黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

バランス感覚?!

2008-05-16 15:02:55 | 近況
 中国四川省の地震災害、その実態が徐々に明らかにされつつあるが、6万人を超す死者と1000万人を超す被災者、地震災害としては未曾有のものになるのではないかと思うが、それにしても新聞やテレビの報道を見ていて、チベット問題や「毒餃子事件」などと同じように、ある「コメント」(報道)が気になって仕方がない。
 それは、瓦礫の山を指差して「おから構造」「手抜き建設工事」などと中国の地震対策がいかにも「ずさん」であるかのように指摘、日本は耐震対策は万全であるかのごとく、コメント(報道)するものである。それらのコメント(報道)に違和感があるのは、彼らが13年前の「阪神淡路大震災」のことを忘れたかのような態度でコメントしているからである。あの13年前に、多くの人々(建築家たち)が言っていたのは、阪神地方は何百年も大地震がなく「安全」地帯だったから、在来工法(日本家屋)にしても「はすかい・筋交い」を入れなかったから、それが原因で大災害になったということで、その点に関してはコンクリート建築も同じであった。
 手抜き工事にしても、高速道路の崩落が象徴するように、公共土木事業における「手抜き」が関西では当たり前であったことが、指摘された。そのようなことを考えれば、今回の中国四川省の地震における「耐震構造になっていない・遅れている」と言った類の非難、あるいは役所が「手抜き工事」をしていたという指摘、など、13年前の「阪神淡路大震災」があたかもなかったかのごとく、声高に日本人が中国人を批判できた義理ではないと僕は思うのだが、いかがだろうか。このように中国を「色眼鏡」で見るのは、「反中国」の心情で凝り固まっている石原慎太郎ら「右派」に任せて、僕らはもっと冷静に、リアリズムの心できちんと対応する必要があるのではないか。
 どうも、その点で僕らは中国のこととなると「浮き足立って」しまっているのではないか。地震の災害は、地震国日本では「他人事」ではないのに、今度の四川省の大地震に際しては、日中の「政治」「歴史」関係が前面に出て、冷静な判断ができない、と僕には思えてならない。「友好」ということの真の意味を、今こそ考えなければいけないのではないか。僕は、そう思う。

無事でした。

2008-05-15 11:40:26 | 近況
 中国四川省の大地震で、綿陽市で連絡が取れなかった友人で元筑摩書房社長(名前は伏せる)の消息が分かりました。無事だったようで、ようやくネット事情も改善されたということで、「無事だった」というメールが昨日の夜送られててきました。同時に、僕のブログを見たという「筑摩書房社員」を名乗る方から、筑摩書房に「無事」と言う連絡が入っている、とコメント欄に書き込みがありました(多分、僕のところと同じメールを受信したのでしょう)。
 ともあれ、情報が錯綜する「災害情報」、知り合いがそんな状況下に置かれたことは阪神淡路大震災以来なので(そのときは小田実)、なかなかうまく自分の中でも調整ができず、大変だった。なかなか、慣れないものである。(5月15日11時30分記す)

