川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

トンデモ科学ネタ、ふたつ

2006-11-15 07:06:36 | トンデモな人やコト

『「水からの伝言」を信じないでください』
というページが学習院大学の田崎晴明教授によってアップされた。
これはすばらしい。
研究者として謙虚で真摯な姿勢で、「なぜだめなのか」を説いている。みなさん読んでください。

その一方で、ゲーム脳について鬱なニュースがふたつ。
ゲイムマンさんからの私信で知る。

大阪で、大きなゲーム脳講演があったようだ。

リンク: 10・29子どもの教育を考える講演会:西村眞悟と行動する「真悟の会・堺」.
リンク: 市ノ沢充、堺から政治を斬る!: 10月29日、子どもの教育を考える講演会に参加して.

さっそく、感情的な応酬もコメント欄にて。
この場では、ゲーム脳について「それおかしいですよ」というだけで、「不愉快」「変だ」「偏っている」というふうに思われてしまう磁場が発生しているもよう。

さらに、イヤーなのが、こっち。

リンク: 元気な脳のつくりかた

森氏の「元気な脳のつくりかた」が、日本PTA全国協議会推薦図書になったのだそうだ。
これはすごくショックだ。

ちなみに、この日本PTA全国協議会、というやつだけど、ぼくも会員です。
小学校のPTAに普通に在籍すると、そのまま区や市のPTAなどを経て、会員になっているので。

ワースト番組問題といっしょに、なんとかしたいぞ。
しかし、なんとかできる具体的プログラムは今のところ目の前になし。


「駅キレ若者」エントリの反響について。

2006-09-28 06:22:47 | トンデモな人やコト
ざて、一昨日の「駅で若者をキレさせてしまった」エントリ、びっくりするくらい反応があった。
たぶんきのう一日で1万ヒットくらいいったんじゃないかな。
で、コメント欄もそこそこついたし、はてなブックマークやら、トラックバックを通じて、こういった話題について他の人たちがどんな印象、感想、感慨などなどを抱くのか、そのスペクトルがどんなあたりにどう散らばっているのかなんとなく見えた気がする。。
こちらとしても、へえっ、ほうっ、ぐさっ、などと感じつつ興味深く読んだので、以下、概観とコメント。

 支持、あるいは同情の声は、わりと多し。もっとも、コメントをするとところまでいくのにそういうバイアスがかかると思われるので、割り引いて考えた方がいいかも。
 
 馬鹿なやつ、危険だからやめとけ、という類のコメントもちらほら。すみません。その通りだと思います。特に、直接的に心配かけてしまった人々。
 
 正義ぶっていてイヤだ、という系統のコメント。これも仕方ない、これは近年、正義対悪の枠組みになってしまっている喫煙言説の中に、ぼくの言動がすっぽり回収されてしまった格好。個人的には、むしろ、その枠組みを問題にしたいにしても、こういう「読み」は避けがたい。「ニコチアナ」ですら、正義と悪の二元論の物語として読まれる余地があることを知っているので、これは予想の範囲内。いわゆる、想定内ってやつ。

 これよりは、一歩文意を理解してもらって、本当は喫煙をやめてほしい一心なのに、妙に喫煙者に理解のある態度をとっている部分にある種の不自然と偽善を感じるというふうな意見。これはとても鋭くて、ぼくがその場での喫煙をやめてほしいという強い気持が何よりも大きいのは事実。にもかかわらず、相手を悪者にしたくないというのは、それと同じくらい大事なことだと感じているので、常にそのあたりの葛藤はぼくの中にある。その葛藤を維持できなきゃおしまいよ、みたいなところがあって、譲れない。これは、ユーザ登録しないとコメントできない方のブログだったな。たしか。
 
 それ以前の問題で、とにかくこういうのは偽善と感じた人も多い模様。
 それにしても、なんで人はこんなに偽善が嫌いなんだろう。絶対的な善の方が、ぼくはもっと怖い。それに絶対的な悪は、もしあるとしたらすっごく怖い。だから、偽善やら偽悪やらの間でぼく(ら)は生きている。偽善ととられるのは、むしろ喜ばねばならないかもしれない。
 もちろん、このロジックでは偽悪的に取られるもの悪くないのだけれど、ぼくは偽悪者よりも、偽善者と思われる方が、まだ誇りを保てる。
 
 あ、そうだ、ぼくのエントリで偽善について考えた方、「ニコチアナ」なんて読んでみてください。たぶん、潜在的によい読書かもしれません。
 ここで偽善と感じられたものが、どのような思考から生まれてきたのか分かって頂けるかも。ここ宣伝。「ニコチアナ」は、わりと図書館にはありますよ。
 あるいはノンフィクションの「クジラを捕って、考えた」も。たぶん、はてぶなんかにコメントしている人ってぼくよりもずっと若い人が多いと思うのだけれど、同じ年頃にぼくが何をやっていたか書いてあります。その頃から葛藤を殺さずに、飼うことを心がけて参りました。こちらは文庫になっている。
 
 あと、「話しかけるスキル」と書いたことに、ある種の傲慢を感じたというふうなコメントもあったっけ。「マナーをお願いするスキルなど、存在しない」という意見については、ぼくは明確に異論を持っている。人の行動に口をしたり、出されたりする局面は社会生活の中ではたくさんあって、それを円滑にする技術やら、工夫やらは確実にあるから。とはいえ、今回の件で、わかったのは、わりと自信を持っていたはずの「喫煙者に話しかける」が、やっぱり、うまくいかんことがあるんだなあ、ということ。
 ちなみに敷衍しておくと、自信というのは、それなりに根拠があって、ぼくが話しかけたことから、ちゃんと喫煙をその場でやめて、「いやー、やめらんなくてさー」とか、「最近の嫌煙の人たちって……」「それにしても、たばこ税ってやつは……」みたいな会話に至るって、わりと普通にある。でも、そういうふうに「成功」するのが十回に一回くらいだったとして(残りもたいてい喫煙はやめてもらえる)、百回に一回くらい小突かれるとしたら、ことこの件については、分が悪すぎるというのも事実。そういう意味では、おっしゃる通り!ではあるのかも。
  
