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日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から)

2014-11-22 17:51:44 | 弥生時代
夏休みのスクーリング・学外授業の続きを紹介します。唐古・鍵遺跡纏向遺跡を見学した後、お昼をはさんで箸墓古墳に向かいました。

箸墓古墳は、高校教科書(山川日本史B)にも、「出現期の前方後円墳として最大の規模をもつ」として、写真入りで掲載されています。卑弥呼の墓とは教科書には書いてありませんが、卑弥呼の墓ではないかと考える人達もいます。



宮内庁では「大市墓(おおいちのはか)」=孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ)命の墓として管理しています。
『日本書紀』でも倭迹迹日百襲姫が箸墓に葬られたことが記述されています(崇神記10年条)。
宮内庁が管理している陵墓のため、古墳に立ち入って調査をすることは基本的にできない状態ですが、卑弥呼かどうかはともかく、女性が葬られている墓なのだろうと思われます。

小雨の中、バスで現地に到着し、箸墓古墳脇の、ため池に面した小高い場所に登り、先生の説明を聴きました。内容についてはあまり記憶がありません(笑)。

その特徴の一部をレジュメから抜き出すと、
「特殊器台型埴輪、特殊壺、二重口縁壺など吉備系の祭祀土器出土」
「出土土器が布留0式に属し、最近のC14年代測定では紀元240~260年とされる」(2009年5月29日付朝日新聞の記事のコピーもあり)
「後年、壬申の乱でここが戦地となった記述(『日本書紀』天武天皇元年7月2日条)

古墳は本当に巨大で、私が見た古墳の中では一番規模が大きいものでした(そもそも関西の古墳を見たのは初めてというくらい古墳に関してはビギナー)。
大きな山のようで、あの前方後円の、鍵穴型の形をしているかどうかなんて、全然わかりません。やはり上空から見ないとわからないくらい巨大なものです。
女性一人のために、こんなに巨大な墓を作ったのか・・・?と改めて考えさせられます。



お話を聴きながら観察していると、古墳の横に広がる大きなため池に、文字通り縦横無尽に、釣り糸のような透明な糸がはりめぐらされています。何の目的でそんな状態になっているのか、その場ではわからず、人間が舟などでこっそり池を渡って古墳に上陸したりするのを防ぐためかなあ、などと考えていたのですが、後で調べると、そのため池で金魚を養殖していて、鳥が金魚を食べに来るのを防ぐためらしいです。



その箸墓古墳の周囲の南側を歩いて通過し、JR桜井線の線路をはさんで向こう側にあるホケノ山古墳に向かいました。
箸墓古墳は入っちゃいけないのですけれども、地続きの部分は、厳重な高い柵などがあるわけでもなく、道路から簡単に入って行けそうな状態なので驚きました。もしかして、侵入すると赤外線か何かにひっかかって警備員が駆け付けて来るのかもしれませんけれども。
こういう場所のすぐそばで暮らしている人達は、どういう気持ちでこの古墳と共存しているのでしょうか?


↑簡単に入れそう

この日は雨で、夏にしては気温が低めでしたが、それでもいくらか蒸し暑く、普段運動不足の私は、くたくたでダウンしそうな気分でした。ホケノ山古墳まで歩き、また歩いて戻ると思っていなかったし。しかし、かなり高齢の方や、足が少し不自由そうな方も、みんな歩いているので、このくらい何でもないと思って歩くしかないかな、と考えました。もしカンカン照りだったら、私は間違いなくリタイヤしていたでしょう。天気が悪くてよかったのかもしれません。夏の奈良盆地での学外授業は過酷ですね。



纏向遺跡の時にも使った「卑弥呼さん」という呼び方は、講師の先生がしていたもので、なんだか親しみを感じてよいなと思ったので、ここでもそうしました。
今年は、関西弁・・・奈良弁てあるんでしょうか?それに接することの多かった年でした。科目修得試験を東京で行う時にも、職員は奈良からいらっしゃっていたようで、関西弁でお話しされるので和みました。大阪や京都ともまた奈良は違うんだろうと思います。私は、奈良の人達のお話しする雰囲気は、のどかで、気圧される感じもなくて、嫌いではありません。

いったんここで切りましょうか。箸墓古墳が「卑弥呼さん」の墓なのかどうか、私の考えについては、次の機会に整理したいと思います。
次は、ホケノ山古墳から続けて書きたいと思います。