心配です。

2008-05-14 06:46:07 | 近況
 中国四川省の大地震、第2の都市綿陽が大きな被害(死者が18000人を超えるという報道)を出したという報道に接して、そこに日本人の知り合いがいるので本当に心配です。
 僕より5歳ほど年上の彼は、筑摩書房の編集者時代に知り合い、筑摩書房を社長職を最後に退いた後、2年ほど大学で非常勤講師(出版論担当)をしていたのだが、ある時知り合いに頼まれたと言って中国の大学で「日本語・日本文学」の教師となって奥さんを同道して赴任していった人である。彼は最初、縁辺朝鮮族が多く住む延吉の大学で教えていたのだが、3年経って、今度は暖かい地方がよいと、南の四川省綿陽市の大学に移ったのである。第二の人生を外国(中国)で過ごすということは考えていなかったという彼が綿陽市の大学に転任して行ってから、まだ1年も経っていない。
 彼と知り合ったのは、小田実経由である。僕らが学生の頃筑摩書房が出していた「人間として」という季刊雑誌(中心的な人物は、小田実、高橋和巳、柴田翔、真継伸彦)の平編集者として出発した彼は、戦後派の作家たちの本を出す仕事を続けながら、先にも書いたように最後は社長にまでなった人であるが、親しくなったのは、彼が編集長時代に「原爆文学の全集を出したいのだが、相談に乗ってくれ」と言われてからである。企画は結局社内の「原爆タブー」に在って実現しなかったのだが、それ以後も(小田さんを交えてということが多かったが)よく食事をするようになって、出版状況や現代文学についてよく話をした。彼が中国で大学教師になってからは。帰国する度にお茶を飲みながらより親しく話をするようになった。
 そんな彼が赴任先で未だ日本とは連絡が取れていないという。かつて1995年の阪神・淡路大震災に際しては、西宮に住んでいた小田実を見舞うべくすぐに神戸まで行った彼が、小田実が亡くなって1年目の今日、中国で地震に遭うとは、何とも皮肉な巡り合わせである。無事でいてくれることを祈るばかりだが、本当に心配である。
 折しも、というか、昨日は読売新聞文化部次長(彼女は大江健三郎にインタビューした「大江健三郎 作家自身を語る」の著者である)と来日中の中国社会科学院の人と、件のインタビューの中国語訳(訳者はその社会科学院の人)が出たのと僕の「大江健三郎伝説」が出たということもあって、「大江健三郎」と中国の関係について話し、夕方は明治大学へ昨年僕が寄稿した遼寧大学の「日本研究」という学会誌を取りに、その雑誌を預かっていた中国人研究者(明治大学政経学部の教授・行く場大学大学院出身者だという)に会いにいき、「中国」一色になっていたのだが、その時は綿陽市の被害についての報道を知らなかったので、もしかしたらと思いながらも全く「のんき」にしていたのだが、新聞やテレビで報道されたがれきの山になっている綿陽市の光景を目の当たりにして、本当に彼の安否が心配になってきた。日本にいる彼の教え子(留学生)たちも心配しているという。
 無事でいて欲しい、と願うばかりである。このブログを書いている今、痛切にそう思う。

ヒューマニズムの行方

2008-05-13 06:40:41 | 近況
 昨日が締め切り日であった「国文学」誌の原稿「三浦綾子とそのトポス」(20枚)を見直し、原稿をメールの「添付」で送った後、連休中から集中して三浦綾子という作家の在り方・思想を考えてきたことを顧みて、改めて「キリスト教の福音を伝道する目的」で小説やエッセイを書いてきたきたことの意味について、結果的に彼女は「ひゅうまにズム」の復権を願って作家活動をしてきたのではないか、と思わざるを得なかった。
 世界中で、「ポスト・モダン」などと言って、「人間の尊厳」が損なわれることを容認するような風潮が蔓延して状況に対して、三浦綾子は「ヒューマニズム」の旗を掲げてある意味孤軍奮闘していたと言っていいのだが、「親殺し・子殺し」が当たり前のように報じられ、ネットの拠って集まった人たちによる集団練炭自殺が収まったと思ったら、今度は関係ない人も巻き込む「硫化水素自殺」が流行り、また京都の舞鶴市で起きた女子高生殺人事件のような「理不尽な殺人」が横行している現在を鑑みると、僕らは洋の東西を問わず「近代社会」が高く掲げてきた「ヒューマニズム」の旗の意味を再考する必要があるのではないか、と思わざるを得ない。国民の生活を圧迫することが分かっていながら「道路特定財源=暫定税率」を再議決する政府与党の在り方も、あるいは「ワーキング・プア」の問題を放置し続ける経済界も、共に根本のところで「人間(の生命)」を軽視しているという意味で、反ヒューマニズム的行為と言っていいだろう。
 そんな現在に作品を通じて「異議申し立て」をしてきたのが、三浦綾子である。朝日新聞の1000万円懸賞小説『氷点』(64年)でデビューしてから最後の長編となった『銃口』(94年)まで、三浦綾子は『氷点』ブームの渦中で当時を代表する批評家であった平野謙が、「これほど不自然な小説はない」と酷評して以来、「護教文学」とか「主人持ちの文学」とか不当な評価を受け、戦後文学の王道からはじき出されてきた。しかし、彼女の死後9年(99年没)、今回のように「国文学」が僕に寄稿を依頼してきたように、徐々にではあるが、再評価の動きが出てきている。このことは、繰り返すが、彼女が必死に訴えてきた「ヒューマニズムの復権」の意味を見直せ、ということなのではないだろうかと思う。
 人々の在り様が根っこのところでガラガラと崩れつつあるように見える現在、それは人々がネット社会の中で「ジコチュウ」になっていることに原因があると僕は思っているが、もう一度僕らは「近代」の原点に戻って、個人とは何か、親子・家族とは何か、人間の関係とは何か、等々、「ヒューマニズム」の意味について考え直さないと行けないのではないか。そうしないと、僕らはとんでもない社会を子供や孫に手渡すことになるのではないか、と思う。その意味では、書き手が「ジコチュウ」であることを表明する結果になっている「ケータイ小説」などが流行るこの社会に対して「ノー」を突き付けなければ行けないのではないか、とも思う。
 そうでないと、これも地球規模で蔓延している「ジコチュウ」を象徴しているように思えるミャンマーを襲ったサイクロンに対するミャンマー軍事政権の対応、被災者の救援よりは軍事政権維持のための国民投票を優先するその感覚が理解できないのではないか、と思う。そして、それにもまして分からないのは、中国のチベット問題に対して「人権問題」を持ち出してあれほど騒いだ日本のマスコミ(やそれに踊らされた人々)が、ミャンマー軍事政権に対してもう一つ腰が引けていることである。
 ともあれ、「ヒューマニズムの復権」、繰り返すが、僕らがもう一度このことの意味を考えなくてはならない時期にきていることだけは、確かである。