 それにしても、多くの人が表明していた「こわくて言えない」って、どうなんだろう。
 そんなに「言えない」ばかりで、閉塞感がないだろうか。ここでは(駅では)、こわいから言わないにしても、会社や家庭やPTAでは(笑)、ちゃんと言えているんだろうか。
 ぼくが対話の可能性を信じているのは、たぶんもって生来の性格に加えて、対話した方がよい結果をもたらすという、大小の成功体験があって、それが信念のレベルまでに達しているからだ。
 話しかけること、悪いことじゃないよ。「変な人」だと思われるリスクや、こと喫煙にかんしては今回みたいな「小突かれ」リスクまで、常にあるにしても、果実は大きい。喫煙がらみのことでは、ぼくは「よう勧めんわ」という見解になってしまったけれど、一般論として「話すこと」はブレイクスルーになる。
 
 その上で……こんなんで死ぬな、という批判(?)、ごもっともです。
 ぼくもこういうので死んだりするつもりは毛頭ありません。
 文中にそのようなことを書いたのは、このサガを発展させると、そういう局面に直面しかねない、ということです。
 自己満足?
 はい、その通りです。
 でも、それ、人生の最後の瞬間に自己満足できるなんて、最高かもしれないけど。
 しかしながら、家人に叱られるので、ぜったいにそんな死に方しません。しませんとも!
 
 さらに、かつて、声を掛けてキレられて、言い方が悪かったんじゃないか、言わなかった方がいいんじゃないか、と悩んだ方からのエールもいただく。
 あ、なんか、自分だけじゃなかった、とこれはただ純粋にほっとする。
 
 にもかかわらず、このエントリなどを読んだ「眼鏡君」が連絡をくれるつゆほどの可能性を、実は熱望している自分もいたりします。
 
 最後の最後に。
 なぜ、こんな話題が、一日に一万ヒット近く集めるんだろう。
 ぼくも含めて、この件にコメントしたり、エントリを書いた人たちの気持ちを泡立てたのものはなに? なんかその部分の「なぜ?」の方が面白いって、気がしてきた。
 単に喫煙対嫌煙、という枠組みのお話しだったら、こうなったかな(いや、もっとすごいことになったかも)。
 どっちでしょうね。

実体験として「切れる」若者をはじめて見た(喫煙がらみです)。あるいは、「携帯は、待て」と知る。

2006-09-26 21:29:59 | トンデモな人やコト
きょうのこと。
京王線の某駅にて、二十代とおぼしき若者を「キレさせて」しまった。
いろいろ考えること、反省することがあったので、書きます。

まず、最初に書いておくと、ぼくはわりと「禁煙の場所での喫煙者」に、「注意を喚起」「やめてくださいとお願い」する人だ。

むかし、それを言ったら傘を突き立てられそうになった事件があったけれど、以来、話しかけのスキルも上達して、トラブルに発展することはまずない。

スタンスはあくまで「ここ禁煙ってご存じですよね」(注意の喚起)、「控えて頂けませんでしょうか」(お願い)の二点。
(追記、ここで「注意の喚起」にあまりに引っかかる人が多いみたいなので、コメント。このまま同じ言葉で言っているわけではないです。禁煙という情報を共有できていると思われる場合、「禁煙ってご存じですよね」って聞かずに済ますことは多いです。でも、実際に「知らない」人はいるのです。例えば首都圏のJRで完全禁煙のところってむしろ少ないし、路線や駅によってローカルルールは違います。禁煙である事実を認識しているのか、なんらかのカタチで確認した方がいい時って、あります。それくらいの意味。いずれにせよ、「禁煙」という情報は共有しとかないと、話は始まらないので、ここに書いてます)

なぜなら、たとえば駅構内でも、禁煙というのは、目下のところ「お願い」マターだと思うから。
だって、駅側も「お願いします」とか「ご協力願います」とか、あくまでお願いの態度でしょう?
もちろん、今は健康増進法ってやつがあるけれど、オープンエアの喫煙で、他の人にどれだけの健康被害があるか分からないし、かりに法を根拠にするにしても、その時、法的な力を行使するのは、ぼくではない。

だから、あくまで、おねがい、なのだ。

で、見かけるたびに、カジュアルに言うことにしているので、たぶんここ数年で百や二百では済まないくらい言い続けた中で、はじめてのトラブル。

若者は金髪、小柄で、眼鏡君。貧相とはいえ、わりと身なりには気をつかっている方……というかんじ。

たばこ吸うのを控えて頂けますか、という発言に対して、タバコをホームの外(路上ですね。当然通行人がいます)に放り投げた上で、いきなり体当たりしてきた。

その後の五、六回、平手で小突かれ、ああだこうだと非難される。

覚えている範囲で……。

☆うるせいな、税金はらってんだよ。もんくあっか。
☆おまえ、リーマンだろ。年収いくらだよ。おれより、税金払ってんなら話きいてやるよ。
☆仕事で疲れてるんだよ。明日金沢に出張なんだよ。ふざけんじゃねえよ。
☆おまえおかしいんじゃないの。おれがもっとヤバい奴だったらどうするわけ。
☆正義漢ぶってんじゃないよ。

駅員が止めに入った後は、たまたまホームに入った電車を蹴飛ばしたり、器物に当たり始める。
さらにその後、ふたたびぼくに張り手。
なんだか、駅員さん、腰砕けだったのだ。
ぼくと眼鏡君の「間」に体を入れようともしない。
それどころか、ぼくが一方的に「やられている」のをみて、「お互いに謝罪して、ことを収めて」などという仲裁をしてくれるくらい。

結局、警察沙汰になることになって、警官が呼ばれたのだけれど(だれが呼んでくれたのだろう)、ぼくはちょいと待てない用事があったので、十分ほど中座してそれをこなして戻ると、「逃げられた」。

駅員いわく、「相手のお客さんは、ついかっとなってしまい申し訳なかった、とくれぐれも伝えてくれるようにとあやまっていた」とのこと。
当然、住所氏名年齢など、わからずじまい。

なんか、張り手され損だったなあ。
あ、結局、警察は一応来ましたよ。
どうしたいか、などと聴かれて、別に実害はないし、捜査してもらうような話ではないから、ただ、そういう事件があったという事実だけをファイルしてもらいたいと伝えた。

