「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「国のために尽くす」

2011-04-20 00:03:00 | 和歌
 
 パソコンに噛り付いていて、朦朧となった頭を冷やそうと、三浦半島の細い山道に分け入って驚いた。トテツモナク巨大で、複雑に絡み合った蔓が巨木から垂れ下がっているではないか。蔓の下に立って見上げていたら、何やら混迷を深める我が国の現状とイメージが重なって、暫く呆然と立ちすくんだ。

 東日本大震災では、悲しくも夥しい人々が犠牲者となられた。未だその総数も確定していないが、行方不明の方の数も合わせれば三万人にも及び、第二次世界大戦に次いで我が国開闢以来の悲劇だ。

 3・11以来、我々国民も政治家も、この大災害をどれ程の「国家的危機」と捉えて来ただろうか? 
多くの国々から友好的な支援の手が差し伸べられているが、一方では、国を挙げて取り組む姿勢や統括管理の在り方など、厳しい批判の目が向けられていることも事実である。

 復興や事態の収束に向けて、国も自治体も、事業者や国民もそれぞれ一生懸命にガンバッテはいるが、相互の連携がちぐはぐで、彼らが見れば国家管理や統率が執れていないと目に映るのであろう。
地続きの国々では常に国境を争い、国を侵し、侵される歴史を背負って来た彼らは、国民が常に自ら戦い国家を護って来た。そのような歴史は、国民に「国家」の意識をいやがうえにも植えつけ、それがものの考え方の基本をなしているのだ。

 翻って我が国はどうか。
隣国と海を隔てて孤立している地政学的な条件もあって、歴史的にも「国境」の概念や「国家」の概念が乏しく、「国を護る」との意識が余りにも希薄だ。

 隣国との争いに限らず、食糧やエネルギー資源の確保についても、グローバルな争いと協調とが渦巻く世界では、総てに国を挙げて取り組むことが強く求められている。

 東日本大震災からの復興も、福島原子力発電所の事故収束への努力も、将に「国家再建」の最大の契機とせねばなるまい。災害復興については、国民の皆様の義捐金やボランティアの活動が益々盛んになりつつあることは、たいへん喜ばしいことだ。
 一方、福島原発については、東京電力の「事故の収束に向けた道筋」が昨日発表されたが、幾多の難問を抱えて前途はまだまだ息が抜けない。

 我々原子力シニアは、現役の皆さんが必死で闘っている後方から、邪魔にならぬよう配慮しつつ、可能な限りの提言をまとめ、或いはメディアの取材に際しては極力解りやすい解説を心がけて、正確で適切な報道を支援して来た。

 しかしながら原子力発電と放射線については、多くの市民の皆さんが不安を抱き、原子力にたいして疑念を抱く人の数も増えている模様だ。そんな中で、虚庵居士にも声がかかって、懇談会や講演の機会を活かして、市民の皆様への解説役を務めさせて頂いているこの頃だ。お仲間の先輩の言葉だが、死が近いシニアなどとは言って居れない毎日である。

 三浦半島の細い山道を辿って来たら、古色蒼然たる石造りの祠の前に出た。ごく小さな祠ではあるが、三柱の小さな祠の一つは、あろうことか虚庵居士の生地の、諏訪神社をお招きしたものであった。いつの時代、どのような経緯でこの祠が祀られたかは知る由もないが、当時の皆さんの依って立つところとして、諏訪神社の祠の果たした役割は大きなものであったろう。静かに手を合わせて礼拝した。

 グローバルな現代社会で、我々日本人の依って立つところは何であろうか。 
国際社会での付き合いや鎬をけずる中で、我々のアイデンティティー、依って立つところは大和魂ではあるまいか。海外に出て、多くの国々の男達と議論をすれば、それぞれの男たちが胸に抱いている最も大切なものの一つは、紛れもなく母国を大切に思う心だ。国内に居ては中々見えないが、民族の違い、言語やカルチャーを超えて彼らが大切にしているものの一つだ。
我々一人一人が出来ることはごく些細なことに過ぎないが、それぞれの皆さんが出来る範囲で、国のために尽くしたいものだ。


           山道を辿り来れば驚きぬ 

           巨大な蔓の巨木に垂るるは


           複雑に絡む姿は我が国の

           混迷なるかも解は如何にと


           とつ国の人々厳しく我が国を

           批判するらむ統率無きとぞ


           信濃から諏訪の神あがめ移り住む

           いにしえ人の思いを汲まなむ







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