中国版「大江健三郎伝説」刊行されました。

2008-05-11 10:33:48 | 文学
 4月半ばに刊行された中国語版「大江健三郎伝説」(日本語原題「作家はこのようにして生まれ、大きくなった」03年 河出書房新社刊)がようやく手元に届いた。本来ならもっと早く僕の手元に届いていなければならなかったのだが、編集者の父親が重篤な病気になり、その看病にかかりきりになったので、今日になったのだが、できあがった本を見ると、日本と中国では本の作り方がかなり違うことが分かる。
 まず第一に、これは欧米も同じだが、普通の場合(研究書も小説、エッセイ集も)本の造りがソフトカバーであり、「大江健三郎伝説」の場合、字数が多かったせいかA5版になっている。定価27,5元(日本円にして約405円)、これが作家論(研究書)として高いのかどうかは分からないが、発行部数が6300部、大江健三郎の小説の中国語訳が大体15000部ぐらいの発行だと言うから、6300部という数は、出版社としては「売り切る」つもりで設定したものと思われる。もう一つ気が付いたのは、日本の本に比べて「著者」や「訳者」の名前が異常に小さいと言うことである。特別に自己PRするつもりはないが、著者や訳者より本のタイトルに重きを置いたと思われる装幀、ちょっと不思議な感じがした。
 それにしても、発行部数6300部というのは、中国における大江健三郎や「日本現代文学」の愛読者や研究者(院生たちも含む)がそれだけたくさんいるということなのだろうが、大連語学学院・日本語学院における「環境文学」への取り組みや、中国社会科学院発行の「世界文学」における昨年の「南京事件70周年記念号」の発行などを考えると、中国における日本文学の取り組みも、アメリカやヨーロッパがそうであったように「翻訳」時代からようやく「本格的な研究」時代に突入したのではないか、と思われる。
 僕の本が「大江健三郎伝説」に次いで、今月末か来月初めに「村上春樹論」が刊行され、先に小森陽一の「『海辺のカフカ』論」が北京で翻訳出版されていることなどを考え合わせると、余計にそのように思われる。今、昨年5月から1ヶ月中国を訪れていた立松和平について、拙著の『立松和平伝説』の翻訳も検討されているようだが、これからも中国では日本文学の作家論や研究書の類が続々と翻訳出版されるのではないか、と思う。
 今後どのように展開していくかは全く不明だが、僕の本の刊行がその先駆けの一つになってくれればいいな、と単純に思う。そしてそれが、日本と中国との間に横たわる様々な問題(歴史認識の問題や貿易問題、等々)解決に少しでも役立つならば、「文学と社会との関わり」を考えつつ近現代文学に関わってきた者として、これに勝る喜びはない。それに加えて、日本文学の世界文学化という問題もここにはあり、1批評家として、また1研究者として、日本の近現代文学をこれまでとは異なった視点から考えなければいけないのではないか、とも思っている。

井上ひさしがすごい!