というような経緯。

さてさて、これをあえて書いたのって、いくつかの理由があって、なにはともあれ……すごくショックだから。

ことを荒立てずに、お願いするスキルを磨いてきたつもりが、今度ばかりは通用しなかった。なぜだろう。

と後で考えたら、すごく単純な理由に思い当たった。

眼鏡君、携帯で話し中だったのだ。

場合が場合なので、声を掛けたけれど、話し中なら、こっちの言っている「お願いニュアンス」も伝わりにくい。それにくわえて、通話を妨害されて傍若無人に感じられたのだろう。

もちろん、そこから先、暴力に訴えるというのは個人の資質やら、彼がその時に感じていたストレスやら、もろもろのファクターが悪い方向に作用したというふうにしか言えないのだけれど、とにかく、ぼくが「声を掛ける」という基本線は譲らずに、できることといったら、携帯電話が終わるまで待つ、ことくらいだったのかなあ、と思った次第。

なんか、自分のサガが、悲しいような、申し訳ないような(ぼくのことを心配してくれる人に対して)。
対話なきところに未来なし。
もしも、人に殺されることになるなら、最後の言葉は「話せば分かる」でありたいと願っているぼくは、たしかに眼鏡君が言うとおり、「おかしい」のかもしれない。

そうそう、もう一点。
眼鏡君はカジュアルな格好で、ぼくのことをリーマンと言うあたり(ぼくもTシャツにジャケット+ジーンズ)、通常の企業社会での経験に乏しいと思われる。にもかかわらず、十歳以上年上の「リーマン」よりも、高収入を得ているという自負を持っているらしい。
さらに、風体などを勘案して、なんとなく、ある種のIT系だとか、ネットに明るい仕事をしている可能性があるんじゃないかと想像した。別にそうではなくても、ネットを公私にわたって活用するのが当たり前のクラスターである、と。
というわけで、このエントリ、まわりまわって、その眼鏡君の目に触れる可能性がある。

で、もしも、そうなったら、コメントいただけませんか。
ぼくも、あの時、何が起こったのか知りたいです。
別にあなたのこと、「もっとヤバい」奴だなんて、最初から最後まで感じませんでした。
きっと、大雑把にいって「普通」の人なんだろうし、仕事もそこそこやって、私生活も充実しているんでしょう。これは、なんとなくそう思ったレベルだけれど、最初からそう思ってました。さすがに、本当にヤバいと感じるような相手なら、話しかけることすらしなかったと思うし(それくらいの、リスク管理はするのです)。
にもかかわらず、そんなあなたが、キレて、人を小突く、電車を蹴飛ばす、罵詈雑言誹謗中傷を浴びせかけるという行為に出た。
たぶん、ぼくがそういうところに追い込んでしまった。
それって、何だったのか知りたいです。
もしも、駅員が言っていた「かっとなって申し訳なかった」というのが本当なら、ぜひ、対話に応じて下さいな。

以上。

追記
このエントリ、読まれている……。
というわけで、素早く過去のエントリにもリンク。ぼくの喫煙問題についての基本的な立場。
たばこ問題を考え直す(上)
たばこ問題を考え直す(中)
たばこ問題を考え直す(下)

さらに追記。
この事件から三日ほどすぎて、冷静になってみると、このエントリ単体でみると「だから最近の若者は」という、若者叩き言説にそのまま活用されてしまう可能性があると、今更気づいた。
そこで、明記。

書いた本人は、そのような意図はなく、また、この事件の前も後も、とりたてて「若者」が危ないとか、おかしい、とか一般化して考えておりません。
たまたま、この時、出会ったのが「若者」だっただけです。
エントリのタイトルに「切れる若者」という文言を用いたなら、文中でそれに対するフォローも必要だったろうに、そこまで気が回っておりませんでした。

日本のクジラ食文化@朝日新聞

2006-07-24 18:20:54 | トンデモな人やコト
表題のコラム(?)が本日の朝日新聞朝刊にあり。
元WWFJ自然保護室長の佐藤哲教授(長野大)と、鯨類研究所の畑中寛理事長の「論」が対置される
畑中氏の議論は、伝統的な日本の反・反捕鯨的な言説。今も昔も、こういうかんじ。
一方、佐藤氏は、反捕鯨でも、親捕鯨でも、ましてや反「反・反捕鯨」でもない、提案型・ソリューション型(?)の論調がみられて面白い。

佐藤氏の議論の新しいところは、「数が豊富な一部のクジラは資源として持続的に利用できる。国際合意のもとで捕鯨再開を目指すべきだという「出口」は揺るがない」として、捕鯨再開を目指すことに理解をしめしていること。
彼はWWFJにいた頃は、この発言はできたのだろうかと疑問に思いつつ、そのほかの部分では見事にagreeできることが書かれている。

「クジラは日本の食文化という主張にものすごく違和感がある」というのは本当にそうだ。クジラを食べてきて、近代化をへてもなお、地域アイデンティティとクジラが結びついてきたような地域はともかく、都市部で「安価だから」クジラを食べたような「戦後体験」もふくめて文化と言ってしまってはいないか。もちろん、ざっくりと「海の幸を利用する」ことは日本の文化だとしても、そのレベルの文化ならほかにもたくさんあり、クジラだけを特別視する理由はない。

それに、佐藤氏は言っていないけれど、南極海での捕鯨が日本の文化、とはやはりどうしても言えないと思うのだ。「野生生物と人間の関係はダイナミックに変わる」というのはその通りで、現在の文脈でクジラを食べたい人がそれほど多くないなら、わざわざ需要を掘り起こすこともあるまい。

日本政府が代々やってきたことは、売り文句に買い文句的な「対立構造を深める」たぐいの努力であって、ぼくにはそこまでやる理由が分からない。佐藤氏同様、このままでは「地域生活に深くくみ込まれてきた伝統的なクジラ食文化まで守れなくなる」ことを懸念する。

