黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

飽くなき欲望の果てに

2008-05-19 09:52:27 | 近況
 連日報道される「四川大地震」の陰に隠れて気が付かない人が多かったのではないかと思うが、この何日かの報道の中で僕には見過ごすことのできないものが二つあった。
 一つは、1960年代の後半にベトナム戦争に参戦していたオーストラリアで、北部の熱帯雨林において「枯れ葉剤=ダイオキシン」の散布実験を行った記録が出てきて、以前からその実験地の近くの都市における癌の罹病率が異常に高いことの原因が判明した、というニュースである。「枯れ葉剤=ダイオキシン」(一般的には「除草剤」として使用されている)の恐ろしさについては、前にもこの欄で書いたことがあるが、改めて言うならば、ベトナムのハノイ市やホーチミン市にある戦跡博物館、あるいは国立病院でホルマリン漬けになっている「双生児」や「三つ目」「無脳症」といった奇形児の実物標本を見たり、ベトナム各地に存在する「平和村」で暮らす知的・身体的障害児の存在を見れば、すぐわかることだが、戦争に勝利するためには「何でもあり」という論理と倫理がいかに将来を閉ざすものであるか、僕らはもう一度考えなければ行けないのではないか。
 「枯れ葉剤=ダイオキシン」は、人間の未来が「有限」であることを知らしめた第二次世界大戦の最後に使われた核兵器(「ヒロシマ・ナガサキ」を作り出した))と同じである。目に見えない「毒」が何代にもわたって発症するという点では、もしかしたら核兵器以上の「悪魔の兵器」かも知れない。僕は、その被害のすさまじさをベトナムの「平和村」(各国からの寄金で建てられた授産施設)でまざまざと見せられたのだが、その時の戦慄は、人間は己の欲望を満足させるためにはどんなことでもする、ということを感じたからである。
 二つめは、いま国連では「クラスター(収束)爆弾」を禁止するかどうかを協議しているが、「全面禁止」を主張しているアフリカ・アジア諸国に対して、不発弾の少ないものであるならば使ってもいいと「部分禁止」を主張する日本やドイツ・フランスなどとの間の溝は深く、「使用禁止」が決議されるかどうか分からないというニュースである。周知のように、一つの親爆弾から数十個の子爆弾が飛び出し広範囲にわたってそこにいる人間を殺傷する「クラスター爆弾」、日本やドイツが何故「部分禁止」なのかは、相変わらずそんな「悪魔の兵器」を多量に保持しているアメリカ(日本の自衛隊も持っている)の顔色をうかがっての立場なのだと思うが、この「クラスター爆弾」に関する議論を見ていて分かるのは、アジア・太平洋戦争であれほどの被害を出した日本に「軍縮」という考えが全くないということに他ならない――もっとも、世界第6位を誇る「軍事力」を持っている日本には「拡大」の欲望しかないのかも知れない――。
 クラスター爆弾が最初に使われたのがベトナム戦争であって、その後各地の紛争(戦争)、特にアフガン・イラク戦争でアメリカによって大量に使われたことを思うと、人類は本当にどうしようもない生物だ、と思えてならない。この「クラスター爆弾」と「枯れ葉剤=ダイオキシン」の問題は、現代において実戦に使われている「もう一つの悪魔の兵器=劣化ウラン弾」のことと共に、僕らがこの「緑の地球」を子孫に無傷で手渡そうとするならば、避けて通れない問題なのではないか、と思う。
 そんなことを考えると、「お先真っ暗」としか言えなくなってしまうが、地道にこの場から、「枯れ葉剤=ダイオキシン」や「クラスター爆弾」、あるいは「劣化ウラン弾」を使うようなこの世界の仕組みに対して「異議あり」と言い続けるしか方法がないとしても、だからこそ僕は言い続けたいと思う。