2008-05-10 09:08:43 | 文学
 つくばから帰宅し、貯まっていた新聞に目を通していたら、「東京新聞」の5月9日号の文化欄に井上ひさしの「世界の流れの中で考える 日本国憲法」(上)というのがあった。新聞に井上さんの文章が載るのは珍しいので早速読み、まさに蒙が啓かれるおもいがした。(下)は今日の朝刊に載っていたので、新聞が配達されるのを待って「結論」を知ったのだが、この(下)でも井上さんの該博な知識に驚かされると同時に、発想の転換こそ今僕らに求められていることなのではないか、と痛感させられた。
 井上さんの主張を簡単にまとめれば、その第9条に象徴される「日本国憲法」の「平和主義」は、世界に誇るべき思想であり、遅々としてではあるが、この日本国憲法の「平和主義」は世界から注目され、目指すべき目標として認識されているというのである。
 僕が蒙が啓かれる思いがしたというのは、日本国憲法の「平和主義」を井上さんのように「世界」という観点から考えることを怠り、戦争に明け暮れているように見える戦後世界(20世紀・21世紀)も、少しずつではあるが、「世界平和」に向かって進んできているという、見方によっては「楽観主義」とも受け取られかねない考え方を披瀝している点である。このような井上さんの考え方は、ネオ・ファシズム、ネオ・ナショナリズムに向かっているようにしか見えない現実政治に目を奪われ、悲観的な考え方に陥りがちな僕の思考に、一条の光を与えてくれたような気がする。確かに「現実」は酷い状態になっているが、大きな「全体の動き」はそう悲観的に考えることなく、少しずつであるが「よい方向」に向かっている(と考えれば、もう少しリラックスして物事に向き合うことができるのではないか)、と思うべきである、とする井上さんの考え方。教えられること大である。
 そう、僕らはもっとリラックスして、極端な言い方をすれば、「性善説」に立って物事を考えれば、あるいは人間はそんなにバカではなく、長年の智慧として(その成果の一つが「日本国憲法第9条」である、と考えることもできる)「破滅」を回避する方法を考える動物である、と考えれば、この酷薄な現実に耐え、生き続けることができるのではないか。日本国憲法に関しても、戦後63年、世界第6位の戦力を持つまでに膨張した自衛隊の存在が象徴するように、権力の意のままに「解釈」され、変質させられてきたが、井上さんが敢えてその原点に基づいて日本国憲法が世界でどのように見られているかを強調したように、「平和主義」という原理に立って全てを考えれば、現実が状況によっていくらでも変化することを鑑みて、何も悲観することはないのではないか、と思える。
 井上さんの文章が僕らに与えてくれたものは、まさにそのことで、「正しい」ことを主張することの「勇気」を僕らに与えてくれた、とも言える。そこで思い出すのが、井上ひさしは大江健三郎と同世代であり、「戦後民主主義」の下で子ども時代から青年期を過ごした世代であるということを考えると、「戦後民主主義」がその根幹としていた「ヒューマニズム」(大江流に言うならば「ユマニスム」)の大切さ・重要性について改めて認識し直す必要があるのではないか、と思う(今書き始めている「村上龍論」の中心の一つに、この「戦後民主主義」の問題をおいているのは、井上さんの文章を読んだ今日、正解だったな、とつくづく思う)。