なんて書いたら、ぼくは親捕鯨派、反捕鯨派、どちらに属することになるのだろうか。
いや、佐藤氏のように、一見、反捕鯨とみられがちなバックグラウンドの持ち主が、このように述べることは、ほかの「反捕鯨な人たち」にはどう響くのだろうか。

いずれにしても、「おれはこう思う」と大々的に主張したいわけではなく、目を惹く記事があったので是非ごらんを、ということなのでした。

そうそう、またも猫さんネタですね。


実在論についてのメモ

2006-05-14 20:37:44 | トンデモな人やコト
じつざい‐ろん【実在論】
(realism)
*認識主観から独立な客観的実在を認め、何らかの仕方および程度においてそれは認識され得るとする哲学上の立場。極端な観念論以外のすべての哲学的立場がこれに入る。*観念論。
→素朴実在論。

これ広辞苑による説明なのだけれど、意外にしっくりくる。
社会構成主義って、ぼくの理解ではここでいう「極端な観念論」方面に振れている。特に「理論は人間の創造物」などと述べる時。また、その考えを物理学など、コアなサイエンスにまで適用しようとする時。
かの過激なファイヤアーベントは具体的にはなんていっていたか。読み直してみようかと考え中。

最近、ちまたには、社会構成主義的な言説を述べる人が多い。
つい最近ネットにをぐぐっていても多く見つけたし、リアルライフでも立て続けに出会った。ちなみに、リアルで会った人たちは、「99.9パーセントは仮説」の読者だったり。

当然、実在論は否定してかかられる。

ただ、一見、実在論を否定しているような人でも、実はそうじゃないことがよくある。
もちろん専門領域の哲学者や科学論者はそのあたりきちんと考え抜いている(と期待される)わけだが、最近の「出会った」人々はにわか「科学論」論者とでもいうべき人々たった。

多くの場合、彼らが否定しているのは、実在論の中でもいちばんナイーヴな、「素朴実在論」といわれるものだ。

そぼく‐じつざいろん【素朴実在論】
〔哲〕(naive realism) 外界が意識から独立に存在していると見、意識内容はそれの模写と考える立場。
もしゃ‐せつ【模写説】
〔哲〕(Abbildtheorieドイツ・copy theoryイギリス) 認識は実在の忠実な模写・反映であるとする認識論上の立場。素朴実在論・唯物論などは、この見地に立つ。

ぼくはこの立場には立っていない。
素朴実在論が維持できないと感じていることは、社会構成主義者と同じだ。
しかし、実在論を擁護すると、自動的に素朴実在論を擁護していると思われがちで、居心地がわるい。

「認識は実在の忠実な模写・反映」だなんて今考えている人は、いるにしてもよほど、その方面の思索をしたことがない人だろう。この考えが維持するのがきわめて困難なのは、むしろ、「常識」なのだ。

そこから、先、「極端な観念論」にまで振れるか、それとも、どこかで、我々の認識活動が「実在なるもの」をなんとなく反映しえる回路はあるらしいと認めるか、なのだけれど、それは程度の問題であり、必ずしも「極端」に振れる必要はない、とぼくは信じている。
そして、最初は「極端」に振れていると思われた人が、話をするうちに、「構成」だの「創造」だの、といった言葉を使うわりには、意外にも、現実世界の実在性は認めていたり、どういうやり方でか自然法則というものがざっくりとはあって、それに近いものを我々が手にすることができるらしいと認めていたりすることが多々ある。

結果的に、実在か非実在かのグラーデションの中で、ぼくとそれほど変わらない位置にいると感じることもある。いや、それどころか、自分の方が相対主義者寄りだとすら感じることさえある。

なんなんだろう。この状況。

なんてここまで書いたら、トラバに気付いた。
モジモジ君の日記。みたいな。 - 構成主義と非実在論は別のものです.
この方の論点には、重要な指摘がある。
たしかに、おっしゃる通り、構成主義と非実在論は、きわめて親和性が高いとはいえ、別物だ。
強い構成主義をとる時は、非実在論を採用しないとつじつまが合わなくなるとうだけの話。

ぼくが実在論・非実在論にこだわったのは、単に「非実在論がもれなくついてくる」はずの「強い構成主義」のように聞こえる言説を弄しつつ、非実在論を引き受ける苛烈な決意を表明しえていない議論に違和感を抱いたからだと気付いた。

ファイヤアーベントは、もっと覚悟して、持論を展開したのではないか。

ほんと、知的なファッションとして、非実在や構成を述べることはとても簡単で、一見、格好良く見えるらしいからやっかいだ。

構成論にもいろいろな立場があるものだなあ……

2006-04-24 06:05:54 | トンデモな人やコト
なんかああだとうごするうちに、ちょっと展開がありメモしときます。

リンク: 酔狂人の異説 - トンデモという決め付け(2).
リンク: 酔狂人の異説 - トンデモという決め付け(3).

いずれも、先日の「理科教育と構成論」のからみからの流れ。
(2)の方は、コメント欄もよんでいただけるとよいか、と。
ぼくは、最初は、この方は強い非実在論の支持者だと思っていたわけですよ。
でも、(3)くらいになると、決してそうでもなくて、自然法則の実在性はアプリオリに認めてらっしゃる。
にもかかわらず、「構成」「創造物」という言葉にはとても愛着があるようで、

「重力に関する「逆二乗の法則」もケプラーの法則などをもとに「創造」されたものだと思うが……。科学理論は、それ以前の科学理論などをもとに「創造」されたものである。それは、新しい曲や新しい小説がそれまでに書かれた曲や小説から影響を受けているのと同様、先人の知見を踏まえて、それらを肯定的、あるいは否定的に引き継ぎ、それに新しい何かを加えたものと言えるだろう。
自然法則が創造物であることを否定するのは、自然法則が先人の膨大な努力の結果として成り立っていることを否定することになるだろう」

とおっしゃるわけです。
これはぼくも合意ですよ。
まったく合意。
これは、科学の成果が、実在的であるから、非実在であるか、というのはまったく別問題ですよね。
科学は歴史をひきずってしいる。わざわざ言われるまでもなく、当たり前のことです。
ただ、ぼくは、創造とか、構成とか、いう言葉を使わないというだけです。

