黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

自戒を込めて、恣意的な批評・批判

2009-05-23 16:06:28 | 文学
 中国人留学生の院生に教えられて、今月末(29日発売とのこと)に刊行される村上春樹の新刊『IQ84』(何を意味しているのか、数字好きな村上春樹のことだから、いずれ何かの意味を付与しているのだろう)について、東大で中国文学(比較文学)を講じている藤井省三が、この村上春樹の新作は魯迅の大きな影響を受けた作品になっている(はず)と、大胆な予想をしているという「ニュース」を中国のネットでみた。
 このことは、『ノルウェイの森』が140万部も売れた中国だからなのか、あるいはもはや村上春樹文学は「世界の文学」として世界中から注目されており、その結果として「新作」の刊行があれこれの予測を交えて待たれているということを意味しているのだろう。既に3年前にノーベル賞候補としてノミネートされ、以後毎年「今年こそは」というマスコミ・ジャーナリズムの期待を担ってきた末の「新作」、僕のところにもNHKの異なる二つの部署から「新作」の刊行がらみで取材があったから、ノーベル賞を受賞するか否かは「新作」の内容如何だと僕は思っているのだが、もしかしたら大江健三郎に次ぐ日本人で3人目のノーベル文学書受賞者が今年出るかも知れない、という気もしている。
 それはそれとして、藤井省三の「予測」、ネタ元はどこなのか知らないが(もし、版元の新潮社がリークしたのであれば、新潮社全体が問題となった「週刊新潮」的体質になってしまったのか、と思わざるを得ないが、まさかそんなことはないだろう。それとも村上春樹と「親しい」と公言している藤井氏は、村上春樹から直接新作の内容を聞いたのだろうか?)、この中国文学者は自身で気付かずによく「フライイング」をする人で、およそ学者とは思えない面もあるのだが、その点では今度の「村上春樹の新作は魯迅の強い影響を受けている」という「予測」もフライイングとして処理すればいいのかも知れない――藤井氏の「フライイング」というか「誤読」・「思い込み」の例を挙げれば、例えば彼はその著『村上春樹のなかの中国』(朝日選書)で、処女作「風の歌を聴け」は魯迅の影響を受けているとか、『ノルウエイの森』の翻訳は大陸の林少華が行ったものより台湾の頼女史の方がいいとか(外国文学者なのに「翻訳」は翻訳者の個性<文学観>に左右されるという翻訳のイロハも知らないかの如く言い募っていたが、この本と文科省がらみの研究資金を得て「アジアの中の村上春樹」などというシンポジウムを何回か開いたせいなのか、今や村上春樹の専門家のような顔をしている)言っていたが、それは単なる藤井氏の「思い込み=恣意的な読み」に過ぎない、と僕は思っている。藤井氏の村上春樹論へのやや詳しい批判は、拙著『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ』に書いておいた――。
 しかし、どこをどう探ればそのような結論(村上春樹は魯迅の強い影響を受けている)が出るのか分からないが、東京大学教授・中国文学者(彼のことを「日本の魯迅」、など煽てる留学生や研究者たちがいるのを知って驚いたことがある)との肩書きで、「恣意的」な批評、つまり「誤読」を振りまくのは止めて貰いたい、と切に思う。
 もちろん、「恣意的な批評」ということでは、自戒を込めていっているつもりである。「批評」というのは前にも書いたが小林秀雄に倣えば「対象を借りておのれを語ること」だから、「恣意的」というのは批評が持つ職名的な性質であるとも言える。しかし、藤井氏の場合、その批評(研究というかも知れない)は「恣意的」の根拠が「誤読」や「誤った考え」(例えば翻訳に関して)に基づくとしたら、それは明らかに「恣意的」の枠をはみ出し、様々な問題を生起させることになるのではないか、と思った。
 それにしても、村上春樹の「新作」が待たれる。刊行されたら直ちに北海道新聞にその感想(批評)を書くことになっているので、余計待たれるのだが、どのような内容なのか、90年代半ばに決定付けられた「転換」(デタッチメントからコミットメントへの)を更に決定付けるものであったらいいのだが、『海辺のカフカ』のように「迷走」の印象を与えるものになっていないことを祈るばかりである。