読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

ジャーナリズムの思想

2010年06月16日 23時57分37秒 | 社会・報道・警察・教育
 
原 寿雄氏の著書。
原氏の著書で以前、「ジャーナリズムの可能性」といふ著書を拝読し感想を投稿ゐたしましたが、その本の前編と言ひますか、1997年に発行されたジャーナリズムに関する問題提起の最初の著書であります。
 
本書は
ジャーナリズムの倫理観
テレビの特性と思想
諸外国と比較した「日本特有」の報道の自由(GHQ時代の政策に由来する)
諸外国と比較した政治的公平
ナショナリズム
客観報道と署名記事
ジャーナリズムと人権思想
等について記述されてをり、色々勉強になりました。
 
まづ、「倫理観」で1996年春に表面化したTBS事件(オウム真理教の幹部に放送前の映像を見せ、抗議を受けて放送を中止した。その9日後、坂本弁護士一家が行方不明となつたのに担当者たちがオウムの一連の動きを坂本弁護士側にも警察にも知らせなかつた事が問題となつた)を取り上げてゐる。
 
原氏は、「ジャーナリズムの職業倫理が世間一般の基準よりはるかに高く厳しいものでなければならないことは、明らかである。」と記述し(P8)、上記のオウム事件を例に「ジャーナリストが取材活動で知りえたことを、捜査協力のために警察や検察に伝えるべき義務はない。逆に、捜査に協力してはならない、というのが原則である。ジャーナリズムのこの原則は『市民社会の一員としてジャーナリストも捜査に協力するのは当然ではないか』という世間の常識と衝突する」(P11)と記述してをり、目の覚める思ひであつた。
 
「一言でいえば、言論・報道の自由を守るためである」(P11)から始めて「取材で得たものを
報道目的以外に使うことはプレスの自由の起訴を根底から崩してしまう」と説明してゐる。
確かに、「情報源を明かしてしまふ」のは情報源を危険にさらすことである。
 
以前、少年事件で精神科医が逮捕された件があつた。ジャーナリストは逮捕されなかつたが
医師が「漏洩」だかの罪で逮捕され、「言論・報道の自由の規制」として反論する番組を観た。
 
オウムに関するTBS事件の内容を読んで、「なぜTBSの放送免許が更新されてゐるのだらう?」と疑問に思つた。明らかに報道する側として対処がおかしい。
 
「第2章 テレビの特性と思想」では、普段思つてゐた「バラエティの自虐ネタ」を当てはめて
読んでゐた。本書ではワイドショーが取り上げられてゐるが、個人的には芸人の自虐ネタ
(熱湯風呂に入る等)が不快で観るのを止めたことがある。最近の番組でもゲストとして出てきた芸人が熱湯風呂だのあつあつおでんを食べさせられさうになるだのの「お約束ネタ」が出てきて呆れてゐた。(消したかつたが、司会が見たかつたので我慢した)
ワイドショーも好きではないが、あの自虐ネタは何が面白ひのかさつぱりわからない。
 
「第6章 客観報道と署名記事」ではうなづくことが多かつた。そして、この本が書かれたのが97年といふ、13年前なのにも関わらず現在と同様の「発表ジャーナリズム」(P155-157)であるのに呆れた。
原氏が記述されてゐるやうに「発表ジャーナリズムで真実追求はできない」(現状出来てない)。
なので、犯罪が冤罪だつた場合「発表された事実を客観的に報道しているのだから問題はない」(P156)といふ主張があるのだらう。冤罪は勿論、逮捕・自白強要などを行なふのが問題なのだが、報道として検証することを怠るのは問題だと思ふ。本書では、少年犯罪の冤罪で弁護士が聞き込みをし、アリバイがあることを主張しても記者は警察から「アリバイは崩れた」と言はれてそれ以上取材を深めなかつた例も取り上げられてゐる。(P182) この問題は「第7章 ジャーナリズムと人権思想」に記述されてをり、ここでの内容もうなづくことが多かつた。
 
特に同意したのは、「犯罪報道と人権」に関することだ。被害者の自宅前に張り込んだりした例が記述されてゐるが(P180)、こちらとしてはそんなことをして何を報道したいのか理解しかねる。
犯罪被害者の自宅まで行つて、何を聞く(言はせたい?)のだらう? 
ここを読んだときに思ひ出したのが、某犯罪が起きたときにその犯人の実家に報道陣が押しかけ、両親を玄関前に立たせて質問をした放送だ。
正直、びつくりした。
確かに大事件であつた。しかし、遠く離れた実家に押しかけ、カメラの前に引き出すやうな必要があつたのか? カメラの前で母親は倒れた。
そこで、消した。 別の時間で放送されたときにはすぐに変えた。あれは、顔を放送しなかつたとは言へ、すべきことだつたのか疑問に思ふ。「正義の味方」のつもりなのかな~とも思つた。
「正義の味方」のつもりであつたのなら、原氏が記述されてゐる「勧善懲悪の報理」(P176-179)がまさに該当する。
 
人権のところでは差別・性差別にも言及されてゐる。昔からの言ひまわしで「女性差別にあたる」とされる言葉があるやうだが、個人としては別に気にしない。過去さういふ生活形態の中で生まれた言葉なのだ。これは、個人個人が生活する中でお互いに気遣つていけばいひだけの問題ではないのか?
「夫婦」と「夫」が先に書かれてゐるから女性蔑視だと言ふのなら、その人たちだけ勝手に「婦夫」と書いて言つてをればよい。
個人としてはそこまであれこれ言ふ意味がわからない。
 
しかし、「セクシャルハラスメントの法理が米フェミニズムの中から作られてすでに20年近くなるのに(97年当時)、日本のジャーナリズムの問題意識は、なお冷やかし気分から完全に抜け切れていないのではなかろうか。」(P193)は現在でも当てはまると思ふ。
おにゅーすなど、「強制わいせつ」と報道すべきであらう内容が「セクハラ」となつてゐて、だうも「セクハラ」と書けば罪が軽くなるやうな滲みが感ぢられなくもない。
 
「ジャーナリズムの可能性」とともに、報道する側にも情報を受け取る側にも貴重な一冊だと思ふ。


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