮かばないのである。
これは、あたくしは「単なる違ひ」として受け止めます。 この女性宣教師のやうに「非常におかしい」などと相手を卑下するやうなことは、これまた、自分中心感覚の適用を世界に撒き散らした白人の感覚である。
 
独逸の人と話してゐたときに、「日本人は考えない、なぜなら日本で有名な哲学者がいない」と言ふ発言を聞いた。
これもやはり、「自分感覚」で物事を計る白人の思考回路の一例だと思ふ。
「礼」の章では、茶の湯の作法が例として述べられてゐる。
あたくしは、個人的に、「茶の湯」は日本の哲学だと思ふ。
新渡戸氏は茶の湯を哲学と捉えてゐないが、自分個人としてはある種の哲学を感ぢる。
 
「切腹」と「仇討(あだうち)」 
P112-113に、四十七士の話がある。
泉岳寺の四十七士の墓は、墓と思へないくらい、清清しい雰囲気に包まれてゐた。
不思議に思つた雰囲気であつたが、この記述を読んで納得した。
 
「仇討ちは目上の人や、恩義ある人のためにんなされるときにのみ正当とされた」(P113)
これを果たした四十七士の心持があのやうな清清しい墓地の雰囲気を作り出したのであらう。
全体を通じて、この本は学ぶことが多かつた。
世界各国で翻訳されてゐるのもうなづける・・・


最新の画像もっと見る