黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「白い紙」の感想再び、及び……

2009-05-20 08:42:15 | 文学
 一昨日から昨日にかけて、書評を依頼された「悲しみのエナジー」(福島泰樹著 三一書房刊)を読みながら、先に簡単な感想を書いたイラン人女性シリン・ネザマフィの文学界新人賞受賞作品「白い紙」のことを、しきりに思い出していた。「絶叫歌人」として知られる福島氏の本は、原口統三、長澤延子、岸上大作、特攻隊員、寺山修司といった「夭折」した表現者(寺山を夭折者というのには少々抵抗があるが、大学へ入って直ぐにネフローゼに罹り、結局はそれが原因でなくなったことを考えると、寺山を夭折者の一人に数えるという考え方も承認できる)の作品と履歴に寄り添いながら、自らの作品(短歌)を配したものであるが、原口や長澤、岸上、寺山といった詩人や歌人(最近またブームになっている寺山は別にして、二〇歳前後で自死した原口や長澤たちのことをどれだけの人が知っているだろうか)、あるいは辞世の句や遺書を残して逝った特攻隊員たちの「作品」を読むと、現代文学には何か欠けているのではないか、と思わざるを得なかった。
 そこで、書評を書きながら想起したのが「白い紙」であった。先にも書いたように、イラン・イラク戦争を背景にした「純愛小説」、若い男女の仲を裂いたのは、イラン・イラク戦争であり、イスラムの戒律だったのだが、僕がこの小説を高く評価するのは、「純愛=恋愛」という個人的な事柄を描きながら、「戦争」や「宗教」の問題と人間との関係をきちんと描き出していたからである。ここで描かれている「恋愛」(内容)は、既に指摘したように伊藤左千夫の「野菊の墓」(明治三九年)のようなもので、その意味では大変古いものである。しかし、その古い「純愛」が俄に今日性を帯びてくるのも、その「純愛」がまさに今世界で問題になっている「戦争と人間」「宗教と人間」の関係を抜き差しならない背景として描かれているからに他ならない。
 このような「白い紙」の読み方は、たぶん現代文学の世界で中核を形成している芸術至上主義者たちには、お気に召さないのではないかと思うが、大袈裟な言い方をすれば、「白い紙」評価は文学観の違いを決定付ける試金石になるのではないか。そんな気もする。
 その意味で、シリン・ネザマフィの自作が待たれるが、先に挙げた福島氏の著作を読むと、この国の文学史をひもとけば、例え志し半ばに倒れたとは言え、確実にこの「社会」や「世界」と切り結ぶ文学を目指した文学者が存在したこと、このことを僕らは忘れるわけにはいかないのではないか、と思う。