つまり、構成物・創造物という言葉が、使われる時、
まず第一に、「実在」と切れていることを主張しているのだ、とぼくは受け取っており、この方は、「歴史性」を述べる言葉だと受け取っている、ということなんでしょう。

たとえは、
「自然法則が創造物であることを否定するのは、自然法則が先人の膨大な努力の結果として成り立っていることを否定することになるだろう」とおっしゃるわけだけれど、
ちなみに、日本語としての「創造」は、

そう‐ぞう【創造】(サウザウ)
*新たに造ること。新しいものを造りはじめること。「?力」*模倣。
*神が宇宙を造ること。「?者」「天地?説」

と広辞苑がのべるとおり、新たに作る、ということに力点がくるので、むしろ、歴史との断絶を言い立てる時に使われがちな言葉だよ、とも指摘できますね。神様ニュアンスも当然あるので、この言葉はいろんな意味で「強い」言葉なんです。

一方で、構成論者がつかう時の「創造」は、実在に根ざしていないという意味がまず先に来るのだとぼくは認識しております。だから、先行理論に根ざしたりするのは充分にアリでしょうが、しかしながら、「創造」という言葉の中に、「先人の到達したものに何かを付け加えたりさっぴいたりしたもの」という含意は特にないんじゃないでしょうか。上記の通り、むしろ正反対の含意を持つことの方が多いのではないか、と。

とにかく分かったのは、この方は「理論の実在論者」です。「対象(原子とか電子とか)の実在論者」かどうは分からないけれど。

でも、とすると、ぼくが書いた最初のエントリに対するコメントが不可解にもなってくるんですよね。
「キーワードから探るこれからの理科教育」で紹介されている科学観(「 理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ」.を参照)は、「科学理論や法則、体系というものは、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としない」というものなんです。
つまり、科学法則すら、自然界に実在することを前提としない立場。
もちろん実在しないけれど、法則は成り立つのだという考えはアリなのだけれど、その立場って、はたして科学哲学的にどうよ、というとまた複雑な問題になっていきます。

まあ、少なくとも、この問題については、すごく理解の幅があって、同じ言葉を使っていてもまったく理解が違い、かなり合意できるはずのことも、鋭く対立しているように見えたり、逆に同じことを言っているようでまったく違ったり、ということが簡単に起きそうだ、というのがよく分かりました。

このあたりゆるりと頭の中で整理することといたしましょう。
お付き合いいただいた酔狂人さん、どうもありがとうございました。



理科教育と非実在論・相対主義についての「続き」

2006-04-18 07:40:55 | トンデモな人やコト
先日、こういうエントリを書いて、

理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ.

こういう反応をもらった。

リンク: 酔狂人の異説 - トンデモという決め付け.

それで考えたことをコメント。

件の本「キーワードで探るこれからの理科教育」で感じたのは、議論の素朴さなのだけれど、それを簡単にいうとこんなふう。

まず、「実在と非実在」をめぐる世の議論として、こういうふうな流れがあったとします。

(1)仮説を立てて実験したりしているうちに、分子や原子や電子というものがあれば、いろいろなことが説明できることが分かりました。それで、分子や原子や電子といったものも、実在だと思うようになりました(素朴実在論)。
     ↓
(2)でも、まてよ、本当に実在するのだろうか。目に見えないんだし、原子や電子なんて、理論上の「構成物」なんじゃないだろうか(素朴非実在論)
     ↓
(3)とはいっても、それをいったら目に見えるものだって実在しているのか分からないわけで、まずいんじゃないの。我々の日常生活だって危うくなるし、なにもかもが「構成」なら科学がこうも「成功」していることも説明しにくい。やっぱり、実在と言っていいんじゃないのかな(→実在論の深い森へ)
     ↓
(4)とはいっても、やっぱり実在論は維持できないよ。もろもろ深く考察した上でも、やはり「構成である」と言えるんじゃないか。また、科学が「成功」しているように見えることを、非実在論的に説明してみよう。(→非実在論の深い森へ)

で、(1)のところにいた人が、たまたま(2)に触れて(あるいは(4)にふれて、表面的な理解をして)、下の(2)'に飛びかけている、というような印象。

(2)' しょせん科学なんて人間の構成物なんです。相対的なもんなので、ほかの諸文化領域とかわりありません(素朴で極端な非実在論)。

理科教育の基礎論なら、上のように(1)から(4)の議論を紹介するのは有益かもしれない。科学相対主義と同様に科学至上主義もまた困ったことであるがゆえ。
けれど、この本では、そうはなっていならず、ある一部だけをとりあげており、著しくミスリーディングであるということです。

ゲーム脳の話題から逃れられないのか

2006-04-16 15:03:29 | トンデモな人やコト
子どものスイミングスクールに行って、待ち時間に子どもたちの会話が耳に飛び込んでくる。

DSをいじりながら、
「やばっ、ゲーム脳になっちった」
「よし、ゲーム脳覚悟でやるぜぃ」
なんとかかんとか。

言っている子は小学校の高学年。
まいったね。
思わず、聞いてしまう。
ゲーム脳って何か知ってるの?

最近の子どもは、知らない人が話しかけてきたら自動的に用心するように教育されているので、コミュニケーションがなかなか大変。
でも、なんとか語り合い、「ゲームが終わっても音楽が頭の中でなりやまないのがゲーム脳」ということを聞き出す。
なるほど、それはリアリティがある。

たしかに、ゲームを長時間した後で音楽が耳についてなりやまなくなる現象ってぼくは経験したことある。
あれを毎日やってると、体に、心に、悪いんじゃないかと言われると、なんかそんな気もしてくる。
この子たちは、聞きかじったゲーム脳という言葉を、そうやって実体験に引き寄せて理解しているわけだ。

近くにその子たちのお母さんらがいたので、少し話す。
わざわざ三鷹から来ている人で、世田谷区ではないのに驚く。
お母さんの認識としては、学校に行って、誰からか分からないけれど、ゲーム脳について聞いてきたらしい、ということ。
たぶん先生ではなく、仲間内なのかもしれないけれど。

それにしても、ゲーム脳、再流行中なんだろうなあ。
じゃないと、町で急に耳にしたりしないだろっ、と。

理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ

2006-04-14 21:03:08 | トンデモな人やコト
物理学会でのシンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」の最初の演者、田崎晴明氏の講演pdfを読む。たぶんkeynoteで作られたプレゼンファイルをpdf化したもの。

リンク:
Symposium at JPS meeting Sprin 06田崎晴明pdf
.

