人間関係のもつれで事件が起きると、よく動機で「一方的に思いつめた」と報道されることがあるけれど本当にそうかと思うことがある。人間関係とは相手があって初めて成立するもので、純然と一人で何かを思い始めたのではないと思う。
思うに、相手方は何も行動をしていないのに加害者の方が積極的に何かを行動したという外観から「一方的に思いつめた」といっているのではないか。それは相手方に作為がなかっただけで、不作為という立派な行為で意思表示をしており、決して一方的な問題ではない。
人間関係のトラブルを原因として事件が起こる場合、純然と一人の人間が思いをめぐらせて事件を起すわけではない。純然と思いにふけるのは人間関係とはいえないし、通常の人間関係とはそのようなものではないからだ。相手方の作為・不作為を含めて相手方との態度に関係してトラブルが発生するのである。
だから人間関係のトラブルで事件が起きるときは原則として相手方にも何か問題がないかと疑ってみている。被害者救済をする時には「あなたにも何か問題があるのではないですか。」と問うのは被害者を苦しめるので避けるべきだと言われるが、被害者といえど事件に問題があるならそれを追及すべきである。被害者を救済するために動機を一方的なものにするのは真実に反し間違っている。
被害者は不作為を行為でないと思っているのではないか。それは明らかに間違っている。何もしなくても伝わることはいくらでもある。黙示で相手にきちんと伝えている。その結果を相手はきちんと解釈するのである。注意しなければならないのは、示したい黙示の内容が正しく伝わっているかということだ。黙示はしばしば多義的である。だから、きちんと伝えたいなら明示すべきだ。間違って相手に伝わり、不利益を被ったとしても、きちんと明示しなかったものの責任である。超能力者でもない限り、明示されることなく相手の考えを正確にわかるのは不可能だ。
また、相手の都合を考えず不作為を貫くという意味で被害者もまた一方的である。根本的に、相手のために真剣に一生懸命がんばっている人間に対して全く顧みず否定的に扱う態度がよろしくない。人の親切に対して、相応しい対応があるだろう。親切を足蹴にする態度を見て、相手方はどう思うだろうか。
自分に対する真剣で一生懸命な努力に相応しい対応は相手への誠意・感謝と利益的な救済である。それが満たされるならば、人間関係のトラブルを原因として事件は起きないだろう。
思うに、相手方は何も行動をしていないのに加害者の方が積極的に何かを行動したという外観から「一方的に思いつめた」といっているのではないか。それは相手方に作為がなかっただけで、不作為という立派な行為で意思表示をしており、決して一方的な問題ではない。
人間関係のトラブルを原因として事件が起こる場合、純然と一人の人間が思いをめぐらせて事件を起すわけではない。純然と思いにふけるのは人間関係とはいえないし、通常の人間関係とはそのようなものではないからだ。相手方の作為・不作為を含めて相手方との態度に関係してトラブルが発生するのである。
だから人間関係のトラブルで事件が起きるときは原則として相手方にも何か問題がないかと疑ってみている。被害者救済をする時には「あなたにも何か問題があるのではないですか。」と問うのは被害者を苦しめるので避けるべきだと言われるが、被害者といえど事件に問題があるならそれを追及すべきである。被害者を救済するために動機を一方的なものにするのは真実に反し間違っている。
被害者は不作為を行為でないと思っているのではないか。それは明らかに間違っている。何もしなくても伝わることはいくらでもある。黙示で相手にきちんと伝えている。その結果を相手はきちんと解釈するのである。注意しなければならないのは、示したい黙示の内容が正しく伝わっているかということだ。黙示はしばしば多義的である。だから、きちんと伝えたいなら明示すべきだ。間違って相手に伝わり、不利益を被ったとしても、きちんと明示しなかったものの責任である。超能力者でもない限り、明示されることなく相手の考えを正確にわかるのは不可能だ。
また、相手の都合を考えず不作為を貫くという意味で被害者もまた一方的である。根本的に、相手のために真剣に一生懸命がんばっている人間に対して全く顧みず否定的に扱う態度がよろしくない。人の親切に対して、相応しい対応があるだろう。親切を足蹴にする態度を見て、相手方はどう思うだろうか。
自分に対する真剣で一生懸命な努力に相応しい対応は相手への誠意・感謝と利益的な救済である。それが満たされるならば、人間関係のトラブルを原因として事件は起きないだろう。