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唐古・鍵遺跡その2 2000年に発見された大粒のヒスイ勾玉

2014-11-02 23:47:36 | 弥生時代
唐古・鍵遺跡の学外授業の続き。その前に、以前、大神神社の記事を書いた時の写真で、発見したことがあったのでまず書かせてください。大神神社の由緒の看板の写真を、よく見ると、何かついてる?・・・拡大すると、ヤモリ?が!
大神神社の神様は、ヘビですが、こうしてヤモリが出て来るのを見ると、ヘビさんもいらっしゃって当然だろうなあという感じがします。



さて、唐古・鍵遺跡ですが、発掘された遺物の中に、かなり大きなヒスイ勾玉が含まれているのです。事前に「唐古・鍵考古学ミュージアム」のHP

を見ていて気が付き、写真を見て、おお、でかい!しかもなんか、出雲大社の裏から出た、大きくて美しいヒスイ勾玉と似てないか??と直感的に思いました。

出雲大社の裏というのは、具体的には、出雲大社の東にある神魂命主神社(真名井遺跡)のことで、江戸時代に銅戈とヒスイ勾玉が一緒に出土しています。青銅の武器形祭器と勾玉が一緒に出土したのは他に例がないそうで、出雲大社の付近が弥生時代から重要な祭祀の場所となっていたことを示しているともいわれています。

山陰(出雲)と大和の関係について考えている私としては、立派なヒスイ勾玉がここで発見されていることに、わくわくしています。



写真は、このあたりでヒスイ勾玉が発見されました、という説明があったような所。とにかくまだまだ発掘せねばならない場所が広大にあるようです。

現地の見学は、雨も降っていたし、現地も観光地のように整備されているわけではないので、すぐにバスで移動し、「唐古・鍵考古学ミュージアム」へ。

そこでもご説明をうかがってから見学をしましたが、そのヒスイ勾玉も展示されていました。大きい。緑が美しい。
写真を撮っている方もいて、私も撮りたいけど展示物を撮っていいのかなあと思ってしまって、撮りませんでした。ので、代わりに目に焼き付けようと思いました。
「唐古・鍵考古学ミュージアム」のHPには出土物の解説シートが載っています。

ヒスイ勾玉についてはこちら
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/img/mcPDF/mc03.pdf

ヒスイ勾玉が納められていた褐鉄鉱 についてはこちら
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/img/mcPDF/mc02.pdf

発見年は2000年とのことで、まだ最近です。こんな立派なものがいまだに土の中から出てくるなんて、まだまだすごいものが埋まっていそうですね。
弥生時代中期の出土品とのことです。

玉作り遺跡もあったという紹介もあります。
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/img/mcPDF/mc45.pdf

この解説から抜き出すと、

「唐古・鍵遺跡では、製作途中の管玉や、管玉に使われた碧玉の破片が出土しています。玉の素材を持ち込んで、ムラ内で管玉の製作をしていたことが示されています。遠隔地の石川県や島根県で採取されたものが運び込まれた可能性が高く、当時の交易や交流を考えるうえでも注目されます。
唐古・鍵遺跡では、新潟県姫川産ヒスイで作られた勾玉や、丹後産?水晶で作られた丸玉の完成品が出土しています。これらは素材が運ばれてきたのでなく􄲸完成品がこの地に運ばれてきた可能性が高いのです。」

とあります。やはり、ヒスイはこの地で加工されたわけではなく、完成品がここに来たのです。それにしても、石川や島根など北陸・山陰とのつながりも見えるようで、それも興味深いです。

他に印象に残ったのは、土器に描かれたたくさんの絵画です。出雲大社横の古代出雲歴史博物館で見た稲吉角田遺跡の絵画土器の絵などとタッチが似ている、ということは前回も書きましたが、こういう絵が流行った時代なのかなあと考えながらじっくり見ました。
土器に、細い線で描かれています。デザインとして美しさを追求して描いているのではなさそうです。

講義でも土器絵画・銅鐸絵画について聴きましたが、講師の先生のお考えでは、こうした絵画はカミへのメッセージなのだ、とのことでした。

藤田三郎氏が「弱弱しく、見えないような繊細さの線描きの絵画も存在しており」「土器に絵画を描く行為が重要なのであって、第三者が見ることを意図していない」と指摘しているそうです。

講義は、「絵画は今生きている人たちへのメッセージではなく、カミへのメッセージなのである。つまり絵に描いた祝詞である」という結論でした。
私も、そうかもしれないなと思いました。

次は、やっと箸墓古墳に行けるかな。

学校の文化祭でてんやわんやでしたが、これから自分の勉強等がんばります。

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かんばこうじんだに!