その中で、衝撃的だったのは、「キーワードから探るこれからの理科教育」(日本理科教育学会)からの引用。極端な相対主義が理科教育の現場に入り込みつつあるひとつの例としてあげられているのだが、それにしても目を疑った。
引用です。

「物質が客観的事実として原子や分子という実在から成り立っている」ということを直接的に述べているのではなくて、「原子や分子という理論的構成物の存在を仮定して物質という世界の成り立ちを考えてみる」という一つの世界理解の仕方であるということを示している。……ここで重要な観点は理科でも取り扱われるさまざまな科学概念、科学理論や法則、体系というものは、そういう意味で、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としないという点にある。(p. 2-3 第0章理科教育を考える基本、1.現代の科学観)

たとえば、冷水の入ったガラスビンの周りに結露する水滴の由来についても多様な考えが存在していることが知られている。あの水滴はビンの中からしみ出してきたといったものである。このような考えはビンの外側の水面の高さまでしか水滴が現れないことや、ビンを傾けると新たに水滴が現れることなどの観察事実を根拠にしている。もし、事実を根拠に論理的に推論することのみを科学的であるとするならこのような考えも理論的なものであるとしなければならない。我々の考え、すなわち結露したものとしてみる水滴は、「水蒸気」という科学概念や結露という科学理論に依存したものである。五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質として認識されたものではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念と見るべきであり……(p. 94-95、第2章新しい理科の学習内容の構成、15.科学概念)

あまりにびっくりだったので、この本を取り寄せた。
1998年の初刷りで、その後版を重ねていることを知りさらにびっくり。当該箇所やその周辺を読んでみたが、田崎氏の引用は、論旨に忠実であり、まさにその通りの議論が展開している。

なにがびっくりかって、一応コメントしておくと……

あまりに議論がナイーヴなのだ。

たとえば前者の引用の章は、『「現代の科学観」とは、「科学に関する科学」、具体的には科学史、科学哲学、科学社会学、科学心理学、科学人類学といった研究領域の成果によって描かれるようになった「科学というものの新しい姿」のことを指すと考えてよい』という一文で始まる。
あたかも、科学史家や科学哲学者が、こぞって科学についての相対主義、構成主義に傾いているというような書き方だが、そんなことってかつてあったのだろうか。
そもそも、この問題は、実在論か非実在論かといったかたちで、科学が始まる前からずっと議論されていることであって、きょうにいたるまで誰もが納得するような合意には到っていないわけで、なぜここで「現代の科学観」とは、このようなものであると、言い切らなければならないのか意味不明だ。「現代の科学観のひとつの考え方」として、紹介するならともかく。
かと思うと、文中には、『科学に対する見方である「科学観」は見る人によって異なり、それゆえ、「現代の科学観」もそのような「科学観」の一つであることを忘れてはならない」としてあって、頭がいたくなる。じゃあ、特にわざわざこの考え方を代表的な考えであるかような書き方をしなくたっていいじゃないか。
ある特定の方面の科学史・科学哲学の「成果」を変に活用して、珍妙な議論になっている、と感じられてならない。


さらに後者だけれど、この章は観察の理論負荷性や、推論の「知識誘導性」について述べている。
理論負荷性の議論は、クーンがまだ尖っていた頃の、のちには自身でトーンを弱めた考えを古いまま使っているようだ。
理論負荷性やら、知識による推論の誘導というのは、たしかにある局面では「存在する」とぼくは思う。
にもかかわらず、この実例は例としてもあまりに素朴。ここに示されている例では、簡単に矛盾が生じて、現在信じられている説の対抗馬にはなりえない。ひょっとすると、後付の仮説を追加して乗り切ることだってできるというのかもしれないが、どうせ選ぶならもっといい例を選んだほうがよいんじゃないか。
それに、水蒸気の存在を「構成」だとするのは、哲学的立場としてはあり得るけれど、その立場に立つと、どれほど多くのことを「構成」であると断言しなきゃならないか。あんまり自覚があるように思えない。
同じ章の結び近くで「五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質と認識されているのではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念であると見るべきであり、これらの現象を科学的に見たり考えたりするための道具として機能している」というくだりがある。
ところが、物質には五感で知覚できないものがたくさんある(だいたい気相にあるすべての物質はそうだろう。例えば大気なら「風」としては認識できるが、大気中の酸素や窒素は物質として認識できるだろうか)。また、手で触れたり、目で見えたからといって、それが実在するという考えは、水蒸気を「構成」とするような非実在論の立場からは(つまり著者の立場から)維持できないのではないか。
あまり深く考えずに、構成主義的な科学論の知見を無批判に使っているように感じられる。

8年前の本だ。
いったいその頃、何が起こっていたんだろう。まったくもって不思議だ。
バランスが悪いし、目配りも悪い。

その後、この流れはどう展開していったのだろうか。気になる。



「脳内汚染」が大宅賞の候補になっていた

2006-04-11 16:06:18 | トンデモな人やコト
リンク: 文藝春秋|各賞紹介|大宅賞.

本日、選考会だそうです。
選考委員は、猪瀬直樹・関川夏央・立花隆・西木正明・藤原作弥・柳田邦男の各氏。
ちなみに柳田氏は、「脳内汚染」を読んで、「学校からパソコンを追放せよ」と主張しており、強力プッシュするのだろうなあ、とげんなり。



サンデー毎日若狭記者による「ゲーム脳批判」まとめ

2006-04-08 09:31:50 | トンデモな人やコト
リンク: ゲーム脳:高次脳機能障害3年半 早期教育検証を-ゲーム:MSN毎日インタラクティブ.