想像力の枯渇

2008-05-09 12:46:38 | 仕事
自分のことはとりあえず棚に上げて言うならば、学生(院生)たちと授業やゼミを介しての付き合いの中で、最近気になって仕方がないのが、「想像力」、つまり物事や出来事をイメージする能力が衰えてきているのではないか、ということである。さらにまた別な角度から言えば、ある一つの出来事と別ないくつかの出来事を結びつける「想像力」というか「構想力」というか、そのような能力が欠如しているのではないか、と思えるような場面に出会うことが多くなった。
 先日も、ある授業でヨーロッパにおける「宗教革命」とグーテンベルグの金属活字を使った印刷との関係を話をしていて、この二つは密接な関係にあり、また同時にこの二つが相俟って「産業革命」を推進する力になった、と言ったところ、多くの学生が怪訝な顔をするので、よく聞いてみると、今までそのようにそれぞれの出来事が複雑に絡み合って(作用しあいながら)「歴史」を動かしていったというようなことは考えたことがない、全部別々なものとして「覚えてきた」、と言われ、愕然とするという経験をした。歴史が有機的にしか動かないという「原理」を多くの学生たちは忘れているのだろう(知らない、教えてもらっていないのだろう)。
 このようなことはたぶん、学生たちだけの責任ではなく、歴史(世界史)を教える側の問題であったり、センター試験をはじめとする各種の受験によって人間をふるいにかける学歴社会の弊害とも考えられるが、基本的には「自分の頭で考えない」習慣が付いてしまった人間の悲しさと言っていいのではないか、と思う。このようなことがずっと続いていったら、この国の将来はどうなるのか。どうも、「知識(の断片)」を集めることが、その人間の能力を決めるとでも思っているかのように、僕には思えてならない。
 例えば、現代文学を批評(研究)するにも、また出版や書誌学について学ぶにしても、大切なのはそこで使われる用語や歴史的事実について、先人たちの知恵などを借りながら自分なりに「定義」付けたり、カテゴライズすることであり、そのことを先ず行ってからそれらの用語や事実を使って自分なりの考え(構想)を提示することから、研究や学問というのは始まると思うのだが、かつてマニュアル世代の悪い癖として「自発力」がないと言われたことを彷彿とさせるような、「断片的」な知識を振り回したり、「受け身=消極的」にしか自分を関わらせない、という傾向が最近は目立つ。
 このことは、前にも書いた困難にぶつかるとその壁を壊したり乗り越えたりするのではなく、壁(困難)の向こう側へ行くことをあきらめて引き返してしまう、ということと連動しているのではないか、と僕には思えてならない。技術(例えばPC技術)には長けているが、論理的思考(想像力・構想力)は劣っている、という最近の学生(院生)の傾向も、同断である。技術操作の能力があたかも自分の能力が「優れている」ことの証であるかの如くに錯覚する人間(学生・院生)が増えてきているのも、気になって仕方がない。
 こんな現象が続くと、日本の「知(文系的知)」はどこへ行くのか、と思われるが、そんなことを気にするのは、年を取ったせいなのだろうか。それにしても「想像力」が枯渇してきているのではないか、という現象、どうにかならないか?

冷静になろう!

2008-05-07 06:09:41 | 近況
 オーバーワーク気味だった連休も、昨日で終わった。父親の命日に墓参りした以外に何も特別なことはしなかったのに、体の奥底に疲労が蓄積しているような嫌な感じが取れず、体力が落ちてきているのかな、と少々心配になるが、体力の衰えは微妙に気力の衰えと連動しているように思えるので、気を付けなければいけないだろう。気力の衰えは、自立心を萎えさせ、体制(大勢)に従うことの安易さを増長するからである。
 そんなことを思ったのも、昨夜何気なく風呂上がりにTVのニュースを見ていたら、どのチャンネルも中国の胡錦涛国家主席の来日を報じていたが、どのTVも判で押したように、日中間に横たわる問題として「毒ギョウザ事件」「チベット問題」、「東シナ海におけるガス田開発」などを上げていた。確かに、そのような問題が喫緊な課題として日中間に存在することは分かるのだが、問題は各キャスターたち(TV局)の姿勢である。どうしてそうなってしまったのかは不明だが、これまた判で押したように、問題の責任があたかも全て中国側にあるような論調には、あきれるよりも「何か意図的なもの」を感じ、空恐ろしくなった。
 例えば、僕らの生活に密着した「毒ギョウザ事件」、日本の警察当局による調査報告によると、日本側で輸入したギョウザに毒を混入した痕跡は全くないとのことで、それはそれでいいのだが、同じように中国側の捜査でも中国での毒の混入は考えられないと言っているのに、あたかもその調査(捜査)が杜撰でいい加減であるかのような各キャスターたちの言い方、事の真相は「藪の中」だが、冷静に考えてみれば、お互いの不利益になる「毒の混入」を誰が意図的に行うのか、果たしてその責任を中国側にだけ押しつけていいのか、と思わざるを得ない。
 「チベット問題」だって、それを「人権問題」一般として捉えようとするのはアメリカがよく使う手であるが、アイヌ民族や被差別、あるいは「在日」の人たちに対してこれまで日本の政府が何をしてきたのかを顧みれば、僕ら日本人は果たして「チベット問題」について云々することが果たしてできるのか。それはアメリカがベトナム戦争で、あるいはアフガン・イラク戦争でどのように「人権」を尊重してこなかったか――それらのことに関しては、ベトナム戦争時にアメリカの兵站基地として経済成長を成し遂げ、アフガン・イラク戦争ではアメリカの言いなりに自衛隊を派遣した日本も同罪である――、しかしながら、アメリカに対して「人権問題」で日本のTVが批判したことが全くないことを考えれば、日本の「チベット問題」に関する報道がいかに偏向しているかが理解できるのではないか。聖火リレーで大きな騒動を起こしたフランスだって同じである。アフリカ系移民を「差別」しているフランスに、「チベット問題」を云々する資格が果たしたあるのか。
 そのように考えると、今僕らに求められているのが「冷静に」「客観的」に物事を見る姿勢なのではないか、と思わざるを得ない。胡錦涛国家主席来日が、年金問題、道路特定財源=暫定税率維持問題、綱紀高齢者医療制度問題、等々、反国民的な問題を抱えた福田政権の延命に利用されないことを祈るばかりである。
 それにしても笑ってしまったのは、石原東京都知事の「パンダなんかいらない」発言である。多くの人に親しまれてきた上野動物園のパンダが死んで、誰もが代わりを欲しているとき発せられた彼の子供じみた「反中国」発言、それもここまで来ると立派、と揶揄したくなるが、しかしこんな「おバカ」な知事を頭に頂いている東京都民はお気の毒としか言いようがない。
 みんな、もっと冷静になろうよ。