2013-10-30 12:30:42 | 弥生時代
10月の初旬、出雲大社で行われる、あるイベントが開催されるのに合わせて、出雲へびゅんと飛び、1泊して帰って来ました。
8年前に一度訪れ、出雲そばや仁多米など、おいしいものがたくさんあって、史跡もすばらしく、こちらに住みたいと思うほど、私は出雲が大好きなのです。

今日は、1日目の最初の見学地、神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡のことに絞って書きましょう。この遺跡は、昨年度まで在籍していた高校では日本史Bの教科書を使っていましたので、弥生時代を学習した時に、簡単にですが触れました。

この遺跡は、1984年に358本もの銅剣がいっぺんに発見された驚くべき遺跡です。ぎっしりと銅剣が並べられて埋まっていた発見時の写真は衝撃的で、圧倒されます。
道路建設のための遺跡調査の際に発見されたものです。まだあるのではないかと磁気探知機で近くを探したところ、そのすぐ隣で銅矛16本と銅鐸6個がまとまって埋まっていたのが見つかりました。

神庭荒神谷遺跡から3km程度しか離れていない加茂岩倉遺跡では、銅鐸が39個も発見されました。1996年のことですからつい最近です。

これらの発見によって、出雲は一気に銅剣・銅鐸の保有国1位(旧国名別)に躍り出ました。本当にものすごい数量です。

それまで、出雲は、『古事記』や『日本書紀』などの神話に登場するけれども、考古学的にはあまり目立った出土物もなかったため、神話の中だけに語られる、権力の実態のない地域と考えられてきましたが、これらの発見によって、弥生時代の頃からの出雲にも、大きな勢力があったのではないかということが具体的に考えられるようになってきました。

両方の遺跡を訪ねたかったのですが、今回は時間がないため、神庭荒神谷遺跡だけとしました。

出雲空港からタクシーで10分ほどで神庭荒神谷遺跡に着きます。タクシーの運転手さんともせっかくだからお話をして、地元の情報や空気感を吸収したいと思っていました。出雲大社の話題ももちろんですが、神庭荒神谷については、運転手さんは
「あそこだけでなくてこのあたりを掘ればまだ出てきますよ」
と、神庭荒神谷に向かう道すがら話されていました。のどかな里山の風景なのですが、実際、そこらじゅう、まだ埋まってそうな雰囲気があるなあと感じました。全部掘るのは無理ですからね~。掘ってほしいですけどね。

神庭荒神谷遺跡には小さな博物館が建っていて、遺跡の簡単な紹介がされています。売店でも荒神谷遺跡にちなんだおみやげ品が置いてあります。
そこをざっと見てから、いざ、遺跡を見に行こう、と歩きだしたら、無料ガイドのおじさまに、ご案内しましょうか?と声をかけられたので、お願いすることにしました。

今回の旅は、個人的に研究したいことがあって、その関連する遺跡等を、自分の目で確かめ、周囲の地理的状況・雰囲気を確認するという目的もありました。この荒神谷遺跡も、そうです。
ガイドさんが、あれが神奈備(かんなび)山の仏経山です。と遠くに穏やかにたたずむ山を教えてくれました。あれがそうか!ガイドさんに教えてもらわなければわからなかったかな。



古代の人々は、山そのものを信仰の対象にしていました。教科書には、奈良県の三輪山の例が載っています。山の形が美しかったり、ちょうど振り仰ぐような位置にあったりする山を、神様が宿る山・神奈備として大切にしていたのです。『出雲国風土記』にも四つの山が神奈備として記されています。その中の一つがこの仏経山です。

博物館から数百メートルで、発掘現場に到着。

こじんまりとした崖の中腹に、ひっそりと遺跡はありました。
発掘当時のそのままの状態を見せるために、銅剣のレプリカが並べられています。写真で見た発掘時の状態とそっくりでリアルです。

現場にはすぐ近くまで行くことはできませんが、20mくらい離れた所から、ガイドさんの解説を聞きながら眺めることができました。私が知っている以上のお話はとくに聞けませんでした。