サンデー毎日の記者で、ゲーム脳理論を批判する記事を書いた若狭猛氏が、今の脳科学と、「とんでも」脳科学をめぐる論考(とエッセイの中間、みたいなもの)を発表しています。
ちなみに、若狭記者、講演の「現場」にいたのですね。
あの場所はやはり、講師の高説を聞きに来た人たちがほとんどだったのだろうけれど、こうやって、違う方面からの視線が飛び交っていたのかと思うと、興味深いです。
若狭記者は、彼なりに、ぼくとはちがう意味での「当事者」なのですね。その当時者性をもって書かれた原稿です。



世田谷ゲーム講演について、ブログ内のリンクをまとめます

2006-04-04 14:30:39 | トンデモな人やコト
ようやく一段落したので、「後から来た人」のためにまとめておきます。
ぼく自身もこのURLをひとつ示せばよくなるので、便利だし。
最初は、学校の保護者会で、担任の先生がゲーム脳について注意を喚起したところからはじまり、ぼくが「火の粉を払う」(払いきれなかったけれど)ためにした諸々のこと。
もっと詳しく読まれる方は、カテゴリをたどってくださいませ。
それでは、以下、まとめ。
リヴァイアさん、日々のわざ: とうとうゲーム脳が来た!.

まず、学校の保護者会で、古い「ゲーム脳は怖い」という新聞記事が配られました。びっくり。ほんと、「ゲーム脳」については、そのトンデモ具合の認識はしていたけれど、まさか自分と関係することがあろうとは……。


「ゲーム脳」について先生に手紙を出す.

これについて、担任の先生に手紙を書いたけれど、返事はなし。この時点では、まだ、先生がたまたまゲーム脳を知って、危機感を持ち、保護者会で紹介した、のだと思っておりました。


うわっ、ゲーム脳の講演会!(2006.2.8追記).

そうこうするうちに、なんと学校から「ゲーム脳講演」のちらし。びっくり。これはヤバいです。川口市で、学校教育の現場に「ゲーム脳」理論が取り入れられたニュースを聞いたりしていたため、まさか世田谷でもという危機感をつのらせました。区のウェブサイト経由で、「中止」を求める要望を出しまた。


世田谷区からゲーム脳講演について回答が届く.

この間、世田谷区役所に行って、主催の健康づくり課や、教育委員会の事務局と意見交換。区としてもずいぶんあわてており、各所で会議を持ち、認識を深めてくれた模様。でも、中止は困難との認識。


サンデー毎日のゲーム脳記事について.

そんなおり、サンデー毎日にて、「学会がブーイング」という記事。ぼくもコメントを述べております。


ゲーム脳についてもう一度世田谷区に意見を出した.

もう一度、「中止」の要望を出しておきました。
もちろん、ここまで来れば無理であろうと承知の上、主張は主張なわけです。
主催者から、ぜひ講演に出席して、意見を述べて欲しいと言われ、なんだかなあと思いつつも、乗りかかった船だし、身に降りかかる火の粉だし、行くのだろうなあ、と覚悟した頃ですね。


「ゲーム脳講演」について、世田谷区からの再回答.

そして、再回答。中止はできないものの、かなり考えてくれてます。
もっとも、森氏に申し入れた45分という時間は、のちに森氏に見事に無視されちゃうわけですが。


森昭雄氏の世田谷区講演リポート.
「あなたの方がおかしい」と森昭雄氏に言われるの巻(世田谷区のゲーム脳講演リポートその2).
「わたしも検索をしていただきたい」と主催者は言った(世田谷区のゲーム脳講演リポート3).

そして、いよいよ、「当日三部作」。はあっ。今思い出しても疲れちまいますな。


ゲーム脳講演をめぐって、区との意見交換・要望をしてきた.

そして、終わった後の区との意見交換。


ほかの自治体でのゲーム脳講演で困っている方。ご連絡くだされば「意見」くらい出しますよ。という宣言.

もう世田谷区では、同じことは起こらないでほしいと切に願うばかり。
ほかの自治体で似たことが起きそうであれば、意見くらいは出します。野尻ボード経由の方々や、このブログを見てくださった区外の方々にとてもお世話になりましたし、ね。

もっとも、世田谷区はもう大丈夫なのか……というのはやはり心配。
一連のエントリの中に、「中学時代に校長先生が森氏を招き、生徒たちに講演を聞かされた」という現世田谷区の高校生のかき込みがあって、教育の現場にも「ファン」がいるのだろうなあと思われるがゆえ……。

ゲーム脳講演をめぐって、区との意見交換・要望をしてきた

2006-03-29 18:57:46 | トンデモな人やコト
 この前の月曜日@世田谷区役所。
 出席者は、小池健康づくり課長、平井教育委員会事務局・スポーツ生涯学習課長、そして、今回の件で実働した保健師さん二人。

 まず最初に、区による総括。
 まだ表には出ていないアンケートなどの集計結果を見せてもらう。いちいち数字などメモらなかったけれど、こういうものの常で、講師に好意的な意見がほとんどだった。「非常によかった」「よかった」が大多数を占める。
 また、「非常に納得できる話だった」「子供にゲームをさせる危険性がよくわかった」というような評価が多数よせられていた。その一方で、「業者や反対の人がいたのが残念」という意見も17件あって、かなり上のほうだった。なぜ、これだけ数字を覚えているかというと、ぼくも「業者」に見えたんだろうなあ、とちょっと凹む気分があったから。
 
 講演後の電話による反響は一件のみ。森氏を批判する内容だったとのこと。ちなみに、普通、講演の後に、「すばらしかった」という電話がかかってくることは、ほとんどない、そうだ。
 
 というような、区からの「結果」の説明を受けて、あとは茶飲み話的に雑談やら要望やら。
 森氏が講演の冒頭で引用した、日本青少年研究所(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/)の「高校生の友人関係と生活意識??日本・アメリカ・中国・韓国の4カ国比較」のプリントアウトを持っていって、「データのつまみ食い」についてあらためて伝えた。森氏は、日本の高校生が「リーダーシップを取りたがらない」などの結果を、ゲームと関連づけたのだけれど、この調査では日本の高校生は韓国やアメリカの高校生と比べてもゲームに関心を持っていない。非・専門家でも分かる明らかな「つまみ食い」なので、指摘しておく。ちゃんと理解してもらえたと思う。
 同じ調査の中で、日本の高校生の親が、子供に対して放任であったり、無関心であったり、とにかくコミットメントが低いことが明らかになっていて、そのことも話題になる。この調査単体でみると、ゲームやインターネットよりも、むしろ親と子の関わり方の独特の形が気になる、とかなんとか。子供が感じている親からの期待のプレッシャーとか、大人として扱ってもらえているという実感とか、いろんな「かかわり」が、のきなみ際だって低いのだ。にもかかわらず、「親とよく話す」は他国とそれほどかわらない、というきわめて不思議な数字が面白い。
 
