黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「白い紙」を読む

2009-05-13 09:42:46 | 文学
 発表される(「文学界」6月号 5月7日発売)前から話題になっていたイラン人女性シリン・ネザマフィ(29歳)の、文学界新人賞受賞作品「白い紙」を読む。「村上龍論」の再校を校正しながら、時間を見つけて読んだのだが、結論的に感想を先に言っておけば、日本語の表現に多少こなれない部分があると感じつつも、「純愛」を前面に出しながら、村上春樹のエルサレム賞受賞演説に引っかけて言えば、「壁=強権・戦争・宗教(イスラム教)・貧富の差を放置している社会、等」とそれに対する「卵=一個の人間」の関係を、(もしかしたら作者は無意識だったかも知れないが、状況が強いた結果)見事に描いた佳品、と読むことができた。
 文学(小説や詩、等)を文学内部の表現や人間模様に自閉させるのではなく、社会との関係で考えるべきである、と思っている僕としては、昨今の、特に芥川賞を受賞した女性作家たちの作品から感受される「社会」が捨象された「芸術主義」および「内面主義」(言葉足らずだが、とりあえず内部を重視する作品傾向について、このような言い方をしておく)、さらに言えば、そのような自分の作品傾向に自足しているように見えるその在り方にずっと不満を持っていたが、この「白い紙」の場合、この国の女性作家(だけでなく、現代文学全般と言っていいかも知れない)の在り方に対して、自然な形で「否」を突き付けるものになっているのではないか、と思った。
 こんな書き方をすると、過大評価だというような批判を受けるかも知れない。あるいはまた、昨年の北京オリンピックに併せるようにして在日中国人(元留学生)の楊逸が芥川賞を受賞したように、今度も「厳格なイスラム原理主義」や、「核開発」、「ミサイル発射実験」などで何かと世界(日本)の耳目を集めているイランから来日した人の小説ということで、「文学界」編集部(文藝春秋)が「あざとさ」を承知で新人賞に選んだのではないか(もちろん、吉田修一や角田光代たち5人の選考委員による「厳正」な審査を経て、今度の新人賞は決定した、ということになっているが、新人賞(文学賞)の場合、別な思惑が働いて受賞作が決まるというのは、よく聞かれる話である)、ということもあるが、仮にもし僕が選考委員だったとしたら、(残念ながら他の候補作を読んでいないので、本当は何も言えないのだが)文句なしに「白い紙」を受賞作に推したのではないか、と思う。
 日本語の問題はあっても、それほどによくできた作品ということだが、今回は速読しての感想であり、時間もないので簡単にしか書けないが、いずれきちんとした批評を展開したいと思っている。
 最近の小説に物足りなさを感じている人、騙されたと思って一読してみてください(そして、もしよければ、コメントを寄せてください)