黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「友愛」vs「ネオ・ナショナリズム」?

2009-05-18 19:03:10 | 近況
 民主党の党首選挙が終わり、新執行部の陣容が発表されたが、マスコミ・ジャーナリズムの論調は「党内世論と世論とのズレ」ということで、あたかも民主党が「世論」を考慮しない政党であるかの如く言い募っているのを知り、相変わらずだなと思うと同時に、もし「世論」というのであれば、「中立」を装ってその「世論」を形成するのに大いに貢献(?)している我が身の姿勢を顧みるべきではないのか、と思わざるを得なかった。
 というのも、先にこの欄に書いたが、ソマリア沖の「海賊退治」のためにP3C哨戒機2機を派遣したことに極まった感のある、小泉政権以来「戦争への道」をひた走る保守党政権に対して、マスコミ・ジャーナリズムは何故きちんと「憲法違反」と言って批判しないのか、あるいは大事な公務をほったらかしにして「不倫旅行」を行った政府幹部に対して「任命責任」をきちんと認めない麻生首相に対して、なぜ「糾弾」しないのか、と思ったからである。別な言い方をすれば、西松建設から多額の政治資金を得ていた小沢元民主党党首に批判的な「世論」を形成しながら(そして、党首選びで「世論」とズレがあると言い募る)、そんなことより大事な「憲法違反」であるP3C哨戒機2機の「ソマリア沖海賊退治」への派遣問題を等閑にして、恬として恥じないマスコミ・ジャーナリズムの在り方、このことをきちんと見ていなければいけない、と改めて思った。
 その上で、今僕らに突き付けられているのは、麻生首相のように「首相の座」に固執しながら、「外交の麻生」を振りかざして着々と「ネオ・ナショナリズム」的な政策を数を頼りに行使する政権を選ぶのか、それともいかにもお坊ちゃん育ちだな思えるような「友愛」をスローガンにする鳩山民主党を選ぶのか、という問題なのではないか、ということである。どちらを選んでも大差ない、という考え方も確かにあるし、僕の内部でそのような考え方を承認して、「しらばっくれて」当面やり過ごす方が賢明なのではないか、というような「誘惑」があることも、この際だから明言しておくが、そのような考えがニヒリズムに結びつくものである以上、それを拒むために自己点検を欠かしていけないのではないか、とも思っている。
 それはともかく、現代の政治情勢が「友愛」VS「ネオ・ナショナリズム」の構図になっていること、つまり年金や福祉、教育などの生活問題も重要だが、最も肝心(本質的)なことは、「戦争」を準備する「ネオ・ナショナリズム」なのか、それとも「戦争」を拒否する「友愛」なのか、という構図になっていることを、努々忘れてはならないのではないか、と思う。
 今、頼まれて福島泰樹の著「悲しみのエナジー」(四月二〇日 三一書房刊)を書評するために読み終わったところだが、その中の一節には、若くして特攻隊で亡くなった人の遺書や詩、短歌などについて書かれているが、彼ら(とその家族)が抱いた「無念」の思いを二度と僕らは経験してはいけない、と思った。ソマリア沖に派遣された自衛隊員に死者が出てからでは遅いのではないか、いつでも犠牲になるのは「庶民」であること、このことを忘れてはいけない、とこの書を読んでいて痛切に思った。