 講演中で森氏が言及した久保田競氏の「ゲーム絶賛発言」の出典について、もしも分かれば教えてもらえることになった。ビデオ収録はしてあるものの、画面の大写しではないので、難しいかも、とのこと。
 
 日本の子供が切れやすくなり、笑わなくなっているのか、ということについて意見交換。
 
 教育委員会事務局であり、生涯学習スポーツ課の平井課長によれば、彼が知る限り特にそういうことはない、とのこと。もちろん、それぞれの教育現場でなにがしかの問題が発生している可能性は常にあるが、それが世田谷区教育委員会にまであがってきて、全区的な問題として取り上げられていることはない、そうだ。
 意を強くする。
 また、健康づくり課の保健師さんの意見も聞く。
 子供が切れるとか、そういう問題よりも、むしろ、母親が子育てに行き詰まることの方が問題なのではないか、とのこと。
 子育てに自信を持てない、あるいは、変に追い込まれてしまう人たちが多いのだという。
 もっとも、三十代前半よりも年下の母親はすべて「ファミコン世代」以降なので、ゲーム脳理論の守備範囲だと指摘すると、爆笑。
 けれど、保健師さんは、キャリアを持った母親でかなり高年齢で出産し、「ファミコン前」の人も同じように追い込まれている印象がある、いう。
 
 最後に、二つほど、要望込みの情報提供をしておく。
 もしも、ゲームと発達についての講演を開くことが、今後あるならば、人選は慎重にお願いしたし。ぼくが、この件でいろいろ調べた範囲で、一番フェアだと感じた、坂元章氏の「テレビゲームと子どもの心??子どもたちは凶暴化していくのか?」を紹介しておく。小池課長は、森氏の講演も、本来ならシンポジウム形式の方がよかったとの認識を示す。
 
 さらに、「擬似科学に騙されないために」というテーマで、区の職員研修など企画してみてはなどと言っておく。大阪大の菊池さんは、お話しもとても面白いそうです、などと。菊池さんは迷惑かもしれないけれせど。
 
 というふうなかんじ。
 
 自分の持ち場で、やるべきことはやって、最後は疲れちまって、竜頭蛇尾ではあるけれど、まあ、こんなとこかな、と。


ゲーム脳講演についての総括、マイナス1

2006-03-26 21:33:58 | トンデモな人やコト
 さて、明日、ゲーム脳講演についての総括、および意見交換のために、世田谷区に行ってくるので、ちょっとばかりメモ。
 まず、今も気になっていること。
 森氏の講演の中で引用された日本青少年研究所(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/)の「高校生の友人関係と生活意識??日本・アメリカ・中国・韓国の4カ国比較」、実は、森氏が見せた部分は都合のよい部分だけで、かなり、「ゲーム脳理論」とは逆の部分もあると認識しているのか。トリビアルなことではあるけれど、分かりやすい部分ではあって、「自説に都合のよい数字のつまみ食い」を指摘しておこう、と。
 
 と同時に、今も出典が分からない、久保田競氏の「ゲーム礼賛発言」(ゲームは脳に悪いことはありえず、むしろ良いと断言する内容)も、出典が確認できれば、と。
 
 こういったことは、たまたま関わってしまったがゆえに、正確に知っておきたいと思っている部分。
 
 さらに、聞いてみたくなったことが一点。
 
 森氏は講演で、日本の子供が笑わなくなり、切れやすくなっている、と断言した。日本の子供が壊れていく、と。
 ぼくはこのことが、まったくピンとこないのだ。
 
 もちろん、ぼく自身、子供にテレビゲームをさせることに不安を抱いていないわけじゃない。何度も書いているけれど、目下のところ、うちにはテレビゲームも携帯ゲームもない。それはやはり、子供がゲームにはまるのを警戒しているからだ。
 自分自身のそれほど豊富ではないゲーム体験から、たとえば、RPGを何時間か続けてやった後で、頭の中で音楽がずっと鳴り続く、などという身体的・精神的反応が起きたことがあって、こういったことを子供の頃から体験させるのはいかがなものか、という気がしている。
 発達への影響があっても不思議ではないし(なくても不思議ではない)、今のところはまだやめておこうかな、と。
 
 とはいっても、森氏がいうような「子供が壊れていく」ような危機感はまったく抱いていない。
 ぼくは学童保育の保護者会の役員をしてきたし、PTAの活動もわりと顔を出す。学期ごとにある学校公開週間では息子のクラスの授業を見に行く。
 けれど、みんなよく笑い、元気で、楽しそうだ。「キレる」という現象が具体的に何をさすのか分からないが、少なくとも「キレた」と感じるような場面に遭遇したことがない。
 これは身の回りのほかの保護者に聞いても同様。
 本当に、日本の子供は、笑わなくなり、切れやすくなり、壊れつつあるのか。
 すごく疑問なのである。
 
 このあたり、教育委員会や、健康づくり課ではどう把握しているのだろう。
 教育委員会には、「子供がキレる」というような報告がたくさんあがってきており、危機感をつのらせているのだろうか。一年か二年前に、「学校内暴力の低年齢化」が問題になったことがあったと記憶しているけれど、あれは世田谷区でも、今も現在進行形の問題、なのだろうか。
 こういったことをまったく実感として把握していないぼくは、たまたま恵まれているだけなのだろうか。
 
 あとは、もしも、「ゲームに対する不安」をすくいあげた区が、本来選ぶべきだった講演者がいるとして、それは誰か、ということかな。
 森氏ではなかったとしたら、誰ならフェアだったのか。
 あるいは今後、もっとバランス感覚のある講演者による、リターンマッチはありえるのか、意見交換、および要望をしてみようかな。