左側が銅剣が発掘された場所、右側が銅鐸と銅矛が発掘された場所。木が邪魔してあまりいい構図ではありませんが、正面からはこれが精一杯。

周囲は雑木林に囲まれていて、あの神奈備、仏経山は見えません。出土場所から神奈備山が見えるように撮った写真を見たことがあったのですが、木が生い茂ったせいなのか、見えませんでした。

この場所に、どうしてこんなに大量の銅剣が埋められたのか?それはいまだに明らかになっていない大きな謎です。

これについては、いくつかの説があります。

一つは、普段は土の中に埋めておいて、お祭りの時に取り出して使うために埋めてあってそのままになってしまったという説。

また、他の勢力との争いがあって、その勢力に奪われないように、埋めて隠していたという隠匿説。

などです。

特に、この銅剣358本のうち、344本に×印が刻まれているのですが、これがどういう意味なのかもわかっていません。加茂岩倉遺跡の銅鐸にも、同じように×印があるのです。


レプリカですが当時の発掘状況そのままの姿 横からだと結構近くから見られます

私自身も、授業で、弥生時代の遺跡を紹介する中の一つとして、神庭荒神谷や加茂岩倉遺跡について、数が多くてすごいですねえ、というくらいしか説明できず、どうして出雲にこれだけのものが?ということがわからないので、とてももどかしいのです。

私の大好きな出雲は、神話にはたっぷりと描かれていますが、日本史の教科書には、ほとんど出て来ない。神庭荒神谷は、旧課程教科書では欄外の注に書いてあるだけだったのが、今度の教科書では、大きな写真に昇格しました。しかし、なぜ出雲にということは相変わらず教科書には書けない。しかも、「出雲」という文字自体も、旧課程では、古墳時代からの祭祀の注の部分で伊勢神宮や住吉大社と一緒に記述されていた出雲大社が、新課程の山川教科書では消えてしまいました。それもなぜか、目次には「出雲大社」が残っているのですが、該当ページにはないのです。これは教科書会社のミスでしょう。旧課程の目次を直し忘れたのですね。

出雲には、他にも弥生時代のお墓の形として、四隅突出型墳丘墓というヒトデまたはコタツのような独特な形のものが分布していて、新課程ではゴシックで記述されるようになりました。それはよかったのですが、「山陰地方」に分布、とくくられてあって、ここでも残念ながら出雲の文字は出てきません。

そういうわけで、出雲は実は、歴史的には大きな影響力・ポテンシャルがありながら、教科書には「出雲」が出てこない状況です(目次に間違って載っているだけ)。
こういう状況を、いつか変えられないか・・・というのが私の願いです。

神庭荒神谷遺跡の話に戻りますが、ここに埋められたのは、祭祀のためだったのか、隠匿説なのか?それを自分の目で周囲の雰囲気を確かめるためにここに来たのですが、発掘現場は、思ったより見通しが悪く、仏経山も見えないし、現場に至る道も、この写真のように、かなり奥まった場所、という雰囲気で、開けた場所では決してありませんでした。弥生時代はまた周囲の風景は違っていたのかもしれませんが、直感的には、隠して埋めた(使わないために埋めた)のではないかなと思いました。


この道の先に発掘現場があります。

それにしても、本当に静かな、のどかな里山という雰囲気の場所に、荒神谷遺跡はありました。よくぞ発見された、と、思います。

なぜ出雲のこの場所に、こんなにたくさんの青銅器が・・・ということが、いつか解明されることを願います。私自身も解明していきたいと思いますし、皆さんも、考えてみてください。当時の文献も残されていませんから、本当のことはわからないのかもしれません。空想するのは自由です。

特に、神庭荒神谷の銅剣と加茂岩倉の銅鐸に付けられた×印の意味は何だと思いますか?推理してみた人は教えてください。

今日は詳しくは書きませんが、『古事記』などに描かれている、オオクニヌシの国譲りの話、『出雲国風土記』に出てくる「(オオクニヌシの)御財を積み置き給ひし処なり」とある、神原郡(加茂岩倉遺跡も近い)の記述などと、突き合わせて想像してみるのも楽しいです。

現地に足を運んで、見る価値のある、いろいろと想像をかきたてられる、いい遺跡でした。今回は時間がちょっと足りなかったのですが、またいつかゆっくり見たいと思います。

この旅の続きはまた。
今日は、振替えの休みをとっているので、このような時間にアップできました。

(参考)荒神谷遺跡の紹介HP
http://www.kojindani.jp/iseki/index.html