「墓参り」

2008-05-04 18:42:15 | 近況
 5月4日は、53歳で亡くなった父親の命日、連休中の渋滞をぬって、恒例になった家族での墓参りに行ってきた。今年はついでに僕以外の家族がしばらく行っていなかった義父の墓参りもしてきたので、結構なドライブ旅行になってしまった。
 父親が亡くなったとき、僕は高校2年になったばかりで、一家の働き手をなくした僕の家では、弟もまだ小学生ということもあって、僕の高校中退ということも家族会議で話題となった。幸い高校の担任のアドバイスなどもあって中退せずに済んだが、もしあの時高校を中退したとしたら、現在の僕はなかったはずで、そう思うと「運命」というものを感じざるを得ない。父親が死んで、そうでなくとも貧困な家庭であった僕の家では、弟も含めてみんなが「働く」ようになり、僕のその後の学業は大学時代も含めてアルバイトの連続で、いま思うと、よく働いたな、と思う。家庭教師を始め土方、工場の製品詰め、店員、配達、幼稚園の臨時教師、等々、やらなかった(できなかった)のは「水商売」関係だけで、一番多かったのは、夜間の土方(今でも一輪車の操作がうまいのは、その時に培った技術だと思っている)で、家庭教師が終わってからの朝までシャベルとツルハシで水道管や電話線を敷設する作業、お金ににはなったが、夜寝ていないので学校へ行っても寝てばかり(学校へ行かないで、下宿で寝ていることが多かった)、今のように出席を取る教師ばかりだったら絶対に単位は取れず、留年か、もしかしたら中退を余儀なくされていたかも知れない。
 閑話休題。
 ところで、僕が何故「戦争反対」を言い続けているか、という点について、実はこの53歳で亡くなった父親のことが深く関係している。僕は戦争が終わってから生まれたが、僕の父親は2度「赤紙」(召集令状)が来て兵隊として戦争に参加している。父親は僕と違って寡黙で、生きているときに直接父親の「戦争体験」については聞いていないのだが、母親の話や記録(写真など)によると、一度はたぶん日中戦争だろうと推測するのだが、「北支」(中国東北部)戦線なのだろう、小銃を背中にスキーを履いた父親の「勇姿」の写った写真が証拠としてあり、2度目は茨城県鹿島灘近くでアメリカ軍の「本土上陸」に備える部隊にいたことがわかっている。この2度の兵隊体験が父親に何をもたらしたか定かではない。しかし、復員してきてから僕が6,7歳になるまで父親は戦争に行くまでの「真面目さ」とは全く異なって、「遊び人」風な生活をしていた。苦労したのは母親で、内職をしたり近所の農家に働きに行ってお米をもらうような生活を続けていた。
 僕が父親を一種の「戦争犠牲者」だと思う理由は、ある時から(大学生になった頃から)ずっと思ってきたのだが、父親は戦争(軍隊)を体験し、そして自分が参加した戦争で日本が負けたことで、「内部」の何かがポキリと折れてしまい、その折れた箇所を修復するのに10年近い年月を要したと思われるからに他ならない。戦争で死んだり負傷したりしなくても、心のどこかが破壊されてしまう事例を父親の姿を通して幼心にも経験してしまったが故に、僕は絶対「戦争」を認めることができないし、「戦争」への道を許すことができないのである。戦争を呼び込むナショナリズムやファシズムに対して、学生達から「そんなにカリカリしなくても」と言われながらも敏感に反応してしまうのも、父親のことがいつも心のどこかに存在するからだろう、と自分では思っている。
 今日は父親の命日、静かにあと少しの時間を過ごそうと思う。

