黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「壊体」しつつあるものは?

2008-05-20 09:06:30 | 文学
 遅ればせながら、吉田修一の「悪人」を読み終わった。余りに評判がよかったので、天の邪鬼(へそ曲がり)の僕としては、購入したものの読まずに積んでおいたのであるが、読み終わって何故この朝日新聞連載の長編が高い評価を受けたのかがわかった。結論を先に言えば、現代社会に顕著な「理由なき=理不尽な殺人」について、何故そのようなことが起こるのか、著者なりに現代人たちの心理にまで分け入って、分析(説明)しているが故に、読者から歓迎されたのだと思う。殺人者を「捨て子」という形で特殊化し、被害者を「出会い系サイトにはまったモテない女」に設定し、「通俗=風俗」に秋波を送っている点など、少々気になる部分もないわけではないが、現代を象徴する「理由なき殺人」に現れた「関係の崩壊(壊体)」を見事に描き出している点で、ずいぶんと感心させられた。その意味では、まさに「悪人」は現代小説の王道を行くものだと思う。
 だからというわけではないが、僕らの身のまわりを見回すと、余りにも「悪人」の予備軍が多いことに気付く。一般的には「切れやすい人が増えた」という言い方をするのかも知れないが、何故「切れやすい人」が増えたのかを考えると、この世の中が「格差社会」になり、自分を「負け組」だと思う人たちが抱える「不安」や「不満」が相当深刻な状態になっており、現在は一触即発状態になっている、と思われるからに他ならない。もちろん、昔も今と変わらず「貧乏人」(僕の家などその典型)は、たくさんいた。しかし、今と昔が決定的に違うのは、何らかの形で社会に「互助精神=助け合い精神」が充溢していて、人々の関係(家族の絆ももちろん)が今よりはずっと「密」であったから、人々はそう簡単に「理由なき殺人」など犯すことができなかった、ということがある。
 特に「共同体」(隣近所・友人・先輩後輩・師弟関係も含まれる)がそれなりに機能していた時代と、その共同体が跡形もなく消滅してしまった現代、「悪人」が罪を犯すハードルが大変低くなってしまった。言い換えれば、「悪人」は誰の抵抗も受けず、簡単に「悪」を犯すことができるようになってしまった、ということである。何と悲しい社会ではないか。これは、この欄で繰り返し言っている「ジコチュウ」社会の、正に最大の弊害である。
 そんなこととも僕は関係すると思っているのだが、「あなたは自分に生起した重大な出来事について、先輩や師と仰ぐ人に相談したことがありますか(相談しますか)」という問いを発した場合、「YES]と応える人が異常に低いという社会こそ、問題なのではないか。人と人との関係がまさに「壊れている」から、いとも簡単に人の「いのち」を奪う(破壊する)ことができるのだろう。このままの状態が続いたら、この社会はどうなるのだろうか。「絆」、あるいは自分たちが新たに作り出した「共同体(コミュニティ)」を早く取り戻し、整備し直さないと、とんでもないことになるのではないか、と思う。