五月晴れ、なのに

2008-05-03 12:18:18 | 近況
 昨夜来の雨も上がり、部屋の窓から見える巴旦杏(ボタンキョウ)の木の緑が青空に映えているというのに、新聞やテレビのニュースは相変わらずこの国が「モラル・ハザード」の状態にあることを伝えるばかりで、「景気のいい」話など一つもなく、「憂鬱な気分」にさせるような話ばかりである。
 特に、予想通りではあったが、「道路特定財源=暫定税率」維持を衆議院で再議決した翌日(5月1日)に行われた各紙の世論調査で、内閣支持率が20パーセント前後に急落したことに対して、与党の幹部達が口を揃えて「そういうこともあるだろう。だから、3分の2の議席を持っている現在を大切にしなければならない」旨の発言を繰り返し行ったいたのには、「怒り」を通り越して「あきれてしまった」。国民はあまり利口ではないから、そのうち今の窮状を忘れ、再び自分たちを支持してくれるだろう、といった楽観的な態度が見え見えな彼らの態度、このような彼らの態度は、社会全体にニヒリズムと鬱状態を呼び込む結果しかもたらさないことに全く無自覚なことを表しているのだが、このような状態が続けば、さらにとんでもない社会になってしまうことに、彼らは気が付いていないのだろうか。
 新聞の社会面を賑わす「親殺し・子殺し」、「理由なき殺人」、他人を巻き込む「硫化水素自殺」、等々、この社会が変に歪み始めたことの兆候は随所に見られるというのに、この現象と衆院の解散・総選挙を何とか阻止しようとする与党の態度とを「ニヒリズム」という1点から考えても連動していると思うのに、そのことに気が付かないまま放置する。さらに言えば、「格差」を放置したまま、「勝ち組」だけを優遇する風潮もまた、この社会が「危険水域」に入っていることを物語っているように、僕には思えてならない。
 そんな折、東京新聞の社会面の囲み記事に、非正規雇用の30代男性が「戦争を歓迎する」を公言している、というのがあった。年収150万円以下のこの青年は、このままでは「ご飯が食べられなくなって死ぬしかない。ならば、戦争が起こって正社員が大量に死ねような事態になることを歓迎するし、飢えて死ぬのも、戦争へ行って死ぬのも同じだから、早く戦争が起こって欲しい」旨の発言をしているというのである。「汝、殺すなかれ!」の思想の下で育った僕らとしたら全く信じられないような「ワーキング・プアー」の発言、ここまでニヒリズムは深化してしまったのか、と驚く反面、このような「ワーキング・プアー」をいかになくすか、そのような方法論を伴った思想でない限り、この時代では意味をなさないのではないか、と思わざるを得なかった。
 とにもかくにも、「生殺し」状態に置かれている僕たち、もうこうなったら政府与党と「我慢比べ」するしかないのかも知れない。どちらが勝つか、それはより深く「我慢」した方であることに相場は決まっている。故に、元気な顔をして「我慢」していくしかないだろう。「ルサンチマン(怨念)」を腹の底に沈めながら、である。
 と書いて、目を外に転じると、相変わらず緑が目にまぶしい。世の中全体もこのような「すがすがしさ」に満ちてくれればいいのだが、